民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

東浩紀と梅原猛と高木仁三郎 1

2013-04-20 20:28:45 | その他

 何という表題の取り合わせだろう。でも、多分わかる人はわかる。昨日から今日にかけてとりためた録画を見る。東浩紀が梅原猛に会いに行くというのを見る。正直東は、『思想地図』で読んだくらいしか知らない。表層文化論をやる哲学者だろうか。録画で見ると、高校生から社会人まで集めて勉強会をしている。うん、こいつはいい。学問は野から始まるのだ。いや、野にこそ学問はあるのだ。その講座の何人かを引き連れ、東が梅原先生に3.11後の人の生き方について教えを乞いに行くというもの。3.11を庶民はどう捉えているのだろうか。自分はどう生き方に反映させなければならないのだろうか。昨年こうした問題意識のもとに講演会を催したが、主催した側の意図を感じてくれた参加者は一握りもいたかどうか。人のことはともかく、自分はどう内在化できるのか。集中的に3.11関連の書物を読んできたが、答えはいまだみつからない。そうこうしているうちに、この国の人々は、あの負け戦の後でそうしたようにきれいに水に流して、まるで悲惨な現実がなかったがごとき顔をして、原発稼働を含めて、かわらない日常を続けようとしている。かくいう自分だって、何ができているのかと問われれば、うつむくしかないのであるが、少なくとも考え続けようとしている。
 梅原先生は、西洋哲学が限界にきたことを理解し、日本人固有の哲学に帰らなければならない、それは仏教の「草木国土悉皆成仏」という言葉に表現されているように、生きとし生けるものに命があるとした、縄文以来の思想であるというのでる。梅原先生、それはまずいですよ、それは同じ京大にいた岩田慶治先生が、ずっと前から言ってることですから、名前くらいだしておかないと、盗作になりますよ。ということで、学生時代に山口昌男とともに傾倒した岩田慶治先生を思い、確かタイの調査で、川のせせらぎ、鳥の鳴き声、木漏れ日などの1つ1つに神を感ずる人々の記述を探そうと、著作集を繰ってみるも探し出せず残念。ともかく、自然と人間とが共存するという思想は、なにもこの国に限ったものではありません。自然との共存で思うのですが、3.11以後唱歌「故郷」を歌うと以前にもまして、心にしみてしまう1節があります。「山は青きふるさと 水は清きふるさと」の部分です。原発周辺の福島の山はいくら青くとも触れることはできませんし、いくら清くとも水を飲むことはできません。故郷を追われた皆さんがこの歌を歌う時を思うと、胸がつまります。
 完全に操作できるものとしての自然という考え方を変えなければならないのは事実ですし、梅原先生はそれをいいたかったのだと思います。東もそのことは十分わかり、そうした思想はアニメのキャラクターを人格あるものとしてとらえる若者の心に生きていると述べていました。こいつは民俗学です。いい勉強をしていると思いましたが、東について京都へ行ったのが皆男だったし、東の講座に集まっていたのも映像で見る限り男ばかりでした。こいつはどういうことだ。現代思想を語るのは男だけで、女はそんなウザったいことはしないというのだろうか。どうしてなのか、誰かに聞いてみたい。

 続いて見ていたら、次に核物理学者の高木仁三郎さんの生き方をたどる番組となった。こいつも重くて、思うところ大でしたが、話があちこちになってしまうので、次回に書きます。