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与謝野馨は「大間違い」を犯したか

2011-06-28 22:54:55 | マスコミ
 今月初めの菅内閣不信任案否決に際して、私は次のように書いた

 私は震災後も、そして震災前も、菅内閣をそれほど評価していないが、今回の不信任案への菅の対応には「やるな!」と唸らされた。
 わが国には珍しい、政治的人間だと思う。


 この時、「政治的人間」の用法を念のため確認しようと検索してみると、産経新聞政治部記者(首相官邸キャップ)の阿比留瑠比のブログの次のような記事が見つかった。


与謝野氏の大間違いと「政治的人間」について
2011/04/20 17:06

 いかに頭脳明晰で博識で、かつ道理をわきまえることを心がけていても、現実の行動としては致命的に間違えてしまうというタイプの人がいますね。私のように薄らぼんやりで浅学非才で、かつ世の中というものが何だかよく分からない人間であっても、岡目八目でそれが見てとれることが稀にあります。

 いや、なまじ頭がいい上に勉強を積んで普段からよく物事を考えているため、一つの結論を得るとそれ以外の物の見方ができなくなる、ということもあるのだろうなと思います。周囲に「それは違うよ」と忠告されても、普段はその忠告相手がバカに見えているので素直に従わないということもあるでしょう。

 いったい、阿比留は何の話をしているのかと不審に思った方がいるかもしれませんが、私はきょう、桜井充財務副大臣が菅直人首相について指摘した次の言葉を聞いて、いろいろと連想してしまったのでした。

「(18日の参院予算委員会で)多くの党の方々から、『もう菅首相辞めろ』という声も出ましたよね。私が言ったわけじゃありませんよ。だけどあそこのやりとりを聞いていて、まあ、ああいうふうに言いたくなる心情もよくわかるな、と。つまり、やりとりの中で『このくらいはせめて認めたらどうです』と問いかけた際に、それまで全部突っぱねたら、『じゃあ辞めろ』と言いたくなるのも当然なんじゃないの。そうじゃない?要するに人としてどうかですよ。人としてね」

 身内である財務副大臣に人間性に問題があると強調されています。つい最近、自民党の石原伸晃幹事長もテレビ番組で「菅首相は人間として問題がある」と明言していましたね。前回のエントリでも書きましたが、たちあがれ日本の片山虎之助参院幹事長には「心がない」と言われていました。

 もちろん、政治は人柄で行うものでないことは分かっています。また、性格が悪くても、結果を残しさえすれば後世、評価されるでしょう。ただ、それは劣悪な、あるいは狡猾な人間性をある程度隠しおおせるか、あるいはそれをカバーして余りある能力を発揮できれば、ではないでしょうか。

 菅首相はもはや、その人間性の欠如によって、現実問題として政治の前進の最大の妨げとなっています。誰も菅首相には協力したくないし、誰も組みたくない。極端に言えば、同じ空気を吸いたくないという状況すら永田町に生まれています。これでは、菅首相がたとえ国民のために仕事がしたいと思っても(国民のためというより私心と保身にしか見えないところもこの人の徳のなさですね)、できるはずがないのです。

 で、ここでようやく冒頭の話に戻るのですが、野党から政権入りして菅首相を支えている与謝野馨経済財政担当相の著書「堂々たる政治」(新潮新書)に、「政治家の王道」という項があり、興味深いことが記されています。与謝野氏はここで、強く影響を受けた本として「ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像」(シュテファン・ツヴァイク著、みすず書房)を挙げ、厳しい権力闘争を生き抜き、ナポレオン政権で警察庁長官を務めたフーシェについて次のように書いています。

 《ツヴァイクは「はしがき」で、「ジョゼフ・フーシェという男は、その当時、もっとも権力をほしいままにした人間の一人であり、あらゆる時代を通じて、例を見ないほど風変わりな人物である」と書いた後に、その人物像を「天性の裏切り者、いじましい策謀家、ぬらりくらりとした爬虫類的性格、職業的な変節漢、下劣なデカ根性、みじめな背徳者」と書いている。なぜそんな人間の伝記をわざわざ書いたのか。その理由はこうある。
「とくに強調しておかなければならないのだが――卓越した人物が、純粋な理念のもちぬしが、万事を決定することは、まずめったにないのであって、それよりはるかにねうちがなくても、もっと立ちまわりのうまい人間、いいかえれば、黒幕の人物がことを決定しているのだ。(中略)ジョゼフ・フーシェのこの伝記こそ、そのような意味で政治的人間の類型学に寄与するものでありたいと願っている」
安倍政権が目の当たりにしたのも、まさしく「政治的人間」たちの行動であった。》

 与謝野氏が、裏切り者の汚名を着てまで進めたいとしている社会保障と税の一体改革の方向性は、私の考えとは異なります。私はいま消費税上げなんてとんでもないという意見です。でも、それはそれとして、与謝野氏が純粋に「よかれ」と思って仕事を成し遂げたいと願っていることはその通りだろうと見ています。そういうふうに己の信念に従う政治家もまた「あり」だろうと。

 ただ、与謝野氏は決定的に完璧に間違えたと思うのは、菅首相は「政治的人間」であることは疑いようもありませんが、性質はフーシェと共通していても、フーシェのような政治家としてのスケールも周到さもとても持ち合わせていない、「歴代首相の中で一番の小者」(弊紙先輩記者)であることです。目的のために一番組んではいけない空しい相手を選んでしまったわけです。

与謝野氏は、一時的に憎まれ者になろうと、ことを為すためにあえて「政治的人間」と組んだつもりだったのでしょうが、菅首相と連携すると、余計に何もできなくなるということを理解していませんでした。それは、人間の皮膚感覚、直感として、この愚かで卑怯な首相に忌避感を抱くべきところを、なまじよく働く頭と理性で抑え込んでしまったからかもしれないなと、私などの頭の回転が鈍い者にはそう見えるわけです。

 与謝野氏は前述の著書で、「私は政治的人間を否定するつもりはない。しかし、政治的人間が必ずしも素晴らしい政治家となるわけではない」とも書いています。頭では理解しているのです。なのに、菅首相なんかに引っかかってしまい、何もできないまま今日に至るわけです。

 私はこのブログで、たまに古典などをひき、人間社会も人間自体も、そして政治も古代からあまり進歩していないということを記してきました。ある種、諦観を抱いていたのです。人間なんてららららららら~らと。

 ですが、この危機の時代に菅首相という「歩く人災」「引きこもる風評被害装置」を首相にいただく最大不幸にめぐりあわせて、こういう低劣な政治的人間が位人臣を極めるような政治の構造的欠陥は何とかしないといけないと改めて思うに至りました。どうしたらいいのか、まだ何も分かりませんし、このアルコールで濁った頭で何を考えつくわけでもないのですが、いま、そういう気持ちでいるのでした。



 なかなか興味深い内容だと思った。

 菅を政治的人間と見る点では私と同意見だ。

 ただ、菅は「フーシェのような政治家としてのスケールも周到さもとても持ち合わせていない、「歴代首相の中で一番の小者」(弊紙先輩記者)」だろうか。
 先日桐花大綬章を受章した人物(長生きはするものだなあ)をはじめ、菅よりは小物と思われる首相経験者を私は幾人か思いつくのだが。
 先の内閣不信任案への対応からも、そうは考えがたい(「小物」であれば耐えかねて辞任するのではないか)。

 そして、与謝野は「大間違い」を犯したのだろうか。
 入閣によって「余計に何もできなくな」っているだろうか。

 阿比留が触れている社会保障と税の一体改革は、今、政府・与党内での最終局面を迎えている。

 25日のMSN産経ニュースから。

消費税問題は「首相裁定」へ 一体改革
2011.6.25 01:30
 社会保障と税の一体改革を協議する民主党の抜本改革調査会(会長・仙谷由人代表代行)は24日、国会内で総会を開き、調査会の修正案となる意見書を提示して協議したが結論を27日に持ち越した。ただ、消費税率引き上げ時期の表現をめぐり官邸サイドと調査会との間で一致をみるのは難しく、調査会の結果を経た上で菅直人首相の「裁定」で27日中に決着させる方向になった。

 意見書は、政府・与党の成案決定会合(議長・首相)が17日に提示した最終案のうち、消費税について「2015(平成27)年度までに段階的に10%まで引き上げる」とするのを「2010年代半ばごろまでに」と時期を曖昧にした形で修正を求める内容。

 24日の総会では、消費税率引き上げを容認する意見も出て、仙谷氏はこのまま会長一任を取り付けることも検討した。しかし、小沢鋭仁会長代理や玄葉光一郎政調会長が「丁寧に議論をしたい」と慎重な対応を求め、調査会の結論を27日に先送りした。

 玄葉氏は総会で「党内の意見を吸収するプロセスは大事だ。ただ、最後は逃げずに決めることをしていかないといけない」と、消費税率引き上げは避けられないことを強調した。

 一方、与謝野馨経済財政担当相は同日の記者会見で、「基礎的財政収支(の赤字)を平成27年度に半減させ、社会保障制度の持続可能性を維持して多少の機能強化もやるのなら、27年度に10%にしないと、何もかもきちんとした場所に収まらない」と消費税率引き上げ時期の修正には応じられない考えを重ねて訴えた。

 午後には首相と官邸で会談、消費税率引き上げ時期を曖昧にしてはいけないとの方針で一致した。ただ首相は、党内情勢も見極めながら裁定を下す考えだ。


 続いて28日にアサヒ・コムに掲載されたロイターニュースから。

消費税引き上げ目標は堅持すべき=与謝野経財相
2011年6月28日11時15分

 [東京 28日 ロイター] 与謝野馨経済財政担当相は28日朝の閣議後会見で、市場での信認確保は民主党政権の大きな課題であり、2015年度までに消費税率を10%へ段階的に引き上げる目標は堅持すべきとの考えを示した。

 与謝野担当相は、政府が社会保障の改革案で消費税の引き上げ時期を「15年度までに」とした理由として、政府が15年度までに基礎的財政収支の赤字幅半減を定めていること、民主党の調査会が社会保障の持続可能性確保と財政健全化を同時達成する考えを示していること、国際会議で菅直人首相や閣僚が「半ば国際公約のように」財政再建に言及してきたことなどを列挙。「累増する国債は現在のところ長期金利の高騰をもたらしていないが、この種の問題は突然沸点がきて、フェーズが転移する可能性がある」ことにも言及し、「政府や日本国債に対する国際的な、あるいは市場での信認を確保することは、国民生活・経済を守るうえで、民主党政権が直面する大きな課題。15年度という確定した数字は堅持すべきだし、5%アップという数字も堅持しないといけない」と決意を示した。

 さらに与謝野担当相は、一体改革をめぐる民主党と自民・公明党との三党合意にも再び言及。合意文書の中で「明確にと言っている。野党との約束の中で、明確性という条件を満足させるには、増税が完了する時期、増税幅ははっきり政策決定しないといけない」とも述べた。

 その上で、月内に政府の改革案を決定するのは「閣議決定でそうなっている。閣僚として決定を守るために頑張っている」として、閣議決定を目指す考えを改めて示した。

 民主党が27日に開催した社会保障と税の抜本改革調査会では、政府案に再び異論が続出。結論を先送りするとともに、政府に改革案の一部修正を求めた。与謝野担当相は「党の最終意見があればそれに対する答えが出せるが、次から次へと考えが出てくると対応できない」と発言。「この点はと意見を出してもらえたら、それに答える」姿勢は示したが「野田(佳彦)財務相も私も、法的整備には明確性を要求されるとの立場。その部分は極めて堅い」と述べ、15年度までに10%とする消費税引き上げ目標の修正は難しいとの考えを示した。
(ロイターニュース 基太村真司;編集 吉瀬邦彦)


 与謝野が主張するように平成27(2015)年度までに10%に引き上げるとの目標が維持されるのか、予断を許さない。
 だが、ここまでこぎつけたことに与謝野の存在が大きく影響しているのは疑いようがない。
 仮に消費税引き上げの時期が修正されたとしても、民主党の経済政策は今後この方向で進むのだろうし、それは自民党も無視できないだろう。
 阿比留が何をもって与謝野は「何もできない」などと考えていたのか、私は理解に苦しむ。

 与謝野の『堂々たる政治』を読み返すと、確かに、阿比留の記事内での引用部分に続けて、

 政治は必ずしも道徳とか不道徳とかいった観点からのみでは語れないものである。だから、私は政治的人間を否定するつもりはない。しかし、政治的人間が必ずしも素晴らしい政治家となるわけではない。(p.126)


とある。
 そして与謝野はこう続けている。

 それでは、政治家にとって一番大切なのは何か。
 それは、肝心なときにものを言い、肝心なときに行動することである。清潔であることでもないし、演説がうまいことでもない。そういう些末なことではなく、良い世の中を後の世代に残そうという理想の下で、肝心なときにものを言い、行動すること。(同)


 それが、この章のタイトルである「政治家の王道」だと言うのだろう。
 続いて与謝野は、次のようにも述べている。

 私は、「どうして日本はあんなばかな戦争をやったのか」と考えることがある。そこで一つ思い至るのは、昭和10年代の政治家というのは、ほとんどイメージが残っていないということだ。ほんのわずかな例外を除けば、政治家が肝心なときに何の発言も、行動もしていない。その当時の政治家がお粗末だった証拠だ。(同)


 選挙で受かってきている人間だから、多少は有権者との関係も心地よいものにしておかなければいけないが、それでも人気取りに流れて肝心なことを言わないというのは、政治家としては「下の下」だと私は確信している。
 その点、最近の政治家は、人気取りに流れ過ぎている。時の流れに乗って行動するのではなく、基本的に自分の頭で物事を判断し、逆に国民の皆様に理解していただく努力を続けていくことが大事だ。(p.127)
 

 与謝野はこうした彼のかねてからの信念に基づいて行動しており、またそれは一定の成果を上げているのであって、決して「大間違い」など犯していないと私は思う。

 私は産経新聞をほとんど読まないので、阿比留がふだんどんな政治記事を書いているのかよく知らないのだが、このブログの記事を読む限り、阿比留は「菅憎し」あるいは「菅嫌い」の念に駆られるあまりに、客観的な菅政権の評価を見失っている(あるいは、意図的に見ないようにしている)ように、「岡目」からは感じられた。

 さらに言えば、「頭がいい上に勉強を積んで普段からよく物事を考えているため、一つの結論を得るとそれ以外の物の見方ができなくなる」のも、実は阿比留自身に当てはまることかもしれない(早大政経出身でありながら「薄らぼんやりで浅学非才」などとよく言えるものだ)。


(関連拙記事 与謝野馨の不可解