毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

007 NO TIME TO DIE

2021年10月11日 23時25分01秒 | 映画
 
池袋グランドシネマサンシャインで「007 ノー・タイム・トウ・ダイ」を見てきました。なぜその映画館かというとディジタルでフル規格のIMAX上映が見られるのは、日本ではここと大阪の109シネマズ大阪エキスポシティの2館のみなので。
 今回の007新作を見て、アメリカはさまざまな問題を抱えながらも、文化においては先に進もうとしているのが如実に感じられました。1960年代から白人男性のある種こうあったらいいな的な理想像であった007(風光明媚な出張先で素敵な彼女ができて、仕事がうまくいって、最後洒落た捨て台詞で幕を閉じる)、前作『スペクター』で現役を引退した彼からその007という番号を引き継いだのは黒人女性。「ええ、単なる番号ですから」とクールに言う彼女。時代の変化を感じます。
 思えばアメリカ映画は時代の変化に伴って映画の中の価値観を変えてきたと思います。たとえばクリント・イーストウッド監督『グラン・トリノ』。あの映画で古き良きアメリカの象徴であったバカでかいアメ車を相続するのは中国系移民の男の子でした。ディズニー映画も女性の幸せが王子様と結婚することではないって方に舵を切ってきました。あるいは『トイ・ストーリー3』。アメリカのフロンティアスピリットを象徴するカウボーイと宇宙飛行士の人形を中心とするおもちゃを継承するのは黒人の女の子でした。カウボーイはまさにゴーウエスト、フロンティア精神の象徴であり、宇宙飛行士はケネディ大統領提唱のスペースフロンティアの象徴でありました。つまりアメリカの拡大のシンボル。
 しかし、無尽蔵の拡大はやがて環境その他に多大な負荷がかかることがわかります。そこで言われ始めたのがサスティナブルな成長。それまでの古き良き無尽蔵に成長するアメリカの価値観を担っていた白人男性に変わって、移民や黒人女性たちがそれらを軟着陸させる役割を担っている、007の新作にもそんな時代の変化を感じました。また、登場人物Qがゲイであったりする描写も、今までの白人男性がヘテロセクシュアルな世界の中でブイブイいわせてきた007シリーズとは一線を画しているのではないかと思いました。
 一線を画すと言えば、ネタバレになるので言えませんが最大の変化がこの映画にはあります。たとえば寅さんとかシリーズものの映画ってどこか安心していません? さざえさんとかちびまる子ちゃんとかクレヨンしんちゃんとかでも。え、嘘でしょ? と、最後は落涙でした。
 フクナガ監督のアクションシーン、とくにラスト近くでの階段でのアクションはすばらしかった。そこでライフルの銃腔みたいな建造物で振り返り、それまで使っていた自動小銃ではなく、拳銃で一発撃つところ、まるで初代から今作まで使われてきた振り返って銃を撃つオープニングシーンみたいで、ああ、これで007シリーズの円環が閉じたんだと落涙しました。
 前作『スペクター』の続きのような話なので(『シン・エヴァンゲリオン』が『序・破・Q』の続きのように)、『スペクター』未見の方はまずはそれを見てからの鑑賞がおすすめです(Amazon Primeにもあります)。
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映画「ボヘミアン・ラプソディ」

2019年01月03日 20時29分44秒 | 映画


 遅ればせながら、映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てきました。中学生時代、ある日FMから流れてきた「バイシクルレース」という曲を聴いて、なんととりとめのない変な音楽だろうと。中学時代のぼくは懐が広くないし、度量も狭いので、当時マーラーの交響曲も不純だと毛嫌いしていたくらいで、とても馴染めない音楽でした(当時はバッハとドビュッシーに夢中でした)。そんなクイーンと縁遠い人生を歩んできた人間にとってもこの映画は大変心動かされるものがありました。
 新しいものを作る、その生き生きとした現場に立ち会うのは本当に感動的です。シューベルトを題材にした1930年代の映画「未完成交響楽」でも、音楽が生まれる瞬間のシーンでの、ある種の祝祭感が素晴らしかったのですが、それを思い出してしまいました。あのレコーディングでのさまざまな工夫(ライムスター的に言うとkufu)のなんと誘惑的なこと。まったく自分もその仲間に引き込まれるようでした。
 そして歴史的事実はさておきつの経緯を経てのエンディング。最初のシーンがそこへの導入で、ラストがあのシーンですから、ぼくたちはそこへと至る過程を体験させられるわけです。そしてあのパフォーマンスですから、ぼくは号泣でした。
 何度も聴いたことがある同じ音楽でも、的確な場所で、的確なタイミングで奏でられると、それはまったく違う文脈での響きになって感動を喚起するのですね。ああ、そう言えば、農鳥小屋で朝焼けの中聴いたウラディミール・マルティノフの音楽のかけがえのなさ。そんなことを思い出しました。
 クラシックオタク的に面白かったことをいくつか補足的に。
 プロポーズのシーンに流れるプッチーニのオペラ「蝶々夫人」。幸せなはずのシーンに、夫が日本の現地妻を捨ててアメリカに帰り、彼女は自殺するという、悲劇が流れ、この結婚が決して順風満帆ではないのだろうという暗示を感じました。
 それからボヘミアン・ラプソディをシングルにするかどうかでもめていたシーン。あそこではビゼーの「カルメン」からカルメンのアリアが流れていました。あの歌詞は直訳すると「恋はボヘミアンの子だから、法律なんか気にしない」とシーンを象徴するかのようなBGMでした。
 そして、窓越しの電話のシーンで流れるのはプッチーニの「トゥーランドット」でのリューのアリア。王子に従順なリューが「王子様、もうリューは耐えられません、リューの心は砕けてしまいます」と歌います。乾杯しようとして彼女がグラスを持たなかった、あのシーン。あそこでこのBGMです。クイーンの音楽のみならず、ほかの音楽も本当に考えられて使われたのだと思いました。
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チョコレートファイター

2010年08月25日 22時56分12秒 | 映画


 あ、やばい、と思ったのは、主人公がマーブルチョコをポイポイ口に入れるところ。ああ、この子悲しい、こんな悲しいヒロインを造形させた奴ら、罪作りだ、悲しいじゃないか、と。
 ヒロインは日本のやくざ(阿部寛)とタイ人女性との間に生まれた女の子。生まれつき知能に障害があって、まともに口がきけないのですが、動物的と言っていい反射神経と動体視力、そして格闘技へののめり込みで、ものすごいファイターになります。かわいくて細っこくて、でも幼児のような会話しかできなくて、ハエが出るだけでパニックになるのに、めちゃくちゃ強い。ある種アニメです。その極端さは、まるでアニメのキャラのようです。
 そして一部のアニメのように、残酷です。
 病名には直接触れられていませんが、母親がガンに冒され抗癌剤の副作用でしょう、髪が抜け落ちてる姿を見ると泣き叫び、自分も髪を切ってしまうなど、彼女の幼児性をこれまでかと描写するのです。その幼児性と格闘、この二つの幅をこの映画は描きます。
 そしてある夢を見た後彼女は覚醒します。それは悪意に満ちた世界を敵に回すことと同義でした。この覚醒の後、彼女は初めて叫ぶんです。それは、何かに目覚めた叫びでした(何かは映画を見てください)。
 この後の彼女のアクションシーンは出色です、ほんとうに。すごい。
 で、その後、障害者同士の一騎打ちになるんです。どっちも何か障害を負ってるが故の悲しい強さ。こんなシーンは今まで見たことがありません。
 そして最後のクライマックス。CGなしでこれですか。これ、すごすぎませんか。人死んでませんか。
 キャラ立ちもいいし、素晴らしい映画でありました。

 P.S.最後の歩くシーン。あれ、ずるい。泣くに決まってんじゃん。あれ。あとエンドロールのNGシーン。普通NGシーンって笑うとこじゃないですか。このNGシーン、一切笑えません。こんなNGシーン集見たことありません。主人公の女の子を含めて、必ず誰かが流血しているNGシーンって。ここで言われるNGって、芝居を失敗したからじゃないのね、映画としてまずい部分のことなのね、と。ヒロインの手から刺さったガラスを抜くなど、血とケガを冷やすための氷がこれほど登場するNGシーン、初めてです。
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トイ・ストーリー3

2010年08月13日 00時20分26秒 | 映画
 なんなんでしょうね、ピクサー。
 もうね、ふざけんな、ですよ。いい年こいた親父が映画館の中で大号泣ですよ。おさえきれないんですよ。
 実は「トイ・ストーリー2」があまり面白くなかったので、観に行くつもりはなかったのだけれど、周囲の評判がよすぎて、つい観に行ってしまったのが失敗でした。場内が明るくなった時の辱め。「あのおじちゃん壊れちゃったの」的な子どもの視線を感じながら、ぐすぐすしながら這々の体で映画館をあとにしました。
 偉大なる「トイ・ストーリー」サガが、15年間かけて物語られた円環が閉じる、ああ、終わってしまう、もうこいつらに会えないんだ、こいつらの新しい話を見ることができないんだ、という一つメタな部分での感動もあったのですが、それ以上にこの話のできがよすぎます。
 アニメーション技術の素晴らしい点もいっぱい感じました。でも、それ以上に脚本ですよ、物語です。
 子どもが観ても十分楽しめる敷居の低いエンターテイメントでありながら、それが内包している成長と別離、絶望、絶望を前にした………などなど。また描写にしても、キレイキレイじゃありません。モンキーやベイビーの描写にはある種の狂気やいびつささえ感じます。
 語るに足る内容が凝縮した映画ですが(それこそ失業や役割の喪失など)、まだ余韻に浸ってしまっていて………。
 できたら吹き替え版ではなく、字幕版をおすすめします。今回初めて字幕で見たのですが、所ジョージってすげえ下手だったんだと改めて納得しました。
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「ジェネラルルージュの凱旋」

2010年07月12日 20時44分38秒 | 映画
 さ、駅前TSUTAYAさん2010年上半期ベスト2は、「ジェネラルルージュの凱旋」。

DVD説明:累計700万部(2009年5月時点)を超えるシリーズ最高傑作、待望のDVD化!
救命救急医療の深い闇。“ジェネラル・ルージュ”の背後に隠された驚きの事実とは…?
 現役医師・海堂尊原作による映画『チーム・バチスタの栄光』の大ヒットから一年。田口・白鳥シリーズの中でも最高傑作との呼び声が高い『ジェネラル・ルージュの凱旋』が待望のDVD化。

 豪華キャストという点では「アマルフィ」と同じなんだろうけれど、そのキャストの使い方がぜんぜん違います。妙に格好つけて結局お笑いに走っていった「アマルフィ」に対して、「ジェネラルルージュ」はちゃんとしてます。正名僕蔵、阿部寛、堺雅人、三人のいやあな感じの演技も安定しているし、とくに堺雅人の目がいい。たまに狂気を帯びる感じもすごい。いつか、もっと汚い役をしている堺雅人を見てみたい気がします。
 で、それ以上にびっくりしたのが高嶋政伸。高嶋政伸がこういう目をするとは意外。実は今までぼくの中で非常に評価の低い俳優さんだったのだけれど、この目はすごい。CGで細工してるんじゃないか、というくらい。「ディア・ドクター」の鶴瓶といい、新たに驚嘆できる役者さんを見るのはすごく楽しい映画体験になります。
 それから師長役の羽田美智子さん、彼女もいい。今までほとんど印象のなかった女優さんなのだけれど、この映画ではかなり印象的な役どころだった。それをうまくこなしているように思われました。
 舞台は大学病院。倫理委員会に救急救命治療センターのセンター長が業者と癒着しているという密告書からストーリーは始まるんですが、その決して派手ではない展開も別に飽きるものではなく、見ていく興味を損なうことはないのですが、ただ、残念なのが異常なほどのテンポの悪さ。そして、そのテンポを一人悪くしているのが、主役の竹内結子さん。
 竹内結子さんの役どころは、かなり頭が悪そうで、これは脚本がことさら竹内結子をかわいく描写しようと思ったからなのだろうけれど、バカっぽい&天然=かわいい、という紋切り型の発想がとても貧困のような気がします。
 そして、一見頭悪そうで天然っぽいキャラが事件を解決する、そのギャップに萌えるみたいなのを表現したいらしいのだけれど、これがとことん図式的で、そもそもそういう頭の悪そうな人とこのストーリーとがなじまないんです。というか、竹内結子がいなくなるとストーリーが絞られ、映画の運びもスムーズになる。いや、ほんと竹内結子がだめなの、姿が現われると思わず舌打ちしてしまう。で、「ああ、ええと、あのー」と自信なく喋り始め、映画のテンポをとことん破壊します。で、その一見頭悪そうで天然っぽい竹内結子さんは、実は事件を解決しません。だから、本当に無駄なのです。この映画は2時間を超えるんですが、90分くらいにまとめていればもっとよかったのではないか、と思われてしまいます。竹内結子さんには、ストーリーとは別に、横で踊っててもらうとか、出張でアイスランドに行ってる設定にするとか、それがお互いのためになるのではないでしょうか。
 あと、たとえば、オーバードーズの子と竹内結子とがテンポ悪く会話するシーンの前に、効率よく治療し、一杯薬を出して患者を一生薬漬けにして病院に利益をもたらす医師についてのシーンを挿入することによって、そのテンポの悪さを患者のための丁寧さのことなのだ、と訴えようとしているみたいなのだけれど、治療の丁寧さと竹内結子のテンポの悪さとは実は関係がありません。突っ込みどころです。
 ぼくは彼女が決して嫌いではないし、「サイドカーに犬」での彼女は大好きなんだけれど、この映画では完全に足を引っ張る存在。良薬も使い方を間違えば残念な結果に終わる。胃薬を患部の殺菌に使って薬のせいにする人はいないように、竹内結子の使い方の悪さを竹内結子のせいにはしません。
 いっそのことニコール・キッドマンのアイドル映画「インタープリター」みたいに、徹底的に竹内結子アイドル映画として企画すると面白いのかもしれません。
 あと、ガラスのような目玉をした高嶋政伸&胡散臭い尾美としのりと堺雅人とが対立すれば、いいもん、悪もんがはっきり分かれそうな感じがしちゃうのですが、ほんとそのまんまなので、これはいかがなものか、と。
 で、ま、最後は大災害になって、なかったはずのドクターヘリが阿部寛の手配によって続々と飛来する。そのシーンは「地獄の黙示録」を彷彿とさせるのですが、実際、病院のロビーは野戦病院の様相を呈していて、そのあたりは大変楽しめる(人が苦しんでるシーンで、そういう表現もどうかと思うが)、あ、いや、上手だと思う。
 だから、この映画、前回の「アマルフィ」とはかなり違っていて、ちゃんと普通に話すべき内容はあるんです。ただ、竹内結子さんと記号的ないいもん、悪もんが残念かなあ、と。でも、人に暇だからDVD借りてみようと思うんだけどどうだった? と聞かれれば、「あ、いいんじゃん、結構面白いよ」と勧めるんじゃないかと思います。
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「アマルフィ 女神の報酬」

2010年07月09日 20時55分35秒 | 映画
 さ、始まりました、第1回新大塚ファンタスティック映画祭。駅前TSUTAYAさんで発表された2010年上半期邦画ベスト3。この3枚のDVDを借りて近所の友人と鑑賞するという、かなりこぢんまりとした二人映画祭。
 基本ルールは決してけなさないこと。映画のいい部分を見つめつづけること。それを我が身に課して映画を3つ見たいと思います。

 では、駅前TSUTAYAさん2010年上半期第3位に輝いたのは、「アマルフィ 女神の報酬」。
 DVDの説明:織田裕二、天海祐希、戸田恵梨香、大塚寧々、伊藤淳史、佐野史郎、そして佐藤浩市。声だけの出演で中井貴一。さらには特別出演に福山雅治という、かつてないほど贅沢で華やかなキャストがスクリーンを賑わせた。主題歌には“世界の歌姫”サラ・ブライトマン。壮大な世界観を後押しするだけではなく、日本映画初出演も果たしている。
 全編イタリアロケによる美しい映像と音楽。邦画のスケールをはるかに超えるサスペンス超大作が誕生!

 期待十分ですね。
 一言で言うと、この映画は、織田裕二と行こうイタリア観光旅行。織田裕二というのは、演技力のある人ではないので、基本的には大げさな顔で勝負です。映画俳優に演技を求めない、という斬新な演出によって、織田裕二は基本常にすごい顔です。すごい顔の織田裕二、すごい顔し続ける織田裕二。それに対抗するお魚のような表情と顔の天海祐希。顔と顔のぶつかり合い。血出ないかと心配になります。観客をストーリーとは関係のない部分でハラハラさせてくれる、まさにサスペンス映画の鑑ですね。そうしたすごい顔の織田裕二とめぐるイタリア旅行、ワクワクするじゃありませんか。
 さて、冒頭、通りに浮かぶフジテレビ開局50周年の文字の上を車が通りかき消していきます。開局記念を、ま、いわば土足で踏みにじるぞという決意あふれる象徴的シーンですね。で、サラ・ブライトマンの「Time to say goodbye」が鳴り響くんですけれど、この、なんというか遅れてしまってる緩めのダサさ感がいいですね。テレビドラマをつけたら、セリーヌ・ディオンの歌う「My heart will go on」がかかってた的な。今更使う感性が素晴らしいです。常人には恥ずかしくて思いつきません。さすが、映画を作るにはこの常人にない感性が必要なのですよ、きっと。
 で、この「Time to say goodbye」。使用料のもとをとろうとしたのでしょう。登場人物がTVを付けるたびに何度も出てきます。アマルフィという場所での信じられないだれたテンポでの天海さんの泣き演技のときにもピアノヴァージョンでこの曲が流れたときに、ああ、そうか、この映画はショーペンハウエルの「永劫回帰」も取り入れようとしているのだ、と。何度目だよ、バカの一つ覚えじゃあるまいし、などと思う観客はあさはかなのだ、と。
 だもんで、この映画、クライム&サスペンス映画だと思って見ようとした方、はっきり言って失望します。この映画は不条理前衛映画なのです。文芸大作なのです、きっと。
 だからクライム&サスペンス映画につきものの、アクションシーンはありません。で、アクションがない代わりに緊迫感を演出するため、駅をただ二人で走らせるシーンでカメラをおもいっきり揺らします。フジテレビ開局50周年記念の大作のはずなのに、そのチープな演出がたまりません。たぶん予算の多くが飲み食いに費やされたのでしょう。やべっ、アクションシーンに使う金もうねえよ、まあ、カメラ振っとっきゃなんとかなるか、という志の低い工夫、こうした工夫が随所に見られます。あと、誘拐犯が日本人に対して親切なのでしょう、いろんな観光名所を指定しちゃ、天海・織田コンビを走らせるので、お前ら、なかなかローマ来られないだろうから俺達が見せてやるよ、そんな親切なテロリストさんたちのおかげでストーリーと関係のない旅番組のようなそんな楽しみ方も提供してくれます、アマルフィだってストーリーとびた一文関係ないし、必然性もないけど、テロリストさんたちのご厚情で見られたわけだし。
 で、このテロリストさんたちが、親切な上にまたものすごい人たちで、天海さんの娘を美術館のトイレで待ち伏せして誘拐するんです。なぜ娘が美術館でトイレに行きたくなるのか、しかも美術館にはいくつもあるであろう中、そこのトイレに入ることを事前に知っていたのか、超能力者みたいなんです。おまけに自分が映っている部分だけ監視カメラの画像を入れ替えたりできるんです。もちろん、この映画は前衛不条理映画なので、そこら辺は一切説明してくれません。大いなる疑問を観客に投げつけるわけです。
 顔のお二人のみならず、役者さんたちも素晴らしいです。
 たとえば、戸田恵梨香さんは反映画的薄っぺらテレビドラマ演技をかまして見る者の目を覚まさせて下さいます。ドジっ子ぶりをさんざん展開後、「無駄遣いは外交官の特権か」という織田裕二のつぶやきに「えっ?」。いや、それ普通に聞こえてるから。あんた耳悪すぎでしょ的お約束演技。観客に対して、あれですね、「井上喜久子17歳です!」「おいおい!」的な、お約束の共有的な、いわば、戸田恵梨香さんは身を張って映画と観客との融和をはかってらっしゃるんですね。これ以降も戸田恵梨香さんは全身全霊込めて薄っぺらな演技に終始します。すごいです。女優生命かけてまでぼくたちのためにって感じです。
 で、テロリストさんたちは、わざわざ女の子を誘拐して、それを脅迫材料に、天海さんに警備会社のセキュリティを解除させようとするんですよ。自分が映っている間だけ警備会社の監視カメラに偽造の映像をすり替えさせられる技術を持ったテロリスト集団がですよ。自分でやった方が早えだろう、という普通の人間のツッコミは通用しません。前衛映画だから。しかもその誘拐方法がアレですから、どんだけ迂遠な、どんだけ急がば回れのテロリスト集団でありましょうか。
 で、セキュリティ解除のおかげで監視カメラに映らずテロリストは行動できるわけです。って、解除しなくてもできてたじゃん。すげえ、もう、ほんとすげえ、この映画。ぼくをどこまで連れていってくれるのだろう? 今まで結構映画見てきましたが、ここらへんはもう未知の領域、やばい、俺酸素足りるんだろうか、ですよ。
 で、いい加減このあたりから映画そのものがどうでもよくなり(それは言わない約束でしょ)、銃を振り回してイタリアの警官を人質にとった織田裕二をなぜ逮捕しないんだとかほんとどうでもいい話にする説得力。もう、他にもいっぱいあるツッコミどころをすべてなかったことに。それにしても、全然必要性ないとこで、なんで英語なのぉ? 映画が崇高すぎて、もう理解の範疇を超えています。
 で、気づいたんです、最後まで見て、この映画の崇高なテーマに。それは、美術館の中で携帯電話使っちゃいけないよってこと。それが言いたいがための豪華キャスト、オールイタリアンロケ。なあんだ、一言そう言ってくれればわかるのに、それをわざわざこの規模で教えてくれるなんてほんと親切な映画でありました。
 あ、タイトルと内容がぜんぜん関係ないなんてところは、全体が不条理前衛映画なので、観終わってからは気にならなくなりました。
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インビクタス 負けざる者たち

2010年05月18日 22時22分22秒 | 映画
 この映画のすごいところは言葉による説明がほとんどないこと。映画の主題として観客に説明するポイントって3つあると思うんです。一つはラグビー(ルールと南アにおけるラグビーというスポーツのポジション)、もう一つがマンデラ大統領の26年間の苦難、そして最後がアパルトヘイト。この3つを語らなければ映画が成り立たないでしょ。でも、この映画、この3つを言葉で語らないんです。たぶん、わざと。それは安易な説明を避け、映画として充実させるためで、だから、この3つを一切の説明的セリフなしに映像として見せます。
 でも、ラグビー、マンデラさん、アパルトヘイトって実は分かりやすい概念じゃないでしょ。ラグビーはさておき、あとの2つは多くの人にとって感情的理解の範疇にあるものじゃないでしょうか。つまり、マンデラさん、偉い。アパルトヘイト、よくない、という、実はそれぞれに対する具体的知識が欠如しているのに、なんだかわかった気になっちゃいそうな事柄じゃありません?
 でも、この映画は「え、明日から黒人が内閣に入るんですって?」みたいな説明的セリフは一切なく、この3つを語り、映画を進めるんです。
 映画の内容ももちろんだけれど、これすごい、と。安易なことをやらず、シーンを練りに練る。
 まず、ラグビーがどういうポジションか、冒頭で見せます。
 このシーンはほんと象徴的なシーンで、とてもわかりやすいのだけれど、言葉による説明は一切ありません。ただ、2つのグラウンドを区切っている道を釈放されたマンデラさんが車に乗せられて通る。これだけで充分です。過不足ありません。
 グラウンドの状況、人種構成、やってるスポーツ、そしてマンデラさんへの反応。どれもが言葉なしにいろんなことを説明してくれています。
 実はぼくはラグビーが好きで、ワールドカップも第一回からずっと見ています。そんな中、変だな、と思ったのが、日本が今まで出場したワールドカップで唯一勝利をあげたジンバブエ戦。アフリカのジンバブエが相手なのに、選手全員が白人。その時、ラグビーというスポーツの持つ、ちょっとしたいびつさに気づいたのです。それがこの映画にもよく表れていて、ラグビー=白人、サッカー=黒人という図式がその象徴的なシーンで表現されているのです(これと同じことはアジアの香港チームにも言える。あそこも全員白人)。ラグビーは支配者のスポーツ、サッカーは被支配者のスポーツなんですね(国代表という概念もラグビーとサッカーとは違っていて、ウェールズ大会での日本代表のうちキャプテンも含め5人は外国籍でした)。
 まず、そこをちゃんと描いている。ラグビーのルールについても、ボランティアでスプリングボックスが黒人少年たちへのラグビースクールのシーンで語られます。しかし、それも最小限。ボールは前に投げちゃいけないんだよ、と。ラグビーのルールは複雑です。オフサイド一つとっても、モール、キック、スクラムなどそれぞれ違います。でも、それを説明しても意味はないわけです。だって、この映画はラグビー映画じゃないんだから。だから最小限、しかもこの説明ってすごく象徴的なんです。前にパスできない、というのは、まさにこの南アの現状を象徴しているんですね。マンデラさんが釈放されたからすべてがうまくいくわけじゃない。まだまだ問題は山積してる。パスを前に放って、ずんずん前に進むことができない。まさにラグビーは南アの象徴なんですね。
 そして、マンデラさんの苦難に関してはもっとすごいです。
 日本のドラマとかにありがちな、苦労した登場人物が叫ぶ「誰も俺の気持ちなんて分からねえよ」とかのゴミみたいなセリフは一切ないんです。いや、それどこじゃなく、ほんと、一切のセリフなしです。
 とても静かなシーンです。でも、伝わってくるんです。ぼくはここで泣きました。26年間、牢獄につながれる、ということが、声高に叫ばないからこそ、ぼくの中で想像されて深い悲しみが湧き上がってきました。叫べば、叫んだ音しか響かないけれど、沈黙は無限に響くんです。
アパルトヘイトに関しては、すごく大切に描かれています。それは事細やかにいろんなところに。たとえば、黒人のボディーガードたちの部屋に白人の元公安が入ってくる。
 マンデラ大統領の辞令があって、俺たちもボディーガードに任命された、と。
 慌てて黒人のチーフが大統領に面会するわけです。
 公安が俺たちの部屋に来ている、と。
 すると、大統領は「何かしでかしたか?」と聞く。
「いえ、何も」と答えると、「ああ、そうだ、思い出した。彼らはデクラークの護衛もしてたから役に立つ」と自分が任命したことを思い出すんです。
 このシーン、うまいです。白人の公安につい先日までずっと何かやったらすぐにぶち込んでやる、と追われていたこと、そしてそれが一瞬で逆転したことを物語ってる。しかも、その彼らをボディガードとして使う。
 それは、この国の出発点が許しと和解だとマンデラ大統領の信念によるものなんですね。黒人大統領が白人たちに対して、今まで何十年も牢獄に縛り付けた白人に対して報復するのではなく、許しと和解から出発するのだ、と。誰よりも牢獄につながれ、苦労した大統領がそう言えば部下たちは従わざるを得ない。
 そうした基本を押さえながら、この映画は進んでいきます。
 実は、映画を見た後とったメモの1/3も書いてません。
 ほかにもイングランド戦とワールドカップとの違い、イングランド戦でマンデラ大統領が得た手応え、理想主義者ではなく現実の戦略家としてのマンデラ大統領の描写、国が変わっていく中で、なおそれを拒否するアパルトヘイト時代の国旗がひるがえるワールドカップ会場、ニュージーランドが強い要因として挙げられた個人に対して南アはどうしたか、で、その対策にこそ国の行く末があったこと、そしてショショローザ。
 あ、長くなったからここで切り上げようと思ってたのですが、ショショローザに関してだけは一言。冒頭にちょっとショショローザが流れます。あとはまるでドビュッシーの「とだえたセレナード」みたいに断片だけが提示されます。で、最後っすよ、スタジアムに響くんです。白人のスポーツであるラグビーの会場に黒人の労働歌ショショローザが。もう、この演出の憎いこと。イングランド戦では、自分の国が失点すると喜んでいた黒人たちの歌が流れる。これ、しかも実話なんですよ、だって、俺生放送見てたんだもん。フィクションだったら、ねえよ、嘘くせえって話なんですが、実話なんですもん。
 で、うまいのが(この映画、ほんとにうまい。この「うまい」って小手先のことではなく、本当に練って練って考え抜かれたシーンばかりなんですよ)、最後のタイトルロール。どううまいのか、言いません。ぜひこの映画見てください。
 そんなわけで言いたかったことのほんと1/3程度なんですが、これ以上長くなっても仕方ないんで、ここらへんで。いや、映画っていいな。
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おと・な・り

2010年05月02日 21時59分05秒 | 映画
 男は、風景写真を撮りたくてカナダに行こうと考えてるカメラマン。
 女は、フラワーデザイナーを目指しフランス留学を考えている花屋さん。二人は壁一枚隔てた音筒抜けアパートのお隣同士。実際には会ったこともない二人は、隣から漏れてくる音だけでお互いの存在を感じていた。
 っていう話。
 けどさ、わかるけど、その音ってえのが、コーヒー豆を擦る音とか、フランス語練習とか、加湿器の警告音とか。
 AV見てハアハアとか、男連れ込んでギシギシとかじゃないのよ。この映画のカメラマンとフラワーデザイナーはそういうことしないの。たぶん下痢とかおならもしないの。どちらも、いい年の独身男女なんだけど、生身じゃなくて、記号的だから。
 たとえば、試験の朝洗濯干してて、急に気づいたように腕時計を見て、「あ、行かなきゃ」と。ないって。大事な試験の朝に、行かなきゃって気づきはあり得ないって。でも、ドラマとかの演出でよくあるよね、「あ、行かなきゃ」って記号的表現。これで映画が一発で安っぽく見える。
 この記号的表現は、乱入してくる女もそう。あれ、なに? 演出がわざとらしくて、監督のあざとさを感じてしまう。で、大雑把で押し付けがましくて、でも主人公が気づかない「本当の愛情」みたいなものを感じている、とか。そんなヤツいないけど、陳腐な表現としてあるよね。
 あと、この映画、わざとだろうけれど、微妙にカメラを揺らすんです。それもずっと。心の揺れの表現? 手持ちで撮る意味がわからない。それとも、何? 芸術風味付け? たまに「あえて逆光を恐れない」みたいなとこもあって、あれもあざとさを感じたけど、芸術的味付けだよね。「ハートロッカー」的表現じゃないでしょ、きっと。
 そうした映像にこだわってますよ的サインをチラ見せしながら、「基調音」を言葉で延々説明する映像的敗北。「心音もそのひとつ」という台詞に「心音?」と聞き返させることで、長々と続く一人ゼリフを回避させようとする陳腐な台詞参加に端を発する長ゼリフ。「だから人はときどきそういうのを運命って呼ぶんだと思います」って、言わせちゃだめでしょ? 音は大事なんです、人が何気なく聞いている生活の基調をなす音は大事なんです、そうした音と出会えることは運命なんです、ってセリフで言わしたら、この映画いらないでしょ。ああ、そうですか、そうですね、ためになりました、ってDVD停めるよ。
 で、そのセリフにかぶせるように山口湖(狭山湖? どっちか)の橋の上で楽しそうに母子が歩いているのを見て、お腹をさする乱入女。ああ、なんという陳腐な表現。昔の石坂浩二と水前寺清子のドラマを見ているようだ。
 そのあとのセリフも長いこと長いこと。いっそのこと映画なんてやめて、朗読劇にしちゃえばいいのに。
 で、あと心配なのは、もう留学が迫っているってえのに、練習してる内容が「ご機嫌いかがですか?」「私は元気です。あなたは?」って、おい。大丈夫か? それ。だって、英語で言えば4月に中一になったばかりのピヨピヨくんが、ピヨピヨくんのまま、留学するってレヴェルじゃないか。あり得ないっしょ。そこはセリフとして「私は元気です」ってことばが必要だったんだろうけれど、じゃ、脚本変えろよ。なんというか、安易すぎるだろ。
 もう最後に至っちゃ、あれっすよ。「ねえよ、んなこたあねえよ」ですよ。謝恩会の写真も麻生久美子のだけ、明らかに被写体深度違うし。ああ、なんか陳腐なくせに観客馬鹿にした表現が山ほど(馬鹿にしてるから陳腐なのか、この程度でヤツら泣くって、大丈夫大丈夫と)あって違和感を感じる。
 文句たらたらで、ほんと下品ですね、私ったら。でも、私は綺麗事で済む記号ではなくて、生身の人間っすから。
 日本のトップモデル専属のカメラマン(「東京ですごい成功してるんだって」ってセリフもありながら)でも、音筒抜けのアパートにしか住めない日本のカメラマン業界の現状と、色恋になると職場放棄OKな日本の大人の現状を憂う一方、お門違いな会話の数々を心から楽しませて頂きました。「プロのフラワーデザイナーになるために何本の花犠牲にしてきた?」とか真顔でおっしゃるセリフ、最高にいかしてます。
 きれいな俳優さんと女優さん揃えて、きれいでおしゃれなセットに、静かな音楽流し、たまに「自分に嘘をつくなよ」などと激昂してみせたりする、お上品でおきれいな映画でありました。
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愛のむきだし

2010年04月18日 02時43分09秒 | 映画


 愛って絶対的な贈与の話なんだろうけれど、実は人間ってそういう絶対に耐えられる仕様で作られているわけではないので、多くの場合、追い詰められた恋愛って相対的なものになる。相手にどれだけプラスを与えたか、逆に自分にどれだけマイナスを与えたかのアピール合戦。
 プラスは往々にして、現世的な利害関係において「貢ぐ」という言葉、あるいは金銭が伴わないにしても尽くすという言葉で表現される。その一方自分にマイナスを与えるという行動は、たとえば自傷行為、これが発展すると相手を殺して自分も死んでやるという迷路に陥る。
 プラス、マイナスどちらにしても不幸。だいたい、恋愛にプラス、マイナスという概念を持ち込むこと自体、すでにその恋愛の破綻の兆しなのだ。
 だから、恋愛はその追い詰められた段階で破綻している(人によっては、その追い詰められた状況下のさまざまな意味での濃厚な状態が癖になるというのもアリなのかもしれないけれど。でも、それは悪趣味と言えるんじゃないか)。しかし、追いつめられてサラ金で借金をし、なおさら状況を悪化させてしまう人たちが多くいるように、死に瀕した恋愛をなんとか蘇生させようとして、より状況を悪化させてしまう人たちはたくさんいる。愚かと言えば愚かなのかもしれないけれど、ぼくにはそう断言するのも躊躇われる。そんなにいろんな女性と付き合ったわけではないけれど、手首に傷がある人が二人目になったとき、ぼくは人の過去におけるさまざまなストーリーに思いを馳せる必要があるのではないかと思った。
 で、この「愛のむきだし」。
 一言で言うと号泣。
 ここには、現実を無視した絶対の贈与が描かれてる。
 人によっては嫌う人も多いかもしれない。いやらしい。きたならしい。
 そう、この映画はいやらしいシーンもあるし、きたならしいシーンも多い。でも、それらのどのシーンも記号化されていない。映画を見て、ぼくが一番いやらしいと思うのは記号化されたシーン。たとえば、「貧しかったけれど、あの頃は夢があった」みたいなくくりでセンチメンタルな音楽が流れる、こういうシーンの方がどんだけやらしいのか。恋人が白血病で死ぬ。その死のあと、思い出の地を訪れたら恋人からのメッセージが。青い空、そして音楽ドーン。ぼくは、こういう記号化されたシーンの方が絶対やらしいと、薄っぺらいと思う。
 人は肉体をもって生き、その肉体とともに死ぬ。その両極端をエロスが結んでいるんじゃないか、と思う。エロティシズムは、両極端のもの、日常では結びつかないものを結ばせる力がある。だから男女が結んだり、生と死が結ぶのだ。
 そういう意味でこの映画にあふれているいやらしさは、記号ではなく、ものすごく肉体的、とてもエロティックであり、そして人間の生死に迫るものがある。要するにいろんなことが自分の肉体として痛く感じられる。その痛々しいヒロイン、ヒーローの痛みが伝わってくるから、たぶん嫌いな人は余計不快なんじゃないか。
 ぼくも不快な部分がいっぱいあった。映画見て、なんで、こんないやな気持ちを与えられなきゃならないのか。でも、その不快さが記号的なものではなく、肉体的なものだから、これは逆に不快さそのものも、この映画の力なのだ、と。
 今回は一切ストーリーは説明しません。ただ、見れば人によっては相当不快。人によっては号泣。こんな力のある映画こそ、ぬるい映画と違って見る価値があるんじゃないでしょうか。
 あ、あと、ゆらゆら帝国の音楽がものすごくよかった。解散がとても残念。
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ロードムーヴィー2本立て

2008年07月15日 12時40分55秒 | 映画

 ロードムーヴィーを2本見た。
 旅を経て人や人間関係が変化する。フランク・キャプラの「或る夜の出来事」以来のお約束であり、そこにロードムーヴィーの醍醐味がある。人格の変貌とは、一度古い人格が死んで新たな人格が誕生することから、旅は死から再生へ至るイニシエーション儀式と言うこともできる。
 事実、巡礼はそのためにこそ行われるのであるわけで、したがって、1本目の「サンジャックへの道」はその意味で、まさにロードムーヴィーの王道を貫いている映画と言っていいだろう。3人兄弟の母親が死ぬ際、遺産が欲しくばサンジャック(フランス語ではそう。日本ではスペイン語のサンチャゴ・デ・コンポステラの方がポピュラーかな)への巡礼を兄弟揃って行え、さもなくば福祉団体にすべて寄付してやる、と遺言を残したため、旅立つ3人。実業家だがストレスで薬に頼り、しかも自殺願望の強い妻に悩む長男、頑固で寛容さに欠ける教師の妹、アル中で人に頼り切り無職の末っ子の仲の悪い3人が巡礼ツアーに参加するのだが。
 サンチャゴは中世から有名な巡礼場所。そのため聖女フォアを奉るコンクなど教会関係の見所も多い。しかし、この監督はそれらを描こうとはしない。だいたい9名からなるこのツアー参加者だって教会からすれば、おいおい、と思うようなのばかり。病気の女性はともかく、あとは、この3兄弟に、山歩きと勘違いした女子高生2人、イスラム教徒のアラブ人2人(おいおい)。サンジャックの証であるホタテ貝をつけている人間もいない。
 そう、この監督はキリスト教や教会を描こうとはせず、旅の途上の風景とその中にある人間を描いているのだ。つまり、人間関係が変わったり、人格が変わったりするのは、信仰心や宗教のおかげではなく、彼らの徒歩による1500kmにおよぶ旅によってなのだ。
 美しく峻厳な自然の中、文盲のアラブ人、アル中の弟、いろんな人が係わり、変わっていく。奇蹟は起きないが、旅は人を変えるのであった。王道っす。



 もう1本のロードムーヴィーはそんなに長い旅をするわけではない「転々」。こちらも徒歩による旅、ただし都内。
 ぼくの好きなオダギリジョー(この人とメルヴィル・プポーが男優では二大お気に入りなのだ、あ、でも「ぼくを葬る」限定)は大学の法学部8年生。80万円の借金があり、取り立て屋の三浦友和からきびしく催促されている。そんなある日、三浦友和が100万やるから俺の東京散歩に付き合え、と。
 二人を取り巻くいろんな小ネタが面白い(とくに岸辺一徳のいじり方のおかしさ)。小ネタを振りまきながら二人の散歩が続いていく。ネタバレになるから、何のための散歩なのかは言わないけれど、小泉今日子の家に転がり込むことで散歩はクライマックスを迎える。
 それにしても小泉今日子がオダギリジョーのお母さんとしておかしくないことにかなりの衝撃を受けた。そこで鉢合わせしたふふみ役の吉高由里子が収穫。すばらしい。赤の他人が4人(小泉今日子と吉高由里子は叔母姪役だが)集まって、どこにもない雰囲気の家族が出来上がる。花屋敷のシーンにジーンと。
 今の東京、バブルの爪痕の残る東京なのに、不思議となにか懐かしい風景と相まって、なくなってしまったものの温もりを感じさせる映画だった。
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ああ爆弾

2007年11月21日 14時58分37秒 | 映画
 快作、怪作。
 とにかく不思議な映画。得も言われぬ魅力か魔力か引きつけられる人にはたまらないが、そうじゃない人には思いつきを並べた悪ふざけのような映画だと思う。
 3年ぶりに出所した親分(伊藤雄之助)。
 ところが愛人は奪われ、組は乗っ取られ、妻(越路吹雪)はナンミョーに走ってる。
 刑務所で知り合った爆弾マニア(砂塚秀夫)に爆弾を作ってもらい、乗っ取った男(中谷一郎)に復讐する。
 まあ、いわば普通のストーリーなのだが、そんなものはたいしたことではない。

 刑務所の中、明日出所だというところから狂言の所作で始まる。刑法120条を謡い、舞う。なんだこりゃ。ウエストサイド物語が公開され、日本でもミュージカルがブームになったらしいが、岡本喜八のミュージカルは一筋縄ではいかない。
 伊藤雄之助はもともと歌舞伎の出身なので、所作は見事。細かなところで体を使ったギャグが笑える(妻のナンミョーに合わせて、くいっくいっと布団から起きあがるところなど)。ゴリゴリのあくの強さが好き嫌いを分けるだろう。
 謡で始まった映画はやがてジャズやチャールストンまで加わり、にぎやかに、そしてほぼ唐突に「閉店しようとしたら10円合わなくて困ってしまった銀行レビュー」が幕を開ける。
 爆弾をしかけ終えると、「安宅」の謡が。勧進帳も安宅も、これ好きなんだよなあ。

「笈をおっとり肩にうちかけ、虎の尾を踏み、毒蛇の口をのがれたる心地して、陸奥の国へぞくだりける」

 でもしかけた爆弾は回り回って自分の家に持ち込まれる。なかなかうまくいかないのだ。
 そして2発目の爆弾も失敗。
 終わってみたらなんのことはない。全部吹き飛んじゃった大団円。
 なんなのこれは、この映画は。

 個性派俳優が揃って真面目に馬鹿をやってる。砂塚秀夫なんて、「かーにかに」ってかにかまぼこの印象しかなかったし、中谷一郎もぼくの中では弥七だ。しかし、そういう彼らの演技がまたいいのだ、もちろん伊藤雄之助は出色。
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江分利満氏の優雅な生活

2007年11月15日 10時48分02秒 | 映画


 小学生の頃、21世紀なんて来るもんかと思っていた。21世紀に自分は30過ぎ。30過ぎの自分を想像することができなかったのだ。
 その頃の21世紀は、自動車は道じゃなくて空を飛び、ロボットが働き、タイムマシンが恐竜見物に出かけていたものである。
 あにはからんや、相変わらず自動車は地べたをはいずり回っているし、働くどころか歩くロボットってえだけで大騒ぎ、タイムマシンはこりゃ、仕方がないな。要するに21世紀はぼく的にはまだ来ていないようなものなのである。
 なのに、「3丁目の夕日」は2作目が公開され、ノスタルジックに「昭和」が語られる時代。1作目は付き合ったが、さすがに2作目はなあ、もう付き合いきれませぬ。ノスタルジーに浸るのはまだ早いんじゃないか。
 どうも思うのだが、生の昭和を振り返るというより、2007年に作られたノスタルジック昭和を見て懐かしがっているような気がする。
 昭和を振り返りたいのなら「3丁目の夕日」もいいが、たとえば「江分利満氏の優雅な生活」を見ても十分振り返れると思う。しかし、そこに現れる昭和は夕日に象徴されるようなノスタルジーや美しさとは別のものだ。
 サントリーの広告部に勤める主人公(それにしてもサントリー広告部からは直木賞、芥川賞作家両方が出ているというのもすごい話だ)36歳、口癖は面白くない。気力が続かないとぼやく。数字に弱い、口笛が吹けない、靴のひもがちゃんと結べない、北陸と東北を間違い、コピー機も使えない、音痴、そんな不器用な彼がつましいながらも家族を大切に暮らしている。どこにでもいる江分利満氏である。
 そんなどこにでもいる人間にもいくつものドラマがあり、歴史がある。ときにユーモラスに、ときに哀しく、アニメの使用やアステアの「恋愛準決勝戦」で使われた特撮などを織り交ぜ斬新な映像表現で描いている。
 「3丁目の夕日」では三浦友和役にわずかに残る戦争の匂いも、この映画では主人公の中の屈折として大きな存在である。直木賞受賞後の泥酔状態でそれが炸裂する。大正末期生まれの主人公は徴兵された最後の戦中派であり、その酒乱に付き合わされる20代の若手社員にはもうその主人公の気持ちは理解できない。いやがる若手社員に代わって新珠三千代が朗読するシーンが実に象徴的で、そこに深々とした断絶が存在するのだ。
 戦争に行った戦中派の気持ちを理解できない若者が現在70歳くらいなのだ。戦争観も変わってくるだろう。
 昼の平凡な会社員と夜の酒乱とを小林桂樹が名演技でみせる。ウルトラ警備隊から2人が出演。1963年制作の映画だけれど、映像表現を含めて、決して古くない今見ても十分面白い映画であった。
 ただ、夫婦の関係(今、こんな夫がいたら即離婚だろう)とか、出てくるみんなタバコ吸い過ぎとか、時代の隔たりを感じる部分もある。が、その違和感も一興だろう。
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狂った果実

2007年10月08日 13時25分47秒 | 映画
 「気狂いピエロ」「大人は判ってくれない」に先立つこと3年、1956年の日本にこんな映画があったんですねえ。
 石原裕次郎というだけで敬遠していたわたくしですが、武満徹が作曲したこの映画音楽が好きで、DVDを借りてみた次第であります。
 そうしたらですねえ、これがとてもいいんですよ。
 金持ちのボンボンたちが親の金で海満喫しいの、空しい言いながら青春満喫しいの、いつも群れて大騒ぎしいの、でも、空しいから不平たらしいの、って書くととてもいやな映画みたいなんだけれど、それがあにはからんや全然いやな映画じゃないんです。
 そんな日々の中、兄(石原裕次郎)と弟(津川雅彦)は一人の女性(北原三枝)と出会うわけです。これが彼らのファムファタル。空しくもにぎやかで陽気な世界は少しずつ姿を変えていってしまうのです(北原三枝がちゃんとファムファタルらしくてよし)。
 斬新なカット割りで彼らの姿を描写していくのを眼にするとドキドキっす。
 津川雅彦と北原三枝が初めて浜辺で横になるシーンなど、「んっもう、んっもう、じれったいんだからあ」とこっちの方が気合い入ってしまうほど。描写の仕方の勝利だよなあ。今の映画と違ってセックスシーンなどありません。そこが却ってよいのであります。
 他の裕次郎作品はたぶん見なそうだけれど、これはとてつもなく素敵な映画でありました。
 あ、そうそう、石原裕次郎・津川雅彦の本当の兄たちが殴られ役で揃って特別出演していました。あの頃の長門裕之って、桑田佳祐にそっくり。
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十三人の刺客

2007年02月04日 23時01分08秒 | 映画

 新しいメディアが出ると、当初は売れ筋の新譜のみの発売になるのだが、メディアの成熟とともに、さまざまな旧作、奇作も登場するようになる。ヴィデオもCDもそうだったし、今はDVDがそうなりつつあるように思える。
 TSUTAYAに行くと、ああ、これもDVDになったのか、と感心することが多い反面、これはまだなのか、と思うこともあるわけで、まあ、成熟の途上って感じか。ウッディ・アレンの「スターダスト・メモリー」とか「マル秘色情めす市場」(タイトルはあれなんだが、日本映画の傑作の一つだと思う)とか早くDVDになんないかな。「血槍富士」や「ロング・グッドバイ」がDVD化されたときは嬉しかったな、と。
 さて、そんなわけでTSUTAYAの棚で見つけたのが「十三人の刺客」。
 制作は1963年。しかし決して古臭くない。むしろテレヴィなどでの時代劇を見慣れた感覚からすれば斬新と言えるだろう。傑作である。
 悪行の限りを尽くす明石藩の殿様。これに手を焼いた江戸家老が老中の門前で切腹をして訴える。老中としてもこれを取り上げないわけにはいかないものの、悪いことにこの殿様ってえのが将軍の弟。しかも来年には老中に取り立てられることも決まっている。
 問題にすると上様の弟を裁かなければならない、ほっておくとそんなものが老中になって国を誤らせてしまう。
 苦渋の末、老中土井大炊頭が選んだ手段が暗殺。失敗すれば当然のごとく死が待っている、成功しても将軍の弟を殺した以上、やはり待っているのは死。暗殺を命じることは、死ねと命じることに等しい。命を下す老中土井大炊頭、命を受ける島田新左衛門。老中土井大炊頭を丹波哲郎、島田新左衛門を片岡知恵蔵。
 一方この殿様を守るのが内田良平演じる鬼頭半兵衛。彼は冷徹にして頭が回る。そしてそれと矛盾することなく熱い人間だ。自分の殿様が悪いことはちゃんとわかっている。一緒になって悪さをして甘い汁を吸おうとも思っていない。切腹した家老の一族を虐殺から免れさせようと努力する人間だ。しかし、武士として主君を守るのが使命と、全力を挙げてこの殿様を守る(この内田良平という俳優がよい。彼はまた「ハチのムサシは死んだのさ」の作詞者でもある)。彼がこの映画に奥行きを与えている。
 さて、この鬼頭半兵衛に対して、片岡知恵蔵たち13人の刺客はどんな策で暗殺をしようとするのか。
 物語の最初あたり、尾張藩でのこの殿様の狼藉が彼の悪さを物語ると同時に、後半のふくらみになるところなど実にうまい(ここの月形龍之介がまたいい!)。さらに、集団での武闘。恰好いいと思っていた刀での斬り合いが、こんなに無様で恰好悪いものなのか。西村晃の倒れざまなど、時代劇の様式美とは180度異なる。長い泰平の江戸時代末期、斬り合いなどしたことのない武士たちの、たぶん生まれて初めての殺し合い。それがここで見られる殺陣である。
 久しぶりに見て、また感銘を新たにした。
 「切腹」なんかもTSUTAYAにおいてないかな。


*「マル秘色情めす市場」はDVDになっていました。「マル秘」の部分を入れると検索できなかったのだけれど、そこを削って「色情めす市場」と入れるとアマゾンがヒット。しかし、品切れでありました。がくし。
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誰も知らない

2007年01月19日 07時59分02秒 | 映画
 途中で「ああ、火垂るの墓の二の舞になる」、「ああ、サクマドロップが今度はアポロチョコだ」、「飛行機見に行きたかったね」と、涙。

 あるアパートに引っ越してきた母子。夫は海外勤務、よくできた6年生の男の子と二人暮らしだと近所に説明する。引っ越し屋さんが運ぶ荷物とは別に大きなトランクが二つ。
 でも母親の説明は嘘。夫はいない上、子どもは男の子だけじゃない。トランクの中から小さな子どもが二人、他にもう一人女の子。
 みんな父親が違う。戸籍もない。
 引っ越してきた初日、ご飯を食べながらルールを確認する。「騒がない」「外に出ない」。 ちょっといびつだけれど、漢字を勉強したり、ぬいぐるみを抱いて寝たり、カレーを作ったり、この子たちの生活の質感が丁寧に描かれる。静かにほほえましく、奇跡とも言えるほど子役が自然で素晴らしい。
 あるとき、母親が長男に言う。
 「お母さん、今、好きな男の人がいるの」
 「またぁ?」
  どんな状況になっても、子どもたちは自分たちの「今」を生きる。学校に行かないどころか、外にも出ないから友達もいない。ぬいぐるみが友達だったり、一人カードゲームでの一人二役で楽しむ子どもたち。
 その姿がいい。監督は子どもたちに台本を渡さず、「***って言われたら、xxxって言ってね」と演技をつけたそうだ。そのせいか、本当に子どもたちが自然の演技をみせる。自然に笑う、自然におどける。
 その自然な感じゆえ、この子たちの生活の手触りまでこちらに伝わってくる気がする。
 かけがえのない普通の日々。
 そしてその普通の日々がいかに貴重だったか、それはそれが失われたときにわかる。
 母親がいなくなってしまうのだ。
 健気に持ちこたえつつも、次第に荒れてくる生活。それでも子どもたちは「今」を生きる。電気もガスも水道も止められているから公園で洗濯をする。そこで見つけた花の種をとってカップ麺の容器で育てる。容器にはちゃんとお絵かきする。
 子どもたちはいつまで「今」を生きていられるのだろうか。
 ある状況下における子どもたちの今を生きる姿を質感豊かに描いた素晴らしい映画だった。


 この映画は実際の事件の設定を使っていると冒頭でことわり書きがある。映画の論評も事件との関連を物語るものが多いが、ぼくは事件と映画とは別の物だと思っている。だから、あえて事件については触れなかった。
 事件についてはこちらをどうぞ。巣鴨子供置き去り事件
 長男は今、33歳くらいだろう。どんな人生を歩んでいるのだろう。
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