2012年9月8日付けの拙記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」に対して、オコジョさんという方が、
「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって
米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など
という2つの記事を書かれました。
それに対して私が「4島返還論は米国の圧力の産物か?」を書いたところ、オコジョさんは拙記事に対する批判として
日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」
四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題
の2つの記事を書かれ、さらに北方領土問題に関する諸論点について
「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?
「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲
の2つの記事で見解を示されました。
私はこれらのオコジョさんの記事を読んで、最後の記事に
《一連の記事を拝読しました。
言及のあったいくつかの文献に当たってみた上で、反論、あるいは弁明、ないしは論評を試みたいと思います。
入手と読了に時間を要しますので、今しばらくお待ちください。》
とコメントしました。
オコジョさんからは、
《わざわざ「予告」のコメントをいただき、ありがとうございます。
どうか、存分にご研究ください。》
との返答をいただきました。
その後、オコジョさんからは、いくつかの記事のトラックバックが送られてきました。その中には、拙記事の内容と全く無関係なものもありました。
トラックバックとは、ブログの記事中で他の方のブログの記事にリンクしたことをそのブログに通知する機能です。そうではなく、単なる新記事の通知として使用されている方々がおられるのは承知していますが、私のブログの記事の下に、その記事の内容とは何の関係もない他の方の記事のトラックバックが表示されているのは、私には違和感があります。
そこで、オコジョさんのある記事に、私のトラックバックに対する考え方はこうであり、拙記事の内容と無関係な記事のトラックバックはご遠慮願いたいと申し上げたところ、オコジョさんから、
・「以前からたぶんアホな人だろうとは思っていましたが、かくまでアホだとは!!」
・「私たち」はトラックバックをお知らせとして用いている
・気にくわないのなら私のトラックバックを削除あるいは拒否すればいいだけだ
・資料取り寄せとそれを読むために待ってくれと言われており、「気をつけていないと忘れてしまうので、それを防ぐために時々トラックバックをつけ」ているのだ
との趣旨の返答をいただきました(原文は拙記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」のコメント欄を参照願います)。
私も忘れているわけではなく、遅れていることはずっと気になっていました。
にもかかわらずこれまで書かなかったのは、私にとっては多大な労力を要する作業であるため、なかなか踏み切れなかったからです。
オコジョさんが挙げていたいくつかの文献は入手できましたが、読み込む時間がとれません。
また、オコジョさんの論点はかなり多岐にわたっていて、それを整理して論評を構築するのは、私にとっては大変な作業です。
私には、オコジョさんのように、多岐にわたる論点を盛り込んだ記事を短期間に執筆する能力はありません。きっと、著しく頭が悪いのでしょう。そういう意味では、「アホ」との批判は甘受します。
その間、他のテーマでの記事は書いているではないかと思われるかもしれませんが、それは、それらが私にとってまだしも楽な内容だったからです。難しく、時間のかかる課題は後回しにしてしまっていたわけです。
加えて、オコジョさんに対する私の関心が薄れてしまったということもあります。
当初、記事のトラックバックをいただいた際の印象は、後述するように、極めて的確なご批判をいただいたこともあって、これは久々に「当たり」のブロガーではないか、こういう方のものこそ読むべきブログではないかと思い、しばらくフォローしていました。
しかし、だんだんと、違和感がつのるようになりました。オコジョさんの政治的スタンスに対する違和感ではなく(政治的スタンスが異なっても拝読しているブログはいくつかあります)、個々の主張や、表現方法に対する違和感です。
そして、ある残念な出来事があり(私に対するものではありません)、私はオコジョさんのブログへの関心を急激に失い、ブログを読むのをやめてしまいました。
今にして思えば、何かに幻惑されていたような気がします。
しかし、オコジョさんにしてみれば、私が上記のようにコメントしたにもかかわらず、数か月経っても何の音沙汰もないのはどうしたことかと疑念を抱かれても不思議ではないと思います。
また、以前の私の記事にはオコジョさんが指摘したとおりの事実誤認がありましたので、その点については私の見解を明らかにしておかなければなりません。
前置きが大変長くなりました。
まず、オコジョさんの「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」の前半部で取り上げられている、私の池田香代子氏に関わる記述について述べます。
私は最初の記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」で、「ダレスの恫喝」によってわが国が2島返還論から4島返還論に転じたかのように唱える例の1つとして、翻訳家の池田香代子氏のブログに
とあるのを挙げました(太字は引用者による)。
そして、昨年『日ソ国交回復秘録』のタイトルで再刊された松本俊一著『モスクワにかける虹』中の「ダレスの恫喝」の箇所を引用した上で、
と評しました。
これについてオコジョさんが「「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって」で、
と指摘されました。
これに対して私が「「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で
と述べたところ、オコジョさんから、「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」で、
・「本書に拠る限り」という記述は池田氏が本書を典拠としていない以上意味不明
・誰の解説であろうと、その主張をこんな風に無批判に受容してしまうのは困る
・当時、各紙はいっせいに「ダレス警告」の内容とそれへの反論を掲げている
・松本著のダレス発言の内容から見ても「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という趣旨と見ることは可能
・松本は各紙の記者に情報を提供し、海外の研究者からの聞き取りにも応じている。「ダレス発言の根拠は本書だけ」などというのは、とてもあり得る話ではない
・米国側にも資料はあり、それを利用したマイケル・シャラーの『「日米関係」とは何だったのか』には、まさに池田氏と同様の記述がある。典拠は米国の外交文書である。
といった趣旨の、長文のご批判をいただきました。
拙記事を読み返して、これらの点についてはおおむねそのとおりだと認めます。
そもそもオコジョさんの
「池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――」
という箇所を私自身引用しているにもかかわらず、その私が、ダレス発言の根拠は本書にしかなく
「誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう」
と述べているのは、おっしゃるように全く意味不明であり、オコジョさんに不審の念を抱かせたことは想像に難くありません。
きちんと読んでいなかったとしか考えられません。恥ずかしい限りです。
件の米国の外交文書も、呈示された文書名で検索したらすぐ出てきました(いい時代になったものですね)。
http://history.state.gov/historicaldocuments/frus1955-57v23p1/pg_203
確かに、池田氏が述べているのと同様の記述があります。
ただ、オコジョさんが
とあるのは――無茶苦茶な主張をしていたのは事実なのでそう思われてもしかたがありませんが――違います。
私はそれほど米国に対してナイーブではありません。
では何故私が根拠もないのに「誰かがダレス発言を勝手に膨らませた」などと思い込んでしまったのか。
振り返ってみると、まず、以前に述べたとおり、佐藤優氏の記述が念頭にあったこと。
別に佐藤氏が言うことなら一から十まで信じるわけではありませんが(この人は様々な媒体で活躍されていますが、私はこの人を書き手としてあまり信用していません)、北方領土問題は氏の専門であり、そういい加減なことを書くはずがないという「バイアス」がありました。
次に、オコジョさんも指摘していたように、池田氏は日ソ共同宣言と「ダレスの恫喝」の前後関係を逆に理解していたこと。
共同宣言がどういう経緯で成立したか多少なりとも知識があれば、「共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた」などという表現になるはずはありません。
そうしたことを書く人物であれば、「ダレスの恫喝」についても「勝手に膨らませ」るか、膨らませたことを受容してもおかしくないという「バイアス」がありました。
そして三番目に、「琉球政府の存続も認めない」という記述。
オコジョさんがおっしゃるように、「永久に沖縄に居座るぞ」は「領土にする」と同趣旨かと私も思いました。しかし、琉球政府を認めないとする点に引っかかりました。
米国が沖縄を領土として統治するにしろ、何らかの統治機構は必要なはずです。
琉球政府は日本政府とは関係ありません。米国が統治のために設けた現地人による機構です。
米国が「永久に沖縄に居座る」からといって、琉球政府を廃止する必要はありません。そのまま存続させても一向にかまわないはずです。現にプエルトリコや北マリアナ諸島といった米国の属領にも自治政府はあります。
にもかかわらず、ダレスがそんな発言をするだろうかと考えました。
この点については、上記の米外交文書に「no Japanese Government could survive.」と明記されていますね。
これは沖縄の日本人政府という意味ではなく、文字どおり日本国政府のことではないでしょうか。
永久に沖縄に居座ることにより、当時の鳩山自民党政権が存続し得ないという意味ではないでしょうか。
私には、そう解釈する方が自然だと思えます。
ともあれ、思い込みによる事実誤認をご指摘いただき、ありがとうございました。
拙記事の「どこにも出てこない」旨の箇所を削除し、註を加えます。
(続く)
「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって
米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など
という2つの記事を書かれました。
それに対して私が「4島返還論は米国の圧力の産物か?」を書いたところ、オコジョさんは拙記事に対する批判として
日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」
四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題
の2つの記事を書かれ、さらに北方領土問題に関する諸論点について
「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?
「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲
の2つの記事で見解を示されました。
私はこれらのオコジョさんの記事を読んで、最後の記事に
《一連の記事を拝読しました。
言及のあったいくつかの文献に当たってみた上で、反論、あるいは弁明、ないしは論評を試みたいと思います。
入手と読了に時間を要しますので、今しばらくお待ちください。》
とコメントしました。
オコジョさんからは、
《わざわざ「予告」のコメントをいただき、ありがとうございます。
どうか、存分にご研究ください。》
との返答をいただきました。
その後、オコジョさんからは、いくつかの記事のトラックバックが送られてきました。その中には、拙記事の内容と全く無関係なものもありました。
トラックバックとは、ブログの記事中で他の方のブログの記事にリンクしたことをそのブログに通知する機能です。そうではなく、単なる新記事の通知として使用されている方々がおられるのは承知していますが、私のブログの記事の下に、その記事の内容とは何の関係もない他の方の記事のトラックバックが表示されているのは、私には違和感があります。
そこで、オコジョさんのある記事に、私のトラックバックに対する考え方はこうであり、拙記事の内容と無関係な記事のトラックバックはご遠慮願いたいと申し上げたところ、オコジョさんから、
・「以前からたぶんアホな人だろうとは思っていましたが、かくまでアホだとは!!」
・「私たち」はトラックバックをお知らせとして用いている
・気にくわないのなら私のトラックバックを削除あるいは拒否すればいいだけだ
・資料取り寄せとそれを読むために待ってくれと言われており、「気をつけていないと忘れてしまうので、それを防ぐために時々トラックバックをつけ」ているのだ
との趣旨の返答をいただきました(原文は拙記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」のコメント欄を参照願います)。
私も忘れているわけではなく、遅れていることはずっと気になっていました。
にもかかわらずこれまで書かなかったのは、私にとっては多大な労力を要する作業であるため、なかなか踏み切れなかったからです。
オコジョさんが挙げていたいくつかの文献は入手できましたが、読み込む時間がとれません。
また、オコジョさんの論点はかなり多岐にわたっていて、それを整理して論評を構築するのは、私にとっては大変な作業です。
私には、オコジョさんのように、多岐にわたる論点を盛り込んだ記事を短期間に執筆する能力はありません。きっと、著しく頭が悪いのでしょう。そういう意味では、「アホ」との批判は甘受します。
その間、他のテーマでの記事は書いているではないかと思われるかもしれませんが、それは、それらが私にとってまだしも楽な内容だったからです。難しく、時間のかかる課題は後回しにしてしまっていたわけです。
加えて、オコジョさんに対する私の関心が薄れてしまったということもあります。
当初、記事のトラックバックをいただいた際の印象は、後述するように、極めて的確なご批判をいただいたこともあって、これは久々に「当たり」のブロガーではないか、こういう方のものこそ読むべきブログではないかと思い、しばらくフォローしていました。
しかし、だんだんと、違和感がつのるようになりました。オコジョさんの政治的スタンスに対する違和感ではなく(政治的スタンスが異なっても拝読しているブログはいくつかあります)、個々の主張や、表現方法に対する違和感です。
そして、ある残念な出来事があり(私に対するものではありません)、私はオコジョさんのブログへの関心を急激に失い、ブログを読むのをやめてしまいました。
今にして思えば、何かに幻惑されていたような気がします。
しかし、オコジョさんにしてみれば、私が上記のようにコメントしたにもかかわらず、数か月経っても何の音沙汰もないのはどうしたことかと疑念を抱かれても不思議ではないと思います。
また、以前の私の記事にはオコジョさんが指摘したとおりの事実誤認がありましたので、その点については私の見解を明らかにしておかなければなりません。
前置きが大変長くなりました。
まず、オコジョさんの「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」の前半部で取り上げられている、私の池田香代子氏に関わる記述について述べます。
私は最初の記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」で、「ダレスの恫喝」によってわが国が2島返還論から4島返還論に転じたかのように唱える例の1つとして、翻訳家の池田香代子氏のブログに
1951年、不当であっても日本は国後・択捉を放棄した、このことは当時の外務省も認識していました。歯舞・色丹については、放棄したとは考えていなかった。ソ連の不法占拠状態だ、と受けとめていた。ここから、二島返還論が出てきます。サンフランシスコ条約を踏まえれば当然ですし、ソ連もそのつもりで、1956年、将来の歯舞・色丹返還を盛り込んだ日ソ共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた国がありました。アメリカです。アメリカも、日本が放棄した千島列島とは国後・択捉のことであって、歯舞・色丹は日本の領土だと理解していました。なのに、素知らぬ顔でそれを曲げて、「二島返還でソ連と平和条約を結んだら、アメリカは永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」と、ダレス国務長官をつうじて脅してきたのです。「ダレスの恫喝」です。
時あたかも冷戦勃発の時期にあたります。アメリカは、日本とソ連を対立させておきたかった、日ソ間にわざと緊張の火種を残しておいて、だから米軍が日本にいてやるのだ、という恩着せの構図を固めたかったわけです。「四島返還論」は、ここにアメリカのあくなき国益追求のための外交カードとして始まります。
とあるのを挙げました(太字は引用者による)。
そして、昨年『日ソ国交回復秘録』のタイトルで再刊された松本俊一著『モスクワにかける虹』中の「ダレスの恫喝」の箇所を引用した上で、
「ダレスの恫喝」は確かにあった。だがそれでわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。第1次ロンドン交渉で既に「固有の領土」論を主張している。
松本も重光も一時は2島での妥結もやむなしかと考えた。だが本国から拒否された。それだけのことだ。
ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という発言などどこにも出てこない。
と評しました。
これについてオコジョさんが「「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって」で、
池田氏は別に『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているわけではないのです。池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――いきなり「どこにも出てこない」と断言するのは、オカシイでしょう。
と指摘されました。
これに対して私が「「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で
本書巻末の佐藤優氏による解説には、ダレス発言の根拠は本書だけだとあります。実際、ほかにソースがあるという話を聞きません。
したがって、誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう。
私が言いたかったのは、本書に拠る限り、「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」といった趣旨の発言はなかったということです。別に池田氏が『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているとは書いていませんし、池田氏がそう書いた責任が全て氏にあるというつもりで指摘したのではありません。
と述べたところ、オコジョさんから、「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」で、
・「本書に拠る限り」という記述は池田氏が本書を典拠としていない以上意味不明
・誰の解説であろうと、その主張をこんな風に無批判に受容してしまうのは困る
・当時、各紙はいっせいに「ダレス警告」の内容とそれへの反論を掲げている
・松本著のダレス発言の内容から見ても「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という趣旨と見ることは可能
・松本は各紙の記者に情報を提供し、海外の研究者からの聞き取りにも応じている。「ダレス発言の根拠は本書だけ」などというのは、とてもあり得る話ではない
・米国側にも資料はあり、それを利用したマイケル・シャラーの『「日米関係」とは何だったのか』には、まさに池田氏と同様の記述がある。典拠は米国の外交文書である。
といった趣旨の、長文のご批判をいただきました。
拙記事を読み返して、これらの点についてはおおむねそのとおりだと認めます。
そもそもオコジョさんの
「池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――」
という箇所を私自身引用しているにもかかわらず、その私が、ダレス発言の根拠は本書にしかなく
「誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう」
と述べているのは、おっしゃるように全く意味不明であり、オコジョさんに不審の念を抱かせたことは想像に難くありません。
きちんと読んでいなかったとしか考えられません。恥ずかしい限りです。
件の米国の外交文書も、呈示された文書名で検索したらすぐ出てきました(いい時代になったものですね)。
http://history.state.gov/historicaldocuments/frus1955-57v23p1/pg_203
確かに、池田氏が述べているのと同様の記述があります。
ただ、オコジョさんが
深沢さんの文面解釈には、非常なバイアスが感じられます。
我らが友人のアメリカがそんなことをいう“はず”がない。いや、私はそんなことは絶対に信じないぞ――そんな意思がなかったら、上記のような無茶苦茶な議論など展開しようがないと私は感じるのです。
とあるのは――無茶苦茶な主張をしていたのは事実なのでそう思われてもしかたがありませんが――違います。
私はそれほど米国に対してナイーブではありません。
では何故私が根拠もないのに「誰かがダレス発言を勝手に膨らませた」などと思い込んでしまったのか。
振り返ってみると、まず、以前に述べたとおり、佐藤優氏の記述が念頭にあったこと。
別に佐藤氏が言うことなら一から十まで信じるわけではありませんが(この人は様々な媒体で活躍されていますが、私はこの人を書き手としてあまり信用していません)、北方領土問題は氏の専門であり、そういい加減なことを書くはずがないという「バイアス」がありました。
次に、オコジョさんも指摘していたように、池田氏は日ソ共同宣言と「ダレスの恫喝」の前後関係を逆に理解していたこと。
共同宣言がどういう経緯で成立したか多少なりとも知識があれば、「共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた」などという表現になるはずはありません。
そうしたことを書く人物であれば、「ダレスの恫喝」についても「勝手に膨らませ」るか、膨らませたことを受容してもおかしくないという「バイアス」がありました。
そして三番目に、「琉球政府の存続も認めない」という記述。
オコジョさんがおっしゃるように、「永久に沖縄に居座るぞ」は「領土にする」と同趣旨かと私も思いました。しかし、琉球政府を認めないとする点に引っかかりました。
米国が沖縄を領土として統治するにしろ、何らかの統治機構は必要なはずです。
琉球政府は日本政府とは関係ありません。米国が統治のために設けた現地人による機構です。
米国が「永久に沖縄に居座る」からといって、琉球政府を廃止する必要はありません。そのまま存続させても一向にかまわないはずです。現にプエルトリコや北マリアナ諸島といった米国の属領にも自治政府はあります。
にもかかわらず、ダレスがそんな発言をするだろうかと考えました。
この点については、上記の米外交文書に「no Japanese Government could survive.」と明記されていますね。
これは沖縄の日本人政府という意味ではなく、文字どおり日本国政府のことではないでしょうか。
永久に沖縄に居座ることにより、当時の鳩山自民党政権が存続し得ないという意味ではないでしょうか。
私には、そう解釈する方が自然だと思えます。
ともあれ、思い込みによる事実誤認をご指摘いただき、ありがとうございました。
拙記事の「どこにも出てこない」旨の箇所を削除し、註を加えます。
(続く)