参拝是非から「あり方」論へ 「靖国」新展開 (朝日新聞) - goo ニュース
麻生案のように、靖国神社を非宗教法人化した上で国立追悼施設とするというのは、靖国神社の由来を考えるとスジが通った話だと思うが、神社自体や靖国支持者のこれまでの動きから考えると、実現は極めて困難だろう。
この際、靖国神社は支持者のためにそれはそれとして置いといて、新たな非宗教の国立追悼施設を作るのが現実的ではないだろうか。
数年前にもこうした議論があり、その際、靖国神社があるのに同じようなものを二重に作る必要はないとか、国民は支持しないだろうとか、中国や韓国におもねるものだとか反対意見があったように思うが、必ずしもそうではないだろう。
私は、首相の靖国参拝は、戦没者の慰霊を目的としたものであり、中韓や左翼日本人が主張するような先の戦争の礼賛や日本の軍事大国化を目的としたものではなく、A級戦犯が合祀されていることについても、敗戦して処刑されたというのは戦死と同等と考えられるので、小泉首相が言うように、何ら問題はないと思っていた(ただ、小泉首相は、中韓との関係改善を図る外交的努力を怠っているとは思っていたが)。
しかし、冨田メモに対する保守系メディア・言論人の無様な反応を見て、さらに昨今の大東亜戦争肯定論が公然と語られる状況と合わせて、考えが変わってきた。
戦前の国家神道の時代ならともかく、首相が、戦没者の追悼に、一宗教法人である靖国神社に参らざるを得ないという状況は、これでいいものだろうか。
戦没者は追悼したいが、靖国神社には抵抗を覚えるという人は、どこに参ればいいのか。
もともと、明治政府が国家神道を採っていたから、追悼施設が神社という形をとったに過ぎないのだから、戦後に政教分離がなされた際に、追悼施設が非宗教化されてもよかったはずで、それがなされなかったのは、やはり当時の国民感情を考慮してのことだろう。しかし、もはや戦後60年。政教分離も定着したし、いつまでも靖国にこだわり続ける必要はないのではないだろうか。
私はむしろ、現状の靖国参拝にこだわり続けることで、戦前の日本を全肯定するような見方が、歴史に無知な若い世代に蔓延するのを恐れる。
麻生案のように、靖国神社を非宗教法人化した上で国立追悼施設とするというのは、靖国神社の由来を考えるとスジが通った話だと思うが、神社自体や靖国支持者のこれまでの動きから考えると、実現は極めて困難だろう。
この際、靖国神社は支持者のためにそれはそれとして置いといて、新たな非宗教の国立追悼施設を作るのが現実的ではないだろうか。
数年前にもこうした議論があり、その際、靖国神社があるのに同じようなものを二重に作る必要はないとか、国民は支持しないだろうとか、中国や韓国におもねるものだとか反対意見があったように思うが、必ずしもそうではないだろう。
私は、首相の靖国参拝は、戦没者の慰霊を目的としたものであり、中韓や左翼日本人が主張するような先の戦争の礼賛や日本の軍事大国化を目的としたものではなく、A級戦犯が合祀されていることについても、敗戦して処刑されたというのは戦死と同等と考えられるので、小泉首相が言うように、何ら問題はないと思っていた(ただ、小泉首相は、中韓との関係改善を図る外交的努力を怠っているとは思っていたが)。
しかし、冨田メモに対する保守系メディア・言論人の無様な反応を見て、さらに昨今の大東亜戦争肯定論が公然と語られる状況と合わせて、考えが変わってきた。
戦前の国家神道の時代ならともかく、首相が、戦没者の追悼に、一宗教法人である靖国神社に参らざるを得ないという状況は、これでいいものだろうか。
戦没者は追悼したいが、靖国神社には抵抗を覚えるという人は、どこに参ればいいのか。
もともと、明治政府が国家神道を採っていたから、追悼施設が神社という形をとったに過ぎないのだから、戦後に政教分離がなされた際に、追悼施設が非宗教化されてもよかったはずで、それがなされなかったのは、やはり当時の国民感情を考慮してのことだろう。しかし、もはや戦後60年。政教分離も定着したし、いつまでも靖国にこだわり続ける必要はないのではないだろうか。
私はむしろ、現状の靖国参拝にこだわり続けることで、戦前の日本を全肯定するような見方が、歴史に無知な若い世代に蔓延するのを恐れる。