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渡辺直己「不敬文学論序説」

2008年06月11日 06時40分01秒 | 読書
渡辺直己「不敬文学論序説」     ちくま学芸文庫


 そうか、こういう視点があったのか。
 小説で天皇を描くこと。不敬罪が存在しない現在でもそれはほとんどの作家が等閑視している。
 その態度はレトリックで言う黙説法、接近しながら回避するというまるで皇居の「二重橋」的ディスクールに現れている。この黙説法の象徴的な作家が村上春樹であり、不可視のまま差別論的構造が存続し続けている日本の文学の現状なのだ。
 日本の皇室はヨーロッパの王室のように開かれていない、と主張する人がいる。皇室の民主化が必要だと。これはそもそも間違っているとぼくは思う。日本の皇室とヨーロッパの王室とはまったく別種の装置なのだから。一緒にすること自体がおかしい。皇室の民主化など、そもそも字義矛盾である(民主化でなく、民営化なら面白いかもしれないが。快楽亭ブラックの落語のように)。

 「皇居や伊勢神宮が神々しくおもわれるとしたら、それは一点、肝心のものが見えぬこと(さらには、それが隠すに値しないことじたいを隠すこと)にかかわるのだ」(「不敬文学論序説」)

 この国は天皇を隠すことで権威づけてきたのだ。だから、天皇を爆殺しようとした大逆事件の首謀者たちの目的は、「天子モ吾々ト同ジク血ノ出ル人間デアルトイフコトヲ知ラシメ」ることであった。

 その彼らの願望は、皮肉なことに体制側によって成されるのだ。明治天皇が死ぬ間際の新聞は、体制が発表した「御尿」の量から「御大便」の様子や回数までも克明に報道している(文学の要の一つにアイロニーがあるが、締め付けが厳しければ厳しいほどアイロニカルな状況が生まれるのは、日本に限らず、旧ソ連、北朝鮮などを見るとよくわかる)。
 しかし、大逆事件の時代ではなく、戦後に至っても、実は状況があまり変わっていないことをこの本はあきらかにした。
 引用されている小山いと子ら皇室御用達作家の「一読噴飯ものの恋闕通俗小説」のすごさ。わたしゃ、爆笑したよ、久しぶりに、本読んで。
 小山いと子によって、天皇は隠すべきものであり、描写すればするほど、不敬になるという逆説が、ものの見事に裏切られ、語り尽くされる。「良さまはこのころ五尺一寸九分、十二貫あまりの見事に成熟した理想的な肉体を持っておられたが、きもちは童女のようにあどけない稚いものがあった。女としてのしるしも妹の信さまの方が早くて」だの、天皇夫婦が童貞と処女で初夜を迎える場面など、大逆事件当時のマスコミのアイロニカルな逆説が戦後の皇室御用達作家によっても行われていることを知る。

 天皇と小説は「風流無譚」のように眼に見える形での問題だけをはらんでいるのではない。
 この本は、そうした今まで未明だった問題に光を当て、それがもっている危うい構造を明らかにした。「おお」と驚き、納得することしきり。

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1 コメント

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日本に不敬罪は事実上もう存在する (芋田治虫)
2019-09-07 20:39:56
https://youtu.be/Xwjg9jGcOuw
https://youtu.be/0-PHAszxmlY
https://youtu.be/ELn_hUc-WTg
https://youtu.be/ZusoeiK51hw
「ムッソリーニ万歳」
こういっただけで逮捕される国があったら、その国末期。
どういう体制で、どういう政策をしようが、その国の終わりは近い。
枢軸国のどの国よりもひどい。
事実上の不敬罪が、既に存在する我が国に無関係の話ではない。
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