常に振動している。
地震の話しじゃありません。
体はどうして、どのように動くのか。それをメスを用いて解剖し確認することは医学的に役立つけれど、どんつきだなと以前人体の不思議展を見て思った。
知的欲望は体をバラバラにし、物質化しようとする。そこはダンスと似ている。でも方法がまるで違う。ダンスは体にメスを入れるというより体をメスにするという感じがする。メスと同時に献体でもある。
距離のとれない自分の体というものを、体として対象化するために、体を構成しているマテリアルから客体として体に触れようとする。その客体化のまなざしはどこまで行っても主観であり、全部錯覚かも知れないとしても、それ以外に方法はない。
ダンスはこうなっていて、こうなっていて、こうです、なんて説明ではないし、説明や名付けることで補足できないものを内包していること魅力だと思っている。でもそれはダンスに対する盲信的な期待とも違う。
体というものを扱うときに、ダンスでは振りをつくって、それを体に覚え込ませて踊る、つまり振付ける。
けれど、同時に制御できない体の動きというものが絶対的に並走してある。
心拍、呼吸、(吸う吐くのコントロールなら出来るが、完全に止めることは出来ない)細胞の振動というのも私の意思ではない動力で動いている。これはあたりまえすぎて取り上げるまでもないことだろうか。でもそのことを無視できない。むしろ自分をコントロールできている気になっていることに違和感を覚えるほど、体は自己制御外の力ではじまって、終わる(自死を除いて)ものだと気付かされる。生命の本質は私の意思や意図ではないところにあり、体は本質的にそういうあり方をしている。私という手綱を握っている自己意識を持っている者とってこれは驚くべき事態ではないか。そういう自己の意識外の動力とダンスは深く関わりを持っている。そういう視点で体について考えるときに踊りというものが関わってくるように思うのだ。
振付けという言葉が昔からあまり好きではなかった。
振付けとは私のなかで「振り返り」「気付く」「気を付ける」と訳され、踊ることが反復になり、スムーズになり、クオリティが上がる、ということは、結果踊りからどんどん離れることじゃないかと思っていたからである。表現されたものより表出そのものにダンスを感じる、という感覚は明白だった。
体を構成する細胞たちは常に振動しているらしい。心肺の動き、新陳代謝、消化吸収、考えたりすることのできる意識をもった状態、すべてこの自覚のない粒のふるえに依拠している。
【振】[音]シン(呉)(漢)[訓]ふる ふるう ふれる 1 揺れ動く。揺り動かす。
踊ることに出会って10年過ぎ、振付けとは、その振動に関わるということだ、というところでこの言葉との折り合いがついた。
踊ることとはどのような視点をもち体について思考するか、ということから動き出す技術であると思う。