網野善彦が発見したと思っていた日本のアジールは、実は戦前にあの平泉澄が見つけていたということが、『僕の叔父さん網野善彦』を読んでわかりました。平泉といえば、東大の研究室に神棚を作って神を祀っていたという軍国主義の権化のような学者です。その平泉が若いころ、対馬の土着宗教(山岳修験のようなものか)の聖地に、世俗の支配が全く及ばないアジールを見出します。着眼点は斬新だったのですが、その論文は全くつまらない結論で締めくくられます。
けだしアジールなるものは、専断苛酷の刑罰、または違法の暴力の跋扈する乱世においてのみ存在の意義を有するところの、一種変態の風習なるが故に、確固たる政府ありて、正当なる保護と刑罰とを当局の手に掌握するときには、アジールは存在の意義を有せず、しいて存在せしむれば百害あって一利なきこと明らかである。この故に厳明なる政府が完全なる統治を実現せんとするときは、かくのごとき治外法権を否定するは当然のことである。
網野は、戦後の歴史学が軍国主義のレッテルを貼って戦前の研究を一切認めなかったことを批判しつつも、この結論のつまらなさに言及したという。中沢もこの結論には幻滅しているし、もちろん私も幻滅です。で、幻滅しつつこの結論は安部の政治スタンスに通ずるものではないかと思ったのです。民は自由にして置いたら規範の及ばない場所に行ってしまう。そうした民を許すのは国の完全なる統治が及んでいないからである。よって、憲法を改定する必要があるのだという論理です。ここには人間が本来的に持っている「自由」への渇望という視点は全くありません。民は統治すべきものとしてあるわけです。自由を全く認めないのを「国家主義」というならば、現代に国家主義がよみがえっていると私は思います。
アジールを認めない政治信条は、沖縄を認めることもありません。国の統治に従わない人間を、国民とは認めないのです。ここから学問を尊ぶという気風は生まれてきません。なんという国に成り下がってしまったのでしょうか。
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