古い話だが、今月4日の『朝日新聞』社会面に、使用済みペットボトル(廃ペット)の相場が急騰しているとの記事が載っていた(ウェブ魚拓)。
ペットボトルのリサイクルは、従来は、自治体が回収した廃ペットを「日本容器包装リサイクル協会」(容リ協)が無償で引き取り、それを業者に有償で引き取ってもらい、繊維やペットボトルに再生していたという。つまり、需要がないのにコストを投じて無理矢理再生していたわけだ。
ところが、最近の原油高でペットボトルの原料であるポリエステルの価格が上昇し、加工費を加えても廃ペットから再生する方が割安になったため、廃ペットの需要が急増しているのだという。また、中国への輸出も増加しているという。
廃ペットを容リ協に回さず、独自に入札を実施して売却する自治体も増えているという。環境の激変に再生業者は「ついていけない」と悲鳴をあげているが、一方で中国での需要増を商機ととらえている業者もあるという。
少し前に、著書『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)が話題になった武田邦彦は、以前からペットボトルのリサイクルは資源の無駄だと主張していた。その根拠の1つは、再生品の方がコストが3倍以上もかかるということにあった。コストが余分にかかるということは、それだけ輸送や分別や再生のための設備の稼働に費用がかかるということであり、ひいてはそれだけ余分に資源を無駄遣いしていることなのだと。私も武田の著作などを読んで、そのように素朴に考えていた。
しかし、原油高により再生品の方が安く生産できるということになると、やや話は変わってくる。さらに、その石油をはるばるアラビアなどから輸送してくるコストなどを考えると、安価で回収できる廃ペットが資源として注目されるのも当然なのだろう。
ただ、石油という資源は金属と同様、木材や食糧と違って新たに作り出すことはできないから、大切に使わなければならない、しかるに、プラスチック製品のリサイクルと称しつつ、その過程で石油をより消費するのはおかしいのではないかという武田の主張の根源的な部分は、なお有効だろう。
私がこの朝日の記事で気になったのは、中国への輸出が急増しているという点だ。
国内での廃ペットは、再生されるポリエステルの質が悪いので、ペットボトルにはほとんど利用されないと聞く。
しかし、規制が徹底していない海外諸国の場合、質の悪い製品であっても、ペットボトルその他に再生してしまうことはないだろうか。
そのために、商品の保管や輸送に問題が発生したり、健康被害が生じたりすることはないだろうか。
さらに、その商品がわが国にも入ってくるということはないだろうか。
わが国は、ごみの輸出にはもっと慎重であるべきではないだろうか。
中国では、輸入した廃家電から貴金属や電子部品を取り出す作業を原始的な手法で行っており、作業者の健康被害や環境への汚染が問題となっていると聞く。
こうした事態が積み重なると、民衆は、規制のおざなりな当局よりも、その原因となったわが国に非難の目を向けてくることにはならないだろうか。
カネでごみ処理を他国に押しつけていると。
自分たちは万全の規制の下でクリーンな生活をして、ごみは他国に押しつけて、そのごみから再生された製品、言わば二流の製品を、他国の人間に利用させるのかと。
終戦後の食糧難の時期、学校給食に米国から救援物資(いわゆるララ物資)として提供された脱脂粉乳が使用された。
しかし、あれは米国では家畜のエサに使われていたものであり、米国人は日本人を家畜なみに見ていたのだと、未だに語られ続けている。
私はこの話の真偽は知らない(こういうサイトを見ると、どうもそうではないらしいが)。
しかし、援助物資でさえ、このように怨念を込めて語り継がれていくのである(反米感情に加え、脱脂粉乳が大変に不味かったことも原因なのだろうが)。
ましてや、ごみの輸出においておや。
ペットボトルは、昔は2リットルなどの大容量のものしか認められていなかったが、リサイクルできることを条件に、現在主流の小型のものが量産され、普及したと聞く。
しかし、ちょっと考えればわかるように、ペットボトルは、金属缶やガラス瓶と比べて、およそリサイクルに不向きな容器である。
リサイクル社会と言うなら、こうした商品は本来使わない方向に持っていくべきではないかと思う。
ではお前はペットボトルを利用しないのかと問われれば、毎日のように利用していると答えざるを得ない。それは安価で便利だし、現実にそれしか選択肢がなくなっている(例えば、ペットボトル以外の容器のお茶など最近ほとんど見かけない)からだ。
こういったことは消費者の行動に頼るのではなく、国が率先して規制していくべきことだろう。
90年代以降、環境問題が声高に叫ばれるようになってきた。それ自体は好ましいことだと思うが、極端な分別収集や、省エネタイプの製品への買い換えの推奨、クールビズ、マイバッグなど、何だか問題の本質とはあまり関係ない、単なるファッションとしての政策や運動が多すぎるような気がする。
ペットボトルのリサイクルは、従来は、自治体が回収した廃ペットを「日本容器包装リサイクル協会」(容リ協)が無償で引き取り、それを業者に有償で引き取ってもらい、繊維やペットボトルに再生していたという。つまり、需要がないのにコストを投じて無理矢理再生していたわけだ。
ところが、最近の原油高でペットボトルの原料であるポリエステルの価格が上昇し、加工費を加えても廃ペットから再生する方が割安になったため、廃ペットの需要が急増しているのだという。また、中国への輸出も増加しているという。
廃ペットを容リ協に回さず、独自に入札を実施して売却する自治体も増えているという。環境の激変に再生業者は「ついていけない」と悲鳴をあげているが、一方で中国での需要増を商機ととらえている業者もあるという。
少し前に、著書『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)が話題になった武田邦彦は、以前からペットボトルのリサイクルは資源の無駄だと主張していた。その根拠の1つは、再生品の方がコストが3倍以上もかかるということにあった。コストが余分にかかるということは、それだけ輸送や分別や再生のための設備の稼働に費用がかかるということであり、ひいてはそれだけ余分に資源を無駄遣いしていることなのだと。私も武田の著作などを読んで、そのように素朴に考えていた。
しかし、原油高により再生品の方が安く生産できるということになると、やや話は変わってくる。さらに、その石油をはるばるアラビアなどから輸送してくるコストなどを考えると、安価で回収できる廃ペットが資源として注目されるのも当然なのだろう。
ただ、石油という資源は金属と同様、木材や食糧と違って新たに作り出すことはできないから、大切に使わなければならない、しかるに、プラスチック製品のリサイクルと称しつつ、その過程で石油をより消費するのはおかしいのではないかという武田の主張の根源的な部分は、なお有効だろう。
私がこの朝日の記事で気になったのは、中国への輸出が急増しているという点だ。
国内での廃ペットは、再生されるポリエステルの質が悪いので、ペットボトルにはほとんど利用されないと聞く。
しかし、規制が徹底していない海外諸国の場合、質の悪い製品であっても、ペットボトルその他に再生してしまうことはないだろうか。
そのために、商品の保管や輸送に問題が発生したり、健康被害が生じたりすることはないだろうか。
さらに、その商品がわが国にも入ってくるということはないだろうか。
わが国は、ごみの輸出にはもっと慎重であるべきではないだろうか。
中国では、輸入した廃家電から貴金属や電子部品を取り出す作業を原始的な手法で行っており、作業者の健康被害や環境への汚染が問題となっていると聞く。
こうした事態が積み重なると、民衆は、規制のおざなりな当局よりも、その原因となったわが国に非難の目を向けてくることにはならないだろうか。
カネでごみ処理を他国に押しつけていると。
自分たちは万全の規制の下でクリーンな生活をして、ごみは他国に押しつけて、そのごみから再生された製品、言わば二流の製品を、他国の人間に利用させるのかと。
終戦後の食糧難の時期、学校給食に米国から救援物資(いわゆるララ物資)として提供された脱脂粉乳が使用された。
しかし、あれは米国では家畜のエサに使われていたものであり、米国人は日本人を家畜なみに見ていたのだと、未だに語られ続けている。
私はこの話の真偽は知らない(こういうサイトを見ると、どうもそうではないらしいが)。
しかし、援助物資でさえ、このように怨念を込めて語り継がれていくのである(反米感情に加え、脱脂粉乳が大変に不味かったことも原因なのだろうが)。
ましてや、ごみの輸出においておや。
ペットボトルは、昔は2リットルなどの大容量のものしか認められていなかったが、リサイクルできることを条件に、現在主流の小型のものが量産され、普及したと聞く。
しかし、ちょっと考えればわかるように、ペットボトルは、金属缶やガラス瓶と比べて、およそリサイクルに不向きな容器である。
リサイクル社会と言うなら、こうした商品は本来使わない方向に持っていくべきではないかと思う。
ではお前はペットボトルを利用しないのかと問われれば、毎日のように利用していると答えざるを得ない。それは安価で便利だし、現実にそれしか選択肢がなくなっている(例えば、ペットボトル以外の容器のお茶など最近ほとんど見かけない)からだ。
こういったことは消費者の行動に頼るのではなく、国が率先して規制していくべきことだろう。
90年代以降、環境問題が声高に叫ばれるようになってきた。それ自体は好ましいことだと思うが、極端な分別収集や、省エネタイプの製品への買い換えの推奨、クールビズ、マイバッグなど、何だか問題の本質とはあまり関係ない、単なるファッションとしての政策や運動が多すぎるような気がする。