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流出雑記 

ポツドール『夢の城』

2012年10月29日 | Weblog

はじめてポツドールを見た。夢の城。2006年に初演された作品のKYOTO EXPERIMENTでの再演。

開演前の舞台上は映画館のように全面を覆うスクリーンが降りていて、白い一枚の膜が舞台と客席の間に張られている。まずそういう仕切りが目の前にある。

スクリーンには携帯の電源はお切りください という文字が出ていて、客入れの間ずっと流れている曲、耳に残るべとっとしたクセのある日本語の歌は岡村ちゃんだ、岡村靖幸。曲が変わって音量が上がりスクリーンにはAM2:00と出て幕が上がる。

街頭の音。幕の奥には窓があった。ちょうど他人のアパートを部屋をベランダ側から見たときの、見覚えある風景のアップ。

サッシの窓で舞台と客席は完全に仕切られている。部屋のなかは蛍光灯の白い灯りの下、数人の若い男女がいる。部屋の壁にはタレントの顔など雑誌の切り抜きが縦横無尽にコラージュされている。天井に貼付けられたジャマイカの暖簾、日の丸、玄関に垂れ下がるレイなどとにかく隅々までデコレートされ、日本製無国籍迷彩部屋と化している。床は敷き詰められた万年床でとっ散らかって部屋というか、寝ぐら穴ぐら、巣のようになっている。ハンガーを集めて巣を作るカラスのことを思い出す。住人の彼らも金や赤、派手に染めた髪、日焼けした肌にタトゥー、ひと昔前話題になった汚ギャルとかギャル男というか、そもそもどんな容姿をしていたのかを眩ませた「日本人」の姿をしている。

彼らは緩慢に動く。だるい人でもそこまで緩慢に動かないよというくらいにのそのそ、オラウータンのように。彼らは会話というものをしない。黙しているというより、必要ないから忘れた、というふうな沈黙。部屋もそこにいる人たちもこの国のどこかに実在していそうだけれど、その実態をトレースし、再現することが目指されているのではなく、これはまったく創出され抽出された人の姿であることはその状態から見て取れる。
彼らはゲームをしたりセックスしたり漫画を読んだりトイレに行ったり菓子を食べたり取り合ったり吐いたりしている。行動の動機は発生した欲望を手の届くところでその都度満たすことにあり、特別な意味をもった行為はなくそのどれもが並列している。
家族という秩序のない彼らのコロニー。群れの生活。そこに野球ゲームの音楽と実況が終始流れている。

日本という国、日本人。そもそもあった日本独自の生活様式を尊重するよりも、欧米諸国に向けて近代化をアピールするため欧化政策がとられて以降、利便性と効率化の追求にウエイトが置かれる現在の生活に至る。もはや欧化という言葉が意味のないものになっているとしても、やはり「化」である事実の痕跡は消えず、何をどのように真似ても日本人のフィルタを通して出来上がってしまった独自の様式のなかに住まうことになる。民族特有の衣食住、生活様式から長い年月のあいだに培われた体は、すぐに上書きされるものではないけれど、いつかは有効であった歩き方、思想、伝統も文化も、今やそれにあてはめるべき生活環境が変貌し、多様化しすぎ作用点を失っているように思う。受け継がれるものより、それを吹っ切る速度で常に更新されるものの寄せ集めに囲まれているような暮らしを各々営み、その結果散乱した体。体を統制する暮らし、伝統を欠いた生活というのは、煎じ詰めるとこういうことになるんじゃないかと思ってしまう。「化」である日本人。舞台上の体はフィクションであるけれど、そういう視点で見つめるとリアリティをもって迫ってくる。

 

窓枠によって観客はその部屋を傍観する、他人の部屋を外側から眺めている者として客席に座っている。彼らの発する臭気も体液もガラスの向こうに遮断されてこちらまでは届かない。だから次のシーンで窓枠が取っ払われ、客席とあの部屋を分かつものが舞台と客席であるという認識のみになったとき、客席の自分がどこにいてこの部屋を見ているのか、客席の位置が明らかにさっきまでとは違う、危ういところに移動したのを感じた。役者が客席にやってきて、観客を巻き込む手法でなく、舞台と客席の間にフレームを差し挟む、引き抜くことで観客を引き入れる、いざなう。

スクリーンが降りてAM9:00と表示される。 夜が明けた。散々暴れた夜の埃と二酸化炭素と彼らは床に沈殿して眠る。夜とは打って変わった静けさのなかで女がひとり髪にドライヤーをあてている。どういう訳かこのドライヤーの音はこの部屋の酸素を充填しているように有機的に聞こえてくる。東側の流しの窓から光がさして部屋には朝がきていた。

来た朝を見ている、という時間がなんだかとてもいい。朝が来るということ、陽が昇り朝が来ることに御来光なんて言葉が充てられている、雄大な山から昇る朝日でなくても、このゴミみたいな部屋に入る陽の光から朝の聖性を感じてしまうのは、あの卑俗の夜を見たあとだからだろうか。あの夜がなければこの朝は、やはり来ない。

各々目覚め、身支度をしたりしなかったり、どこかに出掛けていく。 PM3:00の西陽の部屋。すべきこと、しなければならないことがないふやけた昼間の部屋、どこへも出掛けない男はどこへも行かず何もしなくても生きているので、どうしても何かをしてその時を過ごさねばならない。甲斐ある事無い事、テレビゲームであろうが仕事であろうが。何か。

陽が暮れて出掛けていた彼らは部屋に戻る。ひとりの女が台所で包丁の音をさせはじめる。別の女は皿をあらう。部屋の真ん中の布団をめくりボクシングのグローブを鍋つかみにして男が鍋を運ぶ。そうだ。鍋の取っ手は素手で触ると熱いから。調理器を置いて鍋の周りに皆集まる。夕食風景。
女が部屋の隅にあったキーボードに触る。彼女はピアノが弾ける、ああ小さい頃に習った、それを覚えているんだ、と食事やそういうそれまでは見えなかった過去の記憶、その時間があったことが垣間見え、舞台上の体に差し色のように血が通う感覚。音は音楽になり、部屋のなかで鳴っていた曲は増幅され客席に響く。

また夜が深くなる。
女がなぜか泣いている。ひとりの男はそれに気づく。付けっ放しのテレビは青空をバックに日の丸をはためかせ君が代を流す。男はそれに合わせてスピードスケートの真似をする。女を泣き止ませようとしているのかどうか。放送が終わる。
スクリーンにエンドロールが流れる。それが終わると幕が上がりまたサッシの窓があらわれる。その向こうで彼らは眠っている。次にそこに見えてくるのは、ガラスが鏡になってうつされた視線の先にある我々、観客の姿だった。劇の時間と俳優へ拍手を送ることで昇華する観劇の後味を残さず、観客自身に最後の最後ではね返ってきた視線は、この劇において見るべきもの、向けるべき視線の先を示されているようだった。ポツドールの作品が語られるときその過激さは取り上げられるだろうが、彼らが見せたいものの本意は今回の作品を見る限りそこにはないと感じる。観客に見せるための劇ではなく観客にとって見ること、そのことを問い、拡張する劇の時間だった。席を立ち劇場を出て行く観客の『夢の城』から出たあとの、それぞれの目にうつる世界はどのように感じられただろう。

ひとつひとつのシーン毎にスクリーンが降り、時間が表示される。
時間が区切られることで目が一旦リセットされる。人の生きている様子を語らずにそのまま見せるための区切りが一種物語を構成する要素のような働きをもっていた。
表現されている内容、物語、その表現の技巧というものより、しつらえられた時間のなかでただ人を見ることができるということに観劇における大きな喜びがある。私にとっての。どんな舞台でも舞台上の人が喋ったり動いたりするのを見ているのだが、そのすべてが人の姿を見たと思える訳ではなく、そう思えるものに出会うことのほうがなんだか稀。

手法もアプローチの仕方も違うけれどタル・ベーラの『ニーチェの馬』を思い出すところがあった。
それは生きていることそのものに触れようとする手つきの真摯さにあるように思う。


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