福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は釈 雲照師御生誕の日です

2024-04-15 | 法話

今日4月15日は釈 雲照師御生誕の日です。釈 雲照師(文政10年3月20日(1827年4月15日) から明治42年(1909年)4月13日)は、幕末から明治にかけて活躍した真言僧です。俗姓は渡辺氏、出雲国の出身。日本人初の上座部仏教徒である釈興然は甥です。1844年(弘化元年)高野山で修学、江戸時代後期に戒律復興運動を行った慈雲の影響を受け、明治維新後の1884年(明治17年)十善会を発足し戒律主義を主唱、多くの貴顕が参集しました。また明治維新に伴う廃仏毀釈に激しく抵抗し、後七日御修法の復活運動を展開、ついに東寺において御修法を復活させました。また高野山の女人規制の解除にも徹底的に抵抗し、山上の僧侶が明治政府の役人に気を使って、雲照師を精神異常者扱いしたということです。また師は、どのような貴顕が現れようと自分の前で五体投地の三礼をさせたそうです。それは自分に対してではなく、仏法を尊崇させるためとしていたということです。目白に目白僧園を設立、またその中に「十善会」をつくり,江戸後期に慈雲尊者が提唱した十善戒の普及に努めています。

以下密教大辞典の釈雲照師の記述です。

釈雲照 仁和寺第三十三世。目白僧園創立者。俗姓は渡辺氏。出雲国神門郡東園村忠左衛門の四男也。文政十年三月二十日生る。天保七年九月八日同郡多聞院慈雲の門に入り剃髪し沙弥戒を稟く。時に七歳。・・弘化元年八月高野山に登り、金剛峯寺寺務実賢を拝し秘密伝法灌頂壇儀印を稟く。同二年二月涅槃会前夕、仏前に正法弘通の大誓願を発起し不動明王の秘法三千座を修す。・・寶性院良基に華厳を学び、東南院高堅に天台の幽致を探り、量観に雲傳神道を承け、円通寺隆鎮に秘蔵記並びに有部律の講説を聴き、兼ねて菩薩沙弥の両戒を受く。・・隆鎮より重ねて秘蔵記を受け、同山徳厳院に於て求聞持法を修す。八月明石願成院にて霊雄に大日経を学び、十一月摂津で高堅に天台学を稟く。嘉永三年更に高野山にて大日経を智光に学び・・・冬奥の院にて求聞持法を修す。四年春隆鎮に安流の印可並びに大日経奥疏を伝授し、同五年出雲岩屋寺に求聞持法を建立、且即身義を講ず。六年京都で清和院隆賢に唯識を学び、・・安政元年高野山東南院密賢に玄義を学び更に北嶺に攀じ大寶律師に台学並びに梵網経を習ふ。三年春河内高井田長栄寺・端堂より十善戒・八斉戒・沙弥戒を受く。五年高野山において求聞持法及び八千枚護摩供を修すること両度。・・万延元年八月二十一日河内高貴寺に於て具足戒を受け・・文久元年出雲普賢院に八千枚護摩供を修し、高野山真別所にて栄厳和尚に随い有部律により重ねて具足戒を受く、時に三十五。・・明治維新廃仏毀釈の事起こるや専ら身心を仏教興復に委ねて東奔西走し僧風の頽廃を慨きて終始一貫戒律を昌道せり。明治七年京都勧修寺門跡となるもこれを辞し・・十二年十一月東京霊雲寺に真言宗大成会議を開き、新古合同一宗画一の宗制を布き、同十四年四月京都東寺の傍に総学を創立して大いに宗内の人材を陶冶す。又明治四年宮中真言院後七日御修法の廃せられしを慨き長者三条西実乗禅を裨け、同十五年上奏裁可を得て之を再興し、改めて東寺灌頂院において奉修することとなりぬ。十六年一月久邇宮より謁を賜ひ、毎月観音講を殿中に修し、ついにその外護によりて十善会を東西両京に起こし、殿下を奉じて上首となす。‥内務書記官青木貞三の斡旋により十九年小石川関口台町に地を購ひ、二十年二月目白僧園を新築・・二十三年四月雑誌十善寶窟を発行して十善会の機関とし以来二十年間筆を休めず、四恩十善の教えを鼓吹せり。二十年五月那須野に雲照寺を開創、二十六年東京に夫人正法会を起こし・・三十一年備中寶島寺に連島僧園を開く・・三十二年仁和寺門跡、大僧正。翌年辞し目白に退隠し専ら・・神儒仏の三道一貫の徳育主義を昌道・・四十二年四月十三日午後六時二十分目白僧園にて遷化。壽八十三、臘四十八。‥骨を分ちて東京及び雲照寺・仁和寺・備中寶島寺の四處に埋む。和尚生涯持律厳峻、道徳一世を風靡し一時の貴紳名流皆帰依せざるなし。徒弟草繋全宜、其の傳三巻を作り刊本世に行はる。

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