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日々の思いをたまに綴るブログ。

再び北方領土問題を考える(上) 問題の核心

2013-02-24 10:21:28 | 領土問題
 タイトルは変えましたが、以前の記事「オコジョさんの指摘について(6) 「四島返還論の出自」について」の続きです。

 タイトルを変えたのは、私の記事を「ダシに」してオコジョさんが書かれた

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など

及びそれらに対する私からの反論に対して書かれた

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題

の4つの記事についての反論、弁明、論評は前回までで終了し、今回からは、オコジョさんが、私の記事に対してではなく、北方領土問題に対するご自身の見解を明らかにされるために書かれた

「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?

「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲

の2つの記事を取り上げるのですが、これらはもはや「オコジョさんの指摘」ではないからです。
 そして、この2記事を、オコジョさんに倣って言えば「ダシに」して、北方領土問題を考察してみたいと思ったからです。
 「再び」と冠したのは、以前にmig21さんというYahoo!ブロガーの記事に触発されて、「北方領土問題を考える」というタイトルの記事を書いたことがあったからです。

 さて、オコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?」は、前半部で、北方領土問題発生の経緯を説明しています。

 日本はこれまでずっと一貫して、千島列島を放棄したこと(面倒なので今後いちいち南樺太にはふれません)自体は否定していません。
 「千島列島は確かに放棄したが、その中に○○は含まれない」という構成の議論をしていたのです。
 この「○○」が当初は「歯舞・色丹」だったのが、その後「南千島」も該当すると言うようになり、「南千島」という言葉自体が主張と矛盾するので、無理矢理「北方四島→北方領土」という新語をでっち上げたのが、歴史が語る経緯です。


 このように語られる経緯は、いくつか気になる表現はありますが、おおむねそのとおりだと私も思います。
 岩下明裕氏の著書の引用により語られる部分も同様です。

 なお、

(ちなみに『回想十年』の中の吉田の記述、将来を見越して「択捉・国後」への領有権を担保しておいた旨の記述は虚偽であることが、公開された外交文書によって既に証明されています)


 これは、私が以前の記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で、吉田が『回想十年』でサンフランシスコ平和条約に言う「千島列島」から南千島を除くよう求めていたとして、該当箇所を引用したことに対応しているのでしょうか。
 こういう時は、公知の事実ではないのですから、いつ誰がどのようにして「既に証明」したのかを明記していただきたいものです。
 和田春樹氏の『北方領土問題』(朝日選書、1999)p.210及びp.222-224には吉田の回想は虚偽であるとの主張がありますので、これを指しておられるのでしょうか。
 確かに、ここでの和田氏の主張には強い説得力を覚えます。しかし、「証明されてい」るとまでは言えないと思います。
 本筋から外れるのでここでは多くは述べませんが、和田氏は外交文書にその種の記述がないこと、さらにダレスが後年吉田は択捉、国後をクリル諸島から除くよう求めなかったと述べたと米外交文書にあることを主な根拠としていますが、文書に記録されなかった可能性、ダレスが虚言を述べている可能性もあるからです。

 しかし、次の箇所については同意できません。

 ここまでの話から、
「北方領土」返還論の帰趨が「千島列島の範囲」をどう捉えるかにかかっている、ということが明確になったと思います。
 具体的に言うなら、
「択捉・国後」は日本が放棄した「千島列島」に含まれるのか、含まれないのか?
これが、問題の核心です。
 他のあれこれは、何ら本質的な問題ではありません。「固有の領土」がどうこうというのも単なる心情論です。現在に対置された過去へのノスタルジーが、外交交渉の根拠になるはずもないでしょう。


 ものすごい切り捨てっぷりです。

 1980年代だったと思うのですが、渡部昇一氏の言説に対して、一点突破主義との批評があったことを思い出しました。
 ロッキード事件で、嘱託尋問調書の証拠能力を最高裁が認めたのは違法である。したがって、田中角栄は無罪である。
 教科書検定で、文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたとの誤報があった。したがって、文部省は検定でその種の書き換えを命じたことはなく、いわゆる教科書問題は「萬犬虚に吠えた」ものだった。
 論点を自説に都合の良い一点だけに絞り、それを全体に拡大させるという手法です。
 私はオコジョさんの論法にも同様のものを感じます。

 択捉、国後はわが国がサンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」に含まれる否かは、論点の1つではありますが、問題の核心ではありません。
 何故なら、オコジョさんも言及しているとおり、ソ連はサンフランシスコ平和条約を締結していません。そしてサ条約には

   第二十五条

 この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう。但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。第二十一条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益も与えるものではない。また、日本国のいかなる権利、権原又は利益も、この条約のいかなる規定によつても前記のとおり定義された連合国の一国でない国のために減損され、又は害されるものとみなしてはならない。


とあります(なお、留保されている第二十一条の規定とは、中国と朝鮮の権利に関するものです)。
 したがって、わが国が「千島列島」を放棄したのはサンフランシスコ条約を締結した国々に対してであり、ソ連に対してではありません。
 この点について、オコジョさんは、

 この事情が「北方領土」問題を込み入った、たいへん面倒なものにしています。
 しかし、ことがら自体は実はまったく単純だというのが私の考えです。


として、ソ連がサ条約に署名しなかったにしろ、ポツダム宣言には「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」とあり、

 上にいう「吾等」は連合国ですね。
 ポツダム宣言を受諾することで降伏した日本は、6年後その条項を基礎にして講和・独立します。
 その講和にあたって、「吾等」はポツダム宣言にあった「諸小島に局限」の部分を具体的に決定しました。千島列島が日本のものではないというのは、その決定内容の一つです。

 日本の領土でなくなった千島列島は、どこに帰属することになるのか――それは「吾等」の中での話であって、日本は関係ありません。
 だから、あとになってソ連に対して、その千島列島の一部を返還要求するなどという理屈はなり立たないのです。


と説きます。
 しかしそれを「具体的に決定」したサ条約にソ連は加わっていないのですから、これは意味をなしません。わが国とソ連の間では、わが国が「千島列島」を放棄することは「決定」されていないのです。
 また、後述するように、ポツダム宣言は、連合国が恣意的にわが国の主権が及ぶ諸小島を決定してよいという内容ではありません。ある重大な留保が付されています。

 そして、サ条約に言うところの「千島列島」の範囲を定義するのは、わが国を含むサ条約締結国であって、ソ連にはその権利はありません。
 したがって、サ条約締結国であるわが国が、放棄した「千島列島」には択捉、国後は含まれないと主張し、他の締結国がそれに異を唱えなければ、サ条約に言うところの「千島列島」には択捉、国後は含まれないことになるのです。そして米国や英国はわが国のこの主張を支持し、他方これに異を唱えている国があるとは聞きません。
 しかし、ソ連はそんなことはおかまいなしに択捉、国後を実効支配し、ロシアもそれを継承しています。そもそもソ連が千島列島及び歯舞、色丹を自国領に編入したのは1946年2月のことであり、サ条約とは何の関係もありません。

 さらに、仮に、択捉、国後がサ条約で放棄した「千島列島」に含まれるとしても、それによってわが国がその返還をソ連に要求してはならないということにはなりません。事実、そうした立場をとる論者もおられます(次回で詳しく述べます)。

 ですから、択捉、国後が放棄した「千島列島」に含まれる否かは問題の核心ではないのです。

 では、問題の核心は何か。

 オコジョさんが引用されているポツダム宣言の箇所には、その前にカイロ宣言への言及があります。オコジョさんはおそらく意図的にこれを省いています。この条項は、正確にはこうです

八 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ


 カイロ宣言とは、1943年に米中英3国の首脳名で発表された、連合国の対日方針を示したものです。
 その文中に、次のようにあります

三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス


 日本の侵略に対する懲罰が戦争の目的であり、領土拡張の念を有するものではないとしています。
 そして、第一次世界大戦以後にわが国が奪取または占領した太平洋の島々の剥奪、満洲、台湾及び澎湖島などの中国への返還、わが国が暴力及び貪欲により略取した一切の地域からの駆逐、朝鮮の独立が述べられています。
 しかし、千島列島及び南樺太についての言及はありません。これはソ連がこの宣言に加わっていない以上当然のことですが、ポツダム宣言に「「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク」とある以上は、わが国の主権の及ぶ「吾等ノ決定スル諸小島」の範囲は、カイロ宣言の精神にのっとって決定されるべきものでしょう。

 日露戦争により獲得した南樺太は、「暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域」に含める余地もあるでしょう(私はそうは思いませんが)。しかし北千島(ウルップ島以北)は1875年の千島樺太交換条約により平和的に取得したものですから「略取」した地域には当たらず、南千島(択捉、国後)は1855年のロシアとの国境画定以来のわが国固有の領土ですからなおさら「略取」したものではありません。

 オコジョさんがおっしゃるとおり、ソ連は米国とヤルタ協定で千島列島の引き渡しについて合意していました。しかしこれは秘密協定であり(戦後に公表されました)、わが国の関知するところではありません。
 それでも、わが国が降伏する前にソ連が千島列島や歯舞、色丹を占領していたのなら、わが国はその事実を考慮した上でポツダム宣言を受諾したのだと言えるでしょう。しかし、ソ連が北千島に侵攻したのは8月18日、南千島に侵攻したのは同月28日のことです。したがって、わが国は、ポツダム宣言の解釈上は、千島列島(特に南千島)と歯舞、色丹を奪われるという事態を想定せずにこれを受諾したと言うべきであり、オコジョさんの立論は誤っています。

 カイロ宣言で領土不拡大がうたわれたのは、この戦争はこれまでの戦争とは違うのだという理念の表明でしょう。
 第一次世界大戦の惨禍への反省から、国際連盟が設けられ、列強は軍縮を進め、不戦条約が結ばれました。にもかかわらず、一部の侵略国によって、再び世界大戦が起きました。我々は侵略を防ぎ彼らを懲罰するために戦うのであり、彼らのように暴力及び貪欲により領土を略取しようとするのではない、これは正義の戦争なのだと。

 不戦条約後の満洲事変や日中戦争、太平洋戦争はいざ知らず、台湾や朝鮮については欧米列強がさんざんやってきたことをわが国も真似しただけであり、何で非難されるいわれがあろうかという考えもあり得ると思います。
 しかし、それが降伏のための条件であった以上、わが国はやむを得ずポツダム宣言を受け入れたのでしょう。
 ですが、国境画定以来他国に属したことのない、わが国固有の領土である南千島と歯舞、色丹までをも、何故奪われなければならないのでしょうか。

 したがって、

 カイロ宣言で領土不拡大をうたい、ポツダム宣言でもそれを前提としていた連合国が、わが国固有の領土である南千島と歯舞、色丹を奪うことが許されるのか。 それも、わが国から開戦したわけではなく、中立条約を反故にして火事場泥棒的に参戦し、満洲で蛮行をはたらき、国際法に反して捕虜を長期にわたって抑留して酷使したソ連によって。

が、問題の核心なのです。
 この経緯と心情を抜きにして、北方領土問題を語るのは不適切でしょう。

 こんなことは、北方領土問題についてある程度の関心をもつ者なら、誰でも知っていることです。
 オコジョさんの表現に倣って言えば、そうした諸要素を切り捨てて、サンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」に択捉、国後が含まれるか否かに問題を矮小化しなければ「成立しないのが」オコジョさんの「北方領土問題の「正解」」「だということをこの際、銘記」しておきましょう。

 オコジョさんは、こんなことも述べています。

 米国がソ連に二枚舌外交をした、約束をやぶったというのがその単純な本質です。
 我々の日常生活でも同じですね。約束やぶりとか、そういうことがあると、あとでやたら面倒くさい事態になるものです。


 二枚舌と言うなら、当時のソ連のわが国に対する外交もまた二枚舌でしょう。
 中立条約が未だ有効であり、わが国と連合国との和平の仲介を依頼されていたにもかかわらず、突如宣戦したのですから。
 なるほど、「やたら面倒くさい事態にな」っていますね。もっとも、もっぱらわが国にとってだけのようですが。

 私がオコジョさんに対してソ連の不当性について言及するのは、これが初めてではありません。
 オコジョさんからの最初のトラックバックに対して書いた記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」において、既にこう述べています。

 ソ連による北方領土の奪取をオコジョさんは不当だとは思わないのでしょうか。
 ここで日露・日ソ国境の変遷を詳しく振り返る余裕はありませんが、樺太と交換して得たウルップ島以北の千島列島にしても、日露戦争の結果獲得した南樺太にしても、わが国が侵略により奪取した領土ではありませんから、もとより領土不拡大をうたった連合国に奪われる筋合いはありません。しかし、択捉・国後の両島は、それ以前の最初の日露国境画定時からのわが国「固有の領土」なのですから、なおさら国民感情として容認できるものではありません。


 また、同じ記事でこうも述べています。

 オコジョさんをはじめ、この米国の意思を問題視する方は、あのとき2島返還ででも妥結して平和条約を締結しておけば、日ソの友好が進み、米国のわが国における影響力は低下し、東アジア情勢も現在とはかなり異なるものになっていたのではないかという願望があるのでしょう。
 しかし、そもそも中立条約を破って不当に参戦し、捕虜を長期にわたって抑留し強制労働で死亡させ、あげくの果てに択捉・国後すら返さない、そんな国と、仮に平和条約を結んだとしても、どうやって友好関係を築くことができるのでしょうか。


 しかし、これらに対するオコジョさんの返答はありません。
 なるほど、「思考経済の法則」とやらに精通すると、このように自分の立論に不要な要素はカットしてそのままで平気でいられるようになるようですね。

 オコジョさんのは、この記事「「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?」の終盤で、次のような話を持ち出しています。

 しかし、いったい米国はソ連の占領を“承認”しているのか、いないのか?

 米国は、外野から火に油を注ぐようなことを言っていながら、この占領自体について何のアクションもとろうとしません。
 これは、言い換えると、その事実を――どんな事情からであろうと――そのまま受け入れているわけです。つまり、事実として“米国はソ連の「北方領土」占領を承認している”のです。ヤルタにおける、もともとのコトの始まりどおりにです。

 ソ連は一貫してその領有権を主張し続けている。
 米国も事実としてソ連の領有権を承認している。
 日本の領有権などどこも支持していない、というのが世界の状況だということです。

 誰も認めていない領有権をこの先いつまでも主張し続けても、求める結果など出るはずがないと私は考えます。


 「事実として」「“承認”している」
 意味がわかりません。
 「承認」とは、辞書(デジタル大辞泉)によると、

1 そのことが正当または事実であると認めること。「相手の所有権を―する」
2 よしとして、認め許すこと。聞き入れること。「知事の―を得て認可される」
3 国家・政府・交戦団体などの国際法上の地位を認めること。「国連に―された国」


です。能動的な行為です。
 米国は「この占領自体について何のアクションもとろうとし」ないとオコジョさんはおっしゃいますが、米国はわが国の立場を支持しているとは既に表明しています。ほかにどのようなアクションをとるべきだとおっしゃるのでしょうか。経済制裁でしょうか。交戦でしょうか。米ソが直接つばぜり合いをしたら、どのような事態が生じたでしょうか。

 「その事実を――どんな事情からであろうと――そのまま受け入れているわけです」

 こんな表現が許されるなら、この世のありとあらゆる不正義、不公正は全て「事実として」「“承認”」されていることになってしまうのではないでしょうか。

 そして、カッコ付きの「“承認”」が何故かカッコなしの「承認」に変わり、さらに「日本の領有権などどこも支持していない」となる。
 典型的な詭弁であり、論ずるに値しません。

 本当にオコジョさんのおっしゃるように「日本の領有権などどこも支持していない」のでしょうか。
 米国は支持を表明しています。英国は、松本俊一『モスクワにかける虹』にあるように、当初は明確な姿勢を示していませんでしたが、1980年代にはわが国の主張を支持していたと記憶しています。

 ウィキペディアの「北方領土問題」の項目を見ると、現在次のような記述があります。

返還に関する西欧の提言

ヨーロッパ議会は北方領土は日本に返還されるべきとの提言を出した。2005年7月7日づけの「EUと中国、台湾関係と極東における安全保障」と題された決議文の中で、ヨーロッパ議会は「極東の関係諸国が未解決の領土問題を解決する2国間協定の締結を目指すことを求める」とし、さらに日本韓国間の竹島問題や日本台湾間の尖閣諸島問題と併記して「第二次世界大戦終結時にソ連により占領され、現在ロシアに占領されている、北方領土の日本への返還」を求めている[74]。ロシア外務省はこの決議に対し、日ロ二国間の問題解決に第三者の仲介は不要とコメントしている。なお、ロシア議会では議論になったこの決議文は日本の議会では取り上げられず、日本では読売新聞が報じた程度である[要出典]。


 [74]のリンク先はこちらです。

 中国はどうでしょうか。国交正常化後、中ソ対立がまだ激しかった時代(日中国交正常化もその産物ですが)には、中国は北方領土問題におけるわが国の主張を支持すると明言していました。最近では、必ずしも立場を明確にしていないようですが、さりとてロシアの立場を支持すると表明しているわけでもありません。

 韓国は、昨年の野党議員による北方領土訪問に対して、政府は無関係と表明しました。こちらも、政府の立場を明言してはいませんが、ロシアの主張を支持しているわけでもありません。
 人民日報系の環球時報は、昨年8月に「中国は領土問題でロシアと韓国の立場を支持し、共同で日本に対処すべきだ」とする社説を掲載したそうですが、事態はそのようには動いていません。この3国の関係は、そんなに単純ではないということでしょう。

 私はむしろ、どこかの国が、いや日本の主張には根拠がない、択捉、国後はロシア領であって日本は領土の要求を取り下げるべきだと公式に主張しているのかとオコジョさんにお尋ねしたいです。

 他国間の領土の現状に異を唱えていないからといって、その変更に反対であるとは言えません。
 この問題は本質的には日露の二国間問題であり、日露間で平和的に合意に達すれば、それに異を唱える国はまず存在しないと私は考えます。

 次回は、続くオコジョさんの記事「「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲」を取り上げます。

続く

オコジョさんの指摘について(6) 「四島返還論の出自」について

2013-02-18 00:07:31 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 議論の本筋についての話は前回で終わりました。
 あとは、オコジョさんが北方領土問題について、及びそれに関連して示されたいくつかの見解について、私の考えを述べておくことにします。
 前回の終わりにも二点について述べました。
 今回は、オコジョさんの記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」における、オコジョさんの主張を取り上げます。

 オコジョさんはこの記事で次のように述べています。

 歴史的な事実は以下のとおりです。
○日本は、日ソの国交回復交渉を始めた
○いちおう(見かけ上は)可能ならば領土問題も解決するスタンスで望んだ
○交渉の方針としては「二島返還」であった
◎「二島返還」の方針と整合的な「千島の範囲」解釈が、その時点まで採用されていた
○ソ連が、予想に反して、歯舞・色丹の返還を提案してきた
◎「千島列島の範囲」解釈が、このあと急に変更された
◎日本は、唐突に「四島返還」を要求することで応えた
○その結果、領土問題は解決しなかった

 ◎印の部分を説明するのに、深沢さんは、史実を無視した希望的観測やら何やら、いろいろ持ってきました。しかし、私の解釈は極めて単純です。「妥結させる意思がなかったから」。この一つだけです。

 上の様々な事実経過を素直に受けとめれば、「なんだ、ほんとは領土問題を解決する気なんかなかったんだ」と思うのが自然。自然も自然、大自然でしょう。
 他の解釈がなぜ出来るのか、私にはまったく理解できません。


 前回までの記事で述べたように、私の以前の記事に史実を無視した思い込みによる事実誤認があったことは事実ですが、それは別に上記の◎を説明するためのものではありません。
 それはさておき、「妥結させる意思がなかったから」としてオコジョさんは自信満々ですが、どうでしょうか。
 たしかに、そのような見方もできるとは思います。
 しかし、初めから妥結させる意思がなかったのなら、何故歯舞・色丹を最低限の要求としたのかという疑問が生じます。
 初めから妥結させる意思がなかったのなら、初めから最大限の要求、すなわち歯舞・色丹、千島列島、南樺太全ての返還の「貫徹を期せられたい」とすればよいはずです。
 歯舞・色丹の返還すらもソ連が呑むとは予想されず、それ故にマリクの打診に松本をはじめ関係者は驚愕したということはわかりました。
 しかし、そこで日本側が択捉・国後もと要求をかさ上げしたからといって、何故妥結の意思がなかったと決めつけられるのですか。
 ソ連がさらにそれらも譲歩すれば、妥結してしまうではないですか。そうなればどうするのですか。妥結を阻止しようとさらに数島かさ上げするのですか。
 ソ連が択捉・国後までは譲歩するはずがないと重光らが考えたであろうことは想像できます(和田春樹氏の『北方領土問題』によると、米国にはそうした考えがあったようですね)。そして実際譲歩しなかったわけですが、それは後世から見て言えることです。
 人間は神様ではありませんから、将来のことを全て見通すことはできません。そして交渉事は相手があってのことです。

 オコジョさんがおっしゃるように、重光はこの交渉に消極的でした。妥結しなければしないで一向にかまわないという考えだったのでしょう。久保田正明『クレムリンへの使節』は、第1次ロンドン交渉から帰国した松本から報告を受けた重光が「君、日ソ交渉が妥結しなくて、日本として何か困ることがあるのかね」と言い放ったと伝えています。
 択捉・国後もと要求をかさ上げしたのは、「訓令第一六号」に示された当初の方針に反して、いややはり歯舞・色丹だけで妥結してはならないと、重光らが変心したからなのでしょう。
 しかしそれは逆に言えば、択捉・国後をも返還されるのなら、妥結してもよいと考えていたことを意味します。
 また、択捉・国後を要求してみて、どうしてもだめなら、最終的には歯舞・色丹で妥結せざるを得ないと考えたのかもしれません。現に、オコジョさんが「米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など」で『クレムリンへの使節』から引用されたとおり、外務省顧問の谷正之は鳩山首相にそう報告していたといいますし、重光自身、第1次モスクワ交渉でそのかたちでの妥結を図っています。

 第1次ロンドン交渉の際に、重光に妥結させる意思がどこまであったかは確かに疑問です。しかし、「妥結させる意思がなかったから」と断じるのが「自然」だとは私には思えません。

 米国の動向も含めて交渉経過を仔細に検討した和田氏だって、そんな極端なことは言っていません。この方針転換について、

重光外相は、おそらくもう少し交渉して、さらに多くを獲得できるかどうか見極めようというつもりだったのだろうが、省内吉田派はソ連がのめない二条件を出し、二重に保険をかけるつもりであったのであろう。


と評しています(『北方領土問題』P.244)。

 また、「訓令第一六号」はわが国としての最終的な方針を示したものではなく、国交回復交渉に臨む上での基本方針を示したものです。
 和田氏はこれを久保田正明『クレムリンへの使節』から自著に次のように引用しています(『北方領土問題』P.238、『北方領土問題を考える』岩波書店、1990、P.147-148)。

三、(諸懸案の解決)前項につき先方が異議を有せざることが明確になった場合には、左記諸懸案の解決につき折衝にはいられたい。
 イ、わが国の国連加入に対する拒否権不行使
 ロ、戦犯をふくむ抑留邦人全部の釈放・送還
 ハ、領土問題
  (一)ハボマイ、シコタンの返還
  (二)千島、南樺太の返還
 ニ、漁業問題(だ捕漁船、乗員の送還を含む)
 ホ、通商問題
四、(交渉の重点問題)前項の問題については、わが方主張の貫徹に努力されたく、とくに抑留邦人の釈放送還及びハボマイ、シコタンの返還については、あくまでその貫徹を期せられたい。


 しかし和田氏は、『クレムリンへの使節』p.33でこの「貫徹を期せられたい。」に続く次の部分を引用していません(太字は引用者=深沢による)。

やむを得ざる場合は抑留邦人の釈放・送還については戦犯の内地服役を認めることとする。先方の態度いかんによっては各問題の相関関係を勘案のうえ、当方の態度を決定する必要あるので、随時事情を詳細に具して請訓されたい。


 これに従って松本は請訓し、外務省は「当方の態度を決定」して、択捉・国後の返還を含む平和条約案を策定、提出したのでしょう。
 私が以前、「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で、訓令第一六号について

 しかし、それはわが国の最終的な判断ではありませんでした。だからこそ松本は請訓し、そして結局のところ重光外相はこれを拒否したのです。
 交渉の一局面にすぎず、それほど重視すべきものではないと思います。


と述べたとおりだと思います。

 そして、そもそも択捉・国後を持ち出すのは、それほどおかしなことでしょうか。
 オコジョさんは、「最初のテーブルには影も形もなかったカードをあとから出して、交渉をまとめられるはずがありません。」とおっしゃいますが、千島列島の一部が南千島すなわち択捉・国後なのですから 「影も形もなかったカード」ということはないでしょう。
 わが国は当初、歯舞・色丹、千島列島、南樺太の3地域の返還を要求していました。歯舞・色丹はそもそも千島列島ではないのですから返還を要求するのは当然として、ソ連から見れば日露戦争の結果奪取された南樺太の返還はまず無理。残る千島列島について、全面返還は無理としても、日露の国境が画定して以来の領土であり、多数の国民が居住していた南千島(和田氏の『北方領土問題』P.221には、「千島列島の人口はほぼ完全に南千島に集中していた」とあります)を要求するのは、それほどおかしなこととは思えません。
 和田氏の『北方領土問題を考える』P.149には、国交回復交渉の開始から間もない1955年6月12日付け『朝日新聞』に掲載された有田八郎、松本重治、横田喜三郎の座談会における、横田の次の発言が引用されています。

「ハボマイ諸島は返してもらわなければならない。小さい島で、先方にとっても大した利益はないのだから。また千島を半分でも返してくれれば大成功だと思うが、ちょっと望めないだろう。千島を全部ソ連に譲るか、それを全部譲らないで中間の取り決めができるかが交渉が成功か否かのカネ合いのところだ。」


 オコジョさんは、4島返還論は交渉を妥結させないために持ち出されてきたものだから「デタラメ」で「あやしげ」なものであり「葬り去ることが必要だ」と説きます。
 私は、必ずしも妥結させないためだけに持ち出されたとは思いませんが、外務省が方針を当初の2島返還から4島返還に転じ、千島列島の範囲についてもそれまで否定していた解釈に乗り換えたとの指摘はそのとおりだと思います。
 だからといって、何故それで即4島返還論を「葬り去ることが必要だ」となるのでしょうか。
 ある主張や政策、法律や制度といったものは、その出自ではなく、その内容自体によって、妥当か否かを判断すべきだと思います。
 誰が言い出したか、どういう経緯で成立したかは、そのもの自体の価値を判断する根拠にはなり得ないと私は考えます。

 例えば、日本国憲法は押し付けられたものだから、改正しなければならないという主張があります。無効であり、破棄すべきであると言う人もいます。
 しかし、押し付けられたか否かにかかわらず、憲法の妥当性はその条文自体によって判断すべきだと思います。その上で、改正が必要な条文は改正すればいいし、維持すべきものは維持すればいいでしょう。

 オコジョさんは「出自」という言葉を用いられましたが、「出自」が「あやしげ」とされる者はやはり卑しいのだとお考えなのでしょうか。
 不義の子であっても、罪人の子であっても、子に何の非もありません。

 4島返還論はわが国が当初から主張していたものではなく、国交回復交渉の過程で生み出されたものです。だからといって、そのことが即「デタラメ」で「あやしげ」であると見るべき理由にはなりません。
 ここで詳しく述べる余裕はもうありませんが、歴史的経緯、領土不拡大の原則違反、そして中立条約違反という点から、4島返還論は何ら「デタラメ」でも「あやしげ」でもないと私は考えます。

 以上で、オコジョさんが直接私の記事に対して書かれた4記事への私の反論、弁明、論評を終わります。

 続いて、オコジョさんが、私の記事についてではなく、北方領土問題自体について書かれた2記事を取り上げます。

続く


オコジョさんの指摘について(5) 「米国の意思」をどう見るか

2013-02-17 00:27:43 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 前回と前々回で、議論の本筋である「米国の意思」に関わるオコジョさんの二つの表現――私が疑問を呈し、オコジョさんが説明された点――について述べました。
 今回は、「米国の意思」それ自体をどう見るかという、より本質的な点について述べます。

 オコジョさんは、2島返還論から4島返還論への転換は
「単純に日本の意思だけに帰すことはできません」
「米国からの圧力がなかったわけではなく、」
と述べておられますが、私は、単純に日本の意思だけに帰するとは言っていませんし、米国からの圧力がなかったとも言っていません。
 オコジョさんも引用しているように、米国からの申し入れがあったことは松本も書いており、私も認識しています。
 しかし、そうした米国からの圧力があったがために、わが国は2島返還論から4島返還論に転じたと言えるのかという疑問が、ご批判いただいた私の記事

4島返還論は米国の圧力の産物か?

の主旨です(タイトルもそれを示しています)。

 したがって、オコジョさんがこの記事を批判するのであれば、転換が米国からの圧力によるものだったことを、具体的に立証すれば済むことです。
 ところが、オコジョさんの記事にこの点についての具体的な話は出てきません。
 オコジョさんが述べる根拠らしきものは、次のような話です。

1.重光外相は国交回復交渉に非常に消極的であった
2.吉田茂はより強硬に国交回復に否定的であった
3.吉田派の緒方竹虎はCIAとつながっており、資金提供も受けていた
4.「外務省は吉田派の巣窟のようなもの」だから、マリクが歯舞・色丹の返還を示唆したことは「吉田の耳に間違いなく入っていたはずです」、吉田を通じて「米国にも情報が届いたのは間違いありません」、米国が「そうした情報を間もなく入手していることは歴史的事実で」ある
5.鳩山を蚊帳の外に置いて、重光ら外務省は2島返還での妥結には応じない方針を固め、鳩山に事後承諾させた
6.そんな経緯のあと、外務省は松本に4島返還の新訓令を打電した。つまり「わざわざ新たな障碍をつくった」
7.ダレスの言動にとどまらず「もっと広く深く日本の内部にまで浸透していた意思があった」

 これらが仮に事実だとしても、それでどうして米国からの圧力によってわが国が2島返還論から4島返還論に転じたと言えるのか、わかりません。
 圧力はいつ、どのようにして行使されたのでしょうか。

 それは、当時の外交文書が全て公開されているわけではない以上、確証を示すことは不可能だ。しかし、当時の情勢や現在でも公開されている外交文書その他の資料を検討し、「オッカムの刃」をもってすれば、そう見るのが妥当である。
 オコジョさんは、このようにおっしゃるかもしれません。
 しかし私には、それが妥当だとは思えません。
(念のために申し上げておきますが、私は、米国からの圧力によってわが国が2島返還論から4島返還論に転じたなどということは有り得ない、と言っているのではありません。そうした説が成り立ち得ることは否定しません。現時点では、そのように断定できる状態ではないのではないかと言っているのです)

 オコジョさんが典拠としているらしい和田春樹氏の『北方領土問題』を読んでみました。
 和田氏は、同書のp.230~249において、米国の外交文書も用いて、マリクが歯舞・色丹の返還を示唆した前後のわが国と米国の動きを仔細に検討しています。これを私なりに要約すると、次のようになります。

・1955年1月、ドムニツキー書簡が鳩山邸に届けられ、日ソ国交回復交渉が始動。米国は当初、歯舞、色丹がサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島の一部ではなく日本の領土であるという日本の主張を支持していた。
・同年2月、日本外務省は米国に対し、国交回復交渉に当たって千島列島の返還要求を出すので、米国がこれを支持するよう要請。受け入れ可能な最低条件は、ソ連が日本の千島列島領有の主張に希望を残しながら、歯舞、色丹を返還することだとも述べる。
・同年3月、国家安全保障会議でアレン・ダレスCIA長官が、日本政府高官は「歯舞、色丹と同様にクリル諸島のすくなくとも二つの島の返還を望むと告白した」と報告。
・4月、米国は、千島列島に対する日本の要求を米国が支持することについて、法律的には難しいが、政治的には認めるべきであり、最低その要求に反対しないとの方針を固め、日本に伝える。
・5月、歯舞、色丹の返還を最低条件とした「訓令第一六号」が閣議決定され、2日後に自由党と両社会党に説明される。
・6月、第1次ロンドン交渉開始。アリソン米駐日大使は、鳩山政権では対ソ妥結論が支配的であり、ソ連が日米関係を悪化させることを狙って譲歩をしてくることに対して日本は無防備であるとし、歯舞、色丹、さらにもしかしたら南千島までの日本の潜在主権への同意、日本の国連加入、日本の再軍備に関する寛大な制限などの譲歩をしてくる可能性があるとワシントンに報告。
・8月、マリク、松本に歯舞、色丹の引き渡しを示唆。松本電を受けた重光は秘匿を命じて墓参に発ち、帰京後アリソンと会い、外務省の幹部会で4島返還を求める新方針を決定。ソ連の譲歩が報じられていない段階で新方針を新聞にリークし、わが国が南樺太、全千島から4島に要求を切り下げたとの印象を作りだした上で、訪米し、鳩山の事後承諾を得る。

 注目すべきは、2月の段階で日本外務省が千島列島の返還をソ連に要求することを米国に明らかにしていること、3月のダレス報告はそれが少なくとも2島、すなわち択捉、国後であることを想起させること、そして4月には米国がその要求に反対しないとの方針を既に固めていることです。
 つまり、4島返還論は、オコジョさんが記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」で「講釈」されたように、歯舞、色丹の引き渡しというソ連の譲歩を受けて突如持ち出されたものではなく、あらかじめ検討されていたものだということです。
 それでは「訓令第一六号」との整合性がとれなくなりますが、それがどういう事情によるものかはまだわかりません。外務省としては4島返還論を検討していたが、民主党が2島返還を最低ラインに引き下げたといったことも考えられるでしょう。また、後述しますが、「訓令第一六号」はわが国の最終的な方針ではありませんでした。

 そして、ソ連の譲歩を受けて、吉田派や米国がどう動いたのかも定かではありません。
 たしかに、和田氏は『北方領土問題』p.243で、外務省内吉田派が吉田にこの重大ニュースを伝えなかっただろうか、伝えたとすれば吉田からダレスないしアリソンに極秘の連絡が行っただろう、鳩山がこの内容で妥結することは全力を挙げて阻止しなければならないとして秘かな協議があったと考えることもできる、と述べています。
 しかしこれらは全て和田氏の推測であり、具体的な根拠は何も示されていません。
 ここで和田氏はこんなことを書いています。

アリソンとしては、むしろ二島返還どまりで安堵さえしたかもしれない。そして、二島返還を要求するだけでは妥結することになってしまうのだから、クリル諸島の一部、南千島の要求に進ませるという既定の方針が推進されることになったと考えられる。


 しかし、それまでに和田氏が挙げている米国の文書には、「進ませるという既定の方針」に当たるものは見当たりません。
 米国が日本の千島列島の要求に反対しないという方針はあります。また、ソ連の譲歩により米国の立場が損なわれることを懸念する報告もあります。しかし、日ソ国交回復阻止のために日本が南千島を要求するように進ませるとの方針をとっていたととれる記述はありません。
 この点をはじめ、和田氏の文章には、米国がわが国を4島返還に進ませたと印象づけようとするいくつかの仕掛けがあります。しかし、その仕掛けを取り除いて、和田氏が呈示する根拠を検討してみると、私には必ずしもそのようには読み取れません。

 余談ですが、和田氏の前掲書を検討していて、オコジョさんの「米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など」の記述

また、外務省は吉田派の巣窟のようなものですから、以上の動きはすべて吉田の耳に間違いなく入っていたはずです。また、吉田を通じて――重光も報告に行っているのですが――米国にも情報が届いたのは間違いありません。米国が――どういう径路からであろうと――そうした情報を間もなく入手していることは歴史的事実です。


に、次のような疑問が湧きました。

ア.「外務省は吉田派の巣窟のようなもの」だから「以上の動きはすべて吉田の耳に間違いなく入っていたはずです。」と何故言い得るのか。そもそも外務省が下野後の吉田に重要事項を逐一報告していたという実例があるのか。また、私の「はずです」を「単にご自分の希望を述べているだけ」と一蹴したが、この「はずです」こそそうではないのか。

イ.仮に「米国が」「そうした情報を間もなく入手していることは歴史的事実」であるとしても、それだけでは「吉田を通じて」「米国にも情報が届いたのは間違いありません」とする根拠とはならない。「吉田を通じて」「米国にも情報が届いたのは間違いありません」と見る根拠は何か。下野後の吉田が重要情報を米国に提供していたという実例があるのか。

ウ.「米国が」「そうした情報を間もなく入手していることは歴史的事実」と言う根拠は何か。「間もなく」とはいつの時点か。和田氏の前掲書は、田中孝彦氏が発掘した、米国務省のブファイラーが8月22日付けで作成した文書を取り上げている。これは日本外務省の新方針を反映したものではあるが、ソ連の2島引き渡しの申し出は反映されていないという。重光は23日から訪米しているので、それ以降に米国が2島引き渡しの情報を入手しているのは当然だが、それより前に入手しているという「歴史的事実」はあるのか。

 さて、4島返還論への転換が米国の圧力の産物なのであれば、重光が松本電を受けてから新方針を決定するまでに米国から何らかの働きかけがあったということになりますが、この点も和田氏の『北方領土問題』からは定かではありません。
 重光は16日に東京に戻り、17日にアリソンと会っています。
 「アリソンがソ連の譲歩をすでに知っていれば、重光に南千島返還案について何らかの示唆を行った可能性がある」と和田氏は言います。なるほどそうでしょう。しかし、知っていても行わなかった可能性もあります。さらに、譲歩を知らなかった可能性もあります。これもまた、仕掛けの一つです。

 和田氏によると、公開された米国務省の資料の中には、8月中のアリソン大使の本国への報告が一本もないそうです。「これはすべて隠されているということである」と和田氏は言います。
 他方、ロンドンの駐英大使館からの国務長官宛の8月17日、24日、31日の電報が機密不解除であることを示す記録がファイルの中に残されているそうです。「このような資料公開の状況はソ連譲歩の決定的なニュースをめぐって深刻な文書の往来があったことをうかがわせる」と和田氏は言います。
 和田氏の言うとおりだとすると、隠されている部分の内容は、隠されていない部分から推測するしかありません。そこでもっともらしい内容を推測することは可能でしょうが、推測は所詮推測でしかありません。推測を事実と取り違えてはなりません。

 重光については、有馬哲夫氏の『CIAと戦後日本』(平凡社新書、2010)第二章「重光葵はなぜ日ソ交渉で失脚したのか」が、CIAの報告書などを用いて戦後の重光の軌跡を概観しているので、興味をもって読んでみましたが、この2島返還論から4島返還論への転換についての言及はありません。

 もっとも、和田氏と有馬氏だけが研究者ではありませんし、『北方領土問題』は1999年の著作です。その後新資料が公開されたり発掘されるなどして、研究が進んで、和田氏の推測が裏付けられているといった事情がもしあるのでしたら、是非ご教示願いたいと思います。

 ところが、オコジョさんは、記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」で、突然こんなことを言い始めます。

 私の主張は、ぎりぎり譲って、以下のようになります。
○領土問題は二島返還で妥結することができた
○しかし、四島返還が持ち出されたので妥結しなかった
○日本が四島返還を持ち出したのは、妥結させないためだった

 なぜ妥結させなかったのかについては、「米国の意思に従った」と私は主張してきたわけですが、これを「米国の意思を顧慮した」と言い換えてもいいでしょうか。


 「米国の意思に従った」と「米国の意思を顧慮した」では意味が異なります。
 「顧慮」とは「ある事をしっかり考えに入れて、心をくばること。「相手の立場を―する」」(デジタル大辞泉)です。

 オコジョさんがこう言い出したのは、米国だけではなくわが国においても4島返還論が検討されていたことに気付いたか、わが国の行動のどこまでが米国の圧力によるもので、どこまでがわが国の主体的な意思によるものかを説明することなど、極めて困難だということに気付いたからではないかと思われます。

 深沢さんは、日本政府の自主的な意思によると言っておられるのですね。
 とりあえず、妥結させなかった主体については今回は譲歩して、尖閣の領土権のように「棚上げ」してもいい、というわけです。


 「自主的な意思による」とは、米国の意思にかかわらず、わが国独自の判断によるものだという意味でしょうか。
 さらに、オコジョさんが後に拙記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」に寄せられたコメントでは、こんなことをおっしゃっています。

 4島返還論への転換に米国の意思が関わっていないという御「信念」は、ただそうあってほしいという深沢さんの願望だけに基づいているものですから、なるべく早いところ脱却した方がいいのではないかとは、心配しているところではあるのです。


 私は同じ記事の本文で、次のように述べています。

 米国の意思はあったのでしょう。だがわが国の意思はなかったのでしょうか。


 これを、米国の意思とわが国の意思は無関係であるという「信念」の表明と読み取られるのであれば、私はオコジョさんの読解力に不審の念を抱かざるを得ません。
 この箇所は、米国の意思があったからといって、わが国がそれだけの理由で方針を転換したとは言えない、わが国はわが国で、米国の意思を考慮し、その他さまざまな要素も考慮した上で、4島返還論に転換したのではないかという意味です。

 したがって、オコジョさんが「顧慮」と言い換えるのであれば、私にも異論はありません。
 「棚上げ」も何も、オコジョさんと私の認識は一致しているのですから。

 あとは、表現方法の問題です。
 これについては、前回申し上げたように、私はオコジョさんが独特の表現方法をお好みの方だと理解しましたので、もはや特に述べることはありません。今後は、オコジョさんが「そういう方」だという認識の下に記事を読むことにします。

 これで、本筋についての私の話は終わりです。
 あとは オコジョさんが北方領土問題について、及びそれに関連して示されたいくつかの見解について、私の考えを述べておきます。

 まずは「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」の末尾で述べておられた、日ソ交渉を米国に相談していたという点と、重光の後の戦後の外務大臣に外務省出身者がいないという点について。

 日ソの交渉の機微を第三国に知らせることなど本来あり得ないというのは、通常の外交関係においては、おそらくはおっしゃるとおりなのでしょう。
 しかし、当時の日米関係が、通常の外交関係とは異なるものであったことも考慮すべきでしょう。
 米国の占領下に置かれ、米国によって新憲法をはじめとする諸改革を断行され、米国の支持の下で独立を果たし、わが国は米国に基地を提供する義務を負うが米国はわが国を防衛する義務を負わないという片務的な旧安保体制の下にありました。ソ連の反対により国連にも加盟することもできず、韓国とも中共とも国交はありませんでした。
 端的に言えば、わが国は米国の庇護下にあったと言えるでしょう。
 そしてまた、日ソ国交回復交渉が通常の外交ではなかったことも考慮すべきでしょう。
 ソ連は単に交戦国の1つというだけでなく、共産圏のリーダーであり、当時は冷戦の真っ只中でした。
 また、日ソの領土問題がどのような形で解決するかは、米国の極東戦略にも多大な影響を及ぼす要素でした。
 だからこそ、吉田に比べて米国と距離があった鳩山の政権においても、日ソ交渉の内実を米国に明らかにせざるをなかったのではないでしょうか。

ソ連との交渉を一つの有効な取り引き材料にして、例えば沖縄の早期返還を促す、というような外交が当然考えられます。


 これは、具体的にどういう外交が有り得たとお考えなのでしょうか。
 そして、「有効な取り引き材料」も何も、「ダレスの恫喝」に見られるように、沖縄はむしろ日本側の弱み、日米関係におけるアキレス腱であったのではないのでしょうか。

 次に、外務大臣に外務省出身者がいないという点については、たしかにおっしゃるとおりですが、それは、何より外交官から政治家へ転身する者が少ないからではないのでしょうか。
 戦前と異なり、戦後は閣僚が国会議員であることが普通となりました。閣僚の中でも外相は花形ポストであり、それなりの有力者でなければ就任は困難です。
 有力な国会議員に外務省出身者がほとんどいなければ、外相に外務省出身者がいないという事態も起こり得るでしょう。
 私が無知だからかもしれませんが、戦後派の著名な政治家で外務省出身者をほとんど思いつきません。加藤紘一がいますが、彼は2世です。
 理由はよくわかりませんが、官僚の中でも外交官は独自の世界を築いており、政党政治の世界には足を踏み入れようとしなかったのかもしれません。
 むしろ、芦田均、松岡洋右、広田弘毅、幣原喜重郎、吉田茂、そして重光葵のような外交官出身の有力政治家が続出した戦中・戦後期が異常だったのかもしれません。

あれこれの根拠は抜きにして私の推測をそのまま書かせていただきますと、外務省に外交をやらせていては日本の国益を確保することなどできないというのが「外務大臣=非・外務省出身者」の理由です。
 外務省に米国の意思が浸透していることの一つの表れだと私は思います。


 そういう見方もあるんですね、としか言いようがありません。

 次回は、「四島返還論の出自」を取り上げます。

続く

オコジョさんの指摘について(4) 「米国の意思を体現」という表現

2013-02-16 00:15:35 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 私は、「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で、もう一点、オコジョさんの表現に疑問を呈しました。

 しかし、「吉田派が、米国の意思を体現していた」などと何故言えるのでしょうか。


 それに対するオコジョさんの「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」での返答はこうです。

 これは、蓋然性が非常に高い妥当な推測、ほぼ事実というところでしょうか。
 分かりやすい例を書くと、緒方竹虎がCIAとつながっており、資金提供も受けていたのは証明ずみの「歴史的事実」です。コードネーム「POCAPON」も知られています(ふざけたネームみたいですが、正力松太郎の「PODAM」は既によく知られていますね。「PO」の部分が日本を意味するのだとか)。


 緒方が当時吉田派のボスであったこと、そしてCIAとつながっていたことは事実です。
 だからといって、どうして吉田派が「米国の意思を体現していた」と言えるのでしょうか。

 「体現」とは、「思想・観念などを具体的な形であらわすこと。身をもって実現すること」(デジタル大辞泉)です。
 「米国の意思を体現していた」とは、米国のエージェント、悪く言えば米国の走狗であることを意味します。
 彼ら吉田派は、単にそのような存在にすぎなかったのでしょうか。自らの意思は存在しなかったのでしょうか。

 私が疑問に思うのは オコジョさんが彼らの主体性というものをまるで考慮しようとしないことです。
 彼ら自身としては4島返還でも2島返還でも、あるいは交渉決裂による0島返還でも何でもよかった、ただ米国に言われるがままに、自民党内における2島返還への抵抗勢力として機能した、と考えておられるようです。
 なるほど吉田は米国と密接な関係にあり、また外務省にも根を下ろしていました。緒方はCIAの協力者であり、資金提供を受けていました。
 ならば彼らの行動は全て「体現」と見るべきなのでしょうか。彼ら自身の意志はなかったのでしょうか。
 彼らは彼らで、米国の意思をはじめとするさまざまな要素を考慮した上で、そのように行動したのではないのでしょうか。

 また、○○が××から資金提供を受けていた、あるいは××と密接な関係にあった、よって○○は××の意思を体現していたというストレートな表現が許されるのなら、何だって言えてしまうのではないでしょうか。

 日本社会党や日本共産党がソ連の資金提供を受けていたことがソ連崩壊後に明らかになった。したがって、両党はわが国においてソ連の意思を体現していた。
 いわゆる南京大虐殺を報じた記者ティンパーリは中国国民党から資金援助を受けていた。あるいは国民党の工作員であった。したがって、彼の報道は国民党の意思を体現したものであり、信用に値しない。
 ハル・ノートを起草したハリー・デクスター・ホワイトはコミンテルンのスパイであった。したがって、ハル・ノートは米国を第二次世界大戦に巻き込もうとするコミンテルンの意思を体現したものであった。
 菅直人の資金管理団体が、北朝鮮による日本人拉致事件の容疑者の長男が所属する政治団体から派生した政治団体に献金していた。したがって、菅は北朝鮮の意思を体現していた。

 私はこんなことは到底言えないと思いますし、言うべきでないとも思います。

 そうした思いから「何故言えるのでしょうか。」と書いたのですが、オコジョさんには理解していただけなかったようです。

 深沢さんが何を目的に、そう何もかもを曖昧にしてしまいたがるのか私には理解できません。やはり、米国をよき友人と信じたい心情がすべてに優先しているのでしょうか。


とのことですが、曖昧なことは曖昧にしか言いようがないというのが私の考えです。
 推測を事実であるかのように語るのは、私の趣味ではありません。

 ボールの例えもいただきました。

 深沢さんの議論のあまりのナイーブさに少々びっくりしてしまいます。
 たとえるなら、こんな感じでしょうか。

○ここに一つのボールがある。
○このボールの色は赤か青である。
○このボールは赤くはない。

 こんな三つの言明があったとして、深沢さんは「どこにも『このボールは青い』とは書いていない」と主張しているのです。
 それは、たしかに書いてはいません。だからといって、ボールが青いことを否定するのは無茶苦茶な議論です。

 極端な喩えを持ち出しましたが、深沢さんの行論はこれと五十歩百歩です。議論の性質というものをもう一度しっかりと確認していただきたいと私は思います。


 確かに、おっしゃるとおりなら、「『このボールは青い』とは書いていない」と主張することは無意味でしょう。
 しかし、この例えに倣って言うなら、私は「このボールの色は赤か青である」「このボールは赤くはない」という2つの前提が成立するのかどうかに疑問を呈しているのです。
 その判断が妥当かどうかは、読者に委ねたいと思います。

 オコジョさんは、続く記事「四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題」の冒頭で、「オッカムの刃」の話を持ち出されています。

思考経済の法則ともいわれています。一つのことを説明するのに、10の前提を必要とする理論と、3の前提だけで説明できる理論とがあった場合、後者を採用すべきだという考え方です。
 日常的な言葉でいうなら、素直な考え方、単純な理論の方が、ややこしいものよりは正しい可能性が高い、とでもなりましょうか。

 歴史的事実が、必ずしも単純であるかどうかは何とも言えません。しかし、歴史的事実を解釈するときには、やはりこの「オッカムの刃」を採用するべきでしょう。


 私は、ウィリアム・オッカムの名は知っていましたが、この「オッカムの刃」については知りませんでした。
 しかし、歴史を見る際にこうした考え方を適用してしまうと、いわゆる陰謀論との親和性を高めてしまうのではないでしょうか。
 私には「採用するべき」とは思えません。

 例えば、わが国は何故第二次世界大戦に敗れ降伏したのか、それはコミンテルンに籠絡された蒋介石によって泥沼の日中戦争に引きずり込まれ、続いてコミンテルンのスパイが起案したハル・ノートによって対米英蘭戦を余儀なくされたからだ、全てはコミンテルンの陰謀である――といった見方があります。
 また、何故わが国は原爆が2発も落とされるまで降伏しなかったのか、それは米国が原爆を実験したかったがために、わざとポツダム宣言の内容を即時受諾困難なものとしたのだ――といった見方があります。
 どちらも、当時の情勢におけるさまざまな要素を考慮に入れるよりは、「素直な考え方、単純な理論」です。
 だからといって、こうした見方が妥当だとはとても思えません。

 オコジョさんのブログで、一連の北方領土関係のものではありませんが、こんな趣旨の記述もあったように記憶しています。
〈私は嘘はつきませんが、ハッタリは使います。相手の出方を見てみたいからです〉。

 オコジョさんが、直截な物言いを好まれる方だということはわかりました。
 私はオコジョさんの記事を読むのは最初にトラックバックをいただいた

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

が初めてでしたので、私の感覚に基づいてオコジョさんの表現に対していくつか申し上げましたが、これからは「そういう方」だということを前提にして読むようにします。

 しかし、そういう方と「議論」が成立するのか疑問です。何故なら、その方の発言の全てにわたって、これは事実なのか、それともハッタリなのかといちいち検証するのは容易なことではありませんし、それでは結局のところ「言ったもん勝ち」になりかねないと思えるからです。

続く

オコジョさんの指摘について(3) 「間違いない事実」という表現

2013-02-15 00:07:50 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 今回からは、議論の本筋である「米国の意思」をどう見るかという点について述べます。
 まず、話を整理します。

 私は

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

という記事で、「ダレスの恫喝」によって日本が2島返還論から4島返還論に転じたとの誤った説が流布している現状を批判しました(この批判についてはオコジョさんにも同意していただいています)。

 そして、その記事中、

 「ダレスの恫喝」は確かにあった。だがそれでわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。第1次ロンドン交渉で既に「固有の領土」論を主張している。
 松本も重光も一時は2島での妥結もやむなしかと考えた。だが本国から拒否された。それだけのことだ。


と述べました。

 これに対して、オコジョさんは

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

で「私はちょっと違うと思います」として、

 松本氏が全権となった「第一次ロンドン交渉」の途中から、日本が4島返還を主張し始めたのは事実ですが、なぜそうした“転換”があったかという問題に関しては、単純に日本の意思だけに帰すことはできません。

〔中略〕

 ダレスの恫喝に先立って、同様の「趣旨の申し入れ」が既に米国からわが国に伝えられていたのは、事実なのです。
 米国からの圧力がなかったわけではなく、合同がなったばかりの自民党内で日ソ国交回復を妨害する勢力であった吉田派が、米国の意思を体現していた可能性は大きいと私も思います(というより、ほぼ事実です)。
 択捉・国後が日ソ友好を引き裂くクサビになると米国が考え、それに基づく明確なポリシーを展開していたことも、間違いない事実でしょう。


と述べました。

 これに対して私が新記事

4島返還論は米国の圧力の産物か?



 米国がそのような「申し入れ」をしたのは事実でしょう。そして、その背景にはおっしゃるような明確なポリシーがあったのかもしれません(確証がない以上、「間違いない事実」などとは私にはとても言えませんが)。


と述べたところ、オコジョさんは、「かもしれません」「確証がない」といった記述が気に障ったようで、新記事

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

で、

 米国のロバートスン次官補が9月3日に提案し、9月7日に日本政府に渡され、12日に公表された覚書というのがあるんです。

 丹波實による『日露外交秘話』という本があります。そのP.168~169に「在京英国大使館極秘電報公開事件」と題されたエピソードが載っています。


と述べたのでした。

 ロバートスンの覚書とは、和田春樹氏の『北方領土問題』(朝日選書、1999)によると、日本はサンフランシスコ条約で放棄した領土に対する主権を他に引き渡す権利を持っていないとする一方、択捉、国後は歴史的に日本固有の領土であり、日本の主権下にあるものとして認められなければならないとするものですね。
 4島返還論への支持であり、かつ2島返還による妥結への牽制ですね。
 しかし、私が「かもしれません」「確証がない」と述べたのは、「択捉・国後が日ソ友好を引き裂くクサビになると米国が考え、それに基づく明確なポリシーを展開していた」と見る根拠でしたので、これはちょっと違うように思います。

 その点を補うために、丹波實『日露外交秘話』の「在京英国大使館極秘電報公開事件」を挙げられたのでしょう。この件については、今回初めて知りました。ご教示ありがとうございます。
 こちらのホームページに該当箇所が引用されていますね。
 なるほどそうした見方が駐日外交官にあったという1つの証左ではありますね。
 米国ではなく、英国ですが。
 しかし米国にも同様の見方があったのかもしれません。

 もっとも現物が紛失中ではどこまで信頼していいのかわからない話ですが。
 そして、それが「間違いない事実」であると言える根拠なのかとなると、私にはやはり疑問が残ります。

 誤解しないでいただきたいのですが、私はそうしたポリシーはなかったというつもりであのように書いたのではありません。むしろ、あったとしても十分おかしくはないと考えています。
 ただ、「間違いない事実」という表現が気になったので、カッコ書きで「(確証がない以上、「間違いない事実」などとは私にはとても言えませんが)」と付け加えただけです。

 一連の行動を後世から見て、○○国の意思は××だったと評価することはあるでしょう。
 しかし、それは結果的に、総合してそのように言い得るということであって、後から見てそう言えるからといって、その時点で××という明確なポリシーが成立していたと語るのはおかしいと私は思います。
 「間違いない事実」という表現は、それを裏付ける文書や証言といった確証があって、はじめて用いられるべきものだと思います。
 私がカッコ書きで付記したのは、それだけの理由によるものです。

続く

オコジョさんの指摘について(2) 私の認識不足について

2013-02-14 00:00:24 | 領土問題
(前回の記事はこちら

 次に、私の認識不足について説明しておきます。

 私は、昔々北方領土問題をかじったことがあり、多少の知識はあるつもりでしたが、何分昔のことであり、国交交渉の細かい経緯については、忘れてしまっていた部分もあります。
 特に、オコジョさんが持ち出された「訓令第一六号」については、昔の記録を確認したところ、昔これについて書かれた和田春樹氏の論文(「「北方領土」問題の発生」『世界』1989年4、5月号)を読んでいたのですが、すっかり忘れておりました。

 そのため、先の

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

4島返還論は米国の圧力の産物か?

の2記事を書いた時点では、日本側の当初の方針については、松本俊一が『モスクワにかける虹』(私が読んだのは『日ソ国交回復秘録』と改題されて昨年出版されたたものですが、面倒なので以下『モスクワにかける虹』で統一します)で述べていた、

「日本側としては歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太が、歴史的にみて日本の領土であることを主張しつつ、しかしながら交渉の終局においてこれを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉にあたることを示したのであった」

というレベルのものだと認識しておりました。つまり、歯舞、色丹の2島の返還が最低条件との方針が示されていたとの認識を欠いていました。

 また、吉田茂が鳩山首相による日ソ国交回復交渉に明確に反対していたことをはじめ、当時の党内対立の状況や鳩山、重光、河野らの立場、方針、そして米国との関係についても、十分な認識を欠いていました。

 オコジョさんにしてみれば 何を無知丸出しで適当なことを書いているのかと思われたことでしょう。
 「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」という記事でオコジョさんが

>> 交渉過程での一時的な変心はともかく、松本も重光も鳩山も河野も吉田も、
>>基本的には最低でも4島返還の線で一致していたと見るべきだと私は思います。

 ここも同じです。なぜ「見るべき」なのですか。
 何の根拠もなく、ご自分の勝手な希望と憶測を書いているだけだということがお分かりにならないのでしょうか。
 日本の歴史も何も、全然ふまえていらっしゃらない。

〔中略〕

 このあたりの推移をきちんと把握されてから、もう一度どう「見るべき」なのかお考えいただきたいと思います。


と指摘されたのはもっともです。

 その後、オコジョさんが言及された和田春樹『北方領土問題』(朝日選書、1999)、久保田正明『クレムリンへの使節』(文藝春秋、1983)、D・C・ヘルマン『日本の政治と外交』(中公新書、1970)や、その他の書籍を確認して、「このあたりの推移」、オコジョさんのおっしゃる「日ソ交渉の重層構造」についてある程度理解できたように思います。

 オコジョさんの指摘がなければ、私は今でも、当初は歯舞、色丹の返還が最低条件とされていたことの認識を欠き、交渉をめぐる主要政治家の方針や動向についても、不十分な認識のままでいたことでしょう。
 ご指摘ありがとうございました。

 私が「見るべき」と書いたのは、

・松本は第1次ロンドン交渉で2島返還での妥結を考えたが、重光に拒否された
・重光は第1次モスクワ交渉で2島返還での妥結を考えたが、松本に反対され、鳩山に拒否された
・河野は漁業交渉でソ連側の2島返還案に同意したとされているが、これを否定している
・鳩山は第2次モスクワ交渉で2島返還での妥結を拒否し、領土問題未解決のままでの国交回復に踏み切った
・吉田は回想で、サンフランシスコ平和条約で放棄する千島列島に択捉、国後が含まれないよう要請したとしている

といったことから、要するに2島のみ返還での妥結を主張した者は、交渉中の松本や重光を除き誰もいなかったという考えが念頭にあったからですが(2島先行返還、2島継続協議も4島返還論の変形と私は考えています)、「訓令第一六号」の件に加え、当時の政治家の諸発言に照らしても、そんなことは言えないことは理解しました。
 不適切な記述であり、元記事から削除します。

 ただ、その前の

>> おそらく、重光も鳩山もそうは言っていないはずです。そんな発言や記述が
>>あれば、それこそ“転換”の根拠として挙げられるでしょうから。

 ここにも深沢さんの議論の特徴が出ています。
 「はずです」という意味が分かりません。これは、単にご自分の希望を述べているだけです。


これは違うと思います。
 松本はこうは言っていない、おそらく重光も鳩山もそうは言っていないだろう、という話をしているのです。推測なのですから「はずです」としか書けません。私は重光や鳩山の全ての著作や発言に目を通してはおりませんから、推測するしかありません。しかし、私がそう考える根拠も付記しています。単に「希望を述べている」のではありません。何故「意味が分か」らないのか、私にはそちらの方がわかりません。

 そして、これらは枝葉の議論です。本筋ではありません。
 前回取り上げた「どこにも出てこない」もそうですが、オコジョさんの記事は、枝葉の議論にやたらと固執している気がします。

 議論の本筋は、「米国の意思」をどう見るかという話でした。
 次回は、これについて述べます。

続く


オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について

2013-02-13 00:46:22 | 領土問題
 2012年9月8日付けの拙記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」に対して、オコジョさんという方が、

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など

という2つの記事を書かれました。

 それに対して私が「4島返還論は米国の圧力の産物か?」を書いたところ、オコジョさんは拙記事に対する批判として

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

四島返還論の出自――引き続き「北方領土」問題

の2つの記事を書かれ、さらに北方領土問題に関する諸論点について

「北方領土」問題の正解(1)――日本の領有権主張は?

「北方領土」問題の正解(2)――千島列島の範囲

の2つの記事で見解を示されました。

 私はこれらのオコジョさんの記事を読んで、最後の記事に

《一連の記事を拝読しました。
言及のあったいくつかの文献に当たってみた上で、反論、あるいは弁明、ないしは論評を試みたいと思います。
入手と読了に時間を要しますので、今しばらくお待ちください。》

とコメントしました。

 オコジョさんからは、

《わざわざ「予告」のコメントをいただき、ありがとうございます。
 どうか、存分にご研究ください。》

との返答をいただきました。

 その後、オコジョさんからは、いくつかの記事のトラックバックが送られてきました。その中には、拙記事の内容と全く無関係なものもありました。
 トラックバックとは、ブログの記事中で他の方のブログの記事にリンクしたことをそのブログに通知する機能です。そうではなく、単なる新記事の通知として使用されている方々がおられるのは承知していますが、私のブログの記事の下に、その記事の内容とは何の関係もない他の方の記事のトラックバックが表示されているのは、私には違和感があります。
 そこで、オコジョさんのある記事に、私のトラックバックに対する考え方はこうであり、拙記事の内容と無関係な記事のトラックバックはご遠慮願いたいと申し上げたところ、オコジョさんから、

・「以前からたぶんアホな人だろうとは思っていましたが、かくまでアホだとは!!」
・「私たち」はトラックバックをお知らせとして用いている
・気にくわないのなら私のトラックバックを削除あるいは拒否すればいいだけだ
・資料取り寄せとそれを読むために待ってくれと言われており、「気をつけていないと忘れてしまうので、それを防ぐために時々トラックバックをつけ」ているのだ

との趣旨の返答をいただきました(原文は拙記事「4島返還論は米国の圧力の産物か?」のコメント欄を参照願います)。

 私も忘れているわけではなく、遅れていることはずっと気になっていました。
 にもかかわらずこれまで書かなかったのは、私にとっては多大な労力を要する作業であるため、なかなか踏み切れなかったからです。
 オコジョさんが挙げていたいくつかの文献は入手できましたが、読み込む時間がとれません。
 また、オコジョさんの論点はかなり多岐にわたっていて、それを整理して論評を構築するのは、私にとっては大変な作業です。
 私には、オコジョさんのように、多岐にわたる論点を盛り込んだ記事を短期間に執筆する能力はありません。きっと、著しく頭が悪いのでしょう。そういう意味では、「アホ」との批判は甘受します。
 その間、他のテーマでの記事は書いているではないかと思われるかもしれませんが、それは、それらが私にとってまだしも楽な内容だったからです。難しく、時間のかかる課題は後回しにしてしまっていたわけです。

 加えて、オコジョさんに対する私の関心が薄れてしまったということもあります。
 当初、記事のトラックバックをいただいた際の印象は、後述するように、極めて的確なご批判をいただいたこともあって、これは久々に「当たり」のブロガーではないか、こういう方のものこそ読むべきブログではないかと思い、しばらくフォローしていました。
 しかし、だんだんと、違和感がつのるようになりました。オコジョさんの政治的スタンスに対する違和感ではなく(政治的スタンスが異なっても拝読しているブログはいくつかあります)、個々の主張や、表現方法に対する違和感です。
 そして、ある残念な出来事があり(私に対するものではありません)、私はオコジョさんのブログへの関心を急激に失い、ブログを読むのをやめてしまいました。
 今にして思えば、何かに幻惑されていたような気がします。

 しかし、オコジョさんにしてみれば、私が上記のようにコメントしたにもかかわらず、数か月経っても何の音沙汰もないのはどうしたことかと疑念を抱かれても不思議ではないと思います。
 また、以前の私の記事にはオコジョさんが指摘したとおりの事実誤認がありましたので、その点については私の見解を明らかにしておかなければなりません。

 前置きが大変長くなりました。
 まず、オコジョさんの「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」の前半部で取り上げられている、私の池田香代子氏に関わる記述について述べます。

 私は最初の記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」で、「ダレスの恫喝」によってわが国が2島返還論から4島返還論に転じたかのように唱える例の1つとして、翻訳家の池田香代子氏のブログ

 1951年、不当であっても日本は国後・択捉を放棄した、このことは当時の外務省も認識していました。歯舞・色丹については、放棄したとは考えていなかった。ソ連の不法占拠状態だ、と受けとめていた。ここから、二島返還論が出てきます。サンフランシスコ条約を踏まえれば当然ですし、ソ連もそのつもりで、1956年、将来の歯舞・色丹返還を盛り込んだ日ソ共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた国がありました。アメリカです。アメリカも、日本が放棄した千島列島とは国後・択捉のことであって、歯舞・色丹は日本の領土だと理解していました。なのに、素知らぬ顔でそれを曲げて、「二島返還でソ連と平和条約を結んだら、アメリカは永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」と、ダレス国務長官をつうじて脅してきたのです。「ダレスの恫喝」です。

時あたかも冷戦勃発の時期にあたります。アメリカは、日本とソ連を対立させておきたかった、日ソ間にわざと緊張の火種を残しておいて、だから米軍が日本にいてやるのだ、という恩着せの構図を固めたかったわけです。「四島返還論」は、ここにアメリカのあくなき国益追求のための外交カードとして始まります。


とあるのを挙げました(太字は引用者による)。
 そして、昨年『日ソ国交回復秘録』のタイトルで再刊された松本俊一著『モスクワにかける虹』中の「ダレスの恫喝」の箇所を引用した上で、

 「ダレスの恫喝」は確かにあった。だがそれでわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。第1次ロンドン交渉で既に「固有の領土」論を主張している。
 松本も重光も一時は2島での妥結もやむなしかと考えた。だが本国から拒否された。それだけのことだ。
 ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という発言などどこにも出てこない。


と評しました。

 これについてオコジョさんが「「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって」で、

池田氏は別に『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているわけではないのです。池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――いきなり「どこにも出てこない」と断言するのは、オカシイでしょう。


と指摘されました。

 これに対して私が「「4島返還論は米国の圧力の産物か?」で

本書巻末の佐藤優氏による解説には、ダレス発言の根拠は本書だけだとあります。実際、ほかにソースがあるという話を聞きません。
 したがって、誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう。
 私が言いたかったのは、本書に拠る限り、「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」といった趣旨の発言はなかったということです。別に池田氏が『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているとは書いていませんし、池田氏がそう書いた責任が全て氏にあるというつもりで指摘したのではありません。


と述べたところ、オコジョさんから、「日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」」で、

・「本書に拠る限り」という記述は池田氏が本書を典拠としていない以上意味不明
・誰の解説であろうと、その主張をこんな風に無批判に受容してしまうのは困る
・当時、各紙はいっせいに「ダレス警告」の内容とそれへの反論を掲げている
・松本著のダレス発言の内容から見ても「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という趣旨と見ることは可能
・松本は各紙の記者に情報を提供し、海外の研究者からの聞き取りにも応じている。「ダレス発言の根拠は本書だけ」などというのは、とてもあり得る話ではない
・米国側にも資料はあり、それを利用したマイケル・シャラーの『「日米関係」とは何だったのか』には、まさに池田氏と同様の記述がある。典拠は米国の外交文書である。

といった趣旨の、長文のご批判をいただきました。

 拙記事を読み返して、これらの点についてはおおむねそのとおりだと認めます。

 そもそもオコジョさんの
「池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――」
という箇所を私自身引用しているにもかかわらず、その私が、ダレス発言の根拠は本書にしかなく
「誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう」
と述べているのは、おっしゃるように全く意味不明であり、オコジョさんに不審の念を抱かせたことは想像に難くありません。
 きちんと読んでいなかったとしか考えられません。恥ずかしい限りです。

 件の米国の外交文書も、呈示された文書名で検索したらすぐ出てきました(いい時代になったものですね)。

http://history.state.gov/historicaldocuments/frus1955-57v23p1/pg_203

 確かに、池田氏が述べているのと同様の記述があります。

 ただ、オコジョさんが

 深沢さんの文面解釈には、非常なバイアスが感じられます。
 我らが友人のアメリカがそんなことをいう“はず”がない。いや、私はそんなことは絶対に信じないぞ――そんな意思がなかったら、上記のような無茶苦茶な議論など展開しようがないと私は感じるのです。


とあるのは――無茶苦茶な主張をしていたのは事実なのでそう思われてもしかたがありませんが――違います。
 私はそれほど米国に対してナイーブではありません。

 では何故私が根拠もないのに「誰かがダレス発言を勝手に膨らませた」などと思い込んでしまったのか。

 振り返ってみると、まず、以前に述べたとおり、佐藤優氏の記述が念頭にあったこと。
 別に佐藤氏が言うことなら一から十まで信じるわけではありませんが(この人は様々な媒体で活躍されていますが、私はこの人を書き手としてあまり信用していません)、北方領土問題は氏の専門であり、そういい加減なことを書くはずがないという「バイアス」がありました。

 次に、オコジョさんも指摘していたように、池田氏は日ソ共同宣言と「ダレスの恫喝」の前後関係を逆に理解していたこと。
 共同宣言がどういう経緯で成立したか多少なりとも知識があれば、「共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた」などという表現になるはずはありません。
 そうしたことを書く人物であれば、「ダレスの恫喝」についても「勝手に膨らませ」るか、膨らませたことを受容してもおかしくないという「バイアス」がありました。

 そして三番目に、「琉球政府の存続も認めない」という記述。
 オコジョさんがおっしゃるように、「永久に沖縄に居座るぞ」は「領土にする」と同趣旨かと私も思いました。しかし、琉球政府を認めないとする点に引っかかりました。
 米国が沖縄を領土として統治するにしろ、何らかの統治機構は必要なはずです。
 琉球政府は日本政府とは関係ありません。米国が統治のために設けた現地人による機構です。
 米国が「永久に沖縄に居座る」からといって、琉球政府を廃止する必要はありません。そのまま存続させても一向にかまわないはずです。現にプエルトリコや北マリアナ諸島といった米国の属領にも自治政府はあります。
 にもかかわらず、ダレスがそんな発言をするだろうかと考えました。

 この点については、上記の米外交文書に「no Japanese Government could survive.」と明記されていますね。
 これは沖縄の日本人政府という意味ではなく、文字どおり日本国政府のことではないでしょうか。
 永久に沖縄に居座ることにより、当時の鳩山自民党政権が存続し得ないという意味ではないでしょうか。
 私には、そう解釈する方が自然だと思えます。

 ともあれ、思い込みによる事実誤認をご指摘いただき、ありがとうございました。
 拙記事の「どこにも出てこない」旨の箇所を削除し、註を加えます。

続く

4島返還論は米国の圧力の産物か?

2012-09-17 00:03:20 | 領土問題
 拙記事「松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について」を「ダシ」に、「「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって」という記事を書いたとして、オコジョさんという方からトラックバックをいただいた。

 一度目のトラックバックの時に読ませていただいたが、その後、さらに記事に手を入れられたようで、二度目のトラックパックをいただいている。

 拙記事の「主旨は、大筋でそのとおりだと思」うとのことなので、疑義を呈しておられる箇所についてのみ私の考えを述べておく。

 まず、池田香代子氏の記述について。

 また、池田氏は別に『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているわけではないのです。池田氏は別のソースに依拠しているかもしれず――別ソースでは確かに「永久に居すわる」旨のダレス発言が取り上げられている例もあります――いきなり「どこにも出てこない」と断言するのは、オカシイでしょう。


 本書巻末の佐藤優氏による解説には、ダレス発言の根拠は本書だけだとあります。実際、ほかにソースがあるという話を聞きません。
 したがって、誰かがダレス発言を勝手に膨らませたのでしょう。それを池田氏が参照し、そう思い込んだのでしょう。
 私が言いたかったのは、本書に拠る限り、「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」といった趣旨の発言はなかったということです。別に池田氏が『モスクワにかける虹』の中にそういう記述があったと主張しているとは書いていませんし、池田氏がそう書いた責任が全て氏にあるというつもりで指摘したのではありません。

 次に、4島返還論について。

 松本氏が全権となった「第一次ロンドン交渉」の途中から、日本が4島返還を主張し始めたのは事実ですが、なぜそうした“転換”があったかという問題に関しては、単純に日本の意思だけに帰すことはできません。

〔中略〕

 ダレスの恫喝に先立って、同様の「趣旨の申し入れ」が既に米国からわが国に伝えられていたのは、事実なのです。
 米国からの圧力がなかったわけではなく、合同がなったばかりの自民党内で日ソ国交回復を妨害する勢力であった吉田派が、米国の意思を体現していた可能性は大きいと私も思います(というより、ほぼ事実です)。
 択捉・国後が日ソ友好を引き裂くクサビになると米国が考え、それに基づく明確なポリシーを展開していたことも、間違いない事実でしょう。


 米国がそのような「申し入れ」をしたのは事実でしょう。そして、その背景にはおっしゃるような明確なポリシーがあったのかもしれません(確証がない以上、「間違いない事実」などとは私にはとても言えませんが)。
 しかし、「吉田派が、米国の意思を体現していた」などと何故言えるのでしょうか。
 ソ連による北方領土の奪取をオコジョさんは不当だとは思わないのでしょうか。
 ここで日露・日ソ国境の変遷を詳しく振り返る余裕はありませんが、樺太と交換して得たウルップ島以北の千島列島にしても、日露戦争の結果獲得した南樺太にしても、わが国が侵略により奪取した領土ではありませんから、もとより領土不拡大をうたった連合国に奪われる筋合いはありません。しかし、択捉・国後の両島は、それ以前の最初の日露国境画定時からのわが国「固有の領土」なのですから、なおさら国民感情として容認できるものではありません。
 択捉・国後の要求はわが国として当然のことであり、米国はそれを後押ししたにすぎないと見るべきだと私は考えます。

 以前の拙記事で強調し忘れていましたが、松本は、米国の意向があった「から」わが国は2島返還での妥結は不可能と見て領土問題の棚上げに転じたとは言っていません。
 おそらく、重光も鳩山もそうは言っていないはずです。そんな発言や記述があれば、それこそ“転換”の根拠として挙げられるでしょうから。
 交渉過程での一時的な変心はともかく、松本も重光も鳩山も河野も吉田も、基本的には最低でも4島返還の線で一致していたと見るべきだと私は思います。〔註〕

 なお、サンフランシスコ平和条約でわが国は千島列島を放棄するとしています。これはおそらくヤルタ協定を考慮してのことでしょう。
 そして本書巻末の佐藤優氏による解説にもあるように、1951年10月19日、衆議院の平和条約及び日米安全保障条約特別委員会において、外務省の西村熊雄条約局長は、この千島列島には南千島、すなわち択捉、国後を含むと答弁しています。
 これが含まないという見解に変わるのは、先の拙記事で挙げた1955年の第1次ロンドン交渉の過程においてです。

 しかし、平和条約の当時、吉田首相は既にこの千島列島から南千島を除くよう米国に求めていたといいます。
 吉田の『回想十年』第3巻に次のようにあります。

平和条約の案分がほぼ確定的となった昭和二十六年春、米国大統領特使ダレス氏が〔中略〕来訪したときには、南千島が案分にいうところの千島列島に含まれぬことを明記されたいと要請した。
 然るにダレス氏は、日本側の説明と希望は十分にこれを諒としながらも、もし条文上にその点を改めて明かにするとすれば、関係諸国の諒解を取り直さねばならず、そうなれば条約調印の時期は甚だしく遅れることになるというわけで、草案のまゝ呑んでほしいということであった。そしてその代りというわけでもないが、平和会議に当って日本代表から何かその点に関する見解の表明をしたらよいではないかとの示唆を受けた。日本側としても、幾度かいうとおり、一日も早く講話独立を願っていたので、その示唆に従うことになったわけである。私がサンフランシスコ会議の演説で、条約案受諾の意思を明かにすると同時に、特に領土処分の問題について一言した裏には実はそうした経緯があったのである。(中公文庫版、1998、p.70-71)


 そして、同書に収録されている受諾演説には、次のようにあります。

過去数日にわたってこの会議の席上若干の代表国はこの条約に対して反対と苦情を表明されましたが、多数国間に於ける平和解決に当ってはすべての国を完全に満足させることは不可能であります。この平和条約を欣然受諾するわれわれ日本人すらも若干の点について苦悩と憂慮を感じることを否定できません。この条約は公正にしてかつ史上嘗て見ざる寛大なものであります。われわれは従って日本の置かれている地位を十分承知しておりますが、あえて数点につき全権各位の注意を促さざるを得ないのであります。これが国民に対する私の責任と存ずるからであります。
 一、領土の処分の問題であります。奄美大島、琉球諸島、小笠原諸島〔中略〕の主権が日本に残されるという米全権および英全権の発言を私は国民の名において多大の喜びをもって了承するものであります。〔中略〕千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものとのソ連の主張には承服致しかねます。日本開国の当時千島南部の二島択捉、国後両島が日本領土であることについては帝政ロシアも何んら異議を差しはさまなかったものであります。たゞウルップ島以北の北千島諸島と樺太南部は当時日露両国人混住の地でありました。一八七五年五月七日日露両国政府は平和的外交交渉を通じて樺太南部は露領としその代償として千島諸島は日本領とすることに話合いをつけたものであります。〔中略〕また日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵が存在したためソ連軍に占領されたまゝであります。(同、p.103-105)


 先に触れた西村局長の答弁も、この受諾演説を援用しています。

 条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があった通りであります。(松本俊一『日ソ国交回回復秘録』朝日新聞出版、2012、p.258)


 第1次ロンドン交渉より前においても、南千島と北千島は別物だという見解は既に存在しました。

 この記事を書いていると、オコジョさんからさらに「米国の意思と「北方領土問題」――「訓令第一六号」など」という新記事のトラックバックをいただきました。
 大変興味深い内容であり、私も久保田氏と和田氏の著作に目を通してみようと思います。

 しかし、仮に「訓令第一六号」がそのような内容のものであったとしても、それはその時点での外務省の方針がそうであったというだけにすぎません。
 なるほど外務省は当初歯舞、色丹を最低ラインと考えたのかもしれません。あるいは少なくとも松本にはそう思わせて交渉に臨ませたのかもしません。
 しかし、それはわが国の最終的な判断ではありませんでした。だからこそ松本は請訓し、そして結局のところ重光外相はこれを拒否したのです。
 交渉の一局面にすぎず、それほど重視すべきものではないと思います。
(和田氏の『北方領土問題』は未読ですが、同氏が1980年代に月刊誌『世界』に発表した北方領土問題に関するいくつかの論文は昔読んだことがあります。何というか、どうにかしてわが国に不利な主張を学問的に立証しようと懸命な方だという印象をもちました)

 そしてまた、オコジョさんは、

前回からの続きとして言うならば、ひとりの国務長官の言動に尽きる問題などではなく、もっと広く深く日本の内部にまで浸透していた意思があったのです。


と、米国の意思を強調しますが、何故そこにそれほどこだわるのでしょうか。
 米国の意思はあったのでしょう。だがわが国の意思はなかったのでしょうか。
 また、米国が米国の国益を考慮してわが国に働きかけること自体は何ら非難すべきことではないと思います。

 私自身は「四島返還論」は交渉の妥結を不可能にする「ため」に主張されていた(いる)ものと考えています。「北方領土問題」が解決してしまっては困る人たちが、国の内と外の双方にいると考えます。


 オコジョさんに限らず、そのように主張する方はしばしばおられますが、私は同意しません。何を根拠におっしゃっているのかもわかりません。
 北方領土問題の解決は多くの国民が望んでいるでしょう。ただ、2島返還で「「北方領土問題」が解決してしまっては困る人たち」が国民の大多数であるというだけのことではないでしょうか。
 2島返還ででも解決したほうがいいと考える人が多数を占めれば、それで解決するでしょう。
 それだけのことではないでしょうか。

 オコジョさんをはじめ、この米国の意思を問題視する方は、あのとき2島返還ででも妥結して平和条約を締結しておけば、日ソの友好が進み、米国のわが国における影響力は低下し、東アジア情勢も現在とはかなり異なるものになっていたのではないかという願望があるのでしょう。
 しかし、そもそも中立条約を破って不当に参戦し、捕虜を長期にわたって抑留し強制労働で死亡させ、あげくの果てに択捉・国後すら返さない、そんな国と、仮に平和条約を結んだとしても、どうやって友好関係を築くことができるのでしょうか。

 私も、オコジョさんに倣って北方領土問題に対する考えを簡単に示しておきますと、

1.もともと南樺太も千島列島もわが国が侵略して奪取したものではない。したがってわが国は4島のみならず南樺太と千島列島に対しても領有権を主張できる。
2.しかし、歴史的経緯に鑑み、4島のみの返還で平和条約を締結するのもやむを得ない。
3.北海道の一部である歯舞、色丹と南千島である国後、択捉とでは経緯が異なるのだから、4島一括返還に固執する必要はない。国後、択捉の継続協議を明記するなら、歯舞、色丹の先行返還もやむを得ない。しかし、2島返還をもって最終的解決としてはならない。
4.歯舞、色丹は北海道の一部であるから即座にわが国に編入すべきだが、国後、択捉については、わが国の主権が及ぶことを確認した上で、在住ロシア人を考慮した特殊地域とすることを認めてもよい。しかし、主権の存在確認は譲れない。

といったところでしょうか。
 ただし、これはこの地域に全く利害関係のない、一国民の戯れ言です。
 旧島民や北海道民、漁業関係者といった言わば当事者が、例えば2島返還でもよいから平和条約をと求めるなら、自説に固執するつもりはありません。

 あと、

 この論理をもう少し先に進めれば、日ソの国交回復自体を否定していた吉田茂の方針に至ります。日本にソ連の大使館を置くのを防ぐためになら、国が抑留者を見捨ててもいいという考え方には、私はとても同意できません。


との箇所については、私もそのとおりだと思います。
 だから私は、領土問題を棚上げして国交回復を成し遂げた鳩山一郎を支持します。
 実は、私は鳩山一郎という政治家をあまり高く評価していません。しかし、この領土問題を棚上げしての国交回復という一事だけでも、わが国の歴史に残すべき政治家だと思います。
 国交が回復しなければ、抑留者の全面帰国も、わが国の国連加盟も、漁業問題の解決も不可能だったのです。しかも、歯舞、色丹のみの引き渡しでは妥結せず、国後、択捉を返還させ得る可能性を残したのです。
 そういった事情を全く無視して、例えば

「北方領土について、日本側の立場の後退を受け入れた」

「友愛を「戦闘的概念」と言いながら、一郎はソ連と闘うよりも領土で譲った」

となじる櫻井よしこのような評論家もいますが、全くの愚論だと思います。


(以下2013.2.13追記、2013.2.14修正)
註 《交渉過程での一時的な変心はともかく、松本も重光も鳩山も河野も吉田も、基本的には最低でも4島返還の線で一致していたと見るべきだと私は思います。》

 このようには言えないことがわかりましたので、削除します。

 詳細はオコジョさんの記事

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

及び2013年2月13日付拙記事

オコジョさんの指摘について(2) 私の認識不足について

を参照願います。

松本俊一『モスクワにかける虹』再刊といわゆる「ダレスの恫喝」について

2012-09-08 15:17:04 | 領土問題
 本屋で松本俊一著『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』(朝日新聞出版(朝日選書)、2012)という本を見かけた。
 松本俊一(まつもと・しゅんいち 1897-1987)といえば、外交官を経て政治家となり、日ソ国交回復交渉に従事した人物だ。
 交渉の経緯を記した『モスクワにかける虹』という回想録があるはずだが、ほかにも著書があったのか?

 手に取ってみると、帯に「『モスクワにかける虹』待望の復刊」とある。
 そういうことか。
 私も「待望」していた。
 以前から一度読んでみたいと思っていたのだが、なかなか手に入らず困っていた。現物を見たことはない。古書店の目録に載っていてもかなり高価だった。
 現在「日本の古本屋」で検索しても見つからない。Amazonのマーケットプレイスに出品している人もいない。
 復刊は喜ばしい。

 しかし、何故タイトルを変えたのだろうか。
 本書によると、1966年に朝日新聞社から刊行されたときのタイトルは『モスクワにかける虹 日ソ国交回復秘録』だったそうである。
 その副題を本題とし、新たに「北方領土交渉の真実」という副題を付けたのだろう。
 しかし、『モスクワにかける虹』というタイトルは、北方領土問題に関心がある人には、後述の「ダレスの恫喝」の出所として、それなりに知られている。
 「北方領土交渉の真実」という副題も、これはあくまで松本の主観に基づいた記録であることを考えると、著者でもない人間が「真実」などと名付けるのはおこがましい気がする。
 元のままでもよかったんじゃないだろうか。

 私は、本書で是非確認したい点が二つあった。
 一つは、交渉の経緯、特に重光葵外相による交渉が失敗した理由。
 そしてもう一つは、これとも関連するが、いわゆる「ダレスの恫喝」についてである。

 日ソ国交回復交渉について、次のようなことがしばしば言われる。
 わが国はもともと歯舞、色丹の2島返還でソ連と妥結しようとしていた。しかし米国のダレス国務長官が、2島で妥結するなら米国は沖縄を返還しないと恫喝した。わが国はやむなく4島返還を主張せざるを得なくなり、北方領土問題は固定化された――という、ある種の陰謀論だ。

 「ダレス 北方領土 沖縄」で検索すると、こうした主張はたくさん見られる。
 例えば、田中宇は2006年のメルマガで、

北方領土問題の対象が2島から4島に拡大されたのは、4年後の1955年のことである。この年、米ソ間の冷戦激化を受け、ソ連は自陣営の拡大策の一つとして日本との関係改善を模索し「日本と平和条約を結んだら歯舞・色丹を返しても良い」と提案してきた。

 日本政府は翌56年7月、モスクワに代表を派遣して日ソ和平条約の締結に向けた交渉を開始したが、交渉途中のある時点から日本政府は態度を変え「歯舞・色丹だけでなく、国後・択捉も返してくれない限り、平和条約は結べない」と言い出した。交渉は妥結せず「ソ連は、日本と和平条約を締結したら歯舞・色丹を返す」という表明を盛り込んだ日ソ共同声明だけを発表して終わった。

 日本が態度を変えたのは、日ソ交渉の最中の1956年8月に日本の重光外相とアメリカのダレス国務長官が会談し、ダレスが重光に「日本が国後・択捉の返還をあきらめて日ソ平和条約を結ぶのなら、アメリカも沖縄を日本に返還しないことにする」と圧力をかけてからのことだったという指摘がある。


と述べている(太字は引用者による。以下同じ)。

 翻訳家の池田香代子のブログにも、

1951年、不当であっても日本は国後・択捉を放棄した、このことは当時の外務省も認識していました。歯舞・色丹については、放棄したとは考えていなかった。ソ連の不法占拠状態だ、と受けとめていた。ここから、二島返還論が出てきます。サンフランシスコ条約を踏まえれば当然ですし、ソ連もそのつもりで、1956年、将来の歯舞・色丹返還を盛り込んだ日ソ共同宣言も成立し、次は平和条約となったそのとき、横槍を入れた国がありました。アメリカです。アメリカも、日本が放棄した千島列島とは国後・択捉のことであって、歯舞・色丹は日本の領土だと理解していました。なのに、素知らぬ顔でそれを曲げて、「二島返還でソ連と平和条約を結んだら、アメリカは永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」と、ダレス国務長官をつうじて脅してきたのです。「ダレスの恫喝」です。

時あたかも冷戦勃発の時期にあたります。アメリカは、日本とソ連を対立させておきたかった、日ソ間にわざと緊張の火種を残しておいて、だから米軍が日本にいてやるのだ、という恩着せの構図を固めたかったわけです。「四島返還論」は、ここにアメリカのあくなき国益追求のための外交カードとして始まります。


とある。

 大前研一は雑誌『SAPIO』で次のように述べているそうだ

実は4島一括返還は日本政府が自ら言い出したのではなく、1956年8月、アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官が日本の重光葵外相とロンドンで会談した際に求めたものだ。

 当時、日本政府は北方領土問題について歯舞、色丹の2島返還による妥結を模索していたが、アメリカとしては米ソ冷戦が深まる中で日本とソ連が接近すること、とくに平和条約を結んで国交を回復することは防がねばならなかった。そこでダレスはソ連が絶対に呑めない国後、択捉も含めた4島一括返還を要求するよう重光に迫り、2島返還で妥結するなら沖縄の返還はない、と指摘して日本政府に圧力をかけたのである。

 それ以降、日本の外務省は北方4島は日本固有の領土、4島一括返還以外はあり得ない、という頑迷固陋な態度を取るようになった。つまり、4島一括返還はアメリカの差し金であり、沖縄返還とのバーターだったのである。


 「北方領土問題-やさしい北方領土のはなし」というサイトにはこんな記述がある。

 1951年、日本は、アメリカやイギリスなど多くの国と平和条約を結び、正式に戦争が終わりました。また、日本の占領状態も終わりました。この条約で、日本は千島列島を放棄しました。このとき、日本政府は、放棄した千島列島にクナシリ島とエトロフ島は含まれるので、これらの島々は日本の領土ではないと説明しています。この条約には、ソ連や中国は入っていませんでした。

 1951年の条約に、ソ連は入っていなかったので、ソ連との間で、正式に戦争を終わらせる必要がありました。そして、1956年、日本とソ連は平和条約を結ぼうとしました。8月14日、日本代表の重光葵とソ連の間で、ハボマイ・シコタンを日本領、クナシリ・エトロフをソ連領とすることで、条約交渉はほとんどまとまりかけました。しかし、8月19日、アメリカのダレスは、2島返還で妥結するならば沖縄を返さないぞ、と、重光葵を恫喝(どうかつ)し、ソ連と領土交渉はできなくなりました。この話は、重光の回想録のほか、条約交渉にあたった松本俊一が書いた「モスクワにかける虹」に詳しく書かれています。
 領土交渉がまとまらなかったのは、アメリカの恫喝のためだけではなく、日本にも、反対勢力があったことが大きな原因の一つです。
 このようないきさつがあって、平和条約を結ぶことができなかったので、代わりに日ソ共同宣言を結びました。これは、法律上、正式な条約です。日ソ共同宣言では、今後、平和条約を結んだ後に、ハボマイ・シコタンを日本に引き渡すことが決められました。この時、領土問題は解決しなかったけれど、ソ連と日本の間で戦争が正式に終わったことが確認されました。


 しかし、私の知る日ソ交渉の経緯はそのようなものではない。

 まず、松本俊一が全権委員としてロンドンでソ連の駐英大使マリクと交渉した。わが国は全千島列島と南樺太の返還を要求したが、ソ連は全く応じなかった。だが交渉の中で、歯舞と色丹だけは返還してもよいと示唆した。松本は本国に請訓したが、重光葵外相はこれを拒否した。
 次いで重光外相がモスクワに乗り込んで交渉した。ソ連の態度はやはり歯舞と色丹のみの返還なら応じるというものだった。重光はこれでやむなしと請訓したが、鳩山首相はこれを拒否した。帰路、重光はダレスと会談し、「恫喝」を受けた。
 最後に、鳩山が自らモスクワに赴いた。領土問題は棚上げし、将来の平和条約締結交渉を約した共同宣言で合意し、日ソの国交は回復した。

 だいたいこういう経緯だったはずだ。
 昔々、北方領土に関する本ををいくつか読んだ。「ダレスの恫喝」については聞いたことがある。しかし、それによってわが国が方針を曲げたなどとは記憶にない。
 mig21さんのYahoo!ブログの記事に関連して、以前にもこのことは書いた。

 早速本書を読んでみたところ、結論から言うと、上の私の記述どおりだった。
 参考までに、本書に拠って、交渉の経緯を簡単にまとめておく(領土問題以外の議題は省略する)。

1955.6-9 第1次ロンドン交渉(松本-マリク)
 松本「歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太は歴史的にみて日本の領土であるが、平和回復に際しこれら地域の帰属に関し隔意なき意見の交換をすることを提案」
「日本側としては歯舞諸島、色丹島、千島列島及び南樺太が、歴史的にみて日本の領土であることを主張しつつ、しかしながら交渉の終局においてこれを全面的に返還させるという考えではなく、弾力性をもって交渉にあたることを示したのであった」
 マリク、これら地域についてはヤルタ協定、ポツダム宣言等により解決済みであり、また千島列島及び南樺太はサンフランシスコ平和条約で日本も放棄していると主張。しかし、歯舞、色丹については、引き渡しの可能性を示唆。
 松本は政府に請訓するが、「政府は歯舞、色丹のみの返還では領土問題の解決にならないという見解をとって、国後、択捉の二つの島についても、この二島は千島、樺太交換条約の示すように日本の固有の領土であって、いわゆる千島列島に含まれていないという見解を示してきた。また千島列島並びに南樺太の最終帰属は、サン・フランシスコ平和条約締結国、ソ連及び日本の共同協議の対象になるべきものだという見解をとった」
 よって松本は、択捉、国後、色丹、歯舞については平和条約発効時に日本の主権が回復し、その他の千島列島と南樺太についてはソ連を含む連合国との協議により帰属を決定するとの平和条約案を提示。マリクは「無理な提案」であって「誠意をもってこの交渉を妥結する考えがあるかどうか疑わしい」と非難。
 マリクは、歯舞、色丹の返還には応じるが、軍事基地としないことを条件とする、また択捉、国後を含むその他の地域はソ連領であることは疑いなく、いかなる国との協議にも応じないと主張。交渉は一時中断。
「このロンドンでの交渉が始って以来東京からの情報を総合すると、日ソ国交正常化について鳩山首相は非常に熱心であるにかかわらず、重光外相はいわゆる慎重論ですこぶる熱意がなかった」
 松本は、彼からの詳細な報告を重光は鳩山に見せていなかったとの鳩山の回顧録の記述を引用している。

1956.1-3 第2次ロンドン交渉(松本-マリク)
 領土問題についての進展なし。松本は非公式会談で「国後、択捉両島の返還は、これが日本の固有の領土であるという国民的感情から、日本全国民あげての悲願で、これを無視しては交渉の推進が困難であると述べた。これに対してマリク全権は、千島列島その他の領有は合法的にソ連に帰属したものである。歯舞、色丹についてのソ連の態度は、史上未曽有の寛大な措置である。ソ連側はその返還に特別の条件を付するものではなく、なんらの代償を求めるものでもないと述べた」

1956.4-5 漁業交渉(河野-イシコフ)
 河野一郎農相、訪ソしイシコフ漁業相と交渉、日ソ漁業協定を締結。しかし協定の発効は国交回復が条件。7月末までに国交交渉を再開することで合意。

1956.7-8 第1次モスクワ交渉(重光-シェピーロフ)
 重光外相を首席全権とし、松本全権も加わり訪ソ。ソ連側首席全権はシェピーロフ外相。
 重光は当初強硬論であったが、ソ連側の態度は変わらず。交渉の最終段階に至り、重光は「急に態度を変更して、ここまで努力したのであるから、この上はソ連案をそのままのむ以外にはないという態度となり」「ソ連案そのままの領土条項を設けた平和条約に署名しようといい出した」。松本は、第1次ロンドン交渉において重光から国後、択捉をあくまで貫徹せよとの訓令を受け、これまで苦労してきた経緯や、政府の規定方針、自民党の党議、国民感情等を考慮してこれに反対。重光は一切を委任されており請訓の必要はないと主張したが、松本の強硬な反対を受けしぶしぶ請訓に応じた。
 閣僚、党3役は到底受諾できないとの意見で一致し、鳩山首相は「この際直ちにソ連案に同意することについては閣内挙って強く反対し、また国内世論もすこぶる強硬であると判断されるについてはソ連案に同意することは差し控えられ」たい旨返電。
 帰路、重光はスエズ運河会議に出席するためロンドンに立ち寄る。その際米国大使館にダレス国務長官を訪問し、日ソ交渉の経過を説明。

ところが、ダレス長官は、千島列島をソ連に帰属せしめるということは、サン・フランシスコ条約でも決っていない。したがって日本側がソ連案を受諾する場合は、日本はソ連に対しサン・フランシスコ条約以上のことを認めることとなる次第である。かかる場合は同条約第二十六条が作用して、米国も沖縄の併合を主張しうる地位にたつわけである。ソ連のいい分は全く理不尽であると思考する。特にヤルタ協定を基礎とするソ連の立場は不可解であって、同協定についてはトルーマン前大統領がスターリンに対し明確に言明した通り、同協定に掲げられた事項はそれ自体なんらの決定を構成するものではない。領土に関する事項は、平和条約をまって初めて決定されるものである。ヤルタ協定を決定とみなし、これを基礎として論議すべき筋合いのものではない。必要とあればこの点に関し、さらに米国政府の見解を表明することとしてもさしつかえないという趣旨のことを述べた。
 重光外相はその日ホテルに帰ってくると、さっそく私を外相の寝室に呼び入れて、やや青ざめた顔をして、「ダレスは全くひどいことをいう。もし日本が国後、択捉をソ連に帰属せしめたなら、沖縄をアメリカの領土とするということをいった」といって、すこぶる興奮した顔つきで、私にダレスの主張を話してくれた。
 このことについては、かねてワシントンの日本大使館に対して、アメリカの国務省からダレス長官が重光外相に述べた趣旨の申し入れがあったのである。しかしモスクワで交渉が妥結しなかったのであるから、まさかダレス長官が重光外相にこのようなことをいうことは、重光氏としても予想しなかったところであったらしい。重光氏もダレスが何故にこの段階において日本の態度を牽制するようなことをいい、ことに米国も琉球諸島の併合を主張しうる地位に立つというがごとき、まことに、おどしともとれるようなことをいったのか、重光外相のみならず、私自身も非常に了解に苦しんだ。


 サンフランシスコ条約第26条とは次のとおり。

第二十六条 日本国は、千九百四十二年一月一日の連合国宣言に署名し若しくは加入しており且つ日本国に対して戦争状態にある国又は以前に第二十三条に列記する国の領域の一部をなしていた国で、この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする。但し、この日本国の義務は、この条約の最初の効力発生の後三年で満了する。日本国が、いずれかの国との間で、この条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行つたときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。


 たしかにそう主張し得る余地がある。

1956.10 第2次モスクワ交渉(鳩山-ブルガーニン、河野-フルシチョフ)
 松本は帰国後鳩山邸で河野農相、岸信介自民党幹事長らと会談し、領土問題を棚上げし国交正常化を図るべきと進言。河野、岸も賛成。鳩山首相はソ連のブルガーニン首相宛に、領土交渉の協議継続を条件に、これを棚上げしての国交正常化交渉を打診。ブルガーニンは交渉には応じる旨返還するが、領土交渉の協議継続には触れず。松本は訪ソしグロムイコ第一外務次官(のち外相)を訪問、書簡で領土問題を含む平和条約締結交渉の継続確認を求め、グロムイコもこれに同意(松本・グロムイコ書簡)。
 かくして、鳩山首相、河野農相が訪ソし、日ソ共同宣言に合意。共同宣言には平和条約締結交渉の継続と締結後の歯舞、色丹の引き渡しが明記されたが、平和条約締結交渉に領土問題が含まれるとの表現を盛り込むことはできなかった。

 まとめ終わり。

 「ダレスの恫喝」は確かにあった。だがそれでわが国が2島返還論から4島返還論に転じたのではない。第1次ロンドン交渉で既に「固有の領土」論を主張している。
 松本も重光も一時は2島での妥結もやむなしかと考えた。だが本国から拒否された。それだけのことだ。
 ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という発言などどこにも出てこない。〔註〕

 本書によると、このダレス発言は当時外部に漏れて日本の新聞にも掲載され、「日本の世論に相当な動揺を与え」「政府としてもこの問題の収拾には非常に苦慮した」そうだ。その記憶が現在でもさまざまに語り継がれているのだろう。

 なお、松本は先に引用した「非常に了解に苦しんだ」に続いて、次のように述べている。

 そこで、二十四日に重光外相は、さらにダレス国務長官に会って日本側の立場を縷々説明した。その日は、ダレス長官がアメリカの駐ソ大使ボーレン氏も同席させて、十九日の会談〔引用者注・「恫喝」発言〕とは余程違った態度で、むしろアメリカ側の領土問題に対する強硬な態度は、日本のソ連に対する立場を強めるためのものであるということを説明したそうである。
 

 また、政府が収拾に苦労したという記述に続けて、

九月七日に至ってダレス長官が、谷駐米大使(正之)に対して、領土問題に関する米国政府の見解を述べた覚書を手交した後の会談で、「この際明らかにしておきたいが、米国の考え方がなんとかして日本の助けになりたいと思っていることにあることを了解して欲しい云々」と述べて、ダレス長官の真意が日本側を支援するにあったことが明確になってきたので、世論も国会の論議も平静を取り戻した。


とある。
 これを額面どおりに受け取るかどうかは別として、少なくともダレスがこのように弁明したことは事実だろう。
 本書には佐藤優が長文の解説を付している。そして末尾で一節を設けてこの「ダレスの恫喝」を紹介しているにもかかわらず、松本のこれらの記述に全く触れていないのはアンフェアではないだろうか。

 仮に歯舞、色丹のみで妥結した場合、米国が対抗して実際に沖縄を領有したとも考えにくい。
 何故なら、カイロ宣言に次のようにあるように、 

三大同盟国〔引用者注・英米華〕ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ


米国は対日戦の結果としての領土拡張を否定していたのだし、こんなことで沖縄領有に踏み切ったら、わが国の対米感情は著しく悪化し、反米的な社会党などによる政権への交代や、ソ連・中共への接近という事態も予想されただろうから。
 ダレスがわざわざ弁明したのもそのためだろう。

 そして、結局のところ、米国は沖縄を返還したのである。
 ならば、もう「恫喝」の効果はない。わが国は沖縄を気にすることなく、歯舞、色丹のみの返還で妥協するという選択もとり得るはずである。
 沖縄返還後もそうした見解がわが国で主流にならなかったのは、別に米国に遠慮しているからでも、外務省が「頑迷固陋」であるからでもなく、択捉、国後は国境画定以来のわが国「固有の領土」であり、日ソ中立条約を破って不当に参戦したソ連による奪取は断じて容認できないという至極当然の国民感情の産物だろう。
 また、ソ連がその後長らく「領土問題は存在しない」との立場をとり、歯舞、色丹の引き渡しすら否定していたことも一因だろう。

 「ダレスの恫喝」論を唱える人々は、この交渉の経緯をおよそ理解していないか、理解していても政治的理由で敢えて無視しているのだろう。
 2島返還論に立とうが反米論をぶとうがそれは個人の自由だと思うが、少なくとも事実関係に基づいた主張をしていただきたいものだ。


(北方領土問題に関連する拙記事

北方領土問題を考える

「2島」は4島の半分ではない

貝殻島へのソ連の上陸に対し米軍が出動しなかったとの妄説について

プーチンの北方領土問題「最終決着」発言を読んで

「領土問題に「引き分け」などあり得ない」?


(以下2013.2.13追記)
註 《ましてや池田香代子が言う「永久に沖縄に居座るぞ、琉球政府の存続も認めないぞ」という発言などどこにも出てこない。》

 この記述については、オコジョさんという方から、池田氏は『モスクワにかける虹』を出典として挙げているわけではなく、実際、ほかにもダレス発言の根拠はあるのだから、このように池田氏を批判するのはおかしいというご指摘がありました。
 検討したところ、たしかにおっしゃるとおりでしたので、この箇所を削除します。
 詳細は、オコジョさんの記事

「ダレスの恫喝」について――「北方領土問題」をめぐって

日米関係と「北方領土」問題――再び「ダレスの恫喝」

及び拙記事

オコジョさんの指摘について(1) 池田香代子氏に関わる記述について

をご参照ください。



尖閣で騒ぐな 尖閣を騒ぐな

2012-08-22 01:07:13 | 領土問題
 北方領土、竹島、そして尖閣諸島。
 この3箇所の問題を同じように捉えている人が多いように思う。

 しかし、北方領土及び竹島と、尖閣諸島では、2点異なることがある。
 一つは、尖閣諸島はわが国が実効支配しているということ。
 そしてもう一つは、北方領土に上陸したのはロシアの大統領及び首相、竹島に上陸したのも韓国の大統領であるのに対し、尖閣諸島に上陸したのは中国(今回は香港)の民間人にすぎないということ。
 この違いはとてつもなく大きい。

 今回、尖閣諸島に上陸した香港の活動家を強制送還で済ませたことに批判の声が上がった。
 石破茂はオフィシャルブログの「竹島、尖閣など」という記事で、

 尖閣に不法上陸した香港の活動家を強制退去させる、という政府の今回の対応も、明らかに誤りです。
 「小泉政権時の対応に倣った」とあたかも自民党と同じことをして何が悪いのだと言わんばかりの姿勢ですが、あの時と今とでは状況が全く異なります。その後中国船が再三にわたり領海侵犯を行い、漁船が海上保安庁巡視船に体当たりするなど、中国側の行動はさらにエスカレートしているにもかかわらず、同じ対応でよいという思考法は一体何なのでしょう。


とし、さらに

 今回の不法上陸に同行した香港のテレビは中国政府寄りの報道で知られている局であり、今回の行動の背後に間接的に中国政府がいたと考えるのが普通でしょう。


と彼にしてはやや危なっかしいことを書いている。

 BLOGOSを見てみると、佐藤優は、記事「尖閣に不法上陸した5人と不法入国した9人の扱いを区別すべきである」で、

 日本国家の領域は、領土、領海、領空に分かれる。領土・領空と領海は、国際法的な取り扱いが異なる。外国の船舶が日本の領海を航行しても、無害通航ならば領海侵犯にはならない。今回の抗議船の場合、尖閣諸島に不法上陸する意図があるのだから、無害通航とはいえない。いずれにせよ、領海に侵入するだけの不法入国と、わが国の領土に不法上陸することの間では、後者の方がはるかに悪質である。

 中国人は、今後も尖閣諸島への上陸を試みる。このことを考慮に入れ、今回、魚釣島に不法上陸した5人に関しては、送検し、背後事情、中国の公権力の関与などを徹底的に調査する必要がある。この機会に、「尖閣諸島に上陸すると送検され、長期勾留される」という「ゲームのルール」を定着させることが重要と思う。


と、今回上陸しなかった者はともかく上陸犯は送検し勾留せよと説いている。

 元検察幹部の郷原信郎は、記事「尖閣不法上陸への弱腰対応も、「検察崩壊」の病弊」で、

 今回のような確信犯的な不法上陸事案は、刑事事件としての評価・判断からすれば、極めて悪質な刑事事件として、当然、逮捕・勾留して起訴すべきだ。それを行わなわず、入管引渡しの上、国外退去という措置をとるとすれば、日中関係を考慮した「外交上の判断」によるものとしか考えられない。
 憂慮すべきことは、今回の措置が、入管難民法の規定に基づく「刑事事件としての当然の措置」のように説明されていることだ。もし、この種の主権、領土の侵害事件に対して厳正な刑事処分を行わないという判断が、「法律上、司法上の当然の判断」とされるのであれが、もはや、我が国は、国家としての体をなしていないと言わざるを得ない。


と、送検し起訴すべきだと説いており、塩崎恭久も「確信犯には裁判しかあり得ないだろう 」と述べている。

 一方、「日本は断固自重すべき」とか「いちいちウロタエルな」という指摘もあった。
 私はこちらに同意する。
 そして、以下の理由で、今回の強制送還は極めて妥当だったと考える。

1.実刑は無理

 16日の朝日新聞夕刊1面トップの「尖閣 あすにも強制送還 逮捕の14人那覇移送」という見出しの記事は、次のような「政府高官」の発言を伝えている。

 政府高官は16日、「容疑が出入国管理法違反だけなら過去に何度も違反していない限り起訴猶予になり、結局強制送還になるだろう。それなら送検せずに強制送還しても同じだ」と述べ、混乱の長期化を避けるため、早期に強制送還した方が望ましいとの考えを示した。


 単なる不法上陸なら、実刑はおろか、起訴にすらならない。
 石破や郷原が触れている出入国管理法65条に従って、送検されずに即入管に引き渡されることもしばしばある。

 2010年9月の中国漁船衝突事件の船長は、公務執行妨害で逮捕され送検された。私は、あの事件は、当初仙谷官房長官が述べていたように、国内法にのっとって粛々と処理すべき、具体的に言えば起訴すべきだったと考えている。当時の中国側の猛反発、そして在中国日本人の拘束という事態を考慮しても(だからといって、それらを考慮した上での釈放という政治判断を批判するつもりはないが)。

 しかし、今回は、公務執行妨害も器物損壊も成立しないという。
 ならば、送検されずに、入管に引き渡されて即国外退去となってもおかしくない。
 現に、石破も書いているように、小泉政権もそのように対処したのだ。

 石破が言うように、あのころとは中国側の動きが違うという見方もあるだろう。
 そもそも強制送還という対応がおかしいのであり、このような確信犯による領土の侵害に対しては、厳正に対処すべきだという考え方もあるだろう。
 しかし、刑事罰をもって応じる段階ではまだないように思う。

 彼らを送り込んだ香港の「保釣行動委員会」の幹部は、10月に再び上陸を目指し抗議船を出す意向を表明したという。
 そのような行動が度重なれば、刑事罰を科さなければならないという事態も有り得るだろう。
 あるいは彼らが海保や警察に対して武力攻撃に及ぶとか、日本の漁船を拿捕するといったことがあれば、断固とした対処が必要だろう。

 佐藤は、尖閣への上陸は長期勾留を招くというルールを定着させよと説くが、確信犯に対して長期勾留は必ずしも抑止力にならないのではないか。
 ましてや受刑などさせたら、それこそ帰国時には英雄扱いされるだろう。
 それに、獄死でもされたら、殉教者を生むことになってしまう。

 それよりは、押しかけたけど、いなされて相手にされずに送還されたというかたちをとった方が、今のところはいいのではないか。
 生ぬるい対応では彼らは何度でも来るという主張もあるが、そうだろうか。
 例の中国人船長に続く者は中国本土からは来ていない。彼は中国政府により軟禁状態に置かれていると昨年報じられた。
 香港には本土ほどの統制力は及ばないのかもしれないが。

 石破は、

 公務執行妨害罪や器物損壊罪、あるいは傷害罪の嫌疑すら全くないと誰がどのようにして判断したのか、刑事手続を進めない方がいかなる国益に合致すると誰が判断したのか、ビデオの公開とともにそれを明らかにしない限り「法に従って厳正に対処した」などと言えるはずはありません。


とも主張しているが、それは捜査機関が判断すべきことである。現場の捜査員の判断抜きに、現場の一部を切り取ったに過ぎないビデオの映像だけを見て、国会議員や、ましてや個々の国民が、○○罪が成立するだの国益に合致するのしないのと議論して判断すべきことではない。

2.中国政府を動かすべきではない

 今回の逮捕に対して、中国の多数の都市で、激しい反日デモが起きたと報じられている。
 仮に今回の上陸犯が送還されなければ、その矛先は中国政府に向かうだろう。
 するとどういう事態になるのか。
 例の中国人船長の時には、どういう事態になったのか。

 今回の反日デモは、中国国内ではほとんど報じられていないそうだ。
 中国政府としても、自らのコントロールの及ばない大衆運動など望むところではないのである。
 それでも、わが国が勾留を続け、起訴し、処罰するならば、中国政府としても動かざるを得なくなることだろう。
 果たして、両国の全面対決が、わが国にとって望ましいのか。
 今回の上陸犯を処罰することにそれだけの価値があると思うなら、やってみるがいいだろう。しかし、私にはそうは思えない。

3.領土問題をアピールする機会を与えてしまう

 何より、今回の上陸者の問題を長引かせることは、尖閣諸島が日中間の係争地であることを他国にアピールしてしまう。
 それは避けるべきだ。

 別にアピールされてもいいじゃないか、歴史的に尖閣諸島がわが国固有の領土であることは明らかなのだから、と思われる方もおられるかもしれない。
 しかし、他国はいちいちどちらが正しいかといった細かい検証などしてくれない。係争があるという事実をます報じ、せいぜい双方の言い分を紹介するだけだ。
 竹島についても、最近ウォール・ストリート・ジャーナルが、「両国の歴史書によると、この島は長く韓国に帰属していた」と報じたそうだ。わが国にはそんな歴史書はないのに。

 1982年のフォークランド紛争で、イギリスとアルゼンチンのどちらに理があるか、わが国で誰か気にしただろうか。

 わが国の立場は「尖閣諸島における領土問題は存在しない」というものである。問題が存在するという主張が広く知られることはわが国益にならない。

 そんな尖閣諸島に今度は日本人が上陸したという。
 政府は上陸を許可せず、彼らも上陸しない方針だったが、一部の人間が海に飛び込んで上陸したのだという。
 朝日新聞デジタルより。

尖閣上陸、5人は地方議員 沖縄県警が10人任意聴取へ

 尖閣諸島(沖縄県石垣市)の魚釣島沖で戦没者の慰霊に参加した日本人のうち10人が19日午前8時前、船から泳いで魚釣島に上陸した。灯台付近で日の丸を掲げたり、灯台の骨組みに日の丸を張りつけたりした。海上保安庁の呼びかけで、午前10時までに10人全員が島を離れた。慰霊には国会議員も参加したが、上陸しなかったという。

 関係者によると、上陸者のうち5人は東京都と荒川・杉並両区、兵庫県、茨城県取手市の各議員。残る5人は民間人。

 海上保安庁は上陸者が戻った船を立ち入り調査したが、法令違反はなかった。政府は島を借り上げて立ち入り禁止にしており、沖縄県警は許可なく上陸したとして、軽犯罪法違反の疑いで20日に10人から任意で事情を聴く方針。

 今回の慰霊の一行は、18日夜に船で石垣島を出発した自民、民主、きづなの超党派の国会議員8人らと、宮古島や与那国島を出たグループを含む総勢約150人。21隻の船団で尖閣沖を目指した。

 19日午前5時すぎに魚釣島沖に到着。船上で午前6時40分ごろからの慰霊祭を終えた後、メンバーが船から海へ飛び込んで上陸した。

 乗船した自民党の山谷えり子参院議員は19日夕、石垣島に戻って会見し、「上陸は正当化できるものではないが、気持ちは分かる」と述べた。山谷氏らは今月初め、慰霊祭のため上陸許可を政府に求めたが、政府は尖閣諸島の平穏かつ安定的な維持管理の観点から、認めていなかった。


 毎日新聞によると、10人の内訳は次のとおり。

上陸したのは鈴木章浩都議、和田有一朗兵庫県議、茨城県取手市の小嶋吉浩市議、東京都荒川区の小坂英二区議、同杉並区の田中裕太郎区議の地方議員5人と、「頑張れ日本!」の水島総幹事長やネットメディア「チャンネル桜」のキャスターやカメラマンら一般人5人。


 朝日新聞の20日朝刊社会面の記事より。

 関係者によると、上陸した10人は数隻に分乗していた。魚釣島沖で慰霊祭を終え、自由解散になった直後。慰霊祭を共催した政治団体「頑張れ日本!全国行動委員会」(田母神俊雄会長)の水島総幹事長(63)を皮切りに次々と海へ飛び込んだ。

 海上保安庁の巡視船が拡声機で「島から離れなさい」と伝えたが、泳ぎ着いた。上陸後は、第2次大戦の犠牲者を弔う島の慰霊碑に手を合わせ、4枚の日の丸を島の灯台などに掲げたという。

 帰港後、沖縄県石垣市のホテルで会見した水島氏は、上陸は「計画的ではない」と強調。ともに上陸した東京都の小坂英二・荒川区議は「政府が日本領だと示す行動をしてこなかったから、こういう手段をとらざるを得なかった。当たり前のことをしただけだ」。

 慰霊祭の船団に加わった前横浜市長の中田宏・大阪市特別顧問は上陸行動について「気持ちはよくわかるが、外交のカードがないまま、こういった形で物事が進むのは感心しない」と話した。


 BLOGOSで「騒ぐ島を間違えている」という論評があったが、全く同感だ。

 山谷や中田が上陸者を否定的に評しているのが救いか。

 新華社通信はこの上陸を批判する社説で、彼らを「右翼分子」と評したそうだ。
 つまり、彼らが代表的日本人であるとはしていない。
 日本の軍国主義勢力が悪かったのであって、人民全体が悪いのではないという、相変わらずの彼らの論理である。
 しかし、これはまだ、彼らが全面的にわが国と対決するつもりがないことを示している。

 中国が警戒を要すべき国であるのは当然だ。だが今は、敢えて対抗して尖閣諸島に上陸すべき時期でも、中国人の上陸犯を長期にわたって拘束すべき時期でもないと私は考える。