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海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(新潮新書、2010)

2011-01-16 16:49:47 | 現代日本政治
 昨年12月4日の朝日新聞夕刊の2面に、海部俊樹元首相が出版した回顧録『政治とカネ』についての記事が載っていた。

 昨年の総選挙の愛知9区で落選し、政界を引退した自民党の海部俊樹元首相(79)が回顧録「政治とカネ」を出版した。「札束は300万円積んで初めて(横に)立つ」「デパートの紙袋に入るのはせいぜい2億円」などと、自民党総裁選や野党工作の生々しい体験をつづっている。(伊藤智章)

 海部氏は名古屋市の写真館に生まれ、1960年から衆院議員。冷戦終結の89年から2年、首相を務めた。

 自民党では三木武夫氏や後継の河本敏夫氏の派閥に属し、クリーンな政治を唱えたが、三木氏が田中角栄氏に敗れた72年の党総裁選などで、同僚議員らに対し、「金の運び屋」も経験した。

 当時は国会が紛糾し、審議に応じずに「寝る」野党に対し、「寝起こし賃」も配った。

 「表ざたになったらどう思われるか」。そんな悔いから金のかからない政治への改革をめざした。ただ、自民党が他党と連立する時も金が動いたといい、「金権政治を批判してきた者が、金の力で連立してしまう。政界は魔界」。

 いまも金の話題に独特の反応をする。小沢一郎元民主党代表の資金管理団体をめぐる事件で、秘書が「(4億円を)紙袋で受け取った」と供述した、というニュースを聞き、すぐ考えたのは、「何袋だろう」。デパートの紙袋は2億円の札束が入るが、片手で運ぶならせいぜい1億円、と知っていたからだ。

 剛腕小沢氏に振り回された思い出話からは、「甘すぎた」という海部氏の人柄も浮かぶ。海部首相を指し、自民党幹事長の小沢氏が「担ぐみこしは、軽くてパーなヤツが一番いい」と言った、と報道された件では、さすがに小沢氏本人に問いただした。「言ってない。記者を呼びつけよう」と否定され、「記者が認めるわけがない」と矛を収めたという。

 昨年の落選後も東京の事務所を維持し、講演活動などを続けている。新潮社刊。税別680円。


 そういえば新聞広告で見た覚えがある。
 この本の出版は11月だったはずである。何故12月4日になってこんな記事が出たのだろうか。いつでも使えるような穴埋め記事だったのだろうか。

 小沢に問いただしたとは、いやはや。「オマエ、俺の悪口を言ったそうだな」と、普通問いただせるものだろうか。ましてやそれを公言するとは。
 「甘すぎた」というよりは、単なる小人物ではないのか。

 タイトルが『政治とカネ』というのも何だかなあ。別に政治とカネの話を中心に書かれているわけではないだろう。
 昨今の政治課題の流行語をそのままタイトルに利用したのだろうが、元首相の回顧録にしてはさみしい感じがする。

 私は海部俊樹本人にはほとんど興味はない。ただ、首相辞任後の彼の軌跡にはやや興味がある。
 政治改革推進議員連盟の会長として選挙制度改革に邁進したこと、小沢らに担がれて村山富市の対抗馬として首相選挙に立候補し敗れたこと、続いて小沢らと共に新進党を結成し初代党首を務めたこと、新進党解党後、小沢の自由党に加わるも連立解消に伴い保守党に移って小沢と訣別し、自民党に復党したこと。
 小沢に振り回されたといっても過言ではない後半生だと思うが、そうした動きの中で、彼は何を考えていたのか。はたまた、何も考えておらず、ただ状況に流されるだけだったのか。また、現時点でそれらを振り返ってどう思っているのか。
 そうしたことが書かれているなら知りたいと思い、購入して読んでみた。

 結果、さして得るものはなかった。ただ、海部の小人物ぶりのみが印象に残った。
 ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争、ソ連の解体といった激動期に、こうした人物が首相を務めていたのは、わが国にとって不幸なことだったと思う。
 その責任は本人のみならず、彼を首相に担いだ竹下登や、それを支持した当時の自民党議員にも当然あるだろう。
 私が期待していた自民党離党後の記述も薄かった。

 気になった点をいくつか書き留めておく。


○政治観

 竹下派に担がれて首相の座についた海部だったが、その点については十分な自覚と、単なる傀儡では終わらない自信があったようだ。

《私には「権力の二重構造」を、ある程度乗り越えられる自信もあった。私は、それまでに、議院運営委員長や国会対策委員長を務め、政治の難しさや厳しさを肌で学んでいた。どうしても通したい政策は、朝一番に寝込みを襲い、「頼む!」と誠心誠意頭を下げれば、余程のことがない限り相手だって「ノー」とは言わない。いざとなったら、竹下派の寝込みを襲えばいい。》(p.27)

 議運や国対の委員長というのは、この程度の手法でつとまるものなのか?
 若手の熱血サラリーマンじゃあるまいに。

 もちろん、「どうしても通したい政策」であったはずの政治改革関連法案は、こんなことで通せるはずもなかった。


○政治とカネ

 1972年の総裁選で三木武夫が敗れ、海部は男泣きに泣いたという。その姿がテレビ中継されて支持が上がったという。

《この涙は、負けて悔しくて流したわけじゃない。クリーンと謳われた三木さんだって、実際には各派にカネを配った。使い走りをしたひとりがこの私で、何人もの議員が、私から金を受け取った。受領した人々が約束を守っていれば、三木氏の票はもっと伸びたはずだ。
 それなのに、彼らは裏切った。他派からもっと高額を受け取ったのだ。〔中略〕私の涙は、「国のトップを決める選挙で、こんなことをやっていたらどうしようもない」という、なんとも寒々とした心情から溢れ出たものだった。》(p.44-45)

 金を受け取っておきながら、約束どおり投票しなかったというのなら、それはいわば契約不履行だから、(票を金で買うという行為の是非は別として)非難されて当然だ。
 しかし、金を受け取った者が、より高額の金を提供してきた者に鞍替えしたというのなら、それは票を金で買うという原理には忠実に従っているにすぎない。自分の票をより高く売りつけるのに成功したにすぎない。
 これは別に「裏切り」ではないだろう。


○皇室観

 p.108に

《九〇年一一月一二日に行われた平成天皇即位の礼は、》

との記述がある。
 「平成天皇」とは何だろうか。何故「今上天皇」と書かない?
 明治以降の一世一元制で、明治、大正、昭和と、いずれも元号が天皇の諡(おくりな)に用いられている。だから今上天皇もおそらくは没後「平成天皇」と呼ばれることになるのだろう。
 だが、それはあくまで没後のことである。現在の天皇に対しては当然「今上天皇」と呼ぶべきである。
 生存中の人物を没後の諡と想定されるもので呼ぶことは、単に誤っているだけではなく、失礼であろう。
(なお、p.155では「今上天皇即位の礼」と書かれている)


 即位の礼に際し、海部は宮内庁からは衣冠束帯の着用を要望されたが、これを拒否して燕尾服で臨んだとある。
 宮内庁の言い分は、昭和天皇即位の礼に際して、田中義一首相夫妻は衣冠束帯と十二単で臨んだからだというのだが、

《いくらなんでも、この時代に衣冠束帯では、天下の物笑いになってしまう》

として、断固として断ったのだという。
 しかし、本当に物笑いの種になったのだろうか。わが国の伝統を内外に示す良い機会だったのではないか。

 むしろ、それに続けて書かれている、

《天皇陛下と皇后陛下に向かって万歳三唱をした時も、それまでのように玉砂利の敷かれた地面からではなく、おふたりと同じ高さの床上からさせていただいた。主権在民を、しっかりと国の内外に示しておきたかった。》(p.108-109)

という感覚が、そうさせたのではないだろうか。
 海部は1931年生まれ。いわゆる戦後民主主義が声高に語られていた時期に青年期を過ごしている。
 しかし、主権在民とは、果たしてそのように表現されるべきものなのだろうか。
 国家の象徴たる人物に対して、国民の代表が一段下がって対応することは、主権在民と何ら矛盾しないのではないか。

 だからといって海部が天皇や皇室を嫌っていたわけではもちろんない。1993年の細川内閣の時代に両陛下が訪欧した際、首席随員を務めたことを誇らしげに記している。


○小人物

《宮澤喜一氏という政治家は、キャリアもあるし勉強も抜群にできるが、物を斜めに見る傾向がある。私が首相就任後、活字になった中で最も不快だったのが、氏のこんな発言だ。
「海部さんは、一生懸命おやりになっているけれど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」
 小馬鹿にするとはこのことで、これには普段温厚な私も頭に血が上った。しかし、ここでカッカしたら元も子もない。飲み込み、腹に収めて、翌日には何も残してはいけない、と自らを戒めた。》(p.28)

 その割には20年前のことをよく覚えているものだなあ。


 トレードマークの水玉ネクタイについて、その由来を説明した後、

《(地元愛知万博推進議連の会長を務めていた間は、水玉をやめて、万博のキャラクター・モリゾーとキッコロが刺繍されたネクタイで過ごした。その間に選挙も一回あったが、このときだけはモリゾーとキッコロのネクタイを着け、万博推進議連会長としての責任を果たした)。》(p.47)

とカッコ書きで記している。
 細かいことだ。

 選挙期間に万博キャラのネクタイをするというのは、万博の政治利用ではないのか?


「軽くてパー」発言について、小沢から、書いた記者を呼びつけましょうと言われて。

《もちろん、私はそんなことはしなかったし、要は、首相と幹事長の間柄として、腹に溜めたままにしておきたくなかっただけのことだ。真相はどうでもいい。上に立つ者は、それくらいは飲み込んでしまわないといけない。》(p.101-102)

 ここでも「飲み込」んだと。
 飲み込んだのなら、後からゴチャゴチャ言うべきではないだろう。
 というか、呼びつけましょうと開き直られて飲み込むぐらいなら、最初から口にすべきことではないだろう。


《「海部首相は猿、小沢幹事長は猿回し」といった構図の風刺画が、一度ならず新聞に掲載されたものだ。馬鹿馬鹿しくて腹も立たなかったが、実際の小沢氏は、総理の指令に存外素直にしたがう人だった。》(p.102)

 これも、腹も立たなかったにしては、よく覚えているものだなあ。


《「最後は、総理が決めることですからけっこうです。わかりました、そうしましょう」
 そう言った時の彼は馬力もあるし、上司の私にとっては、使い勝手の良い頼りがいのある部下だった。》(同)

 つい本音が出てしまったのだろうか。
 上司が部下を頼ってどうする(笑)

 具体的にどういうテーマについて、小沢が自説に固執せずに海部の指示に従っていたのかも、明らかにしていただきたいものだ。
 重要でないテーマなら、首相の顔を立てて、そうしたことも有り得るだろうから。


○自慢話

 組閣に当たって宮澤喜一から出された閣僚候補には加藤紘一の名があったが、リクルート絡みで潔白ではなかったという。

《私が、その旨を伝えお断りすると、宮澤氏は、
「宏池会を、むげにされるおつもりですか」
と、例によって斜めに構えた口調で答えた。
 最初の人事こそはしっかりと〝身体検査〟をして、理路整然と国民の誰もが納得できるものでないといけない。たとえ、人間関係がぎくしゃくしようと、ここは自分の信念を貫くしかない。四の五の言う輩には、
「今、我が党はどん底だ。急務は政治改革。ここでリクルート議員を入れたのでは、世間から総スカンを喰う。我々は、選挙に勝たなきゃならんのです!」
 と、断固たる態度を見せ、引き下がってもらった。》(p.91)

 しかし、宮澤に対して「断固たる態度を見せ」たとは書かれていないのが妙。


 安倍晋太郎からは、森喜朗を入閣させないでもらいたいという依頼があったという。

《森君も早大雄弁会の後輩で親しくしていたし、私も頼まれて彼の地元に演説に出向いたこともある。私は、入閣候補として七分通り決めていたが、「森君、悪いけど勘弁してくれ、安倍さんの頼みは断れない」と心の中で手を合わせた。》(p.99)



 ゴルバチョフとの会談で、ソ連首脳として初めて4島を明記した共同声明に署名させたとある。

 サッチャーの回顧録で、自分が誉められていてうれしかったそうだ。

 秋篠宮は、紀子様と一日も早く結ばれることを願っていたようだが、海部が結婚を昭和天皇の喪明けにするように宮内庁に進言したという。


○「重大な決意」

 政治改革関連法案が廃案になったあたりの筆致は激しい。やはり、強い思い入れがあるのだろう。
 そして、首相辞任のきっかけとなった「重大な決意」発言について。

《私は、党四役らを官邸に呼び緊急会議を開いた。この会議で私は、「重大な決心で臨む」「重大な気持ちでやっていく」といった内容の発言をした。それが会議後、ある人の口を通じて、「重大な決意」という言葉に置き換えられて全国に報道された。首相の「重大な決意」といえば、解散あるいは総辞職を示す。
 断言するが、私はこの時、「重大な決意」とは一度たりとも言っていない。「重大な決意」は、最後の最後に使うべき言葉であることを、三木内閣の官房副長官として、解散にまつわる顛末を見届けた私は重々承知していた。解散の札は、最終局面まで残して置かなければならない。それなのに、解散を欲する政治家が、訳知り顔に勇み足で「重大な決意」と記者に伝えてしまったのだ。〔中略〕
 私の真意は、解散ではなく、最低目標の「継続審議と、衆議院議長のもと与野党協議機関を設立すること」を実現させることにあった。》(p.149)

 この「解散を欲する政治家」が誰かも知っているが、その名は今でも明かせないという。

 しかし、「重大な決心」「重大な気持ち」であったとしても、このタイミングでそのような発言をしたとすれば、それは解散か総辞職と理解されて当然なのではないか。
 発した語句が「決意」であったのか「決心」「気持ち」であったのかなど、些末な事柄ではないか。

 そして、その翌日開かれた与野党国対委員長会談で、継続審議と与野党協議機関の設立が拒否されたため、海部は解散に打って出るほかないと考えたという。
 だったら、結局「重大な決意」をしたのと変わらないのではないか。

 海部が何をこだわっているのか、私にはよくわからない。


○辞任へ

 解散を決意した海部は、その日のうちに金丸信と竹下に連絡し、了解を取ったのだという。
 そして、解散に向けて事務的手続を作業を進めた。

 10月4日、海部は解散を決めるための閣議を招集した。同意しない閣僚は罷免し自分が兼任する決意も固めていた。しかしその1時間ほど前、竹下派が緊急幹部会を開くとの情報が橋本龍太郎蔵相から入った。
 閣議開始15分前、海部は金丸に電話を入れた。金丸は「解散はダメだ」と告げたという。
 海部はそれでも解散を強行すべきか懊悩したが、政治の師であった三木武夫が首相時代に発した「わしは、独裁者じゃないからな」という言葉が脳裏に浮かび、解散を思いとどまったという。

 三木のこのエピソードは、本書で詳しく語られている。
「三木おろし」の最中、三木は閣議で解散を諮ったが、閣僚達の強固な反対を受け、内閣改造にとどめた。海部はこの時国会対策委員長を務めていた。
 閣議前の打ち合わせでは、三木が反対閣僚全員を罷免し、臨時内閣を作る方針だった。それ故、閣僚15人分の辞任届さえ整えて待機していたのだという。抗議する海部に三木はこう言ったという。
「わしは、独裁者じゃないからな。『議会の子』である以上、民主主義のルールは守らなければいかん」

 解散権は内閣にある。そして閣僚の任免権は首相にあり、首相は他の閣僚を兼任することもできる。従って実質的には解散権は首相の手にあると言える。
 だから、反対閣僚を罷免してでも解散を強行することが独裁だとは私は思わない。「民主主義のルール」である憲法がそれを許しているのだし、解散は民意を改めて問い直すことでもあるのだから。
 ただ、そうした手法を敢えて選択しないのも、それはそれで一つの見識だろう。

 しかし、三木は、解散を閣議に諮った上で反対され、断念したのだ。
 海部は、閣議に諮るまでもなく、金丸の鶴の一声を受けて、早々に断念してしまった。
 金丸は、当時自民党の副総裁であり、党の最高実力者と目されていたが、閣僚でも何でもない。制度上は、彼に解散を云々する権利はないのだ。
 もちろん、主要派閥が政治改革関連法案に反対の姿勢を示している中、閣僚が容易に解散を支持したとは思えない。
 しかし、三木は最後まで手を尽くした上で、解散を思いとどまった。海部は、金丸の一喝を受けて、勝ち目はないと判断してシッポを巻いた。
 この違いは大きい。
 情勢がそうさせたとは言え、それまでの実力から乞われて首相になった者と、単にみこしとして担がれた者の違いでもあろう。


○雑

 海部内閣で官房長官に就任した山下徳夫は早々に女性スキャンダルで失脚した。宇野宗佑前首相に引き続き自民党のイメージダウンとなった。

《とにかくあっちもこっちも女性スキャンダルだったので、私自身は細心の上にも細心の注意を払った。だから、どんなチャンスがあっても我慢のし通しで、本当に人生を狭くしたようなものだ。》(p.97-98)


 細川護熙首相が佐川急便の問題で退陣した件について。

《それにしても、細川氏は名家の出だというのに、随分と品のない金を握ったものだ》(p.163)


 村山富市が自社さ政権の首相候補となった件について。

《第一、村山富市氏は長い間国対委員長を務めていたが、約束は破る、八百長はする、本会議はめちゃくちゃにする、といった許し難い人物だった。》(p.164)


 1991年に訪韓して。

《当時は、在日韓国人の指紋押捺問題があったが、私は常々、自分が彼らの立場だったら不愉快だろうと感じていた。そこで、韓国から帰国後、指紋押捺制度を廃止したところ、盧大統領は「大きな前進」と大変喜んでくれた。》(p.128-129)

 そりゃあ不愉快かもしれないが、外国籍でありながら在日するためのコストではないのか。
 彼の国家観はこの程度のものなのだろう。


○疑問点

 宇野の後任の首相に担がれた際に、河野洋平と橋本龍太郎を推す声もあり、3人で会談する機会をもったという。その際、

《また、ふたりとも「残念ながら女性問題がある」と告白した。何しろ、宇野スキャンダル直後である。これはまずい。特に、橋本氏は、中国の公安関係の女性と関係があると報道されていた。国防に関わることだけに、慎重を期さねばならなかった。》(p.23)

とあるが、橋本についてこの種の報道がなされたのはもっと後のことではなかったか。


 1991年8月のソ連でのクーデターの際、クレムリンに電話を入れたが、ゴルバチョフとは話せなかったという。

《代わりにハズブラートフ議長が対応した。私は「大統領とは約束したことがある」と迫ったが、議長は、「その件は、責任を持って我々が引き継ぐ」と答えるのみだった。》(p.130)

とあるが、ハズブラートフは、ソ連を構成していたロシア共和国の最高会議議長を務めた人物であり、クーデターには加わっていないはずである。
 当時ソ連最高会議議長でありクーデターの黒幕と目されたアナトリー・ルキヤノフと混同しているのではないだろうか。
 回顧録と銘打つからには、しっかりしてもらいたい。



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