週末は早稲田で神楽の映像を見る会。
ものすごく久しぶりに文学部キャンパスを歩き、教室をおさえてくれたTくんにいろいろ話を聞くと、ほんと浦島状態。知らない学部一杯できてるし、佐賀や大阪に係属高校できてるし、二文なくなってるし。「でも、結局慶応に負けてるよねえ」「ですよねえ」
神楽を見る。
演じ、舞う姿を見ているうちに、その場の特殊性に気づいた。神楽は「神を楽しませる」という言葉だと昔聞いたけれど、それはきっと違う。言ってみれば神の音楽だ。その音楽に合わせて舞うことで、人は自分を抜け出し、自分とは違う存在、あるいは人とは違う存在に変化する。たとえば、安部公房の「他人の顔」を読むと実感できるのだけれど、人間の自己同一性のかなりの部分は顔に依存している。だから、顔を隠すことは、他者に変貌することへの大いなる助走となりうるのだ。祭、能、その他、舞う人の多くが仮面をつけることは理にかなっている。
神になることは、その名乗りをあげることだけでは足りない。「ぼくイザナギ、今んとこまだ童貞っす」「わたしイザナミ、まだ処女でーす」「二人合わせて国生みでーす」そうした名乗りだけでは、舞人は神になれない。舞人は、神の事蹟を演じ、舞うことによって神となる。神の顕現は、舞にあるのだ。そこが踊りと違うところだ。
神となった舞人は群衆を寿ぎ、そして、何かを投げ与える。これは、神からの贈与であり、そのとき、神楽の場は、神の世界と人間の世界との境界線と化す。財は、その境界線上に生まれるものだとかつて人びとは思っていた。そこら辺の岩に描くのではなく、ラスコー人は境界を求めて、洞窟に入り、その暗闇の中、向こう側の世界との接点=境界線上に彼らの財の絵を描いた。
そして、そうした聖なる者の顕現が境界をこの世界に示現させるものであるならば、つまり、聖なるものは周縁性とも同義となる。世界の中心として考えられる聖なるものと、共同体の外れ、いわば場末と言われれる周縁とがひとつに重なる。それが神楽の舞台に現れる。痙攣的なリズムと笛(そして、笛の音もまた異界から何かを呼び出す装置としてさまざまな舞台に登場する)の音に酔いしれながら、反対のものが一致する空間に強いリアリティを感じた夕べでありました。
しかし、最後に見た「茅の輪」。あれはひどかった。