トラッシュボックス

日々の思いをたまに綴るブログ。

鏡に映る自分

2011-05-15 20:25:02 | ブログ見聞録
 しばらく前に考えたこと。

 以前Yahoo!ブログの方でパピヨンさんという方の記事を批判したが、そのころ、この人の他の記事を読むと、この人が批判的に書いていることが、いちいちその人自身に当てはまることばかりであり、不思議に思ったことがあった。

 例えば、2009年10月8日の「恐さを知る―――鈍感な人とスピリチュアル」という記事。

今の日本の状態は冗談抜きでヤバいんですね。

でも、そうしたことを人に話しても、察しの良い人とそうでない人がいるんですね。

〔中略〕

察しの良い人は、すぐに気付いて、想像力を活かして、仮にそうだとしたらどうなのかを考えます。
そうしながら話を聞いてくれるので、気持ち良く話が通じます。

ところが、安全な場所から外へ出ず、危険な目に遭ったり、
悪意や謀略に晒されたこともないような人は・・・
同じ人間とは思えないほど鈍感なんですね。鈍いんです。
だから、危険が近づいていることを教えてあげても、話が通じないんですね。
頭が悪いんじゃなくて、鈍感だからこうなってしまう。
鈍感だから、気付かない。気付かないから、自分の頭で考えない。悪循環ですね。


鈍感な人が、スピリチュアルな本とかブログを読んだりして、「恐怖や不安は不要だ」と思うのは別に結構です。
恐怖や不安を持たないのは良いかもしれません。よくわかりませんが。

でも、それとは別に、危険に気付く、危機感を持つ、自分の頭で考える。
これはとても大切なんですね。
それが出来ている人は良いんですが、出来ていない人、まだ何も身体を通していない、実感を得ていない人が、スピリチュアルな本やブログなんかを読んで、高級霊やら聖者の教えやらを、受け売りや知ったかぶりの意見を振り回して、わかったような顔をしているような人達がいるんですね。

別に本やブログを読むのが悪いとは思わないですけど、それだけで済むと思うのはヤバいと思います。
知識だけ勉強すればそれで良いんだったら、地上に生まれて来ていないと思います。


 こんなことを述べるパピヨンさんが、私がYahoo!ブログで書いたように、他人の受け売りか知ったかぶりそのものの国籍法改正批判記事をアップしている。

 2009年12月30日の「民主党、世論誘導の切り札か?池上彰」という記事のコメント欄では、私のコメントに対して、

率直にいって、貴方には、自分の頭で物を考える力が著しく欠けているようです。今の段階では、貴方と話すだけ、時間と労力の無駄というのが本当のところだと思います。

私がいうべきことを説明してさしあげたところで、当の貴方には十分な素養や理解力がないのですから、そんな無駄なことをするほど、私は暇ではありませんし、お人好しでもありません。

ですが、少しだけ指摘するとすれば、インターネットにつなぐことができる環境におられるのならば、疑問に思ったことや知りたいことは、御自分から積極的に、検索エンジンで調べるなどして様々な情報に当たり、色々な視点から仮説を立てて考えてみる、ということをされた方が良いでしょう。


さらに、

自分の思い込みの世界に入り込み、そこから出ようとしない。それゆえ、自分の論理と違うもの、理解できないものは、相手が間違っていると判断してしまい、自分に欠けているもの、必要なものには目がいかない。貴方にはそういうところがあるようです。貴方は、自分自身の問題点に気付かず、自分ではなく相手に問題があると思ってしまうようですね。


と述べているが、国籍法の件にしても池上彰の件にしても具体的な反論一つできないこの人が、いったい何を述べているのか、誰を批判しているつもりなのか、理解に苦しんだ。

 2010/1/20の「「井の中の蛙」から脱皮するために 前篇」という記事でも、次のようなことを述べている。

人間には、身体を使うこと、矛盾を体験すること、人と関わることで感性を磨くことが必要です。

そうして磨かれた自分の感性を中心にして、自分の責任で考えること。それが自分の頭で物を考えるということ。

つまり、自分の頭で考えるというのは、自分の身体を使うことだ、ともいえます。

しかし、現在の日本では、そうした重要なことがわからないまま、自分の思い込みの世界に閉じ籠ってしまう人が、そこかしこに見られます。


失敗すること、恥をかくこと、痛い目を見ること。人は社会の中で働き、人と関わって生きていれば、そうした体験をします。

そうした体験は、そのときは、余り嬉しいことではないでしょう。そうしたことを避けたいと思う人もいるでしょう。

しかし、そうしたことは、人が生きていく上では必要なことなのです。そうした体験の中で、自分に欠けている、足りない部分や、自分の先入観による思い込みなどに気付き、方向性を修正していくことができるのです。


ところが、そうしたことを恐がるあまり、自分の世界に閉じ籠り、自分を脅かしたり、不愉快にさせるような人とは接することを拒否している人がいます。

結果、自分と向き合うこともなく、自分の思い込みの世界から出ることもありません。そうした人は人と接する上でも、異質な存在を拒絶しますが、それは当然、本や情報、知識についてもいえます。


しかし、自分と異質なものを拒絶し、思い込みの世界の中で、自分の思い込みや先入観を、大切に、必死に守ってばかりいる。

そうした人が、自分を否定しない、脅かさない、自分を受け入れてくれる優しい母親のような人々と、仲良しごっこを続けたとします。

そして、自分を否定せず、脅かさない価値観や世界観を表した本や作品など、様々な事物と接し続けたとします。


さて・・・この場合、この人に、成長や進歩というものはあるでしょうか?
駄目なところがあっても指摘することなく、「いいんだよ」と受け入れ、きついことや、突き放すようなことは言わない人達に保護され。

同じく、心をかき乱したり、脅かすようなことのないものばかりを見、読み、聴き。それ以外のものは拒絶して。

「このなかに閉じ籠っていさえすれば、安心・安全。自分に怖い思いをさせる人は悪い人。怖いものは悪いもの。」

「自分に理解できないようなことを言う人間は何もわかっていない。不愉快だ。怖い。恐ろしい。関わりたくない。なぜ自分に怖い思いをさせる。不愉快な思いをさせる。痛い思いをさせる。恥をかかせる。」


なぜかって?それはあなたの世界を広げるため。成長させるため。変化させるため。自分の至らない部分に気付かせるため。自分と向き合わせるため。

そのためには、あなたにとって恐ろしく、不愉快なことであっても、そうしたことが絶対に必要だからです。


 パピヨンさん本人はおそらくそう思っていないのだろうが、私には、パピヨンさん自身のことをそれと自覚せずに批判しているようにしか読めない。


 その後、私が「千葉法相の英断を評価する」という記事を書いたころに、たまたまオノコロさんという方のYahoo!ブログの「残虐法相死刑に笑み 執行に立ち会う」という記事を読んでコメントしたことがあったが、そのオノコロさんは、しばらくして「あなたのせいじゃない 偽善の常套句」という自身の記事のコメント欄で、

* 俺の努力不足でなく全部あいつ(他人)のせいだ。(責任転嫁)
* 面倒だ。他人を茶化して暮らそう。(安直への逃避)
* 肉食しながら動物愛護を説こう。(論理的思考の放棄)
* 自分の家族や隣人に親切かどうかを省みず、どこかかなたにいる人間の人権や平和を大切にしよう。(身近な事柄の切り捨て)
* 結果を考えない抽象論をさえずろう。さえずった結果の責任なんかとらないぞ。(無責任な放言、抽象論への逃避)
* 自分自身の問題点を省みず、他人の問題点をがなりたてよう。(他人に厳しく自分に寛大)
* 新興宗教や思想組織に盲従しよう。考えるのはやめよう。(異形への敬い)
* (祖先などへの)イジメやつるし上げを楽しむ自分の下劣さを省みるのはやめよう。やりたいことをするぞ。(サディズムの正当化)
* 本当に正しいことなんて解らない。殺しだって盗みだって時にはいいかもね。(教養の欠如からうまれる価値判断能力欠如)

* 自分がいかに祖先や他人様に世話になっているかを考えるのはやめよう。(思い上がり)
* 被害者になって、自分のエゴを通そう。(偽善)
* 加害者の人権を大切にしよう。被害者はさらし者にして人権侵害しまくろう。(倒錯人権論)
* 人殺しや強盗を礼賛しよう。なんか、かっこいいじゃん。それにより被害者がどんなに傷つくかなんて考えないぞ。(圧倒的無神経)

* 俺は正義だ。他人の悪をやっつけるぞ。だけど自分が悪者である可能性については考えないぞ。(サヨク)

5.2.3 内なるサヨクを根絶せよ より


と、珍妙な左翼批判?を挙げているが、その大多数はオノコロさん自身にもまたあてはまるものだと思える。


 そのオノコロさんの「残虐法相死刑に笑み 執行に立ち会う」への私のコメントを読んで私の「千葉法相の英断を評価する」にコメントし、さらにそれへの返答である「千葉法相の死刑執行批判について(兼・宗伯さんへの返答)」という記事に大量の駄コメントを投下していったた宗伯さんというYahoo!ブロガーがいた。
 他人を批判する用語として「カルト」を連発していたが、他人の言い分を全く聞こうとせず、ただ自分の主張だけをひたすらに言いつのるその姿勢こそがまさに「カルト」的であった。
 またこの人は、他人のブログで自身のコメントが削除されたことを激しく非難しつつ、自身のブログでは私のコメントを平然と削除するという矛盾した姿勢を見せていたウェブ魚拓)。

 彼らに限らず、こうした事例はネット上で時々見かける。
 どうしてこういうことになるのか、私は長年不思議だった。

 しかし、考えてみると、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」と言う。

 そして、「人はまわりをうかがう己の姿には、なかなか気づかない。」と白土三平は言っている
 
 たしかに、私もまた、自分だったらこう考え、こう行動するだろうと、自分を基準に他人の考えや行動を想定しがちなところがある。

 とすると、彼らもまた、自分の姿を敵に映し出しているのかもしれない。

 敵を批判するつもりが 己を批判しているのかもしれない。


 そんな間の抜けた批判者にだけはならないよう、自戒したいものだ。


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1 コメント

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同感 (ysigle)
2011-05-22 07:59:07
他人は自分を映す出す鏡みたいなものですからね(汗)
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