夢。家の近くの川の上流に感染すると皮膚や末端が欠損する伝染病の隔離施設があり、そのあたりをそれぞれ足や手が短かったり顔に引きつれのある患者が杖をついて時々4、5人列になって散歩しているのを見かける。その川のほとりの木で川床のようなものが立っているのを屋根にしてその下で親のいない男の子が暮らしていた。大きな桶のようなものに水を汲むのを手伝った。川の水は少し濁っているが、喉が渇いたのでそれを飲む。近くの屋台が連なる市場に食べ物を買いに行くけれどあまりお金がない。市場に売っているものは野菜、とうがらしのような粉など香辛料が多く、黒いにんにくの5個入りが1900円とか全然安くない買えないと思って見ていたら、かけらを1個味見してみなさいと生のにんにくを差し出され、生はいやだと思いながら断れずかじったら、ねっとりしていておいしかったけれど腹の足しにならないし予算的に買えない。結局手持ちのお金では買えるものがなかったので、しかたなくその辺の草を見て食べられるものを探した。そうしていると手がなんとなく乾燥してかさかさする気がして、見ると手の全体がうろこのようにひび割れ、やや腫れぼったくなっていて、右手の手のひらの真ん中が丸く水色になり始めていた。
11月後半の公演の稽古をしている。出演者はふたりなのだけれど、今日の稽古で体の一部を接触させながらどちらが主導権をにぎるでもなく触れた状態を維持しつつ、そこから動いてくる動きをお互いの間の原動力として展開を見守りながら動いて行く、というようなことをやっていた。最初は微細な力加減の変化で押されるような感じがあったら元の位置に戻るよう同じくらい押し返す、そういうことをやっているとその振幅が徐々に大きくなって全身にも動きが伝搬するようになってくる。この動きを生み出すには基本的には受動に比重を置くけれど、能動も必要になる。誠実な地点かに何かを点火させなければ始まらない。それで、はじめのうちはオーガニックな地点から起こってくるものを辿っていられるのだけど、数十分経過してわりと体が動いてくると、体を動かしていた接触箇所のあいだの動機に貪欲さが生まれて来て、それをどこまで反映するべきかという判断ゲージに各々差があり、積極的に握ろうとしていなくても主導権らしきものが生まれてしまう。それで握ってしまった方はなんとなく展開というか方向付けを余儀なくされ、握っていない方はそれに連れて行かれる形になる。それは望まない主従関係なのだけれど、何か事が起こるということは既にその矛先に至る責任がある。その背負い方。
いわゆる躍動感には必ずしも結びつかないし、状態としてはずっと宙に浮いているようなものになるのが正しいのかも知れない。けれど、それおもしろいだろうかともどこかで思うので、何かしらそこから見いだせる体の状態の端々をさらに探査する積極性が生まれる。そしてそれが目に見えて創作の方向に向かうと良くないことはわかる。言葉にすると延々「私は」という主語を使わずに私を維持する状態。そのときの私の状態はあいてのあることに根拠がありつつ、委ねていながら寄りかからないバランスを取っている。そういうことはよく考えると日常の人間関係のなかでも常につきまとっていることでもあるが、でもダンスで、体の状態に置き換えてやってみるといろいろよくわかる。
そしてこの微妙な作業をやることの必然を今のこの世界を眺める中で捉えるべきと思った。稽古場のなかで質感だけ追っていると訳が分からなくなって、放っておかれると落としどころがひたすら体の快楽に向かってしまう。それはだめと思って抑止力を働かせるものだからずっともやもやしていたけれど、この稽古期間中に何を稽古すればいいのか今たぶん結構わかった。つまり貪らずあいだで維持すべきものをあいだとして維持し続けるための力加減を知る為の稽古をしている。
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