トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

「タカ派の跳梁とハト派の衰退」――早野透の不思議な政治観

2013-01-04 00:26:22 | 珍妙な人々
 先月、朝日新聞デジタルに掲載されていた元編集委員の早野透(現・桜美林大学教授)のコラム「〈新ポリティカにっぽん〉民主「最強の57人」に重責」を読んだ。

《民主党のあぶくのような「その他大勢」が削ぎ落とされて、「最強の57人」で再出発するのは、それはそれでいいことかもしれない。》 

《自民・公明政権は、これからどう動くか。〔中略〕イケイケどんどんとなるかといえばそうではあるまい、〔中略〕外交内政きわめて慎重精妙にコトを運ぶはずである。》

といった見方には同感だが、最後の一節が何ともはや。

 今回の選挙の最大の特徴は、タカ派の跳梁(ちょうりょう)とハト派の衰退である。老舗のハト派勢力、共産党と社民党はまたしても後退した。新興ハト派とも目される日本未来の党も伸び悩んだ。自民党の加藤紘一氏のようなハト派の大物も落選した。民主党の菅直人氏は辛うじて比例復活で滑り込んだ。


 「タカ派の跳梁とハト派の衰退」とある。
 衰退の反対は発展、興隆、伸長、躍進などだろう。
 「跳梁」は跳ね回るという意味だが、悪いものがのさばり、はびこるという含意で用いられる。
 悪であるタカ派がはびこり、善であるハト派は衰退していると早野は見ているのだろう。両者を相対的に見ているのではない。
 新聞記者時代にはこうまで露骨な表現はなかったと思うが、退社したからなのか言いたい放題である。

 タカ派とは好戦主義者、ハト派とは平和主義者の意味だろう。軍事的な強硬派、穏健派と言ってもいい。
 しかし、タカ派は戦争を志向するから悪、ハト派は平和を志向するから善と、そう単純に割り切れるのか。
 ハト派のカーター米大統領の時代にソ連はアフガニスタンに侵攻し、タカ派のレーガン大統領はこれを撤退させ、冷戦を終結させたのではなかったか。
 ベトナム戦争から手を引き、中共との関係を正常化させたのもタカ派のニクソン大統領だった。
 ナチス・ドイツに対する英仏のいわゆる宥和政策はハト派的志向の産物だろうが、それが結果的にどういう事態を招いたか。

 ましてや、おそらく早野がタカ派と見るのであろう、尖閣諸島や竹島をめぐる強硬論は、自国領を守りたいという素朴な国民感情の表れであり、別に中国や韓国に攻め入ろうといった主張が展開されているわけではない。
 先の総選挙で改憲派が議員の8割だ、9割だと危機意識をあおる声もあるが、9条改正論の多くは、戦力の不保持を定めたまま自衛隊の存在を解釈改憲により容認してきた現状は不正常であり、これを憲法に明記すべきだというごく当然の感覚に基づくものにすぎない。
 自民党の改憲案は自衛隊を「国防軍」に改称するとしているが、これとて、事実上は軍以外の何物でもない実態に合わせて名称を改めようとするだけであり、自衛隊の性格や現憲法の平和主義を変更するものではない。
 こんなものが「タカ派の跳梁」に見える早野の偏向ぶりに呆れる。

 そんな早野が言う「ハト派の大物」、加藤紘一は、例えば昨年9月に尖閣問題で次のように述べている(以下、加藤の文は青字で示す)。

尖閣問題はつとめて冷静な対応を

 ナショナリズムは、扱い方を間違えると大ケガをします。そして領土問題には、妥協というものがありません。だからこそ、かつて1972年9月27日の第3回日中首脳会議において、田中角栄と周恩来は「しばらく尖閣諸島は放っておこう。将来、石油が必要なくなれば揉めることはない」と、棚上げすることに同意しましたし、‘78年には、小平が「次の世代に任せよう」と言ったのです。外交担当者のギリギリの知恵であったと思います。

いま、日中両国は引くに引けない状態になっています。その原因が、私は前原誠司元国交相にあると思っています。
2010年9月、尖閣周辺でカワハギが異常発生していました。日本では料亭で扱われる高級魚ですから、中国漁船が目の色を変えました。その漁船を、海上保安庁が公務執行妨害で逮捕しました。小泉政権時までは、ただ領海から追放していたケースでした。
この「逮捕」が、小平以来の「棚上げ」の約束違反だったのです。なぜなら、在宅起訴という略式裁判ではあっても、日本の国内法において裁かれ、日本の裁判所の書類にハンコを押してしまえば、その時点で日本の法律が及ぶ範囲であるということを認めることになるからです。おそらく、前原氏はそのことに考えが及ばなかったのでしょう。そうでなければ、司法に判断を託すはずがありません。
ここで「小平との約束は反故になった」と中国が判断しても仕方ありません。中国側の行動が激しさを増してきたのは、それ以降です。


 しかし、2010年9月、海上保安庁は中国漁船を領海侵犯や漁業法違反で逮捕したのではない。加藤が言うように公務執行妨害で逮捕したのだ。どのように妨害したのか。周知のとおり、漁船を海上保安庁の巡視船にぶつけて破損させたのだ。
 
 漁船がそのような行動をとらなければ、海上保安庁は小泉政権同様、領海から追放するだけで済ませていただろう。
 しかし、巡視船にぶつけられて、そのまま帰すわけにはいかない。 当然のことだ。
 したがって、非は中国漁船の側にある。

 こうした事実を全く無視して、わが国に船長の釈放を要求するばかりか、在中日本人の拘束やレアアースの禁輸といった報復措置をとった中国側の対応にも当時驚いたが、これを是認するがごときこの加藤の弁にはさらに驚いた。

 日中首脳会談にしても、田中角栄と周恩来は棚上げで同意などしていない。田中は尖閣諸島の問題を提起したが、周恩来に「今は話したくない」と制止され、それ以上話を進めることができなかったのだ。田中としては、尖閣は日本領であるとの明確な言質を取りたかった。しかし周に拒否された以上、実効支配しているわが国からそれ以上問題提起することはできなかった。棚上げを主張したのは中国であって、わが国がそれに同意したのではない。

 彼は、いったいどこの国の国会議員なのだろうか。これではまるで中国の代弁人ではないか。
 こんなものは、「ハト派」でも何でもない。単なる事なかれ主義でしかない。

日本人としては、もっと中国に対して毅然とした態度に出てほしいと思うのが自然でしょう。1年ほど前、愛知県で市民と対話する機会があり、そのようなご意見をたくさんお聞きしました。愛国心からの言葉だと思います。そのとき私は、こう聞きました。
「もし武力衝突になったとしたら、あなたは闘いに行きますか?」
それに対して「自分は行かないが、アメリカが行くでしょう。そのための日米安保じゃないですか」という意見が多く聞かれました。
しかし、日本人が自らの命を賭して闘わない地で、アメリカの青年が命を落とすわけがありません。このまま日中の関係が悪化して、尖閣の地で武力衝突という事態になったとき、果たして日本人はどのように闘うつもりでしょうか。

お互いに刺激し合わないよう、冷静な対応を ──。
私の意見は、これに尽きます。最近の中国は、ネットの世論に敏感です。外交的なバランスと、国内世論への対応とで苦労するのは、中国も日本も同じ。それでも、日中両政府が大人の対応をし、双方の国益のために事態の鎮静化が図られることを心から望んでいます。


 武力衝突は、避けるにこしたことはない。しかし、武力衝突を避けることと、武力衝突も辞さないという態度で臨むこととは異なる武力衝突を起こすことと、武力衝突も辞さないという態度で臨むこととは異なる。ギリギリのところで武力衝突を回避できるかもしれないが、場合によっては武力衝突もやむを得ないという姿勢で臨むべきだろう(そもそも相手方から武力行使される危険がある以上、それに備えておくのは当然のことだ)。はなから武力衝突という選択肢をあきらめてしまう必要はない。

 「自分は行かないが、アメリカが行く」という意見が多く聞かれたというのが事実なら、情けないと言うほかない。
 たしかに、日本人が命を賭して戦わないのに、米国が戦ってくれるはずはない。その限りで、加藤の言は正しい。
 だが、もし武力衝突になったとして戦うべきは、一市民ではなく、まずは自衛隊ではないのか。そのための自衛隊法であり、解釈改憲ではないのか。
 それを、「あなたは闘いに行きますか?」と尋ねるのは、原発の周辺に住んでもいないのに原発推進を語るなとか、米軍基地の周辺に住んでもいないのに日米安保を支持するなとか、死刑を自ら執行する気もないのに死刑制度維持に賛成するなといった、或る種の反論封じではないだろうか。
 政策の是非を、個人の利害だけで判断してはならないのではないだろうか。

 それに、「自分は行かないが、アメリカが行く」という情けない日本人を生み出したのは、自分の国は自分で守るという当然のことを敢えて国民の目からそらし続けてきた、加藤のようなハト派政治家ではないだろうか。

 この一事だけで加藤紘一という政治家を評価すべきでないのはもちろんだし、実際、それだけが落選の原因ではないだろう。
 だが、私が彼の選挙区の住民なら、この一事をもって、票を投じるに値しない人物だと考えるであろうこともまた事実だ。

 早野は、コラム冒頭で取り上げた辻元清美に期待を寄せて、このコラムを結んでいる。

 そうなると、政界全体を見渡せば、民主党の「最強の57人」がどう動くかが焦点になる。このなかにも潜在的タカ派が少なからずいるようである。であれば、社民党脱藩のハンディ、民主党逆風を生き残った辻元清美氏にはハト派リベラル勢力の結集軸として、女坂本龍馬のごとく走り回ってもらわねばなるまい。


 「潜在的タカ派」とは野田前首相や前原誠司、長島昭久らを指すのだろうか。私は、彼らは現実主義者とでも評すべきで、「タカ派」の語感は不似合いだと思うが。
 そして、誰に何を期待しようが個人の自由ではあるが、辻元は社民党の連立政権離脱後、野党であるだけでは日本を変えることはできない、「現実との格闘から逃げずに仕事を進めたい」として離党し、菅首相の補佐官を経て民主党に加わった人物である。

 その特異なパーソナリティで熱烈な支持者を確保できる人物ではあるのだろうが、「ハト派リベラル」といった理念に殉じるタイプでもなければ、主義主張のやや異なる様々な人物を口説いて結集し得るタイプでもないように思う。現に先の民主党代表選で目立った動きを見せたとは聞かない。
 私は彼女が明日民主党を離党すると言っても驚かないし、自民党や維新の会、あるいは生活の党に加わると言っても驚かない。彼女はそうした融通無碍なタイプであろうし、それは別に政治家として非難すべきことでもなく、政治家は結局のところ何をやったかで評価すべきであろうから。
 ただ、そんな彼女を「女坂本龍馬」に見立て得る早野の想像力にはほとほと感心する。

 私は結構長く朝日を購読しているが(中断していた時期もある)、この早野透と、若宮啓文(現主筆)の政治記事やコラムがたいへん不快だった。何をろくでもないこと書いてるんだろうかと思って筆者を確認すると大抵この二人だった。
 このようなメンタリティの持ち主が大新聞の政治面を牛耳ってきたことは、わが国にとって不幸であったとつくづく思う。



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10 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-01-04 17:35:31
>しかし、武力衝突を避けることと、武力衝突も辞さないという態度で臨むこととは異なる。

当たり前です
「武力衝突を避ける事」と「武力衝突も辞さないという態度で臨む事」とは実際に正反対の意味の文章ですから

文章の書き方が間違ってます
この意味合いでは
「実際に武力衝突を起こす事と、武力衝突も辞さないという態度で臨むこととは異なる」

「武力衝突を避ける事と、相手が武力衝突も辞さないという態度で臨んでも、抵抗する態度をとらないとは異なる」
かのどちらかでしょう






それはそうと、その意味だとして反論します

武力衝突を辞さない態度でいる限り
武力衝突はいつか必ず起きます
姿勢がそうなのですから当たり前です

問題なのは大勢の人(国民も相手の中国人も)が何を望んでいるかです
もしも平和であるなら、武力を使わずに解決するにはどうするかを一番の念頭において考えるべきです
その上で次に領土問題何かをどうするか
平和でいる事を後回しにする事は、平和をないがしろにするのと同じです
守り続けていてはじめて守られるもの
武力行使も辞さないと思った瞬間どういう未来に続いているか

現代日本人は交通ルール等見ても好戦的過ぎます
相手の、違反・ミスに対してはどこまでも、好戦的に振舞ったり、毅然とした態度を取ったりするんですよね
でも自分自身はどうかと言うと自分自身も相手に注意した違反やミスと同じ事をしている(でも気が付かないしいうと怒り出す)
もう少し一歩離れて見てみる事も重要かと思います
返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-04 17:50:51
下の文章ちょっと違いましたか

「相手が武力行使しても何もしないでただ武力衝突を嫌う事と、武力衝突を阻止する為に武力を持って威嚇する事とは異なる」


武力衝突を避ける事が大本の比較対象ですから
こうですね

どっちも武力衝突を避ける目的なので難しいですね




どちらにしろ、相手の行動を無抵抗で受け入れる事と
武力を持たない事とは違います
武力による威嚇または武力の行使は戒められていますが
その他の手段でそ守るべき物を守れと言う意味です
から、無抵抗とは違います
その他のあらゆる手段を用いて必死に守るべきものは守るべきだと思います
それこそ不断の努力を持って

それらの努力をさしてしないままに武力にすがる事こそ安易だと思います
返信する
Re:Unknown (深沢明人)
2013-01-05 17:59:20
>>しかし、武力衝突を避けることと、武力衝突も辞さないという態度で臨むこととは異なる。

>当たり前です
>「武力衝突を避ける事」と「武力衝突も辞さないという態度で臨む事」とは実際に正反対の意味の文章ですから

 たしかにおかしいですね。
 書き間違えてます。

 おっしゃるように、
「武力衝突を起こすことと、武力衝突も辞さないという態度で臨むこと」
と書くべきでした。
 記事本文を修正しました。ご指摘ありがとうございます。

 その上で、

>武力衝突を辞さない態度でいる限り
>武力衝突はいつか必ず起きます
>姿勢がそうなのですから当たり前です

とのあなたの反論については、記事本文で挙げた、レーガン大統領の対決姿勢が冷戦を終結させたことや、英仏の宥和政策がナチス・ドイツを増長させたといった事例をご考慮いただきたいと思います。キューバ危機なんかもそうですね。
 武力衝突を防ぐために、武力衝突も辞さないという態度で臨むことは、逆説的ですが、有効な場合もあります。
 もちろん、そうでないケースも多々あるわけですが。そこはうまくやらなければなりません。

>その他のあらゆる手段を用いて必死に守るべきものは守るべきだと思います
>それこそ不断の努力を持って

>それらの努力をさしてしないままに武力にすがる事こそ安易だと思います

 この点には同意します。武力一辺倒ではだめなのは当然です。
 しかし、武力という手段をはじめから放棄する必要もまたないと思います。

返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-06 19:30:57
返信ありがとうございます

お互いが武器を構える事で維持される戦争をしない状態は、お互いの武力の均衡や威嚇姿勢で得られた結果とされがちですが、武力の均衡や威嚇姿勢「だから」「によって」の結果ではないと思います

物事をある方向、ある結果に運びたい時に、必要なのは意思です

もしも仮に、安易にお互いが武装して、安易な気持ちで対峙し合ったら逆に開戦という結果になったと思います

お互いがそうする(したい)意思があってこその、その方向に進んだ
と考えるのが自然でしょう
戦争に発展するのも、終結するのもどちらにしろ

その武器を持って互いに威嚇しあうと言うのは、状態としてははたから見れば一触即発の状態です
一触即発の状態を作って安心、と言う方にこそ無理があります

むしろ、こう考えるべきだと思います
お互いが一触即発の状態なのに、最悪の事態は避けられて助かった




その武力衝突も辞さない事で保たれている平和とは
相手が、「その挑発に乗らない(だろう)」と言う前提があってはじめて成り立つ不安定なものです

その状態をいつまでも普遍的に続けられると言う保障はどこにも無いのです
それは逆に、何らかのきっかけでひとたび戦争にでもなればお互いがそれだけの武力を持ち合っているのですから悲惨な事になります

戦争は全て、武力行使も辞さないと言う態度が招いた結果の一つです
結果の一つというのは、にらみ合い続けてそれがずっとそのままかもしれないし、それが終結するかもしれないし、実際の武力行使に発展するかもしれない
と言う三つの結果のうちの一つです
ずっと戦争が起こらないと言うのも三つの結果のうちのただの一つに過ぎないのです

武力という選択を認めている限り常にその三つの結果の選択にさらされています
平和を得るにはお互いが武力をやめる以外無いのです
だから、この道だけを見て進むべきです
平和を得るにはそれを自ら能動的に得ようと努力し続けるしかないはずです

武力を持っていて戦争にならなかったと言うのは
「戦争にならないように」と言う意思をずっと続けた結果の賜物に他ならないと思います
それもどうするかを決定する者のさじ加減に左右されます
安易に手を出す事だって出来たのです
実際にかつて戦争をした国は手を出したという選択の結果です
そのさじ加減も気分しだいです
国民の世論がもしも戦争もやむなし、となったらその時こそ本当に戦争になります


平和とは、絶対に戦争を起こさないと言う強い意志があってはじめて維持できるものです

けして単に力がつりあってるから戦争にならないのではないのです

戦争は些細なきっかけで始まります
ここ最近起きた戦争を見たってそうです


そして現在の政府やそれを支持する国民等の武力の求め方は極めて危険な求め方です
平和を求めている、戦争が起きないよう願っている人たちの求め方で無い、好戦的な求め方です



現在自衛隊も米軍関係も国連も含め、日本を守る最低限の戦力はあります
これからすべき事は少しでも各国がお互いに武力を捨て去るように働きかける事です


武力を使うと言う選択肢を消す事で、相手からもその必要性は徐々にですが消えるはずです
それまでは必要なそれらの戦力は残すにしろ、積極的に武力を肯定したらいつか戦争になります
それこそちょっとした些細な事が原因で
道のちょっとした進み違いで起きます


武力を放棄する事と戦う事を放棄する事は違います
ただその戦いで命のやり取りに発展しかねない危険な要素を捨て去るだけです
相手にだって武力を捨ててもらいます
自分が武力を持つ事も相手が武力を持つ事も許さない姿勢をとる事です




何か書いているうちにごちゃごちゃになってしまいました、ごめんなさい
要するに、自分は武力を放棄します
その代り、相手も武力を放棄して下さいって事ですね
その上で揉め事と向き合いましょうよって事です
死ぬ死なないの問題以外で揉め事をどうにかした方が良いでしょう?
誰にとっても


何が一番大事かという事です
命以上に大事なものは無いはずです

返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-06 19:45:05
何度もごめんなさい
相手方から武力行使される危険がある以上する事は
「武力を持って迎え撃つ事」ではないはず

すべき事は「相手が武力行使しないようにする事」です

その中のひとつに武力で迎え撃つ姿勢と言うものが含まれると思うのですが
それは絶対ではないと言う事です
相手がそれでも武力を行使すれば殺し合いになります
対立関係にある以上一度それが破られればとても大変な事になります

ようは「相手が武力行使しないようにする事」が達成されればいいのですよね
原点に帰って考えましょう
お互いがお互いに武力を行使をしないで済むように
返信する
早野透と若宮敬文のトマト性 (T.tomo)
2013-01-07 19:36:20
私は「仮説」として日本の世論を動かしえる報道社(現在左翼的発信社)の中に安保闘争時に活動し検挙逃れた者のネットワークが存在すると考える。

検証…各社それぞれ別の活動のはずが数年~十年単位で「朝日」「毎日」「中日(東京)」其れに地方紙・週刊誌等を見れば、連携・連動と思われるキャンペーン(開始・方向性)などが観られる。

最近の例では、昨年末の選挙前~終了の数日後。一斉に始まり、ほゞ同時に終了、内容も自民及び維新(彼らには反動右翼)のイメージ低下の内容、ほゞこれに尽きる。(イメージすり替え・各種数字の調整)

「中日・東京」の副主幹は高校時に安保闘争参加と思わせる発言をしている。

彼らは一度「トマト思想」と成ればその路線を外れることなく、潜伏しネットワーク上で不変のトマト性を顕現させるべく活動の常態を示す。

以上、世論を煽り続ける報道各社の動向注視必要

返信する
Unknownさんへ (深沢明人)
2013-01-08 23:47:50
 何だか、往年の社会党の非武装中立論を想起してしまいました。

 矢内原忠雄も降伏直後に同趣旨のことを述べています。以前当ブログで紹介しました↓。

http://blog.goo.ne.jp/GB3616125/e/b3c22bff948b7e2cb2315a21cca2c8f9

 個人として非暴力主義に立たれるのは、その人の自由だと思いますし、私も否定しません。
 しかし、国家の指導者がそうであってはならないとも思います。

>その武力衝突も辞さない事で保たれている平和とは
>相手が、「その挑発に乗らない(だろう)」と言う前提があってはじめて成り立つ不安定なものです

>その状態をいつまでも普遍的に続けられると言う保障はどこにも無いのです
>それは逆に、何らかのきっかけでひとたび戦争にでもなればお互いがそれだけの武力を持ち合っているのですから悲惨な事になります

 そのとおりです。
 しかし私は、現代における国家は、その不安定な状態でどうにかやっていくしかないと考えています。

 また私は、仮に戦争になったとしても、それが互いの総力を挙げた全面戦争になるとは必ずしも限らないと考えています。
 中国とソ連、中国とベトナム、中国とインド、インドとパキスタンの間では武力衝突がありましたが、いずれも限定的なものでした。

>要するに、自分は武力を放棄します
>その代り、相手も武力を放棄して下さいって事ですね
>その上で揉め事と向き合いましょうよって事です

 これには同意します。
 軍縮は、そのように対等に行われるべきです。
 しかしそのためには、相互の信頼を醸成することが必要です。
 だから、
 
>武力を使うと言う選択肢を消す事で、相手からもその必要性は徐々にですが消えるはずです

という一方的な武力の放棄は、極めて危険なことだと思います。

>何が一番大事かという事です
>命以上に大事なものは無いはずです

 そうです。そしてその大事な命を守るために武装が必要なのだと思います。

 

 
返信する
T.tomoさんへ (深沢明人)
2013-01-08 23:56:59
 ネットワークがあろうがなかろうが、マスコミが同一のテーマで似たような論調の記事を載せるのはごく当たり前のことではないでしょうか。

 安保闘争の参加者は皆、終生安保反対で左翼ですか? そんなわけないでしょう。
 あなたの思想は何十年も前と同じなのですか?

 「トマト思想」って何ですか? 確かにトマトは皮も身も赤いですが、別にトマトが左翼御用達の野菜というわけではないですよね。
 「アカ」と言いたいならそう書けばいいでしょう。トマトに失礼です。

返信する
Unknown (Unknown)
2013-01-09 17:15:52
返信ありがとうございます
反対意見なのに相手して頂いて光栄です

> しかし、国家の指導者がそうであってはならないとも思います。
それは違うと思います
国家の指導者の方に全ての国民は乗っかっていますから
もしも指導者が誤った道に進めば国民全てに危険が及ぶのです
戦力を持つべきか、放棄すべきか
これは重大な決断です
その一方に過ぎない持つべきしか選択を持たないのはどうかと思います
日本は、もともと「非暴力主義」をうたった国家です
「国際紛争を解決する手段として武力による威嚇または武力の行使を放棄する」
「陸海空軍その他の戦力を保持しない」
これは日本の国家としての方針です
すでに日本は武力を放棄し、武力以外の手段でのみ国際問題を解決すると宣言しているのです

では武力を持つ事と持たない事でどう危険性が変るのでしょうか?
武力を持っている事で攻撃される危険性は?
武力を持っていない事で攻撃される危険性は?
武力を持っている事で攻撃されない可能性は?
武力を持っていない事で攻撃されない可能性は?
それらを考えてみて、「武力を持っている事で攻撃されない可能性」が特別に秀でているとは到底いえないと思いますよ

例えば、武力を持たないと攻撃を受けるでしょうか?
むしろ武力を行使しないと宣言している相手に執拗な攻撃をする必要性が消えます
でも、武器を持っている相手には攻撃しなければいけない可能性が出てきます

相手に脅威を与えて攻撃を踏みとどまらす事が出来るようになる分、それと同じだけ攻撃しなければいけない理由も与えられるので結局変りがないと言う事になります


>現代における国家は、その不安定な状態でどうにか
不安定な状態でどうにかやらない目的でこその武装ではないですか?
「抑止力」
この言葉は頻繁に使用されます
これは武力がなければ不安定で攻撃されてしまう
武力が対等につりあって初めてバランスが取れる
そういう考えに基づいているはずです

要するに安定を求めて、不安定な状況を作っている訳です
それなら本当の安定を目指すべきではないでしょうか?


>という一方的な武力の放棄は、極めて危険なことだと思います。
いいえ、もしも武器を持たない人が人目の多い昼間、道を歩いてて危険だと思いますか?
国際社会では何がよいか、何が悪いかはっきり答えが出ています
はっきりそれが決まっている中で武器を持たないからと言う理由で攻撃をする方が常軌を逸していると思います
そういう国家があればその国家の周囲の国家もまたは世界中の国家もその国家を危険視して何らかの行動を起こしますから
むしろ武器を持たない相手を攻撃する方が、攻撃する側にとっては痛手になります
(でも、武器を持っている相手を攻撃した場合、建前でもこの国家は危険だ、自衛する目的で攻撃した、と言う理由が成立します)



そして、武力の放棄は一方的ではないです
(もしも相手が武力行使の危険があるなら)相手も放棄する事が前提です
自分は武器を捨てますから相手も捨てて下さい
そういう意味です
また、各国も武力を放棄し完全に武力による危険性の無い状態を目指すようすべきだと思います

それは方程式です
各国が武器を捨て、武力の行使を否定するためには何が必要か
足りないものは何か
どうすれば足りるのか
順にたどっていけば自然と出る答えです
その為にはあらゆる行動が必要です



>そしてその大事な命を守るために武装が必要なのだと思います。
最後に人を守る事になるのは「助ける」側です
殺す側は結局殺す側
武器は人の命を奪う為に作られたものです
一時は守られ多様に見えても結局は身を滅ぼします
合衆国の銃社会のように
身を銃で守れても、銃で大勢の人の命が犠牲になります
命を奪うもので命を守るというのは矛盾をとても感じます
人間にとってはもっと重大な問題が目の前にありますよね
環境の問題もそうですし、生きる事についてもそう
仲間内でもめるのはもう卒業すべきかと

ようは武器を持たず平和が実現できればいい訳ですよね
それだけ考えて模索すべきかと思います
それしかないのだから


ごちゃごちゃ長い上読み辛い文章書いてごめんなさい



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Unknown (Unknown)
2013-02-19 17:34:23
考えている間に攻撃されているという現実
返信する

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