2日の党代議士会での発言にもかかわらず、菅首相が早期退陣を否定しているとして、鳩山由紀夫が強く批判しているという。
3日の朝日新聞夕刊は、次のような鳩山の発言を報じている。
こちらのアサヒ・コムの記事では、「突然言葉をひっくり返すなら、不信任案に賛成しておくべきだったと思う」とまで述べたとされている。
しかし、2日の代議士会後、不信任案採決前の段階で、岡田幹事長は次のように述べているのである。
日本経済新聞のサイトから。
衆議院本会議が始まったのはこの報道から少し後の13時32分。
したがって、否決されてから、復興基本法の成立と2次補正予算編成の2点は退陣の条件ではないなどと言い出したのではない。菅首相や岡田幹事長としては、最初からその腹づもりだったのである。
党代議士会での菅首相の発言にも、そんな文言はない。
もっとも、鳩山に、そう思わせるだけの口頭でのやりとりがあったのかもしれない。菅や岡田が敢えてそう仕向けたのかもしれない。
しかし、口頭でどういうやりとりが交わされたのか、それは当事者にしかわからない。残るのは、確認事項とされる文書だけである。鳩山もそれを見ているはずである。
それにその場で異議を唱えるわけでもなく、口約束だけで不信任反対に転じ、しかも、後から「賛成しておくべきだった」とは……。
本気でやっているのだとすれば、あまりにも子供じみている。これが大政党の前党首の対応だろうか。
私はかつて鳩山の首相投げ出しを批判したが、こんな人物が首相職に長くとどまらないで良かったと思い直した。
今回の一件で、由起夫の祖父、鳩山一郎と吉田茂の次のような逸話を思い出したのは私一人ではないだろう。
1946年4月10日、戦後初めての総選挙が行われ、鳩山一郎を総裁とする自由党が第1党となり(議席数は4分の1強)、幣原首相は鳩山を次期首相に奏請した〔注〕。しかし5月4日、GHQは戦前の言動などを理由に鳩山を公職追放し、組閣は頓挫した。自由党内では後継総裁に幣原内閣の吉田茂外相を担ぐ声が高まり、鳩山は吉田を訪ねて後任を依頼した。吉田は鳩山に3つの条件を出した。1.金作りはしない、2.鳩山は組閣に口出ししない、3.嫌になったらいつでも投げ出す。鳩山はそれを了承し、5月16日吉田に組閣の大命が降下し、22日第1次吉田内閣が成立した(吉田の自由党と幣原の進歩党による連立内閣)。
ところがここに、鳩山が追放解除になった暁には、政権を鳩山に引き渡すという4つめの条件があったという。吉田はこれを否定しているが、巷間広く伝えられている説だ。おそらくはこれも単なる口約束だったのだろう。あるいはそれすらもなく、鳩山(ないしその周辺)がそう信じるだけの曖昧な何かがあったという程度のことかもしれない。
1951年8月6日、鳩山は追放解除となったが、それに先立つ6月に脳溢血で倒れていた。吉田が鳩山に政権を返上することはなかった。
血は争えないということか。
もっとも、鳩山一郎は自由党に復帰したもののやがて離党し、反吉田の保守勢力を糾合した日本民主党を率い、左右両社会党と組んで内閣不信任案提出の構えを見せ、ついに第5次吉田内閣を総辞職させ政権を奪い返したのだが。
それにしても「ペテン師まがい」「人間の基本にもとる行為」とは……。
「最低でも県外」をはじめ、アナタが口にして実行できなかったことはいくらでもあるはずだが。
また、政権維持のために小沢幹事長ととともに首相を辞任したはずのアナタが、わずか数か月後の党代表選で小沢を支持し、今また小沢と組んで倒閣にいそしんでいることや、政界引退を撤回したことなども、国民は忘れてはいまい。
アナタに菅を批判する資格があるとは、誰も思うまい。
〔注〕当時はまだ旧憲法の時代であり、首相は衆議院が指名するのではなく、元老や内大臣などの奏請に基づいて天皇が組閣を命じるものだった(命じられたものの組閣に失敗するケースもまれにあった)。しかし既に元老も内大臣も存在せず、立場上、辞任を前にした幣原首相が次期首相を奏請することとなった。
3日の朝日新聞夕刊は、次のような鳩山の発言を報じている。
鳩山由紀夫前首相が3日午前、東京都内で記者団に語った発言(要旨)は次の通り。
昨日は内閣不信任案が可決する勢いだった。野党の力で辞任させられるよりは自身の意思で辞任表明してもらいたいと考え、首相官邸に行った。復興基本法(成立)と2次補正予算編成のめどが立ったらお引き取りいただく。首相は「それで結構」ということだった。政治家同士だから、約束したことを守るのは当たり前だ。できなかったらペテン師だ。二つの確認事項が守られたら辞任するということが2人の確認だ。
――退陣しなかったらどうするか。
不信任案が可決されそうな時は辞めるといい、否決されたら辞めないという。こんなペテン師まがいのことを総理がしてはいけない。人間の基本にもとる行為をするなら、党の規則で辞めてもらうよう導いていかないといけない。
――両院議員総会で代表辞任を求めるのか。
そうだ。
こちらのアサヒ・コムの記事では、「突然言葉をひっくり返すなら、不信任案に賛成しておくべきだったと思う」とまで述べたとされている。
しかし、2日の代議士会後、不信任案採決前の段階で、岡田幹事長は次のように述べているのである。
日本経済新聞のサイトから。
民主幹事長「復興法案と2次補正、退陣条件ではない」
2011/6/2 13:24
民主党の岡田克也幹事長は2日の代議士会後、記者団に菅直人首相の退陣表明に関して「復興のめどがついたらという首相の言葉通りだ。(鳩山由紀夫前首相が指摘した)復興基本法案の成立と第2次補正予算の早期編成のめどというのは(退陣の)条件とはなっていない。こういう事が大事だと文書には書いてある」と述べた。
衆議院本会議が始まったのはこの報道から少し後の13時32分。
したがって、否決されてから、復興基本法の成立と2次補正予算編成の2点は退陣の条件ではないなどと言い出したのではない。菅首相や岡田幹事長としては、最初からその腹づもりだったのである。
党代議士会での菅首相の発言にも、そんな文言はない。
もっとも、鳩山に、そう思わせるだけの口頭でのやりとりがあったのかもしれない。菅や岡田が敢えてそう仕向けたのかもしれない。
しかし、口頭でどういうやりとりが交わされたのか、それは当事者にしかわからない。残るのは、確認事項とされる文書だけである。鳩山もそれを見ているはずである。
それにその場で異議を唱えるわけでもなく、口約束だけで不信任反対に転じ、しかも、後から「賛成しておくべきだった」とは……。
本気でやっているのだとすれば、あまりにも子供じみている。これが大政党の前党首の対応だろうか。
私はかつて鳩山の首相投げ出しを批判したが、こんな人物が首相職に長くとどまらないで良かったと思い直した。
今回の一件で、由起夫の祖父、鳩山一郎と吉田茂の次のような逸話を思い出したのは私一人ではないだろう。
1946年4月10日、戦後初めての総選挙が行われ、鳩山一郎を総裁とする自由党が第1党となり(議席数は4分の1強)、幣原首相は鳩山を次期首相に奏請した〔注〕。しかし5月4日、GHQは戦前の言動などを理由に鳩山を公職追放し、組閣は頓挫した。自由党内では後継総裁に幣原内閣の吉田茂外相を担ぐ声が高まり、鳩山は吉田を訪ねて後任を依頼した。吉田は鳩山に3つの条件を出した。1.金作りはしない、2.鳩山は組閣に口出ししない、3.嫌になったらいつでも投げ出す。鳩山はそれを了承し、5月16日吉田に組閣の大命が降下し、22日第1次吉田内閣が成立した(吉田の自由党と幣原の進歩党による連立内閣)。
ところがここに、鳩山が追放解除になった暁には、政権を鳩山に引き渡すという4つめの条件があったという。吉田はこれを否定しているが、巷間広く伝えられている説だ。おそらくはこれも単なる口約束だったのだろう。あるいはそれすらもなく、鳩山(ないしその周辺)がそう信じるだけの曖昧な何かがあったという程度のことかもしれない。
1951年8月6日、鳩山は追放解除となったが、それに先立つ6月に脳溢血で倒れていた。吉田が鳩山に政権を返上することはなかった。
血は争えないということか。
もっとも、鳩山一郎は自由党に復帰したもののやがて離党し、反吉田の保守勢力を糾合した日本民主党を率い、左右両社会党と組んで内閣不信任案提出の構えを見せ、ついに第5次吉田内閣を総辞職させ政権を奪い返したのだが。
それにしても「ペテン師まがい」「人間の基本にもとる行為」とは……。
「最低でも県外」をはじめ、アナタが口にして実行できなかったことはいくらでもあるはずだが。
また、政権維持のために小沢幹事長ととともに首相を辞任したはずのアナタが、わずか数か月後の党代表選で小沢を支持し、今また小沢と組んで倒閣にいそしんでいることや、政界引退を撤回したことなども、国民は忘れてはいまい。
アナタに菅を批判する資格があるとは、誰も思うまい。
〔注〕当時はまだ旧憲法の時代であり、首相は衆議院が指名するのではなく、元老や内大臣などの奏請に基づいて天皇が組閣を命じるものだった(命じられたものの組閣に失敗するケースもまれにあった)。しかし既に元老も内大臣も存在せず、立場上、辞任を前にした幣原首相が次期首相を奏請することとなった。