民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

高木仁三郎のこと 2

2013-04-24 09:57:20 | 民俗学

 高木仁三郎は反原発の科学評論家だと思っていました。ところが、前回書いたようにテレビと見ることで、第一線の放射線科学者である(あった)ことを知りました。三里塚へ行ったことで象牙の塔の大学の中に籠っていていいのか、自分の科学が市民の求めるものなのか疑問をもって、大学を去ったというのです。60年安保、70年安保を契機に大学を去って社会運動家となった何人かの研究者の一人でした。前から関心を持っている花崎皋平もその一人ですが、最近は大学にいれば平穏無事だったのに、自分はあえてそこを飛び出したのだと、そのことを自分の論の根拠に使うのは醜いと批判されているようですが、自慢してるかどうかは知りませんが、あえて茨の道(といえるかどうか)を選んだことは、素直にすごいと思います。高木は科学と市民とをつないだ功績により、国際的な賞も受賞したとのこと。あまり報道されていないので知りませんでした。マスコミの報道にも問題があります。
 もともとアカデミズムに席のなかった民俗学は、初めっから市民の学でした。それを野の学というのかはわかりませんが、素人の学問というなら皆民俗学に携わる人は素人だったわけです。今この民俗学の低迷の状況の中で、大学に籍のある研究者は、方法論の厳密化とグローバルスタンダード化を図ることで、居心地の悪いアカデミズムの中で居場所を見つけようとしています。好事家のたわごとといわれかねない学問だと、肩身の狭い思いをしている研究者の主張もわからんわけではありませんが、それで痩せ細ったこの学問に活力を与えることができるのでしょうか。民俗学の研究者から、野の人々を排除していったら強靭な民俗学が形成されるのでしょうか。私はむしろ逆ではないかと思います。この学問のすそ野を広げるにはどうしたらよいか、そのことを考えるべきではないかと思うのです。それこそ、市民のための学問、己とは何かを明らかにする開かれた学問として民俗学はあらねばならないし、他の学問が市民のためにと意識して開いていかなければならないとすれば、民俗学は即自的に開かれていることを自覚し、そのことを強みにすべきだと思います。

なぜかポイント字間などの設定が途中でかわり、読みにくいです。このまま書いてもよくないですので、本日は終了。


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1 コメント

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Unknown (久志本鉄也)
2013-04-24 16:53:24
高木仁三郎さんの『市民科学者として生きる』(岩波新書)を是非お読み下さい。私も地元で脱原発運動に少しかかわっていますが、集まって来るのは70歳代(つまり60年安保世代)が中心です。一方、団塊の世代はほとんどいません。学問の状況も、ある面でパラレルな現象としてあるような気がします。
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