毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

「マイ・ワンダフル・ライフ」

2010年04月15日 00時37分38秒 | 音楽
 ぼくの涙腺は、海で退屈し始めた幼稚園児のこしらえる砂団子以上にもろい。
 たとえばオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を聴いてるうちに号泣。その泣きっぷりといや、一緒に暮らしていた女性を1m以上飛び跳ねさせ、びびらせるほどだった。FMで内田光子さんの弾くベートーヴェンの後期ソナタが流れてきたときは、もう運転できなくなって車を停めて泣いてた。
 確かに泣くことはカタルシスにつながるとも言われる。だが、ぼくは別に泣きたいわけじゃない。なのに、大変遺憾ではありますが、よく泣いてしまう。
 スウィング・ジャーナル誌が選ぶジャズの賞がある。話は唐突にカーブを切って違う方向に進むのである。21世紀はそんなにのんびりした時代ではないのだ。じたばたするなよ、世紀末が来るぜ、なのである。世紀末だからじたばたするんじゃないか、とも思うんだけれど、まあ、よしとしよう。で、2009年の金賞が上原ひろみとエディ・ヒギンズのダブル受賞。銀賞がマンハッタン・ジャズ・クインテット。ああ、なるほど、なるほど。そして日本ジャズ賞が「マイ・ワンダフル・ライフ」だった。
 エディ・ヒギンズ、いいじゃないの。マンハッタン・ジャズ・クインテット、いいじゃない(上原ひろみは未聴なので感想は控えます)。もしぼくが一人暮らしをしていて、そこに初めてガールフレンドを呼んで一緒に夕飯を食べるなんてシチュエーションがあったなら、ぼくはその2枚のCDを手に入れ、BGMとしてかけるだろう。音楽に限らず芸術はその場の空気そのものを変えることができる。これらの音楽は流れて過ぎてゆく時間を「メロウ」で「ソフィスティケート」された(ああ、書いてて尻がかゆくなるぅ)ものに変えてくれるだろう。ぼくと彼女はおしゃれでアンティームな雰囲気に包まれ………ごめん、もう限界。これ以上はこそばゆくてキーボードを押すことができない(いや、でも、どちらも上質な音楽で、素晴らしいものであることはたしかなんだけれど)。
 でも、その金賞・銀賞以上にこれはすごい、と思っている「マイ・ワンダフル・ライフ」はかけない。
 号泣するから。
 実は今これを書きながらかけているんだけれど、何度も聴いて結構免疫できたはずなのに、まだ鼻すんすんさせてる。天才ドラマーと言われた富樫雅彦の楽曲を佐藤允彦、渡辺貞夫、山下洋輔、日野皓正、峰厚介らが演奏してるCDなんだけれど、そのメロディーの美しいこと。決してセンチメンタルな情緒に訴えかけるようなものではなく、美しく優しいメロディーは、しかし心を鷲掴みにして振り回す。最初のサダナベの出だし(多くの人はナベサダと言うけど、サダナベなのだ)から泣かされ、最後山下洋輔の演奏終了でまた大泣き。
 ぼくは基本的に音楽に文脈は必要ないと思うのに、最後は音楽そのものにやられた上、拍手にやられた。もう、ほんと、いや。あんまりイヤだから、同じコンセプトで佐藤允彦がソロでピアノを弾いてるCDも買って、自分を痛めつけてる。こちらもすごくいい。
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今週のCD&DVD

2009年02月20日 13時25分43秒 | 音楽

 伊福部昭「ゴジラ・交響ファンタジー」 金洪才指揮大阪シンフォニカー
 最初の一音からワクワク。懐かしいあの響き。ゴジラ登場の音楽にばかり気を取られていたけれど、それだけじゃない豊かな音楽が鳴り響く。
 「シンフォニア・タプカーラ」はアイヌ語「タプカーラ(立って踊る)」の名の通り、心情のまま、喜び、悲しみにつれ舞い踊る様が、どこかストラヴィンスキーの「春の祭典」を思わせる響きとともに歌われる。それに「オーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク」。ああ、コレも懐かしい。自衛隊出動の主題が繰り返し使われている(映画の中で怪獣に向かっていく自衛隊)。
 引き出しが豊富でしかも生々しい音楽。



 レブエルタス「レブエルタス作品集」エサ=ペッカ・サロネン指揮ロスアンジェルスpo
最近気づいたんだけれど、ぼくは思っている以上にラテン・アメリカの音楽が好きだ。もともと中学、高校をギター部で過ごしてるんだから、バリオスやヴィラ=ロボス、ポンセなんかとは10代から親密なおつきあいをさせていただいております、って関係だった。
 で、最近ニャタリやブローウェルなんかを聴いたりして、あ、俺ってラテン・アメリカ好きだったんだと改めて再認識したわけです。
 レブエルタスはドゥダメルがシモン・ボリバル・ユースオーケストラを指揮した「ラテン・アメリカ傑作集」で知った(と同時に、ヒナステラという作曲家も)。ドゥダメルのこのCDは最後の「マンボ」も含めていろんな収穫の詰まった楽しいものだ。
 で、レブエルタスの「センセマヤ」の他にも聴きたくなって探したのがこれ。
 圧巻はやはり4部からなる「マヤの夜」だろう。第3部「ユカタンの夜」の叙情が第4部「魔法の夜」のカオスへと変貌する様は興奮させられる。カオスにはコスモスにはない、すべてがある。すべてがあるから混沌で、そこから何かを排除しない限り秩序は生まれない。人はコスモスの中でしか生きられないが、それは精神の疲弊を招く。周期的にカオスに立ち返らなければ生きていけない。コスモスからはきれいに死は排除されているが、カオスには死も存在する。死に近づき、人々は活性化するのだ。
 レブエルタスの「魔法の夜」は、ベルリオーズの「幻想交響曲」ワルプルギスの夜以上に夜のカオスを表現していると思う。



 「シャカリキ」
 最近の日本映画って面白いと思いません?
 昔なら、どうせまたこんな感じだろう、などとたかをくくっていたら、その通りならまだしも、それ以下のつまらない展開、考えもない描写、くそみたいなセンチメンタリズムが延々展開されたものだ。
 でも今は違う。何かってえと人類が滅亡の危機に陥っちゃうアメリカ映画よりも、日本映画の方が面白かったりする。若干の例外を除けば。
 その例外がこれ。すごい。全員学芸会レベルの演技。紋切り調の設定と展開。あり得ない状況。たとえば50万もするんだぞ、この自転車、という自転車のリアディレイラーがSORAだったり(その半額のロードバイクだって105をつけてる)、自転車部にデブがいたり(男子群像にデブキャラは必需品なんだろうけど)。
 「自転車ってのは奥が深いんだよ」というセリフに「お前らの映画は奥が浅すぎるんだよ」と突っ込む。
 あと、大阪の人はこの映画を見たら主人公の大阪弁をどう思うんだろう? 東京出身のぼくでさえ、これ大阪弁として違和感あるわあと。
 原作と違うとかなんとかそんなレベルの話でない凡作。駄作。テレビ朝日の番宣見て、なんかイヤな予感がして映画館に行かなかったんだけれど、正解だった。
 いやあ、最近まれな通俗的なテレビドラマ以下の映画。
 ただ、一瞬だけちらっとパオパオのジャージが映ったところにニヤリと。


 「スネークマンショー」
 懐かしのCD。聴いてた当時はCDじゃなかったけど。
 ウォークマンに入れて、ニヤニヤしながら街を歩いた。昔より今聴いた方が面白い。子ども向きじゃないんだな、きっと。
 エディー? エディーだろ? 細野と高橋と坂本3人そろって来てるよお。
 ああ、懐かしいし、面白い。

こちらで試聴できます

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今週のCD

2009年02月13日 10時39分42秒 | 音楽

 舘野泉「ひまわりの海 セヴラック作品集」
 セヴラックが好きだった。エラートから出てたCDをよく聴いたものだ。で、舘野泉が弾いたものがあることを知り(知るのが遅いよね)、早速入手。2001年、まだ舘野泉の両手が動いていた頃の録音。
 ツール・ド・フランスという自転車レースをご存じの方もいらっしゃるだろう。レース中ひなびた街道筋にひまわりが咲き乱れているシーンがよく映し出される。あれよ、あれ。まさにセヴラックの音楽は。スペインとの国境に近い南フランスの田舎町。陽光にはえるひまわりの花。明るい色彩のセザンヌの絵画。
 すてきなCD。

 スティング「ラビリンス」 スティング/エディン・カラマーゾフ(リュート)
 スティングの声にダウランドがあうとは想像もしていなかった。クラシック音楽の範疇で言えば決して美声ではないのだが、真摯な態度でのぞむ彼の姿勢に打たれた。ただ、「ラクリメ」はその姿勢がちょっと空回りしてしまったような気がする。構えが固すぎる。もっと自分の持ち味で勝負してもよかったのではないか。
 その1曲を除けば、あとはどれもスティングの歌が素晴らしい。
 こういう試みって日本でもやんないかな。結構面白いかもしれない。
 死んじゃったけど三波春夫にベルナール・ド・ヴァンタドルンの「ひばり」を歌わせたりしたら面白かったんじゃないかと。



 エリカ・ヘルツォーク「日本の思ひ出」
 はっきり言えば、ぼくは「君が代」が嫌いだ。だいたい明治維新が好きじゃないんだから、「君が代」はダメ。薩摩琵琶歌の「蓬莱山」だろ、あれって。古今とか言ってるけど。
 その点日の丸にアレルギーはない(好きってわけでもないけど。でもそれは日の丸がどうのこうのってことじゃなく、国旗そのものに対する複雑な感情)。
 で、このCDの1曲目が君が代。面白い企画CDで、西洋人が日本を綴った曲ばかり集めている。その中にはワインガルトナーやバイエル、カバレフスキー、キーシン(そう、あのピアニストの)といった見知った人たちの知らない一面があったり、まったく初耳の作曲家たちがいたり。面白い。君が代はドイツのカペレンが組曲として取り入れていて、われわれの耳慣れたものとは違う和声を施しているので、ちょっと新鮮。
 こういう企画ものも楽しいもんだ。
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今週のCD&DVD

2009年02月06日 16時43分36秒 | 音楽

 波多野睦美「ひとときの音楽」
 パーセルは大好きな作曲家の一人で「次回はパーセルについて」などと予告したにも関わらず、申し訳ない。いつかそのうち。せめてこのCDでパーセルでも聴こう。このCDのすばらしさについては、ぼくが紹介するより専門家に任せた方がずっといいと思う。
「彼女の柔らかく暖かく、少し客観的な距離をもって揺るがないがゆえにいっそう優しく感じられる歌声は、遠い過去の偉大な作品を聞いているというよりは、いまを生きる私たちのために届けられている、最良の意味での非オペラ的な声である。波多野睦美の声が存在するということは、同じ国、同じ時代に生きる私たちにとって、ひとつの恩寵のようにさえ思う」(林田直樹「クラシック新定番100人100曲」)


 ガブリエラ・モンテーロ「バロック・アルバム」
 やられた。今年のベストだ、始まったばっかだけどさ。
 この音楽を聴いていると、夕日の輝きに胸が締め付けられる気がした。
 クラシック音楽の主題を使ってジャズっぽく演奏するのって、もともとの曲を薄めてるみたいな感じがして好きじゃないのだが、これは違う。パッヘルベルの「カノン」で泣ける。信じられない。なぜパッヘルベルで泣けるのだ? しかし、泣けてしまうんだよ。ヘンデルの「サラバンド」も素晴らしい。

こちらで試聴できます。



 タリス・スコラーズ「ライブ・イン・ローマ」
 タリス・スコラーズのメンバーであるソプラノのテッサ・ボナーさん追悼。このライブはぼくが上野の東京文化会館で聴いたのと同じ1994年のもの。テッサーさんは去年末にガンで亡くなった。57歳という若さだった。
 なんだか追悼の気持でパレストリーナを聴く。1994年はパレストリーナ没後400年にあたるため、その記念演奏会としてローマのサンタ・マリア・マジョーレ教会で行われたライブ。聖マリア大聖堂でコープマンが指揮した「マタイ受難曲」を聴いたことがあるのだが、残響が長すぎて聴きづらかったことがある。しかしこの演奏会ではそんな感じはなし。
 こういうの聴くとパレストリーナと教会とのつながりの強さを感じる。単にキリスト教的、ということではなく、彼の音楽の持っている深い構築性に教会建築が実にフィットしているのだ。



 「図鑑に載ってない虫」
 「亀は意外と早く泳ぐ」にやられたぼくは続けざまにこれと「ダメジン」を見た。
 三木聡って、ロードムーヴィーが好きなんじゃないか。それもこぢんまりとした。
「時効警察」の合宿、「ダメジン」の秩父、そして死ニモドキを探すために海に出かけたこの映画。目的はどれも別にあるんだけれど、なぜか仲良し旅みたいな描き方になる。そしてその旅の姿がいいんだ。ああ、こういう仲間っていいなあ、と。
 三木聡の映画の中でぼくはこれが一番好きかもしれない。ナイス橋本のエンディングテーマもウォークマンに入れて何度も聞き返してる。
 細かなところでのくすぐりも抜群だし、「探偵物語」の松田優作を意識した役作りは懐かしさもあって好感が持てた。。
 ああ、夏は終わっちゃったけど、生きていればまた来年夏が来る、愉快な仲間とともに過ごしたあの夏がまたやって来る、主人公の「生きている!」という絶叫にはこんな気持が込められていたんだろう。
 「帰ってきた時効警察」の最終回に出てくるオルゴール職人の遠藤ってこれかあ!
 あと「ダメジン」も見たけれど、こっちの方を先に見てしまったので、イマイチだった。
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今週のCD&DVD

2009年01月30日 09時01分49秒 | 音楽

 土岐麻子「Weekend Shuffle」
 懐かしい! ギガナツカシス。
 だって1曲目が「君に胸キュン」。
 3曲目の「Downtown」、5曲目の「土曜日の恋人」は誰が歌ったかどうかよりも、たぶんぼくの年代の人にすると「俺たちひょうきん族」のテーマ曲だったという思い出があふれるのではないか。どっちも山下達郎関連で、「Downtown」はシュガーベイブの歌をEPOがカバーしたやつが使われてた。おいおい、シュガーベイブなんて言葉をキーボードで入力したのは初めてかもしれないぞ、懐かしすぎるぞ。
 声は特徴のあるかわいい声で、この声だとこういう古い歌を歌っても古びず、今の音楽のように聞こえる。
 アレンジも面白い。1曲目なんかすごくストレートなビートを刻んでるかと思えば、中間部はジャズのようにソロを回して、そこが結構凝った音楽になってたり、で、それ以降はどの楽器も大活躍してる。最初は抑え気味にして、中間部から凝ったことやるなんてニクイじゃないっすか。バックの音楽聴いてるだけでも面白いCD。



 「亀は意外と速く泳ぐ」
 今更っす。
 もちろん、小ネタもオールスター個性派俳優勢揃いって感じの出演陣もいい。だが、上野樹里の女優生命を賭けたんじゃないかって感じのパーマはすごい。見応えあり。
 何をやってもそこそこ、普通、平凡な人生を歩んできた専業主婦(上野樹里)。ある時ふとしたきっかけで見つけたスパイ募集のちらし(切手大!)に応募する。
 スパイとなった彼女は、怪しいと思われないように今度は意識してそこそこ、普通、平凡な人生を送るよう勤めなければならなくなる。布団はどう干せば平凡なんだろう。
 スパイものでありながら、舞台はその辺の商店街というアメリカ映画とは真逆を行くスケールの小ささ。ゆる~い感じの笑いの中話は進んでゆく。いつまでも続くかと思われたゆる~い感じのスパイ生活(という名の日常生活)だったが、やがて商店街の広告放送が暗号(グランドキャバレーファイヤーダンス)で非常呼集を告げる。場所は近所の公園だ。子どもの待ち合わせかよ。
 平凡な彼女は果たしてどうなるのか。
 いやあ、いいなあ、このノリ。つーわけで来週は「ダメジン」かな。



 KKP#5『TAKEOFF ~ライト三兄弟~』
 「good day house」「Sweet7」「Paper Runner」「Lens」に続く、KKP第5弾。ぼくはどれも大好き。今回は3人だけの芝居。
 旅行代理店を首になった飛行機マニア、自転車で旅をしている若者、離婚して子どもと離れて暮らしている大工。飛行機の見えるビルの屋上で3人は出会い、やがて協力してライト兄弟の残した図面から飛行機作りに携わる。
 笑いは相変わらずで、たいそう笑えるのだけれど、そこに少し味わいを加えようという意図を感じる。登場人物をワケアリにしたのもそう。語りを入れたのはキャラメルBOXっぽくてなんだか懐かしい芝居の手触りを感じた。
 観客を巻き込んでいく手法も見事。最後、音楽に合わせて手拍子の演出はライヴ感があるし、なんだか演劇として「うまく」なっていく様子がうかがえた。
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今週のCD

2009年01月23日 11時03分56秒 | 音楽

  チャーリー・パーカー「ワン・ナイト・イン・バードランド」
 これに似たものを2つ持っている(持っていた)。一つはカルロス・クライバーが指揮した「オテロ」のLP。残念ながらこれは手放してしまったので、持っていた、になる。もう一つはカルロス・クライバーが指揮した「ラ・ボエーム」のDVD。こちらは今でもてもとにある。
 おいおい。カルロス・クライバーとチャーリー・パーカー、どこが似てるんだよ、ふざけんなよ、そりゃどっちもすごいけど、全然違うじゃないかよ、何言ってんだ、お前、豚のえさにするぞ、こら、とお怒りの方も数多くいらっしゃることでしょう。しかし、お願いです、ぼくを豚のえさにするのだけは止めて下さい。いや、話はそういうことではなく。
 この3つに共通すること、それは音源がとても怪しいということ。「オテロ」は売りっぱなし、再プレスなし、逃げきっちゃうよ、こちとらみたいな販売だったし(おまけにステレオじゃなくてモノ)、「ラ・ボエーム」なんか、あきらかに客席からのホームヴィデオで撮影された映像。
 このチャーリー・パーカーの「ワン・ナイト・イン・バードランド」もラジオ放送を個人が録音したのが音源だという。
 なぜそんなものが発売されるのか。買う人がいるから。なぜそんなものを買う人がいるのか。それはこうした人たちの演奏は、手に入る限りどんな状態であろうと欲しいと思う人たちが多いからなのだ。
 それだけ特別な人たちなのだ。クライバーがまた逃げちゃったという報道を目にするとき、どれだけぼくらは心を痛めたことか。もう絶対ベルリン・フィルは振れないだろうな、惜しいなあ、と極東の高校生たちはいらぬ心配までしていたのだ。
 このCD、だから音質はよくない。しかし、このメンバーで、このコンディション。なんの文句があろうことか。



 鈴木慶一「ヘイト船長とラヴ航海士」
 知ってる、知ってる?
 面舵ってさ、ほんとは「卯の舵」だったって。取り舵は酉舵。どっちも十二支で、卯は「東」、酉は「西」を表す。卯の舵一杯左舷停止右舷全速後進、宜候。
 なんてね。
 で、その「宜候」でこのCDは始まるのであった。
 それにしてもこの厚い音のうねりはすごい。このうねりに身を任せつつ、ぼくは航海に出る。1度聴いたときより、2度目に聴いたときの方が楽しめた。そして2度聴いたときよりも3度目の方が楽しめた。
 どことなく、プロコルハルムの「A Salty Dog」の匂いを漂わせつつ、ヘイト船長の船は海原を漂っていくのであった。ぼくはその船に乗ってる。浸ってる。変な話だけれど、歌詞がどうのこうのというのは、もっと聴いてからでもいいとさえ思える音の連なり。ちゃんと歌詞カード見ながら聴けば、また違った感興も湧いてくるんじゃないだろうか。でも今はこの音の中に埋もれていたい。
こちらで試聴できます。



 ブラームス「ピアノ小品集」 エヴァ・ポブウォッカ
 なんだかお酒好きそうな名前だが、ポーランド出身のピアニストである。
 一昨年かな、アファナシェフの弾くブラームスの後期ピアノ作品にしみじみしてしまったのだけれど、この演奏もそう。グールドの弾いたブラームスは、へえ!と思ったのだけれど、その一方でアーティキュレーションの面白さに耳を奪われしみじみとはしなかった。
 ポブウォッカにはおしつけがましい表情はなく、すごくブラームスを大事に弾いている。
 若い頃ブラームスの良さがちょっとよくわからなかった。音楽史とフランス音楽好きで、メインストリームっぽい独墺音楽にはピンと来なかったのだ。年を経るにつれ、だんだんシューベルト、シューマン、ブラームスもいいなあ、などと思えてきたし、マーラーも好きな作曲家になった(ブルックナーの分厚い金管の響きは今でもちょっとアレだけど)。
 こういうブラームスもいいなあ、と思えるのが年を重ねたおかげだとするなら、年をとることも悪くない。
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今週のCD

2009年01月17日 22時34分47秒 | 音楽

 アンネ=ゾフィー・ムター「バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ」
 なんだかちょっと不思議なCD。バッハの2曲のヴァイオリン協奏曲にグバイドゥーリナの「今この時の中で」のカップリング。グバイドゥーリナの曲はムターに献呈されている。一見何の関係もないバッハとグバイドゥーリナだけれど、音楽の源泉にキリスト教信仰が強くあること、そしてこの作品の中にバッハの最後のコラールが引用されていることなど(ベルクみたいだ)、CD全体の統一感は損なわれていない。バッハを今日モダン楽器で演奏することの意味はこういうところにあるのよ! っていう感じで非常に細かで多彩な表現を聴かせてくれる。特に緩徐楽章になるとその多彩さに目を見張ることになるのだけれど、でも、実はそれほどいいなあ、とも思わなかったのだ。
 その点グバイドゥーリナは面白かった。前衛表現の中にもムターのヴィルトゥオジティを発揮させる部分があって、やっぱりこうじゃなくちゃヴァイオリニストは引き立ちません。



 シェーンベルク/シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」
    ヒラリー・ハーン/サロネン指揮/スウェーデン放送交響楽団
 ムターの次はヒラリー・ハーン。今週は偶然にもヴァイオリン協奏曲を続けて聴いた。
 グバイドゥーリナも面白かったが、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲も面白い。実は初めましてのシェーンベルク・ヴァイオリン協奏曲なのである。同じ新ヴィーン楽派でもベルクのは何種類か持っているし、大好きなんだけれどなぜか縁遠かった私たち。でも、もう今は違う。なわけで初めてなので、ああだこうだとあまり言えないのだけれど、シャープな表現で造形されたこの曲は縁遠い曲ではなかった。そして実に美しいシベリウス。ああ、まるで相容れない2曲って印象なのに、そうか、どっちも20世紀の曲なんだよなあ。浪漫嫋々たる演奏ではなく、透明で美しく、そして気高いんだな。美しいものを聴いた。
 シベリウスにハッピーバースデイを歌ってるヒラリー
 シベリウスも喜んでんじゃないかな。


 イエローマジックオーケストラ「UCYMO」
 懐かしくて聴いてみた、YMOの究極(らしいっすよ)ベスト盤。昔は好きでコンサートにも行ったのに、実は初期のファンでしかなかったことを思い知らされた。だって、1981年以降の曲ほとんど知らないんだもん。そんなわけで、新たに目が開いた部分もあった究極ベスト盤。もともと坂本龍一の「千のナイフ」が好きでそれでYMOを聴くようになったので、やはり1980年まで(「増殖」まで)がぼくの嗜好の範囲のようだ。ここらへんとこ、「ヘビーウェザー」が好きで「830」聴いてよかったけど、それ以降はなあ、でもコンサートには行った、というぼくのウェザーリポートに対する好みとよく似ている。
 YMOのコンサート、前座がシーナ&ザ・ロケッツだった。こないだ「ジャージの二人」見たけど、鮎川誠がいい感じに年をとっていて、見習いたいもんだ。
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今週聴いたCD

2009年01月09日 13時15分44秒 | 音楽
 月曜日に先週聴いたCDのレビューを載せてたんだけれど、今週から金曜日にします。それにしても寒い日が続いていいですね。ぼくは寒い日が大好き。布団に潜り込むときのあのヒヤっとした感じがたまりませぬ。眠るまで本を読むんですが、ベッドの端に寄って読んでます。そうすると真ん中は冷たいままで、またあのヒヤっを楽しむことができるから。ああ、早く寝たい。ヒヤっとしたい。


ストラヴィンスキー「兵士の物語」斎藤ネコ指揮
 10年前ほどの録音。
 「兵士の物語」って言やあ最初に聴いたマルケヴィッチ盤がものすごくよくて、他のを聴いてもいまいちピンとこなかった。語りにジャン・コクトー(おお)、悪魔役にピーター・ユスチノフ。彼はポワロ役で有名かもしれないけれど、ぼくは「トプカピ」って映画が好きで、あと「クオ・ヴァディス」の皇帝ネロもよかった。
 とにかくしゃれてて、上品に遊び心があって、今でも名盤中の名盤じゃないか、と思ってる。
 それはそれ。このCDも大変楽しい。兵士にヒカシューの巻上公一(ヒカシューそのものを知らないか)、語りが戸川純、そして悪魔がデーモン小暮(悪魔本人である)。随所で遊んでいるが、そのユーモアのセンスもいい。演奏はもともと第一次世界大戦後の疲弊した中で演奏するため楽譜そのものが風通しのよさそうなものだから、この方向性で十分OKにして楽し。
アマゾンで試聴できます。



リチャード・ストルツマン「ゴールドベルグ・ヴァリエーション」
 原典主義ってわけでもないんだけれど、どちらかというと作曲者が楽器を指定している場合、その楽器で聴く方が好き。その点こないだ聴いた寺神戸の無伴奏チェロ組曲は興味深かった。
 そんなわけであまり聴かないはずのバッハ企画ものCDなんだけれど、これが大いに楽しめた。いやあ、こんなに楽しいゴルトベルク変奏曲は想像もしていなかった。リチャード・ストルツマンって言うと、タッシのイメージがあって、しかもぼくにとってその一番強烈だったのが、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」だったりするので、こんなに楽しそうに演奏するのか、と。ベースのエディ・ゴメス、うますぎ。四半世紀以上昔、ディジー・ガレスピーと競演しているのをTVで見たとき鳥肌が立ったのを思い出した。
アマゾンで試聴できます。

 あ、言い忘れてましたが、別にアマゾンにリンク貼ってるからって、アフィリエイトとか一切やってませんので、念のため。安心してクリックして下さい(あ、アフィリエイトしてても別にクリックしたらお金とられるってわけじゃないのか)。



 モーツァルト「交響曲第40&41番」ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊

 今更ながらではございますが、ようやくミンコフスキのモーツァルトを聴きました。CDを手に入れたのはずいぶん前だったんだけれど、なんかモーツァルト聴く気分が訪れないので。
 これよくやる。きっとこのCDはいいものに違いない、と買う。でも別に聴きたい気分じゃないから聴かない。そのうち忘れる。
 このCDも忘れてた。あ、あったんだ、これ。
 いいじゃないっすか。鬼気迫るモーツァルト。古楽器だからって典雅な響きを期待してはいけない。疾駆する、天翔るモーツァルト。40番の第2楽章だけはおとなしめで、この楽章のウリである優雅さを表現していたけれど、あとは違う。とくに41番などティンパニ大活躍。すごい迫力。40番と41番の間にある「イドメネオ」からの「バレエ」は箸休めにちょうどいい感じ。
 それにしてもこれ買ったのって、モーツァルト年のとき。え? 2006年? なったばかりとはいえ、現在2009年。3年越しの放置プレイ。どんな我慢強い人でもさすがに3年放置されればむくれてしまうだろうに、CDはえらい。ちゃんと音が出る。
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ヘレン・メリル「ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン」

2009年01月06日 10時41分26秒 | 音楽


 ぼくが高校生の頃、一時ジャズが少し流行ったことがあった。ヘレン・メリルやビリー・ホリデイの歌がCMに使われ、なんと森進一の歌う「Stardust」さえ、確か車のCMに使われていたのだ。あれは、でも、ルイ・アームストロングの歌う「Stardust」を聴いた人(あるいはウディ・アレンの「スターダスト・メモリー」を見た人)が、同じような声質だから森進一もイケルかもよ、というような企画なような気がする。
 でも、まあ、少し流行った。ジャズが大好きだったぼくは、世間が少し自分と折り合いをつけてくれたような気がして、嬉しかったものだ。
 そんな中ヘレン・メリルの「You'd be so nice to come home to」がもてはやされていた。中学の頃読んだ矢作俊彦の、あれは、たしか、「リンゴォ・キッドの休日」(もしくは「マイク・ハマーへ伝言」のどっちか)に出てきて、ぼくたちはレコードを探し求めて聴いていたものだ。クリフォード・ブラウンのソロがたまらく素晴らしい。
 ぼくはその曲も好きだったが、同じアルバムの「What's new」に惹かれた。たまたま出会う別れた恋人たち。その間に流れる情感。Handsome as ever I must admitの最後の「t」の発音だけで、男子高校生は昇天したものだ(ぼくだけじゃないはずだ)。
 そのくせ、別れた相手に街で偶然出会うなんてことあるわけないじゃん、なんて思っていた。その頃ぼくは初めて付き合ったレズビアンの女の子(彼女は男と付き合うのは初めてで、ぼくたちは初初しいのか、そうじゃないのか、不思議な関係だった)との仲がぎくしゃくしていて、電話をするたびに失望したり、天にも昇るような思いをしたり、シュトゥルム・ウント・ドランク、嵐と衝動の中をはいずり回っていた。たぶん、このまま二度と会わないだろう彼女とぼくがどこかで再会する? あり得ない。
 しかし、時を経て、もう少し落ち着いた恋愛をすると考えも変わってきた。
 東京中を平均化すれば出会う可能性など皆無だろうが、考えてみれば、付き合っている相手と自分とは立ち回り先が同じだったりするのだ。たとえばピロスマニ展で偶然出くわす可能性は、街で偶然出会う可能性よりもかなり高いはずだ。
 大瀧詠一にも大貫妙子にも恋人と偶然出会う、そんな歌があったと思う。
 現実に、ぼくにもそんなことがあった。
 ある劇団の芝居に弟がガールフレンドと出かけたら、隣の席に友人を連れたぼくの前の彼女が座ったことがあったそうだ。彼女は友人にぼくの弟を「義弟のなりそこない」と紹介したらしい。
一番多く再会したのは、絶対に再会するはずない、と思っていたレズビアンの彼女だ。
 ぼくのことをまるで相手にしていなそうだったのに、ぼくが二十歳の頃突然夜電話をかけてきた。「今、早稲田に住んでんの。焼きそば食べたいから、持ってきてよ。一緒に食べよう」
 振り回されるのは、もうごめんだ。それにぼくにはガールフレンドもいるし。それでもぼくたちは何回か会った。恋愛において過去が新しいという逆説をぼくは経験した。もちろん、数回会っただけでぼくたちはまた音信不通になった。
 そんなこんなでぼくが30歳のあるとき、母親がその彼女に会ったわよ、とぼくの度肝を抜くご発言。彼女はぼくの会社の真向かいのマンションに引っ越してきて、ぼくの会社の一軒となりの歯医者さんで働いていた。母親はその歯医者さんに通っていたのだ。
 あるとき近所のサンシャインをガールフレンドと歩いていると、その彼女がいてぼくに「あ、アキラくーん!」と手を振った。
「だれ?」
「近所の歯医者さんで働いてる人」
 だけど、どう考えても何の関係もない近所の歯科衛生士はファーストネームを呼んで手を振らないよな。
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先週聴いたCD

2008年12月29日 10時15分26秒 | 音楽

J.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲」     寺神戸亮
 バッハの無伴奏チェロ組曲第6番はヴィオラ・ポンポーサのために書かれたという。聞き慣れない名前かも知れないけれど、要はチェロというより大型のヴィオラで肩に吊って演奏する。この楽器をヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ(肩掛けチェロ)という名で現代によみがえらせたのがヴァイオリニストの寺神戸亮。弦はチェロより1本多い5弦。
 しかし理屈は理屈。聴いた音楽がよくないことには歴史的価値も薄れるのだ。一聴すると演奏している写真からは想像もできないほど豊かな響き。チェロがティーゲルみたいな重戦車だとすれば、こちらは機動性にあふれたシャーマンという感じ。この組曲にあるジーグとかクーラントなんかは目から鱗が落ちる。
コロンビアのページに楽器の解説や実際にチェロとの音色を比較した映像がありますので、是非どうぞ。
 それにしても、無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ、それに無伴奏チェロ組曲を同じ人が録音した例って他にあるんだろうか?



コシミハル「覗き窓」
 越美晴がいつコシミハルになったのか詳しくは知らない。今になって聞き返してみると越美晴の頃の音楽は一聴アイドルっぽい感じもするが、シャンソンの響きがメロディラインに存在していることがわかる。コシミハルはさらにそれを推し進める。フランスのキャバレーを舞台にアモラルな物語が紡ぎ出されている、そんな雰囲気に満ちた音楽が広がっている。
 エロティシズムの具合が素敵なのだ。8曲目の「満潮」は、ピエール・ド・マンディアルグへのオマージュというか、なんというか。エロティシズムというと、ぼくはバタイユこそ本物、根源的であり、マンディアルグというのは、ちょっと違う、なんというか趣味のエロス(なんだそりゃ?)って気がしていたんだけれど、今考えるとそれは偏狭な考えだったかもしれない。
アマゾンのページで試聴することができます。



グザヴィエ・ド・メストレ「エトワールの夜」
 日本語のタイトルつけた人のセンスを疑う。「エトワールの夜」?
 原題はLa nuit d'etoile(アクサン省略)。ドビュッシーの歌曲のタイトルである。同じ原題でヴェロニク・ジャンスのCDは「星月夜」だった。すばらしい言葉じゃないですか。それを「エトワールの夜」って。問屋かい?
 それはそうと。
 このハーピストはご覧の通り名前に「ド」が付いています。ベルバラを読んだ人なら、あ、この人は貴族なんだな、とすぐにピンときたはず。そう、彼は伯爵家の出身。おまけにイケメン。フランスは共和国なのに貴族がいる不思議な国。もっともイギリスの貴族と違ってそれに伴う特権などはないんだけれど。逆に日本は立憲君主国なのに貴族がいない、これも不思議な国。もっとも霞会みたいに貴族同士の交流はあるんだけれど。
 またまた脱線。この「星月夜」、ぼくは好きな歌曲だったのだけれど、録音が少なかったような気がする。ドビュッシー歌曲全集でエリー・アメリングが歌ったものが手に入る唯一のものじゃなかっただろうか。
 それがここにきて、サンドリーヌ・ピオーが歌い、ヴェロニク・ジャンスが歌う。このCDにはピアノ曲の編曲、それに歌曲、そしてもともとがハープの曲である「神聖な舞曲と世俗の舞曲」などが含まれ、実にバランスよくドビュッシーのエッセンスを配している。
 ハープもいいが、歌曲を歌うディアナ・ダムラウの妖艶な歌もいい。ぼくの大好きな「出現」も素晴らしかった。
 タイトルはあれだけれど、素敵なCD。
これもアマゾンのページで試聴できますので、お試しあれ。
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先週聴いたCD

2008年12月22日 11時58分57秒 | 音楽

ピエール・バルー
「ピエール・バルー ライヴ・アット・カルダン劇場’83 スターリング清水靖晃&ムーンライダース」
 「男と女」の死んだ夫役、あるいはサンバが大好きで歌ってばかりいたスタントマンと言った方が、サラヴァのピエール・バルーと言うより一般的には通りがいいのかな。とにかく、ピエール・バルーが日本のミュージシャンと組んで作品を作っていた時期があった。高橋幸宏、坂本龍一、清水靖晃、鈴木慶一、今でも輝いている面々と作ったアルバムが「花粉Le pollen」だった。ぼくは高校生で、そしてCDなんてものはまだ発明されていなかったからレコードを買って何度も聴いた覚えがある。その後、ミカドとかクレモンティーヌとかさまざまなフランスと日本のコラボが誕生したけれど、先鞭を付けたのがこのアルバムだったような気がする。
 カルダン劇場に清水靖晃、ムーンライダーズを招いて行われたバルー一夜限りのライブが録音されていて20年以上たってCD化されたのがこれ。最近になって知って入手したのだけれど、単なる懐かしさとは別の音楽的喜びをいっぱい感じることができた。「括弧」のサックスソロはスタジオ録音の「花粉」でもよかったが、このライブの荒削り感がなんともいい。
こちらで視聴できます。ぜひどうぞ。



菊地成孔
「The revolution will not be computerized」
 ジャズは今でも有効な音楽なんだろうか、と思うときがある。日本のプロデューサーがアメリカのジャズマンと組んで発表する多くのCDを聴いて、その「おしゃれ」な音そのものに、ジャズの死臭を感じてしまうのだ。旧譜の再発売は確かに面白いものがあるけれど、この先はどうなるんだろうか。
 そんな状況の中、菊地成孔の活動は興味深い。東大教養学で行われた講義「東京大学のアルバート・アイラー」をはじめ多くの著作を手がけ、UAと格好いいコラボレーションアルバムを作ったりしながら、「野生の思考」では、そのバックにアルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲をにおわせたり、自らもさまざまな触手を広げて音楽をものしていく。
 ダブ・セクステット名義のこのCD、ダブ処理はそれほど目立つことなく、音楽は緊張感をはらみながら進んでいく。格好いいじゃありませんか! 途中、ドラムで遊ぶところもあって、あれはあれで次の展開がわからずドキドキしていい。類家心平のトランペットが光ってる。



ヒルヤード・アンサンブル
「イギリスルネサンスの音楽」
 正確に数えたわけじゃないけれど、どう少なく見積もってもうちにはCDが1000枚以上ある。そのうちの約10%が人によってはマイナーだと思われるかもしれない音楽史と呼ばれる分野の音楽。音楽史と言っても時代的にはかなり広いと思う。8~9世紀のグレゴリオ聖歌の時代と17世紀のヴィクトリア(彼は17世紀まで生きた。ヴィクトリアの死後70年ちょいで偉大なJ.S.バッハが生まれている)とでは800年以上の開きがある。これを一つのジャンルにするのもどうかと思うが、まあ、昔から好んで聴いていた。友人がマーラーを買うとき、ぼくはデュファイの世俗歌曲集を買っていた(なんでそんなもの買うんだ? と驚愕されたけれど、その頃のぼくにとってマーラーのレコードを買う方が驚きだった)。ブルックナーよりもジル・バンショワの方に親近感を抱いていたあの頃。
 そんなわけで久しぶりに聴いたヒリヤード・アンサンブル。90年代はアルヴォ・ペルトが流行ってペルトの音楽にぴったりのアンサンブルを聴かせていたが、ここでは普通にタリスやタイ。知名度の高さではタリスの方が上だけど、このCDの聴きどころはタイ。タイのグローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイをモテトゥスの間に配置することによって、これを聴くものはあたかもミサにあずかっているかのような気になれる。ソールズベリー典礼はキリエをポリフォニーにしないため、キリエはなし。この時代のイングランドの作曲家はずいぶん苦労したに違いないとしみじみ思いながらミサ曲を聴く。
 現代と違う時間の流れ方に身も心もどっぷり浸かる。奇をてらわない、清澄で安定した彼らの響きがどこまでも心地よくてうっとりとしてしまう。こういう時間が貴重なんだな。
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2005年1

2008年09月03日 06時28分04秒 | 音楽
 ほんとの個展はとても無理だから、ブログでやっちゃえ、という企画っす。
 2005年から2008年上半期まで、しばらく続けます。
 よろしくお願いします。

京都 広隆寺



東京 聖橋



東京 御茶ノ水駅



東京 南池袋



高野山 奥の院近く



鎌倉 円覚寺



横浜 赤レンガ倉庫
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Hな音楽

2008年05月30日 11時46分57秒 | 音楽


 学生時代、店でR.シュトラウスのオペラ「サロメ」を買っていたら、先輩と鉢合わせしたことがあった。彼はぼくの持っていた「サロメ」のレコード(そうだよ、CDなんてもんはなかったんだよ。昔、あらえびすとか読んでて、SPの話が出てきたときのぼくの印象をこれ読む今の若い人たちはきっと持っているんだろうな)を見て、それがカラヤン盤であることを知ると、にやっと笑って「すけべだなあ」とあきれ顔に呟いたものだ。
 名盤と評価が高く劇的なベーム盤ではなく、どこもかしこも磨き上げた上にネトーっとくねっていくカラヤン盤を選んだところがきっとその感想を生んだのだろう、と思った。
 当たり前である。
 だって、ぼくはカラヤンがHっぽいから選んだだもん。
 人それぞれ好き嫌いはあるだろうけれど、ぼくは別にカラヤンでベートーヴェンやブラームスを聞きたいとは思わない。バッハもドビュッシーもフォレもカラヤンで聞こうとはしない。でも、シェーンベルクの「浄夜」とかR.シュトラウスとかはカラヤンいいな、と思うのだ(正直に告白するとヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」もぼくはカラヤン盤を持っていた)。
 そう、すべてHミュージック。ぼくはHな音楽が好きなのだ(ほかにもマーラー5番のアダージェットとか、ヤナーチェクの弦楽四重奏曲とか)。
 で、こないだ聴いたのがこのCD。ベルリンフィルの腕っこきチェリスト12人による合奏曲集。ピアソラなどのタンゴを集めたCDも面白かったのだが、これは映画音楽集。以前紹介したマックス・ラーベも参加している(このCDのラーベは昔のアメリカのミュージカル歌手のようだ)。映画はつまらなくても音楽はよかったり(「タイタニック」とか)、聞き進めるのがなかなか楽しいのだけれど(ラヴ・ミー・テンダーっていい曲か? 同じ曲調ならぼくはトゥルー・ラヴの方が好きだ。ビング・クロスビーとグレース・ケリーよかったなあ)、白眉はヒッチコックの「めまい」から「ラブ・シーン」(身も蓋もないタイトルだな)。
 ああ、この弦楽器特有のうねり感。とてもH。それにこれ、すごく「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲に似ている(誰です、フェリーニの「道」のあのテーマってドヴォルザークの弦楽四重奏曲そっくりとか言う人は)。ああ、いっそ、このうねりの海に溺れてしまいたい。
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善知鳥

2008年05月16日 10時15分53秒 | 音楽
 こんなものがCDで手に入るなんて、素晴らしい時代だ。お謡は昔、カセットでいくつか持っていたけれど、何度も聴いているうちにテープが伸びてしまって聴けなくなってしまった。
 このCD第1集には「善知鳥」(「うとう」って読むんだよ)が入ってる。これはぼくが一番好きなお謡だ。いや、逆にぼくはこれを知ったから、能が好きになったのかもしれない。この謡にはいろんなことが詰まってる。
 舞台はみちのく外の浜。外の浜ってフランス・ブルターニュのフィニステールと同じ。要するに世界の果て。人外の地。ぼくはね、いつも思うんだけれど、日本人て、関東から西に、名古屋、大阪、広島、そして北九州か福岡を貫く東西軸(もちろん、これは東西逆の方向でもいいんだよ)を意識することは多いけれど、北海道から関東までの南北軸ってあんまり意識していないんじゃないか。
 日本史で東北や北海道って、どこまで登場していました?
 この能の舞台はそんな地の果て、外の浜。フランスのフィニステールも、意味は地の果てだもんな、一緒だ。あそこのそば粉を使ったガレットがうまい、なんて最近言われているが、だいたいそば粉を育てていること自体、貧しい土地がらなんだよ、おしゃれとか言ってんなよ。そんなやつはそば粉を育てるくらいしかなかった長野に来て虫食えよ。虫。ぼくは子どもの頃からイナゴの佃煮食べて育ってるから、なんとも思わなかったけれど、あるとき弁当のイナゴ食べてたら、回りがギャーギャー騒ぐから、ああ、これはポピュラリティーに欠ける食べ物なのだと中学になってから知った。蜂の子を食べてたら、ウジだって言われたし。ざざ虫にいたっては………。
 閑話休題。
 まず、能にお決まりの諸国一見の僧ってのが出てくる。彼はみちのく外の浜を見たことがないから、行ってみたい、と。で、素直に直行すりゃいいもんを、その途中立山に寄っていく。
 で、立山地獄に来て、あまりの風景に驚く。目の前に広がる地獄を見て、彼は思うんだ。「この風景を見て恐れない人の心こそ鬼神より恐ろしい」と。
 立山曼荼羅ってえのがありました。そこでは、鬼に責められ苦しめられる様々な人々が描かれていました。針山だの、血の池だの。でも、この謡では、そうじゃないんだ、と言ってる。立山の地獄よりも、それを見て恐れない人の心の方が鬼神より恐ろしい。地獄を内面化しているわけです。地獄は、決して外にあるんじゃない、地獄とは、あなたの心ですって、銭形みたいなこと言ってる。
 これはすごいことなんです。
 だって、それまで儀式、儀礼、そのほか人々が守ってきた禁忌ってあるじゃないですか。それはそれだけど、でも、何かをやるかってえより、内面の方が大事じゃね? って言ってるんですよ、この謡は。陰陽師が活躍し、その後武士が活躍した中で、でもさ、儀礼とか、たとえば、方たがえとか、あるいは武力もいいけど、そうしたものが現実に影響を及ぼすと思われていたところに、いや、ほんとに大事なのは、人間の心なんじゃね? って、それまでのほとんどすべての歴史にアンチテーゼ出しちゃってるわけですよ、これ。
 西欧の宗教革命と同じ文脈なんですよ。行いじゃないんだ、信仰なんだ、と。
 で、この謡は、たとえばダンテの「神曲」との地獄観を比較してもすごく面白いだろうし、蓑傘たむけてくれっていうところからそれのフォークロアを探り出しても(たとえば一言主とか)興味深いし、「鬼」ってなんだろう、っていう質問へのひとつの答えのヒントにもなるだろうし(日本の鬼って、西洋の狼男の要素も持っているんですよ、実は。考えれば考えるほど、いろんな多面性があって、ぼくは鬼が好きなんです)、あと士農工商なんてのも室町時代のこの謡曲に出てきて、で、主人公は士農工商に所属してないから、あらあら、なんてことになってしまうし。
 とにかく、この謡は面白い上に、訴えるところが大きくて、ぼくは大好きなんですな。って、最初の数十秒分しか紹介してなくて、大好きなんですな、などと言われても困っちゃうよね。
 全部で第3集まであるんだけれど、ひとつ約5万円。関係者以外で全部揃えた人はえらい。
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響け、バッハよ、朝霞の空に

2008年05月15日 10時25分22秒 | 音楽
 気象庁、てめっ、こら。きみ、今曇りだって言ったよね? 現在、この瞬間曇りって言ってるよね? じゃ、なんで外は雨なんだよ? 予報以前の事実すら間違ってんじゃんかよ。最近、晴れるだの、曇りだの言って、雨ばっかじゃんか、どうなってんのよ、え、どうしてくれんのよ?
 なんて、ストレスためまくった1週間でしたが、ようやく東京に久しぶりの青空が戻ってまいりました。ばかばかばかばか、もう、一生会えないかと思ったよ、なんて青空の胸を叩いて泣きじゃくった朝5時。
 昨日の晩、「東京は久しぶりの晴れです」という予報にはしゃいじゃって、10時にはベッドに入ってしまった。遠足前の小学生かよ。そのくせベッドに入っても眠れなくて、ウィスキーを飲みながら本を2冊読んでしまう効率の悪さ。ばか、である。
 で、5時に起きてヨーグルトを食べて出発。ほんと、久しぶりの自転車。仕事前に軽く40kmほど走って来よう。田端を経由して隅田川を渡って、荒川サイクリングロードへ。ここまでで約6km。ああ、荒川のそばに引っ越したいな。
 今日の荒川は昨日までの雨のせいで至る所に水がしみ出している。濡れた路面が乾ききらないんじゃなくて、土手から雨水がしみ出してくるのだ。たったこれだけの土手でこんなに水分をためておくもんだ、と感心する。土手でこれじゃあ、山を崩すだの、森を伐採するなんてことはうかつにはできないな。
 ぼくの自転車には泥よけがないので跳ね上げた水が身体にかかる。背中とお尻が冷たい。
 そんなこんなで6時過ぎには20kmポイントの朝霞水門に到着。見慣れた風景だけど、やはり水面の美しさ、ちょっと奇妙な風景が楽しくて、ウォークマンを聴きながら少したたずむ。
 今日入ってるのは、「青柳の堤」っていう、イギリス音楽集、それから忌野清志郎30周年コンサート、小菅優、桂米朝「珍品集」。とりとめのない選曲だ、我ながら。ぴっとスイッチを入れると小菅優の「カーネギーホール・ライヴ」がかかった。
 曲は、J.S.バッハのシャコンヌ(ブゾーニ編)。
 水門の手すりに自転車をたてかけ、ボトルのアクエリアスを飲みながら音楽を聴く。青空が川面を照らしている。ああ、いい気分だ。
 ほほう、変わった演奏だ。最初、こういう弾き方に必然性を感じなかったのだけれど、途中からその弾き方に説得力がましてくる。
 彼女はなんの衒いも狙いもなく、その楽譜を見て、そのような音楽を感じているんだろう。音楽は不自然な誇張などなく、耳新しいまま響いていく。
 そこにはまるで新しく手つかずの、ぼくたちの知らない音楽が生まれてきている。だけれど、きっと彼女は新しいことをしようと思っていたわけではないんだと思う。彼女には、その音符はそう聞こえちゃうんだろう。そしてそう聞こえちゃう音符をそう聞こえちゃうままに弾いているんだと思う。もちろん、そう聞こえちゃうままに弾くということは大変なことなんだけれど。
 表現の幅の広さがすごい。
 うーん、うなってしまった(いろんな意味で)。
 仕事があるからこの1曲で終わりにして帰路につく。
 これは偽物なのか、本物なのか、ぼくには、この1曲で判断はつかないけれど、いい、悪いは別にして、たいそう面白いシャコンヌであったことだけは確かだ。
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