民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

寺と葬式

2013-04-27 19:48:45 | 民俗学

 

相変わらず葬儀の変化にこだわりをもって、追いかけています。というのも、葬式は非常に保守的な儀礼で、なかなか変化しにくいものだとおわれています。逆にいえば、葬式が変化するということは、さまざまな儀礼が変化した後だといってもよいのです。さらに、葬式には家族や親族や近隣との関係性が如実に現れます。葬式の変化を追うことで、そうした個人をめぐる関係のありかたの変化を調べることにもなるのです。

昨日、参加者を募って模擬葬儀をおこない、葬儀のありかたについて学習会を企画した方のお寺へ聞き取りに行きました。というのは、私はお寺の葬儀に対するありかたに納得できないものを感じています。いったん檀家となれば寺を選択できないこと、戒名にランクと値段があること、住職の法話なるものの胡散臭いこと などあげればきりがありません。一方、イオンの明細を示した葬儀や、樹木葬や永代供養などの広がり、家族葬や直葬などの普及をみると檀家制度も風前の灯というのに、危機感を感じられないお寺の住職。こんなことを考えていて読んだ、高橋卓志さんの『寺よ、変われ』(岩波新書)。たまたま葬儀の聞き取りに行った方が、神宮寺の檀家で、いいお葬式をしてもらったと満足されていたので、読んだものですが、納得する部分が多かったです。そして、最近の葬儀のありかたとか、神宮寺の葬儀のやり方などについて、同じ僧籍にある方はどんな風に受け止められているのか気になっており、聞いてみました。すると、……  やはり同じようなことを感じられているようでした。自分のところのように小さな寺は何を言っても影響力がない。逆に大きな寺の住職は、今の仏教のありかたに疑問など抱いていない。本来宗教者として、檀家の方の日常の大変なこと(苦しみ)に寄り添わなければいけないのに、葬式の時だけかかわって、ルーチンワークとして葬儀を執り行っている。業者でやるより寺で葬式をとか呼びかけているが、業者がやることと寺とがなんら変わるところがない。極端に言えば、一般の人々の意識がかわって寺を必要としなくなり、つぶれる寺がでたほうが仏教界がかわってよいと思う。檀家制度で個人に寺を選択することを認めないので、本当に救いを求めている人に仏教が応えていない、一般の人が寺を選ぶようになれば寺も変わらざるをえなくなるのではないか、等の話をいただきました。ただし、ここだけの話にしてほしいとのことで、どなたに聞いたかは明らかにできません。今回の聞き取りで、こんなふうに考える僧籍の方がいることがうれしくなったし、そうした仏教の未来を憂えた話は、おおっぴらにはお坊さん仲間では話せないこともわかりました。そうしてみますと。自分の考えを出版までしてしまった、高橋卓志さんはいよいよすごい方だと思いました。