曇りがち。
北野天満宮のあたりで午後から仕事。
結構遠いが自転車で向かう。
固定3ポーズと10分から5分の短いクロッキーを9ポーズ。
個人宅の一室で描き手は4人。
オリエンタルな雰囲気のソファーやランプ、カーペットなどのある場所だったので、公民館などの固い空間では出てこないポーズができた。
ずっとバロック音楽が流れていた。
終わってからケーキをいただきしばらく談笑。
和菓子の老舗「老松」の洋菓子部門のあっさり上品なアップルパイ。
帰り道、父が一人で住んでいる実家が近くなので寄る。
勤務表は休だが父は不在だった。
仏壇に参り、庭の様子を見に行くと昨日の雨のおかげで緑は潤った色。
部屋の隅に黒い塊があった。何かと思ってよく見るとクリーニング屋の黒いハンガーの山だった。
いらないなら返せばいいのにこんなに溜めてどうするのか、なんか作るのかと思う量。
毎年、父の会社の関係先から送られてくるお中元のスモークサーモンを発見。
いつも父ひとりでは食べきれず賞味期限が切れて冷蔵庫に放置されるので、持って帰ることにする。
既に賞味期限は2日過ぎていた。
スモークサーモンの旨を置き手紙に書いておく。
京都新聞の夕刊の一面に「美術ヌードモデル脚光」というわりと大きな記事が載っていた。
内容は近年、学生や主婦のモデルが増えている、ヌードということへの抵抗感が薄れてきている、といったこと。
モデル歴5年の主婦のコメントに「別人になりきり、非日常を楽しめる。ストレス発散にもなります。」
生活は旦那の稼ぎで安定しているのであろう。
腹さえ決めれば非日常への欲望と自己顕示欲を比較的簡単に満たせる。
このコメントを読むとそんなふうにも思えてくる。
それにしてもどうかと思うのは見出しの横に大きく「ありのままの私、見て」と書かれていることだ。
私はこの仕事をしていてそんなふうに思ったことはない。
ありのままという言葉は何より疑わしい。
人前に体をさらし見られることが私にとってあるバランスをとる要素であることは確かだ。
舞台に立つという経験。そのときのからだ、血流にはきっと後々まで中毒するものがある。
日常を生きているだけでは踏み込めない場所を自分の中に見つけてしまい、どこか物足りなさを感じてしまう。
しかし今、私の生活の主軸は舞台ではない。
積極的に役者やダンサーになろうとするでもない。
演技にも振付けにも興味がない。
ただ舞台のあからさまな虚構の中に生身、その摩擦の中の皮膚感覚、光の混色のように重なって透明になる人称性
そういうものには惹れる。
私はこれからからだをどこに持っていけばいいのかしらと考えながら長い帰路を自転車で走る。
北野天満宮のあたりで午後から仕事。
結構遠いが自転車で向かう。
固定3ポーズと10分から5分の短いクロッキーを9ポーズ。
個人宅の一室で描き手は4人。
オリエンタルな雰囲気のソファーやランプ、カーペットなどのある場所だったので、公民館などの固い空間では出てこないポーズができた。
ずっとバロック音楽が流れていた。
終わってからケーキをいただきしばらく談笑。
和菓子の老舗「老松」の洋菓子部門のあっさり上品なアップルパイ。
帰り道、父が一人で住んでいる実家が近くなので寄る。
勤務表は休だが父は不在だった。
仏壇に参り、庭の様子を見に行くと昨日の雨のおかげで緑は潤った色。
部屋の隅に黒い塊があった。何かと思ってよく見るとクリーニング屋の黒いハンガーの山だった。
いらないなら返せばいいのにこんなに溜めてどうするのか、なんか作るのかと思う量。
毎年、父の会社の関係先から送られてくるお中元のスモークサーモンを発見。
いつも父ひとりでは食べきれず賞味期限が切れて冷蔵庫に放置されるので、持って帰ることにする。
既に賞味期限は2日過ぎていた。
スモークサーモンの旨を置き手紙に書いておく。
京都新聞の夕刊の一面に「美術ヌードモデル脚光」というわりと大きな記事が載っていた。
内容は近年、学生や主婦のモデルが増えている、ヌードということへの抵抗感が薄れてきている、といったこと。
モデル歴5年の主婦のコメントに「別人になりきり、非日常を楽しめる。ストレス発散にもなります。」
生活は旦那の稼ぎで安定しているのであろう。
腹さえ決めれば非日常への欲望と自己顕示欲を比較的簡単に満たせる。
このコメントを読むとそんなふうにも思えてくる。
それにしてもどうかと思うのは見出しの横に大きく「ありのままの私、見て」と書かれていることだ。
私はこの仕事をしていてそんなふうに思ったことはない。
ありのままという言葉は何より疑わしい。
人前に体をさらし見られることが私にとってあるバランスをとる要素であることは確かだ。
舞台に立つという経験。そのときのからだ、血流にはきっと後々まで中毒するものがある。
日常を生きているだけでは踏み込めない場所を自分の中に見つけてしまい、どこか物足りなさを感じてしまう。
しかし今、私の生活の主軸は舞台ではない。
積極的に役者やダンサーになろうとするでもない。
演技にも振付けにも興味がない。
ただ舞台のあからさまな虚構の中に生身、その摩擦の中の皮膚感覚、光の混色のように重なって透明になる人称性
そういうものには惹れる。
私はこれからからだをどこに持っていけばいいのかしらと考えながら長い帰路を自転車で走る。