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松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

2012-09-08 15:17:04 | 領土問題
 本屋で松本俊一著『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』(朝日新聞出版(朝日選書)、2012)という本を見かけた。
 松本俊一(まつもと・しゅんいち 1897-1987)といえば、外交官を経て政治家となり、日ソ国交回復交渉に従事した人物だ。
 交渉の経緯を記した『モスクワにかける虹』という回想録があるはずだが、ほかにも著書があったのか?

 手に取ってみると、帯に「『モスクワにかける虹』待望の復刊」とある。
 そういうことか。
 私も「待望」していた。
 以前から一度読んでみたいと思っていたのだが、なかなか手に入らず困っていた。現物を見たことはない。古書店の目録に載っていてもかなり高価だった。
 現在「日本の古本屋」で検索しても見つからない。Amazonのマーケットプレイスに出品している人もいない。
 復刊は喜ばしい。

 しかし、何故タイトルを変えたのだろうか。
 本書によると、1966年に朝日新聞社から刊行されたときのタイトルは『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』だったそうである。
 その副題を本題とし、新たに「北方領土交渉の真実」という副題を付けたのだろう。
 しかし、『モスクワにかける虹』というタイトルは、北方領土問題に関心がある人には、後述の「ダレスの恫喝」の出所として、それなりに知られている。
 「北方領土交渉の真実」という副題も、これはあくまで松本の主観に基づいた記録であることを考えると、著者でもない人間が「真実」などと名付けるのはおこがましい気がする。
 元のままでもよかったんじゃないだろうか。

 私は、本書で是非確認したい点が二つあった。
 一つは、交渉の経緯、特に重光葵外相による交渉が失敗した理由。
 そしてもう一つは、これとも関連するが、いわゆる「ダレスの恫喝」についてである。

 日ソ国交回復交渉について、次のようなことがしばしば言われる。
 わが国はもともと歯舞、色丹の2島返還でソ連と妥結しようとしていた。しかし米国のダレス国務長官が、2島で妥結するなら米国は沖縄を返還しないと恫喝した。わが国はやむなく4島返還を主張せざるを得なくなり、北方領土問題は固定化された――という、ある種の陰謀論だ。

 「ダレス 北方領土 沖縄」で検索すると、こうした主張はたくさん見られる。
 例えば、田中宇は2006年のメルマガで、

北方領土問題の対象が2島から4島に拡大されたのは、4年後の1955年のことである。この年、米ソ間の冷戦激化を受け、ソ連は自陣営の拡大策の一つとして日本との関係改善を模索し「日本と平和条約を結んだら歯舞・色丹を返しても良い」と提案してきた。

 日本政府は翌56年7月、モスクワに代表を派遣して日ソ和平条約の締結に向けた交渉を開始したが、交渉途中のある時点から日本政府は態度を変え「歯舞・色丹だけでなく、国後・択捉も返してくれない限り、平和条約は結べない」と言い出した。交渉は妥結せず「ソ連は、日本と和平条約を締結したら歯舞・色丹を返す」という表明を盛り込んだ日ソ共同声明だけを発表して終わった。

 日本が態度を変えたのは、日ソ交渉の最中の1956年8月に日本の重光外相とアメリカのダレス国務長官が会談し、ダレスが重光に「日本が国後・択捉の返還をあきらめて日ソ平和条約を結ぶのなら、アメリカも沖縄を日本に返還しないことにする」と圧力をかけてからのことだったという指摘がある。


と述べている(太字は引用者による。以下同じ)。

 翻訳家の池田香代子のブログにも、

1951年、不当であっても日本は国後・択捉を放棄した、このことは当時の外務省も認識していました。歯舞・色丹については、放棄したとは考えていなかった。ソ連の不法占拠状態だ、と受けとめていた。ここから、二島返還論が出てきます。サンフランシスコ条約を踏まえれば当然ですし、ソ連もそのつもりで、1956年、将来の歯舞・色丹返還を盛り込んだ日ソ共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた国がありました。アメリカです。アメリカも、日本が放棄した千島列島とは国後・択捉のことであって、歯舞・色丹は日本の領土だと理解していました。なのに、素知らぬ顔でそれを曲げて、「二島返還でソ連と平和条約を結んだら、アメリカは永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」と、ダレス国務長官をつうじて脅してきたのです。「ダレスの恫喝」です。

時あたかも冷戦勃発の時期にあたります。アメリカは、日本とソ連を対立させておきたかった、日ソ間にわざと緊張の火種を残しておいて、だから米軍が日本にいてやるのだ、という恩着せの構図を固めたかったわけです。「四島返還論」は、ここにアメリカのあくなき国益追求のための外交カードとして始まります。


とある。

 大前研一は雑誌『SAPIO』で次のように述べているそうだ

実は4島一括返還は日本政府が自ら言い出したのではなく、1956年8月、アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官が日本の重光葵外相とロンドンで会談した際に求めたものだ。

 当時、日本政府は北方領土問題について歯舞、色丹の2島返還による妥結を模索していたが、アメリカとしては米ソ冷戦が深まる中で日本とソ連が接近すること、とくに平和条約を結んで国交を回復することは防がねばならなかった。そこでダレスはソ連が絶対に呑めない国後、択捉も含めた4島一括返還を要求するよう重光に迫り、2島返還で妥結するなら沖縄の返還はない、と指摘して日本政府に圧力をかけたのである。

 それ以降、日本の外務省は北方4島は日本固有の領土、4島一括返還以外はあり得ない、という頑迷固陋な態度を取るようになった。つまり、4島一括返還はアメリカの差し金であり、沖縄返還とのバーターだったのである。


 「北方領土問題-やさしい北方領土のはなし」というサイトにはこんな記述がある。

 1951年、日本は、アメリカやイギリスなど多くの国と平和条約を結び、正式に戦争が終わりました。また、日本の占領状態も終わりました。この条約で、日本は千島列島を放棄しました。このとき、日本政府は、放棄した千島列島にクナシリ島とエトロフ島は含まれるので、これらの島々は日本の領土ではないと説明しています。この条約には、ソ連や中国は入っていませんでした。

 1951年の条約に、ソ連は入っていなかったので、ソ連との間で、正式に戦争を終わらせる必要がありました。そして、1956年、日本とソ連は平和条約を結ぼうとしました。8月14日、日本代表の重光葵とソ連の間で、ハボマイ・シコタンを日本領、クナシリ・エトロフをソ連領とすることで、条約交渉はほとんどまとまりかけました。しかし、8月19日、アメリカのダレスは、2島返還で妥結するならば沖縄を返さないぞ、と、重光葵を恫喝(どうかつ)し、ソ連と領土交渉はできなくなりました。この話は、重光の回想録のほか、条約交渉にあたった松本俊一が書いた「モスクワにかける虹」に詳しく書かれています。
 領土交渉がまとまらなかったのは、アメリカの恫喝のためだけではなく、日本にも、反対勢力があったことが大きな原因の一つです。
 このようないきさつがあって、平和条約を結ぶことができなかったので、代わりに日ソ共同宣言を結びました。これは、法律上、正式な条約です。日ソ共同宣言では、今後、平和条約を結んだ後に、ハボマイ・シコタンを日本に引き渡すことが決められました。この時、領土問題は解決しなかったけれど、ソ連と日本の間で戦争が正式に終わったことが確認されました。


 しかし、私の知る日ソ交渉の経緯はそのようなものではない。

 まず、松本俊一が全権委員としてロンドンでソ連の駐英大使マリクと交渉した。わが国は全千島列島と南樺太の返還を要求したが、ソ連は全く応じなかった。だが交渉の中で、歯舞と色丹だけは返還してもよいと示唆した。松本は本国に請訓したが、重光葵外相はこれを拒否した。
 次いで重光外相がモスクワに乗り込んで交渉した。ソ連の態度はやはり歯舞と色丹のみの返還なら応じるというものだった。重光はこれでやむなしと請訓したが、鳩山首相はこれを拒否した。帰路、重光はダレスと会談し、「恫喝」を受けた。
 最後に、鳩山が自らモスクワに赴いた。領土問題は棚上げし、将来の平和条約締結交渉を約した共同宣言で合意し、日ソの国交は回復した。

 だいたいこういう経緯だったはずだ。
 昔々、北方領土に関する本ををいくつか読んだ。「ダレスの恫喝」については聞いたことがある。しかし、それによってわが国が方針を曲げたなどとは記憶にない。
 mig21さんのYahoo!ブログの記事に関連して、以前にもこのことは書いた。

 早速本書を読んでみたところ、結論から言うと、上の私の記述どおりだった。
 参考までに、本書に拠って、交渉の経緯を簡単にまとめておく(領土問題以外の議題は省略する)。

1955.6-9 第1次ロンドン交渉(松本-マリク)
 松本「歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太は歴史的にみて日本の領土であるが、平和回復に際しこれら地域の帰属に関し隔意なき意見の交換をすることを提案」
「日本側としては歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太が、歴史的にみて日本の領土であることを主張しつつ、しかしながら交渉の終局においてこれを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉にあたることを示したのであった」
 マリク、これら地域についてはヤルタ協定、ポツダム宣言等により解決済みであり、また千島列島及び南樺太はサンフランシスコ平和条約で日本も放棄していると主張。しかし、歯舞、色丹については、引き渡しの可能性を示唆。
 松本は政府に請訓するが、「政府は歯舞、色丹のみの返還では領土問題の解決にならないという見解をとって、国後、択捉の二つの島についても、この二島は千島、樺太交換条約の示すように日本の固有の領土であって、いわゆる千島列島に含まれていないという見解を示してきた。また千島列島並びに南樺太の最終帰属は、サン・フランシスコ平和条約締結国、ソ連及び日本の共同協議の対象になるべきものだという見解をとった」
 よって松本は、択捉、国後、色丹、歯舞については平和条約発効時に日本の主権が回復し、その他の千島列島と南樺太についてはソ連を含む連合国との協議により帰属を決定するとの平和条約案を提示。マリクは「無理な提案」であって「誠意をもってこの交渉を妥結する考えがあるかどうか疑わしい」と非難。
 マリクは、歯舞、色丹の返還には応じるが、軍事基地としないことを条件とする、また択捉、国後を含むその他の地域はソ連領であることは疑いなく、いかなる国との協議にも応じないと主張。交渉は一時中断。
「このロンドンでの交渉が始って以来東京からの情報を総合すると、日ソ国交正常化について鳩山首相は非常に熱心であるにかかわらず、重光外相はいわゆる慎重論ですこぶる熱意がなかった」
 松本は、彼からの詳細な報告を重光は鳩山に見せていなかったとの鳩山の回顧録の記述を引用している。

1956.1-3 第2次ロンドン交渉(松本-マリク)
 領土問題についての進展なし。松本は非公式会談で「国後、択捉両島の返還は、これが日本の固有の領土であるという国民的感情から、日本全国民あげての悲願で、これを無視しては交渉の推進が困難であると述べた。これに対してマリク全権は、千島列島その他の領有は合法的にソ連に帰属したものである。歯舞、色丹についてのソ連の態度は、史上未曽有の寛大な措置である。ソ連側はその返還に特別の条件を付するものではなく、なんらの代償を求めるものでもないと述べた」

1956.4-5 漁業交渉(河野-イシコフ)
 河野一郎農相、訪ソしイシコフ漁業相と交渉、日ソ漁業協定を締結。しかし協定の発効は国交回復が条件。7月末までに国交交渉を再開することで合意。

1956.7-8 第1次モスクワ交渉(重光-シェピーロフ)
 重光外相を首席全権とし、松本全権も加わり訪ソ。ソ連側首席全権はシェピーロフ外相。
 重光は当初強硬論であったが、ソ連側の態度は変わらず。交渉の最終段階に至り、重光は「急に態度を変更して、ここまで努力したのであるから、この上はソ連案をそのままのむ以外にはないという態度となり」「ソ連案そのままの領土条項を設けた平和条約に署名しようといい出した」。松本は、第1次ロンドン交渉において重光から国後、択捉をあくまで貫徹せよとの訓令を受け、これまで苦労してきた経緯や、政府の規定方針、自民党の党議、国民感情等を考慮してこれに反対。重光は一切を委任されており請訓の必要はないと主張したが、松本の強硬な反対を受けしぶしぶ請訓に応じた。
 閣僚、党3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相は「この際直ちにソ連案に同意することについては閣内挙って強く反対し、また国内世論もすこぶる強硬であると判断されるについてはソ連案に同意することは差し控えられ」たい旨返電。
 帰路、重光はスエズ運河会議に出席するためロンドンに立ち寄る。その際米国大使館にダレス国務長官を訪問し、日ソ交渉の経過を説明。

ところが、ダレス長官は、千島列島をソ連に帰属せしめるということは、サン・フランシスコ条約でも決っていない。したがって日本側がソ連案を受諾する場合は、日本はソ連に対しサン・フランシスコ条約以上のことを認めることとなる次第である。かかる場合は同条約第二十六条が作用して、米国も沖縄の併合を主張しうる地位にたつわけである。ソ連のいい分は全く理不尽であると思考する。特にヤルタ協定を基礎とするソ連の立場は不可解であって、同協定についてはトルーマン前大統領がスターリンに対し明確に言明した通り、同協定に掲げられた事項はそれ自体なんらの決定を構成するものではない。領土に関する事項は、平和条約をまって初めて決定されるものである。ヤルタ協定を決定とみなし、これを基礎として論議すべき筋合いのものではない。必要とあればこの点に関し、さらに米国政府の見解を表明することとしてもさしつかえないという趣旨のことを述べた。
 重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
 このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官が重光外相にこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故にこの段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つというがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に了解に苦しんだ。


 サンフランシスコ条約第26条とは次のとおり。

第二十六条 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。


 たしかにそう主張し得る余地がある。

1956.10 第2次モスクワ交渉(鳩山-ブルガーニン、河野-フルシチョフ)
 松本は帰国後鳩山邸で河野農相、岸信介自民党幹事長らと会談し、領土問題を棚上げし国交正常化を図るべきと進言。河野、岸も賛成。鳩山首相はソ連のブルガーニン首相宛に、領土交渉の協議継続を条件に、これを棚上げしての国交正常化交渉を打診。ブルガーニンは交渉には応じる旨返還するが、領土交渉の協議継続には触れず。松本は訪ソしグロムイコ第一外務次官(のち外相)を訪問、書簡で領土問題を含む平和条約締結交渉の継続確認を求め、グロムイコもこれに同意(松本・グロムイコ書簡)。
 かくして、鳩山首相、河野農相が訪ソし、日ソ共同宣言に合意。共同宣言には平和条約締結交渉の継続と締結後の歯舞、色丹の引き渡しが明記されたが、平和条約締結交渉に領土問題が含まれるとの表現を盛り込むことはできなかった。

 まとめ終わり。

 「ダレスの恫喝」は確かにあった。だがそれでわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。第1次ロンドン交渉で既に「固有の領土」論を主張している。
 松本も重光も一時は2島での妥結もやむなしかと考えた。だが本国から拒否された。それだけのことだ。
 ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という発言などどこにも出てこない。〔註〕

 本書によると、このダレス発言は当時外部に漏れて日本の新聞にも掲載され、「日本の世論に相当な動揺を与え」「政府としてもこの問題の収拾には非常に苦慮した」そうだ。その記憶が現在でもさまざまに語り継がれているのだろう。

 なお、松本は先に引用した「非常に了解に苦しんだ」に続いて、次のように述べている。

 そこで、二十四日に重光外相は、さらにダレス国務長官に会って日本側の立場を縷々説明した。その日は、ダレス長官がアメリカの駐ソ大使ボーレン氏も同席させて、十九日の会談〔引用者注・「恫喝」発言〕とは余程違った態度で、むしろアメリカ側の領土問題に対する強硬な態度は、日本のソ連に対する立場を強めるためのものであるということを説明したそうである。
 

 また、政府が収拾に苦労したという記述に続けて、

九月七日に至ってダレス長官が、谷駐米大使(正之)に対して、領土問題に関する米国政府の見解を述べた覚書を手交した後の会談で、「この際明らかにしておきたいが、米国の考え方がなんとかして日本の助けになりたいと思っていることにあることを了解して欲しい云々」と述べて、ダレス長官の真意が日本側を支援するにあったことが明確になってきたので、世論も国会の論議も平静を取り戻した。


とある。
 これを額面どおりに受け取るかどうかは別として、少なくともダレスがこのように弁明したことは事実だろう。
 本書には佐藤優が長文の解説を付している。そして末尾で一節を設けてこの「ダレスの恫喝」を紹介しているにもかかわらず、松本のこれらの記述に全く触れていないのはアンフェアではないだろうか。

 仮に歯舞、色丹のみで妥結した場合、米国が対抗して実際に沖縄を領有したとも考えにくい。
 何故なら、カイロ宣言に次のようにあるように、 

三大同盟国〔引用者注・英米華〕ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ


米国は対日戦の結果としての領土拡張を否定していたのだし、こんなことで沖縄領有に踏み切ったら、わが国の対米感情は著しく悪化し、反米的な社会党などによる政権への交代や、ソ連・中共への接近という事態も予想されただろうから。
 ダレスがわざわざ弁明したのもそのためだろう。

 そして、結局のところ、米国は沖縄を返還したのである。
 ならば、もう「恫喝」の効果はない。わが国は沖縄を気にすることなく、歯舞、色丹のみの返還で妥協するという選択もとり得るはずである。
 沖縄返還後もそうした見解がわが国で主流にならなかったのは、別に米国に遠慮しているからでも、外務省が「頑迷固陋」であるからでもなく、択捉、国後は国境画定以来のわが国「固有の領土」であり、日ソ中立条約を破って不当に参戦したソ連による奪取は断じて容認できないという至極当然の国民感情の産物だろう。
 また、ソ連がその後長らく「領土問題は存在しない」との立場をとり、歯舞、色丹の引き渡しすら否定していたことも一因だろう。

 「ダレスの恫喝」論を唱える人々は、この交渉の経緯をおよそ理解していないか、理解していても政治的理由で敢えて無視しているのだろう。
 2島返還論に立とうが反米論をぶとうがそれは個人の自由だと思うが、少なくとも事実関係に基づいた主張をしていただきたいものだ。


(北方領土問題に関連する拙記事

北方領土問題を考える

「2島」は4島の半分ではない

貝殻島へのソ連の上陸に対し米軍が出動しなかったとの妄説について

プーチンの北方領土問題「最終決着」発言を読んで

「領土問題に「引き分け」などあり得ない」?


(以下2013.2.13追記)
註 《ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という発言などどこにも出てこない。》

 この記述については、オコジョさんという方から、池田氏は『モスクワにかける虹』を出典として挙げているわけではなく、実際、ほかにもダレス発言の根拠はあるのだから、このように池田氏を批判するのはおかしいというご指摘がありました。
 検討したところ、たしかにおっしゃるとおりでしたので、この箇所を削除します。
 詳細は、オコジョさんの記事

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

及び拙記事

オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について

をご参照ください。




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2 コメント

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よろしく (オコジョ)
2012-09-14 23:22:22
トラックバックをつけさせていただきました。
どうかよろしく。
返信する
Re:よろしく (深沢明人)
2012-09-17 00:08:52
新記事をアップしました。
「4島返還論は米国の圧力の産物か?」
http://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/ad3154dfcfe6172225ceccb7848b46ba
返信する

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