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「2島」は4島の半分ではない

2009-04-12 14:53:52 | 領土問題

 先に北方領土問題についての記事を書いたが、2島返還論の根本的な問題点について触れるのを省略していたことに気がついた。
 北方領土問題についてある程度知っている人にはよく知られたことだが、あまり詳しくない人には必ずしも知られていないように思われるので、少し補足しておく。

 2島返還論と聞くと、いわゆる北方領土4島(歯舞は群島なので正確には4島ではなく数多くの島々があるのだが、ここでは便宜上4島としておく)の半分が返ってくるような印象がある。そして、わが国が4島を要求しており、ソ連・ロシアは1島たりとも返さないという立場なのだから、間をとって2島とするのが現実的ではないかと考える方もいることだろう。
 しかし、地図を見ればわかるように、2島返還論で言うところの2島、すなわち色丹島と歯舞群島は、残る国後島と択捉島よりはるかに小さい。色丹と歯舞の面積は、国後と択捉の面積の1割にも満たない(ちなみに、国後、択捉はともに沖縄本島よりも大きい。北海道、本州、四国、九州を除けば、択捉島はわが国最大の島である)。
 「2島返還」は決して両者の主張の中間点ではない。


 そして、ソ連にはそもそも歯舞、色丹を併合する根拠がなかった。


 ソ連は、ヤルタ協定により、北方領土を取得する権利を得たとしている。さらに、サンフランシスコ平和条約で日本は千島列島を放棄しているではないかと主張している。


 ヤルタ協定には、たしかに
 

三 千島列島ハ「ソヴィエト」聯邦ニ引渡サルベシ


との文言がある。しかし、ヤルタ協定は、米英ソ3国の秘密協定であるから、わが国の関知するところではない。わが国の降伏時、ヤルタ協定の存在は公表されていなかった。


 わが国は、ポツダム宣言を受諾して降伏した。ポツダム宣言第8項には次のようにある。


八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ


 カイロ宣言とは、1943年に米英中3国の首脳会談を受けて発表された、連合国の対日方針を宣言した文書である。
 その文中に、次のような記述がある。


三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ


 北方領土4島は、ロシアとの間で最初に国境が画定されて以来のわが国固有の領土であるから、「暴力及貧慾ニ依リ」「略取シタル」地域には当たらない。
 また、カイロ宣言では、米英中3国は「領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス」とされている。
 カイロ宣言の条項はポツダム宣言においても履行されなければならないのだから、ソ連が参戦にかこつけて領土拡張を企図することは許されない。


 そして、歯舞、色丹は、ヤルタ協定やサンフランシスコ平和条約に言う「千島列島」だろうか。
 歯舞は、地理的に見て、北海道の一部だろう。色丹も、千島列島の並びから見てずれた位置にある。


 明治2年に行政区分として「北海道」が置かれ、その下に11の「国」が置かれた際、国後と択捉は「千島国(ちしまのくに)」とされたが、色丹と歯舞は「根室国(ねむろのくに)」に属するとされた。
 明治8年に樺太・千島交換条約が締結され全千島列島がわが国の領土となったが、わが国は新領土の先住民であるアイヌ人を色丹島に強制移住させ、明治19年、色丹島は千島国に移管された。
 したがって、色丹島は終戦時に「千島国」に属していたが、だからといって、ヤルタ協定やサンフランシスコ平和条約に言う「千島列島」に属するとは言えない。
 地理的に見て、また歴史的経緯からも、歯舞群島同様北海道の一部と見るべきではないか。

 サンフランシスコ平和条約には、次のようにある。


第二条(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。


 わが国は、当初、この放棄した「千島列島」には、国後、択捉も含まれるとしてきた。それが現在のように国後、択捉は含まれないとの見解に変わるのは、先の記事で述べた1955年の第1次ロンドン交渉以後のことである。その点で、わが国の主張には矛盾がある(1961年に小坂善太郎外相は、占領下の状況を反映したものだと述べている)。
 しかし、歯舞、色丹については、わが国は一貫して、放棄した「千島列島」には含まれないとの立場をとっている。


 以上のことから、歯舞、色丹は、ソ連が領有権を主張する「千島列島」に含まれるとは言い難い。
 つまり、不当性が明白であり、返還されて当然のものなのである。
 だからこそ、ソ連が一時はその引き渡しに応じようとしたわけだ。

 いつ返ってくるとも知れぬ4島を待ち続けるよりも、2島返還をもって平和条約を締結し、ロシアとの交流を深める方が、長期的に見てわが国の国益にかなうという考え方に私は同意しないが、そうした考え方自体は選択肢として当然あっていいと思う。
 しかし、2島返還とは、4島と0島の中間にある妥協案ではなく、元々返還されて当然のものでしかないということは、よく理解しておく必要があるだろう。


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