裸の存在とは何か 。
それは服を着ていないという意味の裸でなく、在り方としての、潜在的身体。
私たちは既に生まれ、育てられた環境、ある国家の文化と価値基準の中で生きている。
その中で身につけたもの、身についたもの。着せ付けられているもの。意識的にまとっている便利な蓑のようなもの。
様々なレベルのものが折り重なり、部分的には癒着して、それが意識的なものだったのか無意識のうちに身に付いたものなのかあたかも皮膚のような顔になっている。
私の思う裸形というものを書いてみる。
それは立つともしゃべることも育つこともないトーフのような、半熟状態の、無垢というようなものでなく、ただ不気味な心肺運動につなぎ止められた身体であった。
なぜそうなるかというと、ひとつの身体が外的要因を削いだところに在ると想像してみると、そこには他者及び食物、住居、国、地形とにかくあらゆるものが消え去り、何もない真空の場所に据えることとなり、その状況では生存することが出来ないということになるが、想像の上でその存在を生かしてみる。
すると不気味に運動し続ける心肺の周りを囲う筋組織は、皮膚は、太陽光の届かない海の底に棲む深海魚のような柔い白いもので出来ていた。胎児にような質感なのだが、成長しているものとして、私と同じ25年生きている体だと仮定する。
成長しているというよりふやけて膨張するのに近いようなイメージがあり、わけのわからないくらい巨大な体が何もない所に在るといったものを思い浮かべた。
しかし同時にそういう事ではないなと思う。
それは獲得されることのない、あくまで想像上の生き物の話しだ。
ではもう少し現実的に、成り得る裸形とは何か。
これまで身に付いたものすべてを取り払った何もない私 。
しかしこの私と呼んでいるもの、そのものは身についたものであるとも言える。
裸形の私の実体はない。 常に纏っているものの隙間から露出する空洞。潜在的身体の不在。
実は何もフィットしない そぐわないということ。
もはや身体と言う言葉自体が透明感を帯びてばらけていくもののように感じられる。
私が裸と呼んでいるものは実体を表すものではなく観念の言葉であり、それを軸に私は物事を考えているのだと思われる。
果てしない私による私の脱衣の要請に従うこと。
しかしその欲望はいわゆる無私の私へ向かうことは真逆のある傲慢さに裏付けられていることに気が付く。そういう恥さらしな気質を私は持っている。
それは服を着ていないという意味の裸でなく、在り方としての、潜在的身体。
私たちは既に生まれ、育てられた環境、ある国家の文化と価値基準の中で生きている。
その中で身につけたもの、身についたもの。着せ付けられているもの。意識的にまとっている便利な蓑のようなもの。
様々なレベルのものが折り重なり、部分的には癒着して、それが意識的なものだったのか無意識のうちに身に付いたものなのかあたかも皮膚のような顔になっている。
私の思う裸形というものを書いてみる。
それは立つともしゃべることも育つこともないトーフのような、半熟状態の、無垢というようなものでなく、ただ不気味な心肺運動につなぎ止められた身体であった。
なぜそうなるかというと、ひとつの身体が外的要因を削いだところに在ると想像してみると、そこには他者及び食物、住居、国、地形とにかくあらゆるものが消え去り、何もない真空の場所に据えることとなり、その状況では生存することが出来ないということになるが、想像の上でその存在を生かしてみる。
すると不気味に運動し続ける心肺の周りを囲う筋組織は、皮膚は、太陽光の届かない海の底に棲む深海魚のような柔い白いもので出来ていた。胎児にような質感なのだが、成長しているものとして、私と同じ25年生きている体だと仮定する。
成長しているというよりふやけて膨張するのに近いようなイメージがあり、わけのわからないくらい巨大な体が何もない所に在るといったものを思い浮かべた。
しかし同時にそういう事ではないなと思う。
それは獲得されることのない、あくまで想像上の生き物の話しだ。
ではもう少し現実的に、成り得る裸形とは何か。
これまで身に付いたものすべてを取り払った何もない私 。
しかしこの私と呼んでいるもの、そのものは身についたものであるとも言える。
裸形の私の実体はない。 常に纏っているものの隙間から露出する空洞。潜在的身体の不在。
実は何もフィットしない そぐわないということ。
もはや身体と言う言葉自体が透明感を帯びてばらけていくもののように感じられる。
私が裸と呼んでいるものは実体を表すものではなく観念の言葉であり、それを軸に私は物事を考えているのだと思われる。
果てしない私による私の脱衣の要請に従うこと。
しかしその欲望はいわゆる無私の私へ向かうことは真逆のある傲慢さに裏付けられていることに気が付く。そういう恥さらしな気質を私は持っている。