トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

山本弘『“環境問題のウソ”のウソ』(楽工社、2008)

2008-01-19 23:47:30 | 生物・生態系・自然・環境
 SF作家であり「と学会」会長としても知られる著者が、ベストセラーとなった『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社、2007)の著者、武田邦彦を批判した本。

 『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』が売れているとは聞いていたが、私は読んでいない。その前の武田の著書『「リサイクル」してはいけない』(青春出版社、2000)は読んでおり、それと同様の内容と思われたからだ。
 その後、続編『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』も昨年同じ洋泉社から出版された。こちらは読んでみた。

 『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』にデータ捏造疑惑があることは、以前まったけさんのブログ(現在休止中)で知った。ペットボトルのリサイクル率が低すぎるということが、業界団体の公式データから明らかになっているかのように述べているが、その数字が実は業界団体のものではなかったという話だったかと思う。
 また、『「リサイクル」してはいけない』でも、ごみは分別せずに全て燃やして、灰を人工鉱山に貯めておき、将来金属資源が枯渇したときに利用せよといった奇矯な主張がみられ、首をかしげていた(人工鉱山を管理するコストとか、安全性とか、灰から微量の金属を抽出する技術とか、問題点がありすぎると感じた。普通に分別した方がはるかに効果的ではないかと)。
 『環境問題はなぜウソがまかり通るのか2』では、京都議定書は「現代の不平等条約」であり、先進国中わが国だけが馬鹿をみたという趣旨の記述があったが、その理由を読んで説得力に乏しいと感じた。
 しかし、著者の主張の大本の部分、つまり、ペットボトルのリサイクルはかえって石油を無駄に消費するとか、リサイクルのためにコストがかかるということはその分環境負荷が大きくなるということだといった主張は正しいと考えていた。そのようなことをこのブログで書いたり、まったけさんの所でコメントしたこともある。
 だが、山本によると、それすらも誤っているという。
 山本によると、武田は『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』で、1本のペットボトルをリサイクルするには3.5倍の石油を使うと述べている。しかしその根拠は不明であるという。
 また、武田が批判する、ペットボトルからペットボトルが再生されていないという点についても、既にそのような技術が実用化され、再生ペットボトルが利用されている、しかし武田は敢えてそれを無視しているのだという。
 さらに、コストや価格が、リサイクルに要する資源やエネルギーを正確に反映しているかのように語る武田の主張は暴論だとする。

《1965~1975年にかけての民間公害防止設備投資額の累積額は、約5.3兆円に達した。〔中略〕
 では、5.3兆円もの金を使った分、環境負荷は増えただろうか?
 そんなことはない。有害な排出物は減り、空や海はきれいになったのだ。
 武田教授をはじめとする環境問題懐疑論者は、よく環境保護にかかるコストを問題にする。だが、単純にコストだけを見てはいけないことは、70年代の日本人が公害対策にかけた努力を見れば分かる。当たり前の話だが、環境負荷を減らすためのコストは、環境負荷を減らすのだ。》

《トンあたり25万円の税金を使って回収したペットボトルを、業者に3万8900円で売っているのだから、当然、まったく採算は取れていない。このへんも「けしからん!」と怒る人がいることだろう。
 しかし、よく考えていただきたい。そもそも環境対策というものは、短期的に見れば採算なんか取れないものなのである。コストだけ見れば、リサイクルなんかせず、じゃんじゃん使い捨てにするのがいいに決まってる。最終的にはごみがあふれかえって、浪費のツケを払わされることになるかもしれないが、それは何年、何十年も先の話だ。
 環境対策にかぎったことではない。税金というのは、社会福祉、教育、治安維持、防衛、道路網整備など、短期的な採算の取れない活動に注ぎこむものだ。採算が取れる活動なら民間企業にまかせておけばいいのだから。
〔中略〕
 環境問題を論じる際について考えなくてはいけないのは、コストそのものではない。そのコストがどれぐらい環境負荷を減少させるのか、またそれだけのコストをかける価値があるのか、という点である。》(p.65~66)

《人件費は環境負荷に比例しない。人件費とは人間が生きていくための金である。人件費をゼロに減らしても、人間が生きている以上、人件費分の環境負荷はほぼそっくりこの世に残るのだ。
 人件費が増える場合も同じだ。ごみを分別収集するために作業員を雇い、人件費が増えても、その分の環境負荷が増えるわけではない。リサイクルによる環境負荷を検討する際には、燃料費や施設費など、「リサイクルをしなければ生じなかった活動」にのみ注目しなければならない。》

 言われてみればそのとおりなのだが、言われるまでこういった視点から武田説を疑うことがなかったのは、我ながら恥ずかしい。

 ただ、山本の態度にも疑問がある。
 山本は、次のように述べている。

《武田教授の本の内容がすべてウソだとは言わない。正しいこともたくさん書いてある。勉強になる部分や、「もっともだ」と思う部分もいっぱいある。しかし、明らかなウソや間違いが多すぎる。だから僕は武田教授の本を信用しない。》

 しかし、その正しい部分、もっともな部分は一切示されていない。したがって読者にはそれがわからない。ただ「明らかなウソや間違い」、つまり批判が容易な部分のみを取り上げているのに、結果として武田の著作全体への不信感が残る仕掛けとなっている。
 これが1本の論文程度のものなら、こうしたスタイルもあっていいだろう。しかし、本書は丸々一冊のかなりの部分を武田批判に充てており、しかも判型も『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』に似せている、明らかな反論本である。その割に武田批判の内容はそれほど深くない。どうせなら、武田の主張の正しい部分、もっともな部分も挙げてほしかった。その方が、環境問題懐疑論者には有用だったろう。
 また、山本は「ミランカ」という映像配信ポータルサイトの番組で武田と対談し、その後さらに武田とメールで何度もやりとりしているが、そのメールの内容を本書で公開している。その章で、次のように述べている。

《なお、武田教授には、ミランカの番組に出演した際、話し合った内容を本に書くつもりだということは説明している。当然、教授はそれを承知したうえで、本では自分の意見を正しく紹介してほしいという意図でメールを送ってきたはずである。
 したがって、ここでメールの内容を公開しても差し支えないと判断した。教授の考えを読者に正しく伝えるためには、教授自身の文章を要約したり書き直したりせず、原文通りに紹介するのが最適だと考えたからである。》

 ずいぶん勝手な言いぐさだと思う。せめて、掲載の可否を武田に一言問い合わせるべきではないのか。その結果拒否されたなら、自分で適宜要約や書き直しをすべきだろう。
 メールはあくまで私信である。公開を前提としたものではない。
 私は初期の「と学会」本の愛読者だった。その後、あまりこの方面への関心を持たなくなっていたのだが、それでも、トンデモ本をきちんと批判するという彼らの姿勢は好ましく思っていた。
 しかし、この一件で、山本弘という人はずいぶん礼節に欠けるところがあるのだなと思った。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。