以前の記事でも書いたように、わが国の対米英蘭戦は、資源確保を目的とした戦争であった。
もちろん、当時の指導者層も、そのことを十分認識した上で、戦争に臨んだのだろう。
と思っていた。
ところが、たまたま読んだ猪瀬直樹『昭和16年敗戦の夏』(中公文庫、2010)に、ひどく意外に思える箇所があったので、紹介したい。
本書の単行本は1983年に出ている。タイトルの昭和16年の敗戦とは、当時内閣総力戦研究所が行ったシミュレーションでも敗戦は必至との結論が出ていたことを指す。
その中に次のようなエピソードが出てくる。
昭和16年6月23日、陸軍省整備局燃料課の高橋健夫中尉は、課長の中村儀十郎大佐に随行して東條陸相の執務室を訪れた。逼迫した石油情勢を報告し、活路を開くよう求めるためである。
米国の禁輸により石油が入らない。となれば、手近な蘭印を占領して石油を確保するという発想に至るのは(実行に移すかどうかは別として)当然のことだろう。
その当然のことを「泥棒」と表現し、陛下には申し上げられないと拒絶する。
東條がそのような倫理観の持ち主であったことは、私にはひどく意外だった。
たしかに、言葉は悪いが、泥棒以外の何物でもない。
では、「満洲は日本の生命線」といった主張はどうだったのだろうか。
東條が、満洲事変や日中戦争に反対したという話は聞かない。
それらは「泥棒」ではなかったのだろうか。
東條にとってはおそらくなかったのだろう。
満洲、中国にはわが国が正当に取得した権益があり、その保護のためやむを得ず軍を用いたという認識だったのだろう。中国全土の征服を企図していたわけではない。
しかし、石油欲しさに、わが国にとって何ら正当性のない蘭印を占領するという行為には、さすがに抵抗を覚えたのだろう。
もっとも、結局は陛下に泥棒いたすしかございませんと申し上げざるを得なかったのだが。
そして、気になったのが「泥棒はいけませんよッ」という言葉遣いだ。
私は旧軍人に接したことがない。だから、彼らが普段どのような言葉遣いだったのかはよくわからない。
しかし、上司が部下を叱責するシーンとして、普通に考えれば、
「泥棒はいかんぞッ」
「泥棒はいかんからなッ」
「泥棒は許さんぞッ」
「泥棒はだめだからなッ」
といった口調になるのではないだろうか。
本書のこの箇所は、猪瀬の高橋に対する取材に基づいているようだ。ただ、こうした会話の一字一句を高橋が詳細に記憶していたとは考えがたい。大まかに、こうしたやりとりがあったということなのだろう。
それにしても、「泥棒はいけませんよッ」という印象深い言葉が、高橋の記憶違いか猪瀬による創作であるとも考えにくい。
ふと、水木しげるの貸本マンガに、死後の世界に東條がチラッと出てくるものがあったことを思い出した。
たしか「戦争はいけませんよ」と言っていたはずだ。
蔵書を漁ると出てきた。
1960年代に出版された『鬼太郎夜話』の第2巻『地獄の散歩道』だ(もちろん私の持っているのは当時のものではなく復刻版)。
ニセ鬼太郎と目玉親父が地獄を散歩するシーン。
東條は2人に尋ねる。
そして、
と言い残し去ってゆく。
言うまでもなく、水木は大東亜戦争に出征している。当時の東條の諸発言も聞いているだろう。
「××はいけませんよ」
とは、東條の口癖だったのかもしれない。
あるいは全くの偶然の一致かもしれないが。
もちろん、当時の指導者層も、そのことを十分認識した上で、戦争に臨んだのだろう。
と思っていた。
ところが、たまたま読んだ猪瀬直樹『昭和16年敗戦の夏』(中公文庫、2010)に、ひどく意外に思える箇所があったので、紹介したい。
本書の単行本は1983年に出ている。タイトルの昭和16年の敗戦とは、当時内閣総力戦研究所が行ったシミュレーションでも敗戦は必至との結論が出ていたことを指す。
その中に次のようなエピソードが出てくる。
昭和16年6月23日、陸軍省整備局燃料課の高橋健夫中尉は、課長の中村儀十郎大佐に随行して東條陸相の執務室を訪れた。逼迫した石油情勢を報告し、活路を開くよう求めるためである。
現在、どの歴史年表をひもといてみてもアメリカの対日石油禁輸措置は八月一日と書かれている。しかし、実質的な禁輸は「石油製品輸出許可制」が完全実施された六月二十一日で、その後は、一滴の石油も入手できなくなっていた。
〔中略〕こうなれば蘭印(インドネシア)を占領して活路を見出すしかみちがない、というのが主務課としての結論で、一刻も早くそのことを上層部に報告する必要に迫られていた。
〔中略〕
東條陸相は眼鏡越しにジロリと一瞥し直立不動の二人の軍人の姿を確かめた。
中村課長は米国の対日石油禁輸について説明した。高橋中尉は傍らで、上司の話しぶりは簡にして要を得たものだと思いながら聴いていた。もっとも複雑にする要素は、なにもなかった。高橋の持参した需給予測表は、切羽詰まった状態を鋭くつきつけているだけである。
一瞬の沈黙を経て、東條陸相は、訊いた。
「で、どうなんだ」
課長は緊張して口を開きかけた。
「はっ、したがいまして一刻も早くご決心を……」
東條は途中でさえぎった。
「泥棒せい、というわけだな」
思いがけない発言だった。課長は一瞬ビクッとたじろいだ。南方油田確保のことを、泥棒という厳しい言葉で表現するなど高橋にも意外だった。
手応えを確かめように今度はびっくりするような大きな声が、二人に襲いかかってきた。
「バカ者ッ、自分たちのやるべきこともやらずにおいて、のこのこと人に泥棒をすすめにくる。おまえたちがいつも提灯をもってきた人造石油(石炭液化)があるだろ。こういう事態を予測してなけなしの資材を優先的に供給してきたのではなかったのかね」
「それが……」と中村課長は明らかにばつが悪そうに口ごもった。
「関係者が最大限の努力を尽くしておりますが、なにぶん新しい技術でなかなか予想どおりに仕事が進みません。おそらくこの急場に間に合わないと思われます」
報告を聞きながら東條陸相は制止できない怒りにかられていたにちがいない。部屋中に響きわたる大声だったと高橋はいまも記憶している。
「日本の技術者は、いままでいったい何をしておったんかあッ」
高橋中尉の軍服にの襟には航空技術将校の鳥の羽のマークがついていた。それまで課長の脇にいた、文字どおり脇役の若い中尉の襟章に、東條の視線がつきささった。
高橋は日本中の技術屋の代表として責められている気分だった。しかし、大臣、この期に及んで責められても技術屋としても、どうにもならないのです。長年にわたる行政の欠陥がこういう事態を招いているので、責任を問われるとしたらあなたがたお偉方ではないのですか。心の中でそう呟いても、とても口に出していえるムードではない。
「とにかく、ダメだというのでは困る。もっと研究してこい。私としては陛下に泥棒いたすしかございません、とは申し上げられんのだよ」
とどめをさされたように課長と若き中尉はすごすごと退出した。閉めようとしたドアの奥から大きな声がさらに追い打ちをかけてきた。
「泥棒はいけませんよッ」
やりとりが予想した展開とだいぶかけ離れたものになった。が、主務課としては、とにかく問題の所在を示した事でいちおう目的は達した、というのが課長の判断だった。
米国の禁輸により石油が入らない。となれば、手近な蘭印を占領して石油を確保するという発想に至るのは(実行に移すかどうかは別として)当然のことだろう。
その当然のことを「泥棒」と表現し、陛下には申し上げられないと拒絶する。
東條がそのような倫理観の持ち主であったことは、私にはひどく意外だった。
たしかに、言葉は悪いが、泥棒以外の何物でもない。
では、「満洲は日本の生命線」といった主張はどうだったのだろうか。
東條が、満洲事変や日中戦争に反対したという話は聞かない。
それらは「泥棒」ではなかったのだろうか。
東條にとってはおそらくなかったのだろう。
満洲、中国にはわが国が正当に取得した権益があり、その保護のためやむを得ず軍を用いたという認識だったのだろう。中国全土の征服を企図していたわけではない。
しかし、石油欲しさに、わが国にとって何ら正当性のない蘭印を占領するという行為には、さすがに抵抗を覚えたのだろう。
もっとも、結局は陛下に泥棒いたすしかございませんと申し上げざるを得なかったのだが。
そして、気になったのが「泥棒はいけませんよッ」という言葉遣いだ。
私は旧軍人に接したことがない。だから、彼らが普段どのような言葉遣いだったのかはよくわからない。
しかし、上司が部下を叱責するシーンとして、普通に考えれば、
「泥棒はいかんぞッ」
「泥棒はいかんからなッ」
「泥棒は許さんぞッ」
「泥棒はだめだからなッ」
といった口調になるのではないだろうか。
本書のこの箇所は、猪瀬の高橋に対する取材に基づいているようだ。ただ、こうした会話の一字一句を高橋が詳細に記憶していたとは考えがたい。大まかに、こうしたやりとりがあったということなのだろう。
それにしても、「泥棒はいけませんよッ」という印象深い言葉が、高橋の記憶違いか猪瀬による創作であるとも考えにくい。
ふと、水木しげるの貸本マンガに、死後の世界に東條がチラッと出てくるものがあったことを思い出した。
たしか「戦争はいけませんよ」と言っていたはずだ。
蔵書を漁ると出てきた。
1960年代に出版された『鬼太郎夜話』の第2巻『地獄の散歩道』だ(もちろん私の持っているのは当時のものではなく復刻版)。
ニセ鬼太郎と目玉親父が地獄を散歩するシーン。
目玉親父「おいみろ 浅沼さんと山口一矢の霊がさびしそうにあるいてる」
ニセ鬼太郎「ほんとだ やっぱり地獄でも社会党の委員長ですか」
目玉親父「地獄では全て霊になっているからめしを食う必要がない 従って働く必要もなければ慾もない 争いもなく政治も必要としない 言うなれば人間が本来の自分に立ちかえる所だ」
ニセ鬼太郎「おやどこかでみかけたような人が散歩していますね」
目玉親父「あれは東条英機さんか」
東條は2人に尋ねる。
東条英機「いま すめら御国(日本)はどうなっとるかね なにチョコレートが一個三十円で誰でも買えるようになった…なにキャラメルが一つぶ十円になった日本も大分すみよくなったのう」
そして、
東条英機「私もそれをきいて安心しました 戦争はイケマセンよ」
と言い残し去ってゆく。
ニセ鬼太郎「ナカナカ名士がウロチョロしてますねえ」
言うまでもなく、水木は大東亜戦争に出征している。当時の東條の諸発言も聞いているだろう。
「××はいけませんよ」
とは、東條の口癖だったのかもしれない。
あるいは全くの偶然の一致かもしれないが。