民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

吉本隆明『全南島論』を読む

2016-06-28 11:13:12 | Weblog

その日思ったことをその日に書けばいいのですが、最近はそうしなくてその日に思ったことを何日か考えて、熟成させるというほどかっこいいものではありませんが、書いています。そうすると、話題はどうしても鮮度を失ったり、書く気がなくなったりして、話題性には欠けるテーマをブログに書く結果となります。今日書こうとするテーマもそうです。

6月22日、近くの図書館に行き資料を返却して少し本を選び、最後に読書新聞を斜め読みしていました。斜め向かいに最近入った本というのを並べてある棚がありました。そこから、なぜか一冊が目に飛び込んできました。いったい何だろうかと、近寄ってみますと、白い表紙で、吉本隆明『全南島論』とありました。吉本の新刊本なんてあるんだろうかと思いつつ、この装丁のこの分厚い本は見たことがあるな、そうそう安藤礼二です。『折口信夫』も『皇后論』も分厚い白い本でした。中を開くと、やはり安藤の編集したものでした。翌23日は沖縄慰霊の日です。この本を読みなさいと自分は招かれたような気がして、借りて帰りました。そして読み終えたらブログに書こうと思ったのですが、なかなか手ごわく読み終えることができません。それで、途中でありますが、このことについて書くことにしたのです。

 わたしたちは、琉球・沖縄の存在理由を、弥生式文化の成立以前の縄文的、あるいはそれ以前の古層をあらゆる意味で保存しているというところにもとめたいとかんがえてきた。そしてこれが可能なことが立証されれば、弥生式文化=稲作農耕社会=その支配者としての天皇(制)勢力=その支配する〈国家〉としての統一部族国家、といった本土の天皇制国家の優位性を誇示するのに役立ってきた連鎖的な等式を、寸断することができるとみなしてきたのである。いうまでもなく、このことは弥生式文化の成立期から古墳時代にかけて、統一的な部族国家を成立させた大和王権を中心とした本土の歴史を、琉球・沖縄の存在の重みによって相対化することを意味している。
 政治的にみれば、島全体のアメリカ軍事基地化、東南アジアや中国大陸をうかがうアメリカの戦略拠点化、それにともなう住民の不断の脅威と生活の畸型化という切実な課題にくらべれば、そんなことは迂遠な問題にしかすぎないとみなされるかもしれない。しかし思想的には、この問題の提起とねばり強い探究なしには、本土に復帰しようと、米軍を追い出そうと、琉球・沖縄はたんなる本土の場末、辺境の貧しいひとつの行政区として無視されつづけるほかはないのである。そして、わたしには、本土中心の国家の歴史を覆滅するだけの起爆力と伝統を抱えこんでいながら、それをみずから発掘しようともしないで、たんに辺境の一つの県として本土に復帰しようなどとかんがえるのは、このうえもない愚行としかおもえない。琉球・沖縄は現状のままでも地獄、本土復帰しても、米軍基地をとりはらっても、地獄にきまっている。ただ、本土の弥生式以後の国家の歴史的な根拠を、みずからの存在理由によって根底から覆えしえたとき、はじめていくばくかの曙光が琉球・沖縄をおとずれるにすぎない。「異族の論理」 1969年『文藝』12月号

 吉本が沖縄復帰以前に書いたこの文章が、今になっても新しさを保っています。本土にいながら沖縄を特権的に論じているようにも思いますが、沖縄の文化的独立性をもって本土に対峙する以外に、現在も沖縄の人々の誇りを保ち続ける道はないでしょう。沖縄の独自性をつきつけることで天皇制を相対化してほしいというのは、本土の人間の虫のいい願いですね。それにしても、見渡す限り戦死者の名前を刻んだ摩文仁の平和の礎の前で、安部総理はどう思ったのでしょうか。沖縄をアメリカに売りわたしてこの国の平和を確保するということでしょうか。 


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