職場の自分の部屋に、折口の書を飾り、根方に古代研究を並べて置き、時々開いて拾い読みなどして、いつか理解したいものだとため息をつく。いつか使ってやろうと思いつつも、どうにも文脈が理解できない、どうしてそんなこといきなりいえるの折口先生となって、また飾りと化す。そんなことを繰り返していました。今日たまたま息子の本棚を見ると、中沢新一の書いた折口が目につき、さっそく読みました。折口が古代人だということがよくわかりました。しかし、折口がなぜ現実世界から疎外され、いや疎外感を持ち、古代に耽溺していったかが書かれていません。つまり、誰もが知る折口の性癖について。今やゲイ能人にもたくさんいるのですから、個性としてとりあげないのが不思議です。誰かが書いてましたが、どうせオカマがいってることだからと軽く受け流されるから、きついことでも遠慮なくいえると。だからテレビでもコメンテーターとして重宝がられているし、危険で周縁的で日常を超えていて等、という現代に在って存在そのものが芸能の本義を体現している貴重な人々だと思います。折口の屈折したメンタリティーが、古代人の感覚をそのまま感じてしまうという特異な才能を作りだしたと思うのです。そんな折口に比べてみれば、失礼ながら柳田は凡庸だと感じてしまいます。結論いえば、この本読んでも折口を使えるようにはなりません。
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