民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

川井訓導事件から二・四事件によせて

2013-04-05 18:06:11 | Weblog

  1924(大正13)年、川井訓導事件が起こります。これは、大正デモクラシーの中で自由な教育を推進する長野県下教育会を快く思わない行政当局が、県外から視学をよんできて県下の授業を参観し、国定教科書を使用せず副教材で修身の授業をおこなった川井訓導を、みせしめとして処分したものでした。行政の教育への介入に対して信濃教育会は反対の雑誌『信濃教育』で反対の論陣を張り、岩波茂雄ら著名人の原稿をのせました。これに抗議して、辞職した校長もいました。まさに信州教育の面目をほどこしたものといえます。このころから、昭和10年ころまで、柳田国男は足しげく長野県に通ってきます。長野県の教員が求めるものが大きかったのです。それから約10年後の1933(昭和8)年、二・四事件がおこりました。当時は世界恐慌のあおりで、長野県は養蚕不況に陥り、弁当を持参できない欠食児童がたくさんいました。家庭の厳しい状況を見て、共産主義に賛同する教員が現れました。これを密かに内偵していた県当局は、共産党に属する教員ばかりなく、自由な教育を志す教員も行政に従わない不逞の輩として、多数検挙したものでした。戦争へ向かうためには、文部省の通達に素直に従わない信州教育をまず叩いておこうという意図だったと思います。長野県史では、次のように記述しています。「石垣倉治知事が事件の原因の一つとして、県下には教育の自由独立の伝統があり、校長が部下の統率・監督に「不干渉主義」をとっていることをあげたのをはじめ、論議でも「教権独立」への非難があいついだ。愛国勤労党南信支部の中原謹司議員は、信濃教育会が「従来ノ自由主義的ナ考ヘカラ蟬脱」し、県の人事に干与することを猛省すべきだと主張した」

 川井訓導事件を契機とする行政の干渉ははねつけた信濃教育会でありましたが、二・四事件以後は自由主義的教育の旗をおろして行政へとすりより、むしろそのお先棒をかついで、率先して満蒙開拓義勇軍を送出していくのです。信州教育といって誇れるのは、1933年以前だといってもよいでしょう。そして、あれほど信州に通ってきた柳田がピタッと足を運ばなくなるのは、教育界の変節をきらったからだともいいます。多数の検挙者をだして、文部省・県当局に従わざるをえない地点に追い込まれたともいえます。

 戦前のひどく昔の話のようですが、治安維持法違反をコンプライアンス違反と読み替えたら、最近の話とつながるのではないでしょうか。

 


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