毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

総本家更科堀井

2006年03月31日 12時00分32秒 | 食べ物
 かつて麻布十番を歩いたとき、なんとなく神楽坂に似ているな、と思ったものだ。通りの向こうにはまだ六本木ヒルズはなく、都会なんだけれど、なんだか一本路地入っちゃった感のある街。
 大江戸線や南北線がない時分だったので、どこに行くにも遠い。神楽坂も東西線はあったものの、やはり大江戸線が開業してから便利がよくなったように思う。ま、神楽坂程度だったら歩いてしまうのだが。

 ここに有名な鯛焼き屋があるのだけれど、バラで買おうとすると40分待てだのなんだの言われるので買ったことがない。予約を先に焼いているらしいのだが、鯛焼きなんてもん、予約して2時間後に取りに行って食べるもんじゃないだろ? ものすごく貧しい気分がするのだ。

 近所に総本家更科堀井、総本家永坂更科布屋太兵衛、麻布永坂更科本店と更級系が3店区別のつきにくい店名で並んでいる。以前布屋太兵衛に行ったことがあるので、今回は総本家更科堀井に。布屋太兵衛に行ったときにはまだ麻布十番はのんびりしたところだったが、今回はずいぶん様子が違う。パンツルックでチビ犬連れた若い女性が行き交う街になったりしている。しかもみな判で押したように同じような格好。不良もセレブも他と同じような恰好したがるとこなど、似たようなもんだ。
 更級ともり(いわゆるせいろですな)を注文。布屋太兵衛と同様、つけ汁に甘汁と辛汁の2種類出てくる。布屋太兵衛の甘汁はいまいち口に合わなかったが、ここのは辛汁好きなぼくでもいける。
 さ、蕎麦がくる。せいろは無難なお味。うまいとは言えない。無難がぴったりだ。
 それに引き換え更級。完全にゆで時間を間違ったか、ネトっとしてる。布屋太兵衛で更級食べたときはプッツンプッツンというコシがあったのに、コシも何もない。真っ白でプッツンプッツンで、そのくせそこはかと蕎麦の香りと味がする、そこが更級の醍醐味なのに。コシもなければ、味も香りもない………。
 その日、その時、たまたまだったかもしれない。
 でも、そんなことは店のいいわけにはならない。
 便利になって客層が変わったのか、不思議な蕎麦だった。

 お口直しに麻布十番のファッショナブルさとちゃん。
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モスク

2006年03月29日 12時08分36秒 | らくがき


 南大塚の桜祭り。
 マスジドの横にちゃんと日本人にわかりやすいように括弧で「モスク」と書いてあるのがいい。
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ヴェルディ「運命の力」 新国立劇場

2006年03月28日 02時08分30秒 | 音楽

レオノーラ        アンナ・シャファジンスカヤ
ドン・アルヴァーロ   ロバート・ディーン・スミス
ドン・カルロ       クリストファー・ロバートソン
プレツィオジッラ    坂本朱
グアルディアーノ神父 ユルキ・コルホーネン
プラ・メリトーネ     晴  雅彦
カラトラーヴァ公爵   妻屋 秀和
東京交響楽団
指揮 井上道義



 「こっそり手紙を見てしまおう、どうせ誰も見ていない……いや、自分が見ている!」
 格好よさげなセリフなのだが、なんとなく一人で遠くまで行ってしまう演技の片桐仁を思い出してしまった新国立劇場。ご無沙汰してます。
 「シリアナ」の感想を書くでももなく、唐突にオペラ。今日は新国立劇場にヴェルディの「運命の力」を見に行ってきました。
 ちょっとした失敗が重大な結果を招き、流転する運命、しかも、その背後には秘密にしていた王家の血が………。
 オペラはどちらかというと単純なストーリー(王子が王様の嫁さんに恋して破綻した、とか、芸術家を目指す若い奴らが右往左往、とか)をもとに、素敵な音楽を奏でていた方がむいていると思う。「運命の力」のような壮大なストーリーだと、音楽がそれを追いかけているだけでハアハア言っちゃうこともあるし、追いつかずにどうしてそんな話になったのか、解説書を読めばわかるものの、オペラを聴いただけではわからない場合がある。
 このオペラが同じヴェルディにしても「椿姫」や「オテロ」、「ファルスタッフ」その他に比べ上演回数が少ないのも、そこらへんに起因しているのではないだろうか。
 どうして第4幕でアルヴァーロはラファエル神父になっているんだ?

 イタリアオペラに似合わない壮大なストーリーのせいか、音楽もイタリアオペラっぽくないし、また歌も重厚で強くドラマティークな歌唱を求められているのかもしれない。その点では今日主役級を歌った3人、レオノーラ、アルヴァーロ、ドン・カルロは見事だろう。同じ3人でヴァーグナーもいけそうだ。もっとも今回のがヴェルディっぽくないのと同様、ヴァーグナーっぽくない演奏になってしまうかもしれないが。
 いや、別段文句を言っているわけではない。指揮も重々しいがドラマティークだったし、木管の健闘が素晴らしかったオーケストラも評価に値する。演出も最初わくわくするような期待がもてたし(だんだん、言わずもがなの尻つぼみになっていったような気がするが)、舞台設定をスペイン市民戦争にもってきたのも斬新だった(その意義がほとんどなかったのが残念だが)。
 狂言回し風のメリトーネはやりすぎ、プレツィオジッラはノリが悪すぎ。
 おかしいなあ、個別に考えると主役級3人とオーケストラ以外はだめな気がしてくる………。あ、でも、主役級3人がOK、オーケストラもOKとしたら、イタリアオペラとして、まず及第ではなかろうか。
 あ、そう考えるとすごく、イタリアオペラっぽい演奏である。
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ヴァルトビューネ2003年 ガーシュウィン・ナイト

2006年03月22日 15時14分13秒 | 音楽


 ベルリンの壁が崩壊した翌日、たまたまレコーディングでベルリンにいたバレンボイムはベルリンフィルを率いて、東ベルリンの人たちのためにコンサートを行った。静かに心にしみいるモーツァルトのソナタ、ベルリンってこんなに熱く燃えるのかと驚いたベートーヴェンの交響曲第7番。感動的なコンサートだった。
 翌1990年6月30日バレンボイムはヴァルトビューネ野外劇場でコンサートを行い、それ以来6月の最終日曜日、ベルリン・フィルはここでコンサートを行い、1年を締めくくる。
 森に囲まれた夕方。ピクニック気分で寝ころんだり、なんか飲んだりしながら、それぞれの楽しみ方で音楽を聴く。実に見ていてうらやましくも気持ちのいいコンサート。
 で、2003年は小澤征爾指揮、マーカス・ロバーツ・トリオによる「ガーシュウィン・ナイト」。こじゃれた感じの「パリのアメリカ人」に始まり、2曲目の「ラプソディ・イン・ブルー」以降はマーカス・ロバーツの圧倒的な存在感がベルリン・フィルを巻き込み、両者が渾然一体、ノリノリに燃える。それを見て聴いているぼくのなんという幸せなこと。マーカス・ロバーツ・トリオとベルリン・フィル、相手に合わせようというより、自分の最善のものを引き出し合おうという感じのする演奏なので、それは非常にスリリングで、喜びに満ちている。演奏している人たちの顔のなんとすてきなこと。そして聴いている人たちのなんと楽しそうなこと。
 会場中を幸せな空気が包み込んでいる。ぜひご覧になって、幸せになって下さい。
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ヴェロニク・ジャンス「星月夜」

2006年03月20日 14時51分22秒 | 音楽


 どれだけ売れたかわからないが、かつて東芝EMIは「ドビュッシー歌曲全集」という5枚組みのLPを発売したことがある。たぶんあまり売れなかった、と思う。だが、これはぼくの宝物だった。あんまり大切だったので、レコードをテープにとって、そのテープをくり返しくり返し聴いて(レコードは何度も聴くと痛むのだ)、レコード本体は大切にしまいこんでいた。
 1曲目がアメリングの歌う「星の輝く夜」で、当時高校生だったぼくはその美しい旋律(決して名曲だとは思わなかったが)をぼうっと何度も聴いた。アメリングの歌声は大仰なヴィブラートがかかることもなく、すっきりとして美しく、はっきりとした発音はまさにフランス歌曲にふさわしかった。今でも上野で聴いた彼女のコンサートを思い出す。何度も何度もアンコールに現れ、会場の電気がつけられたのにまた出てきたときには驚いた。もう20年以上前のことだ。学生服の似合う美少年だったぼくも(ごめん)、すっかり中年。風邪の治りだって悪くなった。
 アメリングによって、ぼくはフランス歌曲をはじめ、シューベルトなどのリート、バッハの世俗カンタータの楽しさ、さらに原條あき子という詩人も教わった。
 そんな遠い目をさせてしまうCDがこれ。一風斎さんのトラックバックで知りました。あらためてお礼を申し上げます。いいものを教えて頂きました。
 で、これが美しい!
 ドビュッシーの「3つのビリティスの歌」なんか、最初っから鳥肌。アメリングが引退した後、いろんな人がフランス歌曲を歌ったが、どうにもしっくりこなかった。そして嬉しいのは、あまり聴くことができなかった「星の輝く夜」やプーランクのさまざまな歌曲、またアメリングで申し訳ないが、彼女の愛唱集にあった「愛の小径」が美しく歌われている。「もう家のない子供たちのクリスマス」などもあまり歌われないから貴重だ。
 フランス歌曲(に限らず、歌曲すべてだろうが)にとって、言葉は大切。ピエール・ルイスの詩を解釈することなく「ビリティス」は歌えないし、ヴェルレーヌを考えずに「艶なる宴」は歌えないのだ。オペラ歌手がときに圧倒的な存在感で観客を魅了するようには、歌曲の世界は成り立っていない(もちろん「ときに」であって、「常に」ではないのは言うまでもないけれど)。彼女の歌いぶりはそこも見事。
 透明感のある声で、詩の解釈を歌い、けっして過剰にならない美しさをたっぷり味合わせてくれるCD。もっともっとフランス歌曲を歌ってくれないだろうか。楽しみ。
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東京都交響楽団 東京芸術劇場シリーズ

2006年03月20日 09時33分12秒 | 音楽


 表参道での聖パトリックパレードに参加しようと思ってたんだけれど、チケットをとってあるのを思い出して、いざ池袋へ。東京都交響楽団の東京芸術劇場シリーズ。小山実稚恵をソリストに迎えたブラームスのピアノ協奏曲第2番とヴォーン・ウィリアムズの南極交響曲。小山実稚恵のピアノは表現の幅が広く、素晴らしかった(ミスタッチはご愛敬か)。お目当ては、しかし、南極交響曲。なにしろ実演を見るのは初めてだし、この先いつ見られるかわかったもんじゃない。
 もともとは南極探検のスコット隊の悲劇を描いた映画音楽。それを5楽章の交響曲として作曲し直されたのが南極交響曲。スコット隊に関しては、もう稲川淳二をたばにして「悲惨だなあ、悲惨だなあ」と呟かせても足りないくらいの悲惨なできごとだ。2台の雪上車と馬とで南極点到達を目指したものの、雪上車はまもなく故障。馬も死んでしまう。人力で荷物を運びながらようやくの思いで南極点に到達したら、すでにノルウェーの旗がひらめいていた、と。さらにアタック隊は帰路、基地までたった18キロの地点で全滅。寒さと氷。その中で死んでいったスコット隊の悲劇を思い浮かべると呼吸が苦しくなるほど。ぼくのいけない癖で、わざわざそういうことを想像して一人もがくのだ。プールで泳ぎながら、沈没したロシア原潜の乗組員の心境を思ってアップアップしたり………。
 たとえどんなに明るくても、周囲がまったく同じ氷の景色で右に行く、左にいく、その方向感を喪失してしまえば闇と同じことなんだ。ああ、辛いよお。
 音楽もその悲劇を予感させる重苦しいもの。壮大なスケールで描いたノロノロの行進、と言った感じか。われわれに豊かな恵みをもたらす自然は、極地においてはその様相を変える。立ちはだかる大いなる氷の壁。それも自然のありようの一つなのだ。その自然を前にした人間たちの小さくも、しかしなんと人間くさい営み。凍傷に罹った隊員は、他の者に迷惑をかけないよう、ひっそりと一人雪嵐の中に消えていく。その寒さの中、彼は何を思って死んでいっただろう。ヴォーン・ウィリアムズの音楽の壮大さがよけい彼の存在を際だたせる。
 唯一第4楽章だけが、「タリスの主題による幻想曲」を書いたヴォーン・ウィリアムズっぽい感じがするが、他はみな大いなる悲劇が包む氷の壁。ハッピーエンドの作品を鑑賞して得られる情感とは異なるカタルシスが、しかしそこにはある。
 6月にはシェーンベルクの「グレの歌」を演奏するという意欲的な大友直人(あれもオーケストラ150人、合唱300人っていう小学校全校生徒集合みたいな規模だ)。指揮ぶりもよく、単調にならずさばいていた、と思う。
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旅への誘い

2006年03月18日 08時49分38秒 | 写真


 風邪をこじらせてしまいました。
 ものすごい声になってしまって自分でもびっくり。
 やんなくちゃならないことが山積ですが、これから寝ます。起きたときが恐怖………。
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新宿ポルノ映画館

2006年03月17日 20時09分29秒 | 写真


 映画館の灯りが誘蛾灯のようだ。
 闇はエロティックというよりも猥雑で、ストーリーがたっぷりしみこんでいそうだった。映画のストーリーではなく、闇そのものの。
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造幣局の木

2006年03月16日 15時55分11秒 | 写真


 東京はすっきりと晴れない天気が続いてます。
 ヨーロッパの冬っぽい空です。冬のパリの印象に似て、いつも泣き出しそうな空模様。
 仕事が忙しいのに、喉に来る風邪をひいてしまいました。仕事が忙しいので、なかなか書けませんが、DVDで「メゾン・ド・ヒミコ」を、劇場で「シリアナ」を見てきました。
 20日締切の原稿を2本抱えているので、それが終わったらまたのんびり書きたいと思います。
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忘れ物

2006年03月15日 10時15分05秒 | 写真


 いつの間にか、公園の忘れ物置き場になりました。
 Tシャツを着せられた時もあったけれど、そんな基本的なものをどんな人が忘れて帰ったのだろう。
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兵庫県大蔵海岸

2006年03月14日 22時20分34秒 | 観光


 誰もいない。何もない。
 夕日すらない。
 空は海にはねかえった空気の色いっぱいに満たされてた。
 マーラーの3番がなぜか耳にこだました。
 遠くから女友達が叫んでいた。
 フェリーニの「甘い生活」のラストシーンって、こんなだったよな、と思いながら、ぼくは、でも、タッジオのポーズをとってみた。
 だめだな。タッジオじゃ、ヴィスコンティじゃん。
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明石海峡大橋

2006年03月14日 08時11分16秒 | 観光


  年末伊勢に行ったときには雪でバスが3時間の遅れ。8時に着くはずが11時に。のろのろとしか動かないバスの中で煮え煮えしながらも、天候ばかりはどうしようもない、と慰めてました。だから羽田空港の搭乗口で「霧のため現在のところ出発を見合わせております」と言われたときの感想は、「また天候かっ!。
 JALやANAがはやばやと欠航を決める中、スカイマークだけは「天候調査中」。ひとつ前の便は神戸空港に着陸できず、関空へ行ってしまったので、この飛行機が神戸に降りないとギリギリの機材で運用しているスカイマークは神戸から飛べなくなってしまうのだ。
 チケットぴあ発券のチケットを握りしめて必死に係員に事情を聞いている女性。時刻表はないか、と尋ねる男性。携帯電話で電話している人々も多い。
 結局1時間半遅れて、だめなときは羽田に引き返すという条件で飛ぶことに。スカイマーク、必死である。
 神戸上空にさしかかるが着陸条件がクリアできずに、飛行機は上空で旋回しながら待機。15分ほどして「一時的な天候回復により着陸致します」のアナウンスには、機内から拍手が起きた。いやあ、映画で見るシーンだが、こういう拍手は初めて。
 霧の中に浮かぶ明石海峡大橋。
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われはフランソワ

2006年03月13日 14時17分40秒 | 読書
「われはフランソワ」山之口洋著 新潮社

 フランソワ・ヴィヨン。パリ大学の大学士にして泥棒、人殺し。
 しかし、ヴィヨンの姿を確定する証拠はいかんせん乏しいものしかない。残された決して多くはない詩と伝説。中にはフランソワ・ヴィヨンの存在そのものを疑う人すらいる。
 とすれば、逆に彼くらい詳説向きの人物もいないわけで、断片的に残ったものを想像力で接ぎ木して、作家の力量によってはそこに見事な花を咲かせることもできるだろう。
 詩に見られるヴィヨンは、具体的な事物を詩に盛り込み現世的情念ぷんぷんたる姿をあらわしている。肉の匂いたっぷりの「太っちょマルゴー」などその典型だ。ここでのヴィヨンは客が来れば寝床を明け渡す、娼婦のヒモである。マルゴーの稼ぎが悪いと喧嘩になるが、
「ほどなく 二人は 仲直り マルゴーめ おれにむかって
 えんま虫の 放つやつより なお臭い 放屁を 一発
 にんまり笑って おれの首(こうべ)に 腕(かいな)を巻いて
 よう ようったら!と促して 股を 抓くる
 二人とも 酔っているので 独楽のよう ぐっすり 眠る
 ふと 目が覚めて マルゴーは 下腹が むずむずしてくると
 花の戸臍を 損ねじと おれの上に 婚(よば)い上がるが
 臀(いさらい)に 敷かれて おれは 音をあげて 俎板よりも 薄くなり
 飽くなきやつの 淫欲に ただ へとへと になるばかり
 おいらの 生活(みすぎ)の 拠りどころ この達磨屋で」

 ヴィヨンの新しさは、そうした自分への視線であろう。肉に溺れる自分をシニックに観察している自分、そしてそれによって表現される自分。中世が近代へと転換するポイントかもしれない。
 またその一方でヴィヨンの詩から読みとれるのは無常や諦念である。古今東西(いや、西だけか)の美女の栄華を歌い、その喪失を歌い、結局「去年の雪だってもうないじゃん」とはかなさを嘆く(そのかみの貴女のバラード)。
「われに告げてよ いずくに いかなる郷に
 ローマの 美姫の フロラは ありや
 ………中略………
 さもあれ 去年の雪や いずく」

 その諦念の出発点はやはり自分への視線である。自分なんてたいした存在ではない(その中には自分を含む人間そのものもあるだろう)。結局一時のものでしかない。
「つらつら 思うに このおれは
 日月 星辰 の 冠を 頭にいただく
 天使の 血筋なんか ではない」(遺言38)

 だから、
「たとえ あのパリースでも ヘレナでも
 死ぬものは みな 息が切れ 呼吸がとまる
 そのような 苦しみを経て 死んでゆく」(遺言40)
 
 苦しみ、無常。しかも、
「誰ひとり 身代わりに 立ってはくれぬ」

 彼の乱痴気騒ぎの原因にこうした無常はないだろうか。しかも、それでもなお、ヴィヨンは無常を感じている自分を見つめているのだ。

 こうした二面性を持つヴィヨンであるが、山之口洋の描き方は、どちらかというと前者に傾きがちな気がする。それは、主要な登場人物のひとりシャルル・ドルレアンのせいかもしれない。シャルル・ドルレアンとヴィヨンを対面させることによって、よりその違いをくっきりと明解にする必要があったからだろう。そしてこの無常を代表していたのがシャルル・ドルレアンであったので、ヴィヨンのその側面はあえて排除されたのかもしれない。したがって、ヴィヨンの歩みから無常観は払拭され、ちょっとした勘違い(セ・ラ・ヴィと言うやつだ)やルーツとなる血、人物との交流を柱に彼の人生が描かれている。
 ヴィヨンから無常観を奪ってまで成し遂げた対比は、確かにシャルル・ドルレアンの無関心、無常観、あるいは詩の技法としてのアレゴリー好きをヴィヨンと対比させ(一方のヴィヨンは生気溢れ、具体的な事物を読み込む詩の技法もオルレアン公と一対である)、シャープにその像を結んではいる。その二人の間で、生き生きとしたヴィヨンに心をひかれる若きマリー・ドルレアンというのも、だから納得できるだろう。しかし、ヴィヨンの衝動を血とするのはいかがなものか。理由付けとして安易ではないだろうか。
 中世、ベリー候のいとも豪華なる時禱書、一角獣のタピスリーってえ三題噺っぽい筋立て、ヴィヨンとマリー・ドルレアンの秘密の逢瀬、破天荒なヴィヨンを最後まで愛した父と母の姿、読ませるべきものがこの本にはたくさんあったような気がする。
 最後にも一ついちゃもん。
 歴史観が近代的すぎて、「フランス国軍」なんて言葉が飛び出してきたりする。ナポレオンの時代じゃあるまいしねえ。

 文中、ヴィヨンの詩の引用は佐藤輝夫訳を使いました。
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ぼくの叔父さんの休暇

2006年03月10日 13時35分57秒 | らくがき


 仕事ででかけた小石川。その日はトラックに相乗りして行ったので、帰りはぶらぶら歩いて帰りました。すると見かけた一軒の家。
 思わず「ユロだあ」と呟いてしまいました。ぼくの大好きな映画「ぼくの叔父さん」シリーズ。そのうちの、これは「ぼくの叔父さんの休暇」。日本ではこの映画のコンセプトをもとに今は亡き伊丹十三が今は亡き寺山修司や南伸坊、岸田秀などと「モノンクル(ぼくの叔父さん)」という雑誌を刊行してました(いい雑誌だったんだけれど、ほどなく休刊)。
 さて、そんなわけで仕事がものすごく忙しいのに、明日神戸に行ってきます。
 では、みなさん、ごきげんようです。
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初春の猫

2006年03月09日 11時11分26秒 | 写真


 引っ越して1ヶ月半。ようやく近所の猫を把握し始めてきました。
 それにしても仕事が忙しくて胃が痛いです。
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