民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

ムラを出ること

2016-06-19 10:43:55 | 民俗学

昨日民俗の会の例会があり、早い時期に廃村となった旧美麻村(現大町市)の高地地区についてフィールドにしている会員や、旧村民の方、分校の先生だった方などに話をきいたり、現地を巡検したりしました。また、事前の学習では鬼無里や白馬の地震に伴う文化財レスキューも話題となりました。考えるべき要素がいくつもあり、なかなか言葉を探せずに1日過ごしました。

 

高地地区は山々に囲まれた地域に、3軒5軒と小さな集落が100戸ほど散在する山中のムラだったようです。水田はなく雑穀を食べて米は行事食として購入したといいます。生業といえば薪炭の生産、養蚕、麻栽培、平地への貸し出し用の馬飼育などだったようです。この山のムラは昭和50年代の初めには全戸が離村してしまいました。全国的にも過疎のはしりとして、マスコミなどでも取り上げられたといいます。最初にムラを去る人々は、全く内密にしていて家財道具もそのままに、こっそりと出たそうです。それだけムラの人々の結びつきが強く、自分だけ山を出るとは言えなかったからだといいます。そうやってポツポツと山を去る人々がでてくると、ある時期になると我も我もと次々に出て行ったといいます。しかも、出ていくのに使った道は、県に陳情しても道路整備が進まないのに業を煮やした村人が、それぞれの身銭を切って整えたものだったのだそうです。

そうやって山を出た人々の全部がといってもよいほど、大町市の王子神社の周辺に居を構えたそうです。村を去った人々のすべてが働き者で、家を新築したといいます。山の者の反骨心が、平地の者には負けない、馬鹿にさせないという頑張りをうんだのでしょう。こうした説明を聞いていて、同行した倉石先生が、私が以前に書いた「ヤマとムラとマチ」の通りだから、もう一度あの論文をまとめなおしたらどうかといわれました。その論文に書いた趣旨は、ヤマは何でも売らなければ生活できなかったから、経済的に機を見ることに長けていた。貨幣経済に依存して生きるという点で、ヤマはマチなのだということです。高地の家では、大町の平地に水田を1~2反所有して出作りしていたといいます。出作りは大変で、星を仰いで家を出て、星を仰いで家に帰らなければならなかったそうです。とはいえ、水田を購入するお金はあったということです。

離村する気持ちはどんなものだったか。山の中で生活が立ちいかなくなってではなく、平場におりて一旗上げようという元気がある人からでていったろう、というのが私の近くにいる参加者の声でした。村を捨てるというと何だか都落ちみたいな暗いイメージになるのですが、平地で頑張ると考えれば、前向きな感じです。今、限界集落が問題になり、そこで暮らす人々にとって限界と呼ばれるのはどうか。まるで切り捨てるようではないかといわれます。村がなくなるというのは切ないのですが、そこから別の場所での生活を選び取ったとすれば、明るい話となります。

震災で避難している皆さんは、自ら選び取ったわけではなくて、移転をせざるをえなかったわけですから、村を去るときの気持ちはまた別のものがあろうと思われます。


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