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流出雑記 

5月はじまり

2009年05月01日 | Weblog
4時就寝11時半起床
鳥取にいたときは1時まで寝て7時には起きる生活だったのにすっかり元通りに。

5月晴れ。洗濯。
掃除。小梅は7割くらい夏毛に生え変わった。掃除機の中はほとんど毛。

ダーリン起床。
お昼、マフィンサンド。
ダーリンはパンにベーコンエッグとチーズ、マヨネーズをたっぷりかけたものが好き。 
私はカッテージチーズとかぼちゃサラダを挟む。

一昨日夜、財布を無くした。
四条烏丸付近でスペイン料理を食べてその帰りに落としたのか、とにかく帰宅途中にスーパーに寄って財布がない事に気付いた。その財布は我が家の食費だけを入れているもので、月末で残金も知れていたし、カード類もスーパーのポイントカード程度だったのでさほど慌てはしなかった。とりあえず店に問い合わせてみたが見つからず。
その翌朝、五条署に財布が届いているとの連絡があった。

夕方、仕事で阪急に乗るので四条に出るついでに財布を取りに五条署へ。
二階の遺失物預かり所。窓口には先客、30代くらいの幸薄そうな男性。
どこかのATMでお金をおろして袋に入れたが鞄に入れずにそのまま置き去りにしてしまったらしい。
それらしきものは遺失物として届いていたが、何かの確認に手間取っている様子だった。
係の人は今日は渡せないと言うが、男性はどうしてもそのお金を今日支払わなければいけないらしかった。
「どうしても今日11万9千円振り込まんとあかんのですわ。マジで。お願いします。その緑の封筒に間違いないと思います。ほんまにお願いしますわ。」
と、なんだか鈍臭い舌の動きと口調で頼み込んでいた。

私の財布は中身共々無事手元に戻って来た。

4時から児童画教室のモデル。
小学生相手の仕事は初めてだった。
会場は、バレエ教室のフロアを借りた所。
鏡やバーレッスンのバーがあるフロアに生徒が各々レジャーシートを敷いて画材を並べている。中には油彩を持って来てイーゼルを立てている子もいた。
先生から事前にノースリーブのワンピースでとのことだったので、3着ほど持って行ったものから選んでもらう。
高校生の時に古着屋で買った赤いワンピースに決まった。

2時間4ポーズ固定

1年生から中1くらいまでの数十人。モデルを描くのが初めての子の方がほとんど。
先生が呼ぶ生徒の名前はルリアちゃんだのユウセイくんだの今どき感漂う凝ったものが多い。

遅れてやってきた女の子が入って来て私をみた第一声。 
「じっとしてはる。」

そうだよ~お姉さんはこうして日々じっとして日銭を稼いでいるのだよ~

中にひとり、大きくなったら玉木宏になりそうな足がやたらと長く日本人離れした体型の寡黙な美少年がいた。

6時過ぎに仕事を終えスーパーに寄って帰宅。
昼間に隣のおばちゃんから下湯で済みの竹の子を半分もらった。
今日のポーズ中はそれをどうやって食べようか考えていた。一番に思いつくのは竹の子ご飯だが、たまたま今日は豆ごはんの用意をすでにしてしまった後だった。

夕飯、にんじん入り豆ご飯、牛肉とタケノコのガーリックソテー、牛スジとこんにゃくの煮たの残り、納豆みそ汁。
こんな春の献立となった。



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2009年05月01日 | Weblog
生きていると
齢を重ねていくと
思い出やら荷物やら増えて
その重量でなんとなく物腰も佇まいも暮らしぶりも落ち着くところに落ち着いていつの間にか
そんな顔になる

アイホールのワークショップで70~90代の人たちを見ているとそんなことを思う。
私の生きた時間の約3倍の日々を渡ってきた人々。

病気などの体調の変化以外に体に意識的になるということのなかった人たちが、買い物や通院の為にどこかへ向かって「歩く」のでなく、「ただ歩く」ということを試みている。
足の裏を丁寧に地面に置いていくような、速度を落とした歩行。
本来は背筋を出来るだけまっすぐにして、余計な強張り、無意識の体のクセを意識化し出来るだけニュートラルな姿勢の歩きを目指すが、今回のワークショップ参加者の方々には年月が既に形成してしまった体というものがある。
首や肩の力を抜く事、足の裏の使い方などは或る程度指摘できるのだが、特に背筋の湾曲などはもはやその人の姿となっている。
そういうワークをしながら集中しているとき以外はほとんど一時も止まらず世間話しをして止めるまで止まらない人たちが、黙ってなかなか思い通りに運べない一歩と格闘している。
普段喋っているときは誰々さんというその人だが、ただ歩いている姿をみていると、「老い」というものを傍観しているように思えてくる。

例えば父親に久しぶりに会うと、お父さん歳とったなあと思う。
しかしそのときは「老い」という現象を傍観するというより「老いていく親」を見る私の個人的な感傷の気分が含まれる。
そして私も日々老いている身なのだが、肌の保水力低下のなど加齢に伴う変化は感じつつ、しかしそれを「老い」というふうには捉えていないし、まだ先の事という曖昧な現象としての実感しか今のところない。

ただ「老い」を見るということ。
老いた体を見る。

衰えるという言葉がある。
逆の言葉は栄える。
先日テレビで見た、ローザンヌ国際バレエコンクールの出場者の体。
訓練され鍛え上げられた体はあるルールの中で動きを制限し、それを意識的に完璧にコントロールし、その姿は超人的で価値あるものに見え、栄えているように見える。

老いた体と衰えという言葉が結びつくのは身体機能の低下による。
まっすぐ立たない背骨、思うように稼働しない関節部。
動きに制限が出てくる。
そうなるように鍛えた訳でもなく、意識的にコントロールしているのでもなく、そうなった体。

動きに制限があるという共通点はあるが、意識的なコントロールの有無の差。
コントロールできない「老い」
意識的にコントロールできないという事は、自分ではどうしようもない力が働きかけているという事で、いくら抗おうとその力から逃れられない。
ローザンヌに出ていた10代のダンサー達もいつか老いる。
誰にでも平等に働きかける「老い」は特別なことではない。
それに連れての体の変化は「今まで出来ていた事が出来なくなる」ことなので、それは実感として可能から不可能に、つまり衰えとして捉えられてしまう。
目に見える「老い」た体。

「老い」を受け止めた体で歩いている姿。
そこからは単なる衰えいう形容ではない佇まいが見て取れる。
それは選別、排除によって作り上げられたものではなく、寛大さ、受容、によってある体であると思われる。
生まれたときから孕んでいる「老い」が時によって人を押し広げていくような。
そうやって私たちを押し広げついにはこの体にさえ収まらなくなる。

絶景のような広大さ。
そんな広がりを人の中に見る事が出来るだろうか。