毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

中央大学対早稲田大学

2010年04月30日 13時50分07秒 | 

 国立西が丘サッカー場。極楽スタジアム。
 観客席はピッチレベルから立ち上がっているので、最前列にいれば、それはもうピッチに立っているのと一緒。しかもフィールドとスタンドの間にランニングコースのある総合陸上競技場と違い、すぐそこで試合が行われる。
 そして何よりの利点。
 うちから近い。
 その気になったら歩いても帰れる。
 うちから国立霞ヶ丘競技場(いわゆる一般的に言われる神宮にある国立競技場)まで6km。え、しまった。西が丘の方が近いんだと書こうとして、調べたら7kmあった。そうか、あっちの方が近いのか、ちょっと意外。でも、まあ、7km。充分徒歩圏。一番よく行く日産スタジアムに比べればご近所さん。
 晴れた日に、ここでサッカーを見るのは、もう身体的快楽のレベルに達してる。
 サッカー見ながらお弁当を食べる。なんていう贅沢なランチ。だって、数メートル先では、何年も何年も鍛錬を重ね、我慢するとこは我慢してサッカーに邁進してきた選手たちが勝ちたい思いで精一杯戦ってる。それ、弁当食べながら見てるって、おれ、ローマ人並の贅沢してない?
 しかも巨大なコロセウムとか日産スタジアムとかではなく、大声をあげれば確実に選手、レフェリー全員に聞こえてしまうようなこの小さな空間で。
 ラグビーは秩父宮、サッカーは西が丘。これが快楽の鉄則。

 写真は昨日の中央大学対早稲田大学。結果は2-2の同点だったけれど、集散の早さ、プレスの効き、競り合い、そのどれをとっても中央大学の方がうわてだった。中央センターバック4番、途中から入ったFW14番の選手(安なんとかくん。名前を覚えられない頭脳がくやしい)、この二人は明日からJリーグに来い。大学よりそっちの方が絶対きみたちのためになる、と思うくらい素晴らしいプレイを随所で見せてくれた。早稲田は競り合いに負け、セカンドボールもすべて奪われ、いいとこほとんどなかった。応援は早稲田勝利、実力は中央勝利、そして試合は引き分け。内容がよかっただけに中央にとっては悔しい引き分けだろう。
 サッカーは強いチームが勝つのではなく、相手より多く点を取ったチームが勝つ。あらためてそんなことを思い出させた試合だった。
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秩父

2010年04月29日 00時29分26秒 | 観光
 どこがどうと説明できないのだけれど、何か気に入る場所ってある。東北全般、諏訪、それから秩父。こないだ日本海を旅したら、そこもどことなく気に入った。
 この中で日帰りできるのは、秩父。
 そうだ、秩父へ行こう。



 いつもの通り荒川サイクリングロード。
 春がやってきて自転車に乗れるようになったのはいいんだけれど、これからの時期、虫との戦い。ショウジョウバエのような小虫が柱のように連なった中に顔を突っ込む不快感(しかも見えない)、眼鏡かけててもたまに目の中に入ってくる痛み、普段より呼吸が深いので鼻に吸い込むともう指じゃ追えない部位に至る気持ち悪さ。鼻からも口からも出ないで、長く違和感が残り続ける。違和感があるのもイヤなんだけれど、違和感がなくなるのもイヤ。え、なに、俺、ハエと一心同体? 「ザ・フライ」的な存在と化したわけ? 「やっと一つになれたね」みたいなことをハエ相手につぶやかなきゃならないわけ? 冗談じゃない。どこでどうなっちゃったんだよ、ハエ。存在証明してくれよ。二人が別々の存在であることを証してくれよ。
 もう少し季節が進むと、今度はバッタミサイル、カナブン爆弾などの重量級昆虫がぶつかってくる、かなりワイルドな展開になる。


 
 荒川サイクリングロード~入間川サイクリングロードを経て、国道299号飯能狭山バイパスへ。しばらく走っていると滝不動尊。ここが面白い曼荼羅世界。ファンシーな石仏たちがいろいろ坐ってらっしゃるんだけれど、この表情が面白い。こういうのもあり、だと思う。


 
 高麗川にあった巨岩。場所は秩父帯。磐座という信仰は、馴染み深い。この西にある伊豆ヶ岳の登山口にあるチャートの巨岩も信仰の対象だったし。もともと神というのは、神社で拝むものではなく、こうした巨岩、巨木、滝、こうした自然物にやって来るものとして崇拝されていた(誤解されやすいが、岩や木が御神体ではない。岩を拝んでいるのではなく、岩に訪れる神を拝んでいるのだ。つまり、神は常在するものではなく、「訪れる」ものであった)。この古い形が残っているのが沖縄の御嶽という考えかた。



 秩父神社。
 あれ、いつから、こんなファンシーなお稲荷さんが?
 ここも最近のキーワード、妙見信仰の聖地。
 最近はやりの「龍馬伝」。彼が通っていた千葉道場の千葉氏も熱烈な妙見信仰の信者。アニメ「北斗の拳」は、千葉道場の「北斗の剣」のもじりだろう。そして北斗信仰というのは妙見信仰のこと。多くの妙見堂には、だから七曜星(ないしは、そこに太陽と月を加えた九曜星)が飾られている。今も千葉大学の敷地に含まれる場所には、北斗七星を形どった7つの塚がみつかってる。



 偉容を感じる武甲山。石灰岩が産出するので削り取られ、セメントとして利用されている。石灰岩の地質、ということは、そう、鍾乳洞もある。今回は行かなかったけれど、以前武甲山に登ったとき(もちろん歩き、で。自転車だと、ほぼふもとから担いで行かなきゃならない)、橋立鍾乳洞へ入ったこともある。信仰の対象(洞窟などは祭儀や通過儀礼などに用いられる)なので撮影不可だった、となんとなく覚えてる。ここはいわゆる胎内巡りの場。母なる子宮に一度回帰し、そこから出ることによって生まれ変わる。基本的に怖いとこが多い。だって、生まれ変わるためには、一度死ななければならないわけだから。

 この日の走行距離は約140km。登ったのが白石峠ではなく、正丸峠だったので、ラクチンなサイクリングでありました。
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谷端川 その2

2010年04月27日 23時44分18秒 | 観光

 延々遊歩道を歩いて行くと、どんづまりがJR埼京線板橋駅。
 この写真のトンネルの下に川は流れているらしい。
 ちなみにこのトンネルの向こう側には近藤勇のお墓や碑があり、土方歳三や永倉新八も一緒に眠ってる。



 暗渠っぽいカーヴ。左のピンク色っぽい建物は元銭湯。



 暗渠に多出する三角ビル。
 前回暗渠に銭湯、理容室、豆腐屋、クリーニングが頻出すると書いたけれど、三角ビルも付け加えなければならないと肝に銘じる。いや、それほど大げさな決断ではないんだけど。



 癌研通りと交差する暗渠広場。
 三角ビルに加えて、こういう不思議に存在する広場も付け加えたい。
 さて、暗渠はこの後、このブログでも何度か紹介した大塚の滝不動から三業、植物園横の暗渠を経て神田川へ。重複するので、今回はとりあえず、ここまで。
 また、いつかお会いしましょう。
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谷端川 その1

2010年04月26日 19時25分05秒 | 観光

 もともと人々が集まりやすい地形ゆえか、暗渠筋に商店街が広がっていることは多い。しかも、古くからの商店街が多いため、どこかしら馴染みのある風情が漂い、歩いていてとても楽しい。



 椎名町駅近くの長崎神社。その名前は明治以降のもので、もともとは十羅刹女社と呼ばれていた。つまり法華経という仏教経典に登場する十羅刹女を祀った神社。それをおかしいと思う感覚は明治以降に作られたもの。
 西南西にまっすぐ流れてきた川筋はこの神社で急に流れを変え、西北へ向かう。つまりこの神社は岬に建てられているわけ(アースダイバーっぽいよね)。



 たぶん西武線が川筋をぶっち切って通ってるように思う。西武線のすぐ横から始まる谷端川緑道。この緑道は、西武線椎名町駅そばから、JR埼京線板橋まで延々続いていて楽しい。石神井川の散歩道も大好きだけれど、ここもなかなかいいね。



 暗渠筋でよく見る銭湯。ほかに、美容院(理容室)、クリーニング店、豆腐屋さんなども暗渠筋商店としてよく見かける気がする。お、またクリーニング店か、おっす、などと気軽に声をかけている自分がいる(もちろん、心の中で、だ。クリーニング店に向かっていきなりいかりや長介っぽい振る舞いをしても奇異なだけだということはぼくにもわかっている。分別盛り。いや、ごめん、言い過ぎ。街中でいかりや長介の真似をしないことをこれだけ自慢してる自分が少し悲しい)。



 立教通りと交差するところにある西池袋マート。ホーチミンあたりにありそうな商店佇まいがとても好き。このまま暗渠の緑道を進むと国道254号線にぶつかるのだけれど、その角にあるのが、ラブホテル1でバサバサしたホテル。
 そのホテルの向かいに昔は住宅展示場があって、池袋近くにこんなもの建ててるってすごいな、と思っていた(今はドン・キホーテになっちゃったけど)。
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千川上水

2010年04月23日 22時45分52秒 | 観光
 千川通りは、生き別れた兄弟のようだ。そして、その兄弟の身の上を語る作者は、多くの人から後ろ指を指されるほどの意地悪だったので、生涯兄弟の対面を許さなかった。わたしたちは、だから「千川通り物語」を語られると涙なく過ごすことはできないのだ。
 嘘。でも、半分。
 東京の中、それほど遠からずある2つの千川通りは、繋がっておらず、また繋がる計画さえない。広い東京の中で彼らが二度と出会えないのは事実だけれど、血が繋がっているのも事実だ。どちらも千川上水の暗渠沿いの道だ。彼らの血脈は地下において受け継がれている。
 粟島神社を源流の一つとして持つ谷端川は、その北側にある千川上水が開削されると、長崎分水でつなげられる。そのため、谷端川(小石川)の通るあの太陽のない街は、小石川通りではなく、千川通りと呼ばれることになる。
 ぼくが30近くになるまで、たとえ川は見えなくても小石川は荒れて激しい川だった。あれはいつだったろう、小石川の同業者たちはマンホールが目の前で飛び上がるのを目撃したと言っていた。関口台(こういう台地には金持ちが住む。中村勘三郎とか)と千石台(ここには徳川家がまだいる)、この二つの峻険な崖に挟まれた小石川の谷は建物が立て込んでいるからわからないけれど、裸にしたら、両脇をナイアガラのような幅広い滝で覆われているようなものだ。谷が氾濫しないわけがない。


 その千川上水公園。この遊歩道沿いに千川上水が流れていた、ということ。地下掘って見たわけじゃないから、あくまで伝聞。



 この右側が上水沿いに遊歩道ができている。



 この遊歩道&公園のマンホール。なぜだか、このような盛り上がった形。
 なわけで、ようやく、谷端川を下って行く次回。いつになることやら、すみません。
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粟島神社

2010年04月22日 00時32分57秒 | 観光


 粟島神社。ここが谷端川の源泉の一つだと言われているんだけれど、実は、全然関係のない話をしようといろいろ文章書いていたんですが、だめ。あまりにも広がりすぎて、一つのエントリーに収まらないし、誤解を恐れるばかりに引用文だけで相当なものになってしまい、その整理や文献の収集に追われ、断念しました。粟島神社とか西宮のえべっさん、あるいは最後うつろ舟で流された秦河勝など、なぜか大阪湾近くの瀬戸内海に集中する流離譚。そこから「人を殺す」=「神を殺す」みたいな話をしたかったんですが、いかんせん話大きすぎ。
 「人を殺す」、そのことが実は動物から人間へ後戻りできないトラウマとして私たち人類にはあったのではないか、など、バタイユなど古くからある話からルネ・ジラールとかジュリア・クリステヴァとか、いろいろ考えてみようかと思ったのですが、断念。もうちょっと時間がないと。いや、自分の中にはある程度考えはあるんだけれど、それをどう、説明しようか。考えとか思いつきって実は説明部分に一番苦労するんですよね。もう少し考えます。あと博士論文をもとにした六車由実さんの「神、人を喰う」(新曜社)は素晴らしい。
 でも、私たち今生きている人類は、「殺した」側か「殺された」側かで言えば、明らかに「殺した」側なわけで(じゃなきゃ生存していないわけだから)、その「殺した」という禍々しいトラウマが私たちの宗教や倫理観を形作っているのではないか、と最近思うんです。
 たまに雄大な自然を見て、「ああ、人が自然の向こうに神をイメージするのってこういうことなんですね」みたいな自然バンザイ番組があるけれど、同じ風景は鹿だって熊だって見てる。じゃあ、なぜ人間だけがその自然に対峙してそういう感情を抱いたのか、そこでしょ、問題は、と。その自然の雄大さを実感するのは、自己の禍々しさ故なのではないか、と。「銀河鉄道の夜」に出てくるさそりのように、自分の卑小さが嫌になるほどわかった故、宇宙の星になったように、人間も自分の禍々しさやいやらしさを自覚したからこそ、自然の雄大さ、尊さ、美しさに気づいたんじゃないかと思うんですよ。
 ほとんどすべての神話が落ち度による楽園喪失、あるいは身内殺しを語っているのは、まさにそのトラウマなのではないか、そして人間は現代に至ってもそのトラウマゆえ穢れを定期的に祓わないと落ち着かないんじゃないか。
 雛人形は室町時代以降流さなくなったけれど、今でも穢れを背負わされた人形を長く飾っていると婚期が遅れるなどと言う。かつては婚期が遅れることが女性にとっての不幸だった(今の男親の中には、娘の婚期が遅れるなら、来年まで飾り続けてやろうじゃないか、娘は誰にもやらん、かわいい、かわいい、と思う人もいるだろうけれど)。穢れを移された人形を長く置いておくことによる穢れの伝播(穢れの伝播については、節分の豆撒きにもいろいろ面白い話がある、方相氏とか)。
 そんなわけで、写真は粟島神社の弁天堂。
 おい。 
 人が千々に思ってるのに、ただ単にあれか、水があるから粟島と弁天かよ。違うだろう、その二つ。
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谷端川へのプロローグ

2010年04月20日 20時01分50秒 | らくがき
 生まれ変わったら何になりたいか聞かれ、「地井武男」と即答した自分にびっくりして夢から目覚めた今朝、ああ、びっくりした。
 なぜ、地井武男。
 なりたいのか、地井武男に? わかりません。
 わからないと言えば、このブログ。
 自分で自分のブログをわからないって言うのもおかしな話なんだけれど、先月ずっとお休みしていた頃より、再開したここ最近の方があきらかにアクセス数が減ってる。
 あれ、みんな、なに、そんなにぼくが嫌い? 
 あいつがまた書き始めたから見るのやめようぜと町内で回覧板回したり、井戸端で話し合ったりしてる? 
 書かない方がアクセス数が上って、みんなどんだけぼくのことが嫌いなのか、と。
 世界なんて滅んでしまえ、人類なんてみんな死んじゃえ、そんな中二病のような感情が惹起される今日このころ、みなさまご清祥のこととお喜び申し上げます。
 その一方、コメントを頂けるとすごく嬉しい。もはや、このブログを支えてるのは皆様のコメント。
 アクセス数ではありません。
 誰もアクセスしてくれなくても、コメントを頂ければ、ぼくは続けます。
 世界中のみんながぼくを蛇蝎のごとく嫌っていても、早く死ねよゴラと思っていても、コメントがあればぼくは生きていけます。
 一言でもいいんです。
 「おじさんよし」とか。
 「今回は64点。悪くないけど向上を求めます」とか。
 このブログのすべてのモチベーションは、皆様からのコメント、これに尽きます。
 コメントを頂いた方にはもれなく、私からのエア投げキッスというプレゼントを(だから、それで減るんだって)。
 すみません。
 いや、でも、ほんと、肩の一つも揉みに参上つかまつりたくなります。
 そんなわけで、明日は粟島神社。ある意味、小石川の源泉へ旅します。
 でも、たぶん、川より「粟島」というぼくにビンビン来る言葉に反応する回になるんじゃないか、と。
 では次回!



 ………いや、それにしても更新したらアクセス減るってどういうことなのよ。
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すべての猫好きに捧げます

2010年04月20日 16時09分44秒 | らくがき
 この歌を歌っている方は、ピカチュウの声を担当していることでも有名。にしても、ときどきここでご紹介するものは、「うちゅうひこうしのうた」など、菅野よう子の曲が多いことに今気づいた。
 誰かがピカソのことを「スタイルの軽業師」と評していたけれど、菅野よう子もすごい。


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美しいおじさん

2010年04月19日 19時38分58秒 | らくがき
 「癒し」という言葉が好きじゃない。せっかくの屈折を安易に癒されてたまるか、と頑なに拒んでいる部分がぼくの中にはある。そんなのなんだか飼い慣らされているような気がする。養殖されているような気がする。
 養殖なんてイヤだ、ぼくは野生のおじさんになりたいんだ。手から餌もらったりしない。ぼくを餌付けしようたって無駄だ。ぐるる。みたいな。
 そんな野生のおじさんたちが集うコロニーを作りたい。たまに餌付けされて里に連れてかれるおじさんを、ぼくたちは木々の隙間から見つめてる。あいつの魂はけがされた、と。体中、最高に警戒感をみなぎらせながら。
 コロニーは、しかし、人口が減る一方だ。
 われわれおじさんたちが集ったところで、どう工夫しようが、新たな人口創出は望めない。われわれのコロニーは、いつか滅びる。
 ある晩、最後の一頭となったおじさんは、あまりにも気温が低いので結晶の形のまま降る雪に包まれつつ、静かな夜、息を引き取る。自分の死は、本来自分個人の死であるのに、それが種族全体の死の同義であることを実感しつつ。そしてそれは、はるか昔、最後の恐竜が死に絶えた時と同じ感覚であることを理解しつつ、おじさんはまぶたを閉じる。閉じたまぶたの重なる冷たさが、おじさんの最後の感覚だった。
 おじさんという存在は、たぶん、それくらい美しい死に値する。
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吉見で花見

2010年04月18日 19時46分49秒 | 観光

 寒かったり、雨が降ったり、なかなかチャンスがなく、今年は花見に行ってません。
 今日は天気がよかったので、たぶん最後のチャンス、花見に行ってきました。
 とはいえ、東京はもう葉桜。自転車で荒川を北上、60km離れた吉見の桜つつみへ。
 上の写真は今日、2010/04/18。



 ここは桜の前から菜の花が咲き乱れ、夏は桜葉が涼しい影を作り、秋には曼珠沙華が咲き乱れ、ちょっと行くと道の駅「よしみ」でおいしい手打ちうどんやいちご狩りが楽しめる、ほんとに素敵な場所なんです。
 春になったせいか、虫いっぱい。あの、なんなの、ちっこいハエみたいな、なにか、生物。こう、柱のように群がっていて、でも小さいから見えずに、何度も何度もその柱に突っ込むんです。その度に顔にちりちり虫がぶつかる。痛くはないんだけど、かなり不快。今日は一度右目に入り、うわっとパニック。
 でも、その春のおかげで、土手でイタチを見ました(正確に言うと、イタチの類。ちょっと見ただけでテンとイタチとオコジョあたりの区別がつくような能力はぼくにはありません)。
 それから、これ。


 わかります?
 そう、キジ。荒川の土手にいたんです。
 慌ててフロントバックからカメラを取り出して、起動させている内に、どんどん芝生の中に隠れていく。これがちょうどカメラが間に合った瞬間。もうずいぶん隠れてしまってます。
 でも、芝生に隠れてないで、飛んで逃げればいいんじゃないのだろうか、だって、きみ、鳥なんだから?
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愛のむきだし

2010年04月18日 02時43分09秒 | 映画


 愛って絶対的な贈与の話なんだろうけれど、実は人間ってそういう絶対に耐えられる仕様で作られているわけではないので、多くの場合、追い詰められた恋愛って相対的なものになる。相手にどれだけプラスを与えたか、逆に自分にどれだけマイナスを与えたかのアピール合戦。
 プラスは往々にして、現世的な利害関係において「貢ぐ」という言葉、あるいは金銭が伴わないにしても尽くすという言葉で表現される。その一方自分にマイナスを与えるという行動は、たとえば自傷行為、これが発展すると相手を殺して自分も死んでやるという迷路に陥る。
 プラス、マイナスどちらにしても不幸。だいたい、恋愛にプラス、マイナスという概念を持ち込むこと自体、すでにその恋愛の破綻の兆しなのだ。
 だから、恋愛はその追い詰められた段階で破綻している(人によっては、その追い詰められた状況下のさまざまな意味での濃厚な状態が癖になるというのもアリなのかもしれないけれど。でも、それは悪趣味と言えるんじゃないか)。しかし、追いつめられてサラ金で借金をし、なおさら状況を悪化させてしまう人たちが多くいるように、死に瀕した恋愛をなんとか蘇生させようとして、より状況を悪化させてしまう人たちはたくさんいる。愚かと言えば愚かなのかもしれないけれど、ぼくにはそう断言するのも躊躇われる。そんなにいろんな女性と付き合ったわけではないけれど、手首に傷がある人が二人目になったとき、ぼくは人の過去におけるさまざまなストーリーに思いを馳せる必要があるのではないかと思った。
 で、この「愛のむきだし」。
 一言で言うと号泣。
 ここには、現実を無視した絶対の贈与が描かれてる。
 人によっては嫌う人も多いかもしれない。いやらしい。きたならしい。
 そう、この映画はいやらしいシーンもあるし、きたならしいシーンも多い。でも、それらのどのシーンも記号化されていない。映画を見て、ぼくが一番いやらしいと思うのは記号化されたシーン。たとえば、「貧しかったけれど、あの頃は夢があった」みたいなくくりでセンチメンタルな音楽が流れる、こういうシーンの方がどんだけやらしいのか。恋人が白血病で死ぬ。その死のあと、思い出の地を訪れたら恋人からのメッセージが。青い空、そして音楽ドーン。ぼくは、こういう記号化されたシーンの方が絶対やらしいと、薄っぺらいと思う。
 人は肉体をもって生き、その肉体とともに死ぬ。その両極端をエロスが結んでいるんじゃないか、と思う。エロティシズムは、両極端のもの、日常では結びつかないものを結ばせる力がある。だから男女が結んだり、生と死が結ぶのだ。
 そういう意味でこの映画にあふれているいやらしさは、記号ではなく、ものすごく肉体的、とてもエロティックであり、そして人間の生死に迫るものがある。要するにいろんなことが自分の肉体として痛く感じられる。その痛々しいヒロイン、ヒーローの痛みが伝わってくるから、たぶん嫌いな人は余計不快なんじゃないか。
 ぼくも不快な部分がいっぱいあった。映画見て、なんで、こんないやな気持ちを与えられなきゃならないのか。でも、その不快さが記号的なものではなく、肉体的なものだから、これは逆に不快さそのものも、この映画の力なのだ、と。
 今回は一切ストーリーは説明しません。ただ、見れば人によっては相当不快。人によっては号泣。こんな力のある映画こそ、ぬるい映画と違って見る価値があるんじゃないでしょうか。
 あ、あと、ゆらゆら帝国の音楽がものすごくよかった。解散がとても残念。
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ラブホテル2

2010年04月16日 02時46分55秒 | 観光

 車で走ってると、助手席に座っていたガールフレンドが、なんだか嬉しそうな顔でこう言った。「あ、このホテル来たね」
 それから流れた時間は数秒なのか、1秒すら経ってないのかわからない。車の中に流れていた時間が急に変わった。
 ぼくは昔カンボジアに行ったとき、雨と晴天の境界を見たことがあった。車で走っていて、あ、あそこから雨なんだとはっきり別れているのを見た。まさにそんな感じ。車の中の空気は彼女の発言以前と以降とでは、地球の自転がずれるほど変わっていたのだ。
 「長く付き合ってると、なんでもaquiraくんとの思い出のように思っちゃうんだよねえ」
 「ふうん、こんなとこまで来てたんだ」
 「お願い、ごめん、迂闊な発言は謝るから」
 「え、ここで繰り広げられたきみの秘技や必殺技など語らなくていいのかい?」
 「どっかでお昼食べようよ」
 「あのさ、ぼくの中に悪魔と天使がいるんだけど」とぼくは言った。「悪魔は話が面白いから引き伸ばせって言ってる」
 「あのう、すみません、天使の方でお願いします」
 「天使は、手を振って悪魔に賛成だって言ってます」
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「マイ・ワンダフル・ライフ」

2010年04月15日 00時37分38秒 | 音楽
 ぼくの涙腺は、海で退屈し始めた幼稚園児のこしらえる砂団子以上にもろい。
 たとえばオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を聴いてるうちに号泣。その泣きっぷりといや、一緒に暮らしていた女性を1m以上飛び跳ねさせ、びびらせるほどだった。FMで内田光子さんの弾くベートーヴェンの後期ソナタが流れてきたときは、もう運転できなくなって車を停めて泣いてた。
 確かに泣くことはカタルシスにつながるとも言われる。だが、ぼくは別に泣きたいわけじゃない。なのに、大変遺憾ではありますが、よく泣いてしまう。
 スウィング・ジャーナル誌が選ぶジャズの賞がある。話は唐突にカーブを切って違う方向に進むのである。21世紀はそんなにのんびりした時代ではないのだ。じたばたするなよ、世紀末が来るぜ、なのである。世紀末だからじたばたするんじゃないか、とも思うんだけれど、まあ、よしとしよう。で、2009年の金賞が上原ひろみとエディ・ヒギンズのダブル受賞。銀賞がマンハッタン・ジャズ・クインテット。ああ、なるほど、なるほど。そして日本ジャズ賞が「マイ・ワンダフル・ライフ」だった。
 エディ・ヒギンズ、いいじゃないの。マンハッタン・ジャズ・クインテット、いいじゃない(上原ひろみは未聴なので感想は控えます)。もしぼくが一人暮らしをしていて、そこに初めてガールフレンドを呼んで一緒に夕飯を食べるなんてシチュエーションがあったなら、ぼくはその2枚のCDを手に入れ、BGMとしてかけるだろう。音楽に限らず芸術はその場の空気そのものを変えることができる。これらの音楽は流れて過ぎてゆく時間を「メロウ」で「ソフィスティケート」された(ああ、書いてて尻がかゆくなるぅ)ものに変えてくれるだろう。ぼくと彼女はおしゃれでアンティームな雰囲気に包まれ………ごめん、もう限界。これ以上はこそばゆくてキーボードを押すことができない(いや、でも、どちらも上質な音楽で、素晴らしいものであることはたしかなんだけれど)。
 でも、その金賞・銀賞以上にこれはすごい、と思っている「マイ・ワンダフル・ライフ」はかけない。
 号泣するから。
 実は今これを書きながらかけているんだけれど、何度も聴いて結構免疫できたはずなのに、まだ鼻すんすんさせてる。天才ドラマーと言われた富樫雅彦の楽曲を佐藤允彦、渡辺貞夫、山下洋輔、日野皓正、峰厚介らが演奏してるCDなんだけれど、そのメロディーの美しいこと。決してセンチメンタルな情緒に訴えかけるようなものではなく、美しく優しいメロディーは、しかし心を鷲掴みにして振り回す。最初のサダナベの出だし(多くの人はナベサダと言うけど、サダナベなのだ)から泣かされ、最後山下洋輔の演奏終了でまた大泣き。
 ぼくは基本的に音楽に文脈は必要ないと思うのに、最後は音楽そのものにやられた上、拍手にやられた。もう、ほんと、いや。あんまりイヤだから、同じコンセプトで佐藤允彦がソロでピアノを弾いてるCDも買って、自分を痛めつけてる。こちらもすごくいい。
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ラブホテル1

2010年04月14日 02時15分04秒 | らくがき


 バサバサバサバサ。
 女友達の運転する車がいきなりラブホテルの駐車場に入った。
 「え、え、ぼ、ぼくたち、と、友だち」なんだかETだか20世紀少年みたいなことをつぶやく。どうしよう、ぼくは、彼女と一歩踏み込む関係に躍り込もうとしているのだろうか、それもけっこう無理矢理に。
 車はそのまま、ホテルの駐車場を突っ切り、裏側から山手通りに抜けて行く。
 「このホテルを通るとね、信号一つ短縮できるの」
 「きみさ、人生に対する力こぶの入れ方間違ってる気がするよ」
 「これやると、たいていの人はびっくりするんだよね」
 そりゃそうだ。
 そして、山手通りを縦横無尽に運転しながら彼女はぼくの動揺を嘲笑うようなしたたかな笑みで言う。
 「ホテル駐車場内でのきみの心の動きをゆっくり聞こうじゃないの」
 「あのさ」なんかいろんな意味で悔しいぼくは言った。「きみがこの技を知った詳細を先に聞かせてくれないか?」
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染井霊園

2010年04月07日 18時16分27秒 | 観光

 「桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ」 (梶井基次郎「桜の樹の下には」)

 この地の園芸農家が作り出した桜の品種が染井吉野。この霊園も満開。



 ここが谷戸川源流の長池跡。右手のプレートが源流跡であることを説明しているのだけれど、それによると長さ158m、幅32.4mとかなり大きな池であったとのこと。



 この一段高くなっているところが谷戸川の土手。この後、暗渠筋を歩いていると、案の定北区滝野川と豊島区駒込との区境となる。
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