毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」

2008年02月29日 08時53分08秒 | 読書
レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」 村上春樹訳     早川書房



 世の中にはハヤカワ文庫を読む人間と読まない人間がいる。読む人間の中には往々にしてマニアと呼ばれる人種がいる。さらにそのマニアは2つに分かれる。一つはハインラインやレム、P.K.ディックなどの名前に反応するSFマニア。もう一方のマニアは、リュウ・アーチャーやサム・スペード、あるいはコンチネンタル・オプなどの名前にピクピクするハードボイルド・マニア(あ、あと本格ものマニアもいるか)。このハードボイルド・マニアは蛇口に口を近づけ直に水道水を飲み、ハムを囓りながら禁欲的にハヤカワ文庫を読み続ける。口を開けば、なにか皮肉っぽいこと言えないかと頭脳をフル回転させ、自ら課す禁欲とモテないこととを同一視するのだ。
 そんな人間にとっての聖典は聖書や仏典ではなく、もちろんコーランやナグ・ハマディ写本でもない。
 レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」、これが彼らの聖典だ。
 かつて、ぼくも読んだ。だが、マニアなんかじゃない。通り一遍の読者に過ぎない。
 それでもこの小説はミステリである以上に何か心にひっかかるアメリカ文学だった。本筋とは別の細部の描写に面白い部分が多く、それでいてそうした枝葉が決してストーリーテリングの邪魔にならないどころか、小説内の世界を実に見事に構築する材料となっていた。辻邦生がかつて、ある世界を構築するためには、小説の量も大事なのだ、と言っていた。「長いお別れ」が1950年代のロス・アンジェルスを構築するには、この量が必要だったのだ。
 17歳の頃、ぼくは清水俊二訳を読み、それからペイパーバックで読んだ。当時のぼくにそこに描かれている男女の機微がよくわかったわけではなかった。今でも分からない。リンダはなぜマーロウと「結婚」したいのか。でも、わからなくていい気もする。チャンドラーの描写はなぜかそんな説得力があるのだ。リンダとマーロウのシーンはとても美しい。別れのシーンに会話文がなく、すべて地の文で表現しているのがいい。

 「さよならを言った。タクシーが去っていくのを私は見まもっていた。階段を上がって家に戻り、ベッドルームに行ってシーツをそっくりはがし、セットしなおした。枕のひとつに長い黒髪が一本残っていた。みぞおちに鉛のかたまりのようなものがあった。
 フランス人はこんな場にふさわしいひとことを持っている。フランス人というのはいかなるときも場にふさわしいひとことを持っており、どれもがうまくつぼにはまる。
 さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」(村上春樹訳)

 村上春樹によって新訳された「ロング・グッドバイ」を読んで、ぼくは、かつて少しだけ死んでいった人を思い起こし、感傷的な気分に浸った。
 新訳と旧訳の違い? 新訳の具合はどうかって?
 そんなことは感傷的な人間の考えることじゃあない。感傷的な人間は、そんなことを考えるより、自分の分のほかにもう1杯ギムレットを作って、そのグラスの彼方に思いを馳せなくてはならないんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

胞衣の生命

2008年02月28日 08時39分55秒 | 読書
中村禎里著「胞衣の生命」                海鳴社


 人間は境界を恐れる。境界は中心に対する周縁であり、中心が光であるならば、周縁は闇、または薄暗さを表す。そこはどちらでもない曖昧な領分、アンビヴァレントな存在で、中心の秩序に対する混沌を含んでいる。
 境界の混沌は秩序にとって大きな脅威となる。
 なぜなら、境界には中心を逆転させることができる力があるからだ。
 何か日常にない幸いをもたらす客人(まれびと)が訪れるのは、この境界であり、能では橋懸かりという境界を通じて、あの世から常ならぬ人が訪れるのである。
 境界は何も場所だけではない。境界の時間もあれば、境界のものもある。たとえば黄昏は境界の時間であり、人はそれを逢魔が時とも呼んだ。境界のものの一つが胞衣である。
 胞衣は出産の際に出てくる胎盤や卵膜のことである。出産後に出る場合が多いが、ときには胞衣と一緒に出産する場合もある。そんなとき、その子には「けさ」の字を名前につけたものであった。ぼくの知り合いにも「袈裟男」さんがいる。しかし、現在50代以下の人にはあまりいないかもしれない。
 胞衣は子どもがやってくる世界とわれわれの住んでいる世界を媒介する境界的存在である。こういう境界物には何か特別な力が潜んでいると信じられていた。
 そのため胞衣の処理には注意が必要だった。
 この本で著者はさまざまな文献にあたり、胞衣の処理について語っている。ぼくが驚いたのは、礼法の小笠原流には小笠原流の胞衣処理がちゃんとある(あった)という点。小笠原流はこんなことまで及んでいたのかあ。
 それによると、胞衣をまず水であらい、次に酒を注ぎ紙で包む。それを土器に入れ、蓋をして青絹で包む。包んだものを弓矢・昆布・勝栗・熨斗を添え、桶に入れ、白布で結い、箱に納める。玉女(陰陽道の神)のその年の方角を選ぶ。男子の時には左足で三度、女子の場合には右足で二度、地を踏み、「天長地久・御願円満・此土安穏・男(女)の胞衣」と唱え、その少し脇を三尺六寸掘って、胞衣を納める。
 出産だけでも大変なのに、そんな綿密な儀式を行っていたんですねえ。

 そして興味深いのは、この一節だ。
 
「一般に近中世以前においては、子宮内の胎児は出産直前まで子宮の上方に頭を位置して直立していると思われていた。この見方によると、胞衣は胎児の頭上にかぶさることになる」

 ああ、そうか、胞衣は胎児が頭にかぶるずきんだったのだ(ちなみにこの本によると、日本で最初に胎児が子宮内で頭部を下にしていると主張したのは、賀川玄悦(1700~1777)の「産論」(1765年)だとのこと。賀川玄悦の賀川流は当時の産科最大手であったらしい)。
 ある祭で、神使は「胞衣」をあらわす箕をかぶって、古層の神を身に付着させる。頭にかぶっていると考えられていたのなら、この習俗は納得がいく。
 あの世とこの世を媒介する胞衣をかぶることによって、神使は人ならぬものに変化する。胞衣によって、祭りの間、あの世とこの世は分断することなくクラインの壺のような連続体となるのだ(これを西洋において考えると、赤ずきんちゃんの話など興味深い。そう、西洋においても胞衣には特別な力があると信じられていたのだ。母親の子宮、羊水の中にいて溺死しない胎児を守っている胞衣は、だから船乗りたちの間で人気が高かった。さらにさかのぼれば、古代ケルトで信じられていた古層の神々はみなずきんをかぶっている)。

 さらに胞衣と荒神がたびたび結びつく習俗についてもその背景がはっきりとわからなかったのだが、次の一節ですとんと理解できた。

「近世においては、胞衣を埋めるさい荒神に仁義を切るため、塩をまいた。いずれにせよ荒神は、ひとたび同居を許した胞衣にたいしては、保護者の役割を引き受け、自らの一部分となす」

 小笠原流のあれだけの煩雑な儀礼は、胞衣の持つ荒々しい力を鎮めるためのものでもあったのだ。
 それにしてもこの1冊の本の背後にある文献の量に驚きだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諏訪への旅2

2008年02月20日 12時04分12秒 | 観光


 建御雷神が「ここはわしらのシマじゃけ」とすごんでみせると、人のいい大国主命は、ああそうですか、とあっさり認めてしまう。「古事記」での国譲りの場面だ。
 でも、まあ、子どもたちにも聞いてみてくださいとお願いすると、長男の八重言代主神は納得するが、次男の建御名方神は納得しない。「その話はわしを倒してからじゃき」と立ち向かうが、建御名方神は負けて諏訪まで逃げてくる。で、ここから一生出ないから許して、と命乞う。これで葦原中国は晴れて天津神のものとなったのでありました。
 しかし、この話はなんだかちょっと変。日本書紀では建御雷神はむしろ従で経津主神が主となって地上に降りる。しかも、そこには建御名方神は登場しない。
 だいたい古事記においてでさえ、建御名方神の登場は唐突すぎるのだ。大国主命の御子として名前すら一度も登場することなく、いきなり「次男がおります」発言で物議を醸すのである。たしかに、ぼくの知り合いに、父親の葬式のときにそのような状況に追い込まれた人がいて、相続など大変だったそうであるが、ここではあまり関係のない話だ。
 経津主神と建御雷神については、これはそれぞれ物部氏、中臣氏の祖神であり、物部氏の凋落と中臣氏の繁栄がここに現れているのだろう。忌部氏のルサンチマンについてはまたいずれ。
 一方、建御名方神については、唐突だし、それにこの神は武神として多くの武将から厚い尊崇を受けているのだ。負けてここから出ないから殺さないでえ、と言ってる神が、だ。
 これについては鈴鹿千代乃「建御名方神の王国」が詳しい。


「しかし、ここに、大国主神の系譜にない建御名方神を大国主神の御子神として登場させて服従を誓わせる一文を入れたのは、もともとは大国主神の譲った世界に、建御名方神の王国である「諏訪」が入っていなかったのではないかという考えが浮上するのである。
 諏訪の王権はもともとは大国主神の版図に入らない独立王権だった。だからこそ諏訪の国譲りを説かなければ国譲りは完遂しない。それ程、諏訪の王権が高天原王権にとって無視できない強大なものだったと考えられるのである」


 出雲にも大和にも属さない、独立国として諏訪は存在していた。そこで建御名方神の話を挿入することによって、諏訪も大和の国の傘下に組み込んだというポーズをつけた。
 この説話はだが、逆に諏訪の治外法権を認めてしまっているのだ。
 では、まったく建御名方神と大国主命が関係なかったと言うとそうでもない。
 この二人を結びつけたもの、それが翡翠なのであった。

 写真は諏訪神社下社春宮近くの万治の石仏
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花見川サイクリングロード2

2008年02月19日 09時54分22秒 | 観光

 荒川とはまったく違う雰囲気。川というよりも、色や雰囲気が沼っぽいのだ、花見川は。
 しばらく走ると舗装がなくなる。まじですか。
 未舗装のガタガタ道はロードバイクにとって快適な道とは言えない。
 こういう状況下、ぼくは自分自身をだます。ぼくは花見川を走ってるんじゃない。パリ・ルーベのレースに出て、石畳を走ってるのだ、と。偽装である。
 ミートホープの人も曖昧な会見などせず、牛肉を使わず牛肉味を出せるなんざ、どうだ、すごいだろ、と威張っちゃえばよかったのに、などと走りながら思う。あれは偽装じゃない、技術なんだ、と胸張っちゃえばまた違った展開になったに違いない。まあ、それがいい結果になるかさらに悪い結果になるかは別問題だが。
 自転車をこぎながら考えることは、ぼくの場合しょうもないことばかりだ。
 だが、自分をどう欺むいてガタガタ道を走ろうが、通行止めはどうにもならないのだ。冗談じゃないよ、ったく。
 こないだの狭山湖もそうだったが、通行止めを呼び寄せる何かがぼくにはあるのかもしれない。
 通行止めの金網に迂回路の地図がある。その地図をじっくり眺めてから走る。もちろん迷う。趣味なんですか、と人に尋ねられても不思議じゃないくらい迷う。地図持ってないし。せっかくの花見川サイクリングロードなのに、不完全燃焼で離れることになってしまった。
 迷い迷い走っていると佐倉市に入り、京成臼井の駅に着いた。駅前の地図を見ると印旛沼が近くにある。せめて印旛沼には行きたい。日没が迫ってる。急がないと。
 印旛沼に向けて走る。で、ご想像の通り、迷う。どうしてよ? 近くにあるだろうし、探して見つからないほど小さなもんじゃない。なんであんなでかいもんが見つからないのか我ながら不思議である。あいつに見せんじゃないと、この辺の人が寄ってたかって隠してしまってんじゃないか。しばらく走っている内に、ようやくコンビニを発見。店員さんに「この辺に印旛沼ってありますか?」と尋ねて、ものすごく不思議そうな顔をされる。
 あっちだと指さされた方に向かうと、臼井駅が見える。反対方向に走っていたのだ。すごいなあ、ぼくは。反対には、なかなか走れないものだ。


 半ベかきながら、ついに印旛沼到着。
 いいなあ、自転車は。40過ぎて、休みの日に半ベかく機会なんてないもんな。
 っていうか、地図もなく印旛沼まで出かけようと思うこと自体がだめなんだよな。


 まあ、でも、なんとか日没までにつけてよかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花見川サイクリングロード1

2008年02月18日 07時46分53秒 | 観光
 走りたいのだけれど、北風が強くて最近は心が折れてしまう。
以前と同じく、何の考えもなくとりあえず荒川へ。やっぱりさあ、北風強いんだよねえ。これにあらがってずっと踏んで行くのも楽しくなさそうだなあ。
 で、南行き。気づくと葛西臨海公園。まだ走り足りない。臨海公園を東西に横切って、旧江戸川へ。少し北上。
 うわあ、やっぱり北風が強いや。
 で、ここでaquiraくん、とっさの機転が働きます。一度行ってみたいと思っていた花見川サイクリングロードへ行ってみようではないか、と。それなら東に進むだけなので北風は影響なし。
 旧江戸川を浦安で離れ、湾岸線に。
 湾岸線自体は車道が走りにくい雰囲気なのだけれど、ここの歩道はまるでサイクリングロード。人が全然いない。当たり前だ。家も何もない殺風景なとこ、人が歩いているわけない。


 行徳富士で記念撮影。主な成分は不法投棄の産廃や土砂。
 いやあ、ここまで立派に成長するまで、よくもまあ行政がほっといたものだ、と感心する。
 さらに進む。ところどころショッピングモールがあるが、湾岸線を歩いてくる人はいない。だって、こっち側に人住んでないんだもん。ららぽーとを過ぎる頃、メーターが43kmと言ってた。マラソン選手ってすごいよなあ。遠くまで買い物に行けそうだ。
 最初はサイクリングロードみたいだと思って喜んで走っていたものの、ららぽーとを過ぎたあたりから、交差点という交差点がすべて歩道橋になっているのに業を煮やす。ふざけんなよ。いちいち昇って降りてられっかよ。
 湾岸を迂回し、はっと気づいたのだが、とりあえず出発したので、ぼくは千葉の地図を持っていない。迂回した瞬間、ぼくは迷子になったわけである。しばらく走っていると川に出会う。しかし、今、目の前にある川、高校生がジョギングしている川沿いの遊歩道が花見川サイクリングロードなのか、そうでないのかがわからない。しばらく右往左往してどうやら違うことが判明。
 幕張メッセを過ぎて湾岸線と国道14号線が交わるあたりで花見川に出た。


 せっかくサイクリングロードに来たんだから、これは走らないと。
 花見川サイクリングロードを北上しながら気づく。荒川を北上したくないからこっち来たのに、意味ねえだろ、これじゃ。向かい風だし。
 向かい風に脚を使って、いったい何やってんだよ、と思う。自ら罰ゲームを求めてるみたいで、ぼくはおしおきされたい真性Mかと自問自答するサイクリング。なんだかなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1/6の夢旅人2002

2008年02月16日 11時22分55秒 | らくがき
 人はどうだか知らないけれど、自転車で走っているときって、往々にして頭の中を歌が延々と回り続けたりする。
 「地図のないこの海を行こう きみはどこまでも行ける」と大貫妙子の「船出」がずっと鳴ったりするのだ。頭の中で奏でられるその音楽に励まされ、ぼくは群馬や栃木まで走っていった。
 頭の中にも、その時期その時期の流行がある。
 今は「1/6の夢旅人2002」が鳴ってる。
 ご存じの方はご存じだろうが、「水曜どうでしょう」のエンディングテーマである。
 「水曜どうでしょう」は大泉洋、鈴井貴之、それにディレクターの藤村、嬉野2人が旅をしたり、畑を開墾したりする北海道テレビ放送制作の不思議な深夜番組である。レギュラー放送が終了してから5年以上たつのだが今でも人気があり、ローソンでは昨日(2/15)DVDコンプリートBOXの予約が開始された(DVD第10弾も予約中である)。
 どんな番組なのか知りたい方は、impressTVのこの場所で無料視聴ができるので、是非どうぞ。大泉、鈴井、両名がカナダのユーコン川をカヌーで下る全7編。鈴井と藤村ディレクターが甘いものを食べ競う「対決列島」で敗れた罰ゲーム企画。
 大泉洋と藤村Dは、アニメ「茄子スーツケースの渡り鳥」に、大泉は主役、藤村Dはチーム監督役として出演していた。その中のせりふ、「蟻か?」は「対決列島」、「シャケじゃねえんだから」はこの「ユーコン川」で飛び出たせりふだ。
 「茄子スーツケースの渡り鳥」での大泉、藤村Dのやりとりも含め、「1/6の夢旅人2002」をどうぞ。




 さ、自転車こいでこようっと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小林達雄編「古代翡翠文化の謎を探る」

2008年02月15日 15時18分52秒 | 読書
小林達雄編 「古代翡翠文化の謎を探る」         学生社

 翡翠。
 ヒスイとも読むし、カワセミとも読む。もともとはカワセミのことだったのだが、色が似ているのでヒスイにも使われるようになった。ちなみに、翡翠の「翡」は雄のカワセミ、「翠」は雌のカワセミ。同じように、麒麟とか鳳凰とか鴛鴦も前が雄の名、後ろが雌の名の熟語になってる。
 で、この本は糸魚川で行われた翡翠(ヒスイの方)に関する学際的なシンポジウムを収録したもの。学際的って下手すると議論の浅いものになってしまうのだが、このシンポジウムは大変興味深い。
 翡翠は縄文時代から日本を代表する宝石で、各地の遺跡から出土しているのだが、古墳時代あたりになるとぴたりとその姿を消してしまう。
 戦前まで、出土する翡翠はビルマ産だろうと言われていたほどで、日本で翡翠が取れることすら忘却の彼方に飛んでしまっていたのだった。
 日本の数カ所で取れるのだが、出土品はすべて糸魚川産の翡翠である。糸魚川で産出した翡翠が北海道から九州、日本中で発見されているのだ。古代の交易なめんなよ、である。
 考古学者とは別の発想をする人類学者や社会学者たちの発言が面白いのだ。たとえば南太平洋のクラ交換を研究している学者は、南太平洋の原始貨幣の使われ方から、翡翠の衰退が平等社会から階層社会への変化によるものではないかと示唆する。確かに年代的にも一致する興味深い発言だ。
 また文化人類学者は、翡翠の原石は原産地から流れた転石を海岸で拾っているという考古学者の話を受けて、それならば、縄文人たちにとって翡翠は山由来のものではなく、海の向こうからやってくる客人(マレビト)的な存在であったかもしれないと指摘。われわれは翡翠の原石が山にあることを知っているが、海で採集していた縄文人たちからすればそういうことも大いにあるだろうと思う。
 忘れがちなLa Pensée Sauvageによって、思考を活性化すること。これがぼくの2008年のテーマだったりするのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神田明神

2008年02月14日 17時46分42秒 | 観光
 いい天気である。
 今日は秋葉原に用事に出かけた帰りにちょいとお散歩。
 久しぶりに神田明神にやってきた。
 もともと出雲系の人びとによる創建なので祭神は一ノ宮に大己貴命。大国主命である。随身門内側にはウサギと大国主命、ネズミと大国主命の2場面がレリーフとして飾ってある。二ノ宮に少彦名命。大国主命とコンビを組んで活躍した神なのでこの二人をセットにしているのは、なんだか自然な感じなのだが、実はこの神様がここに祀られたのは明治になってから。明治天皇が参拝に来るのに平将門公を祀ってるのはとんでもない、と祭神からはずし、代わりに少彦名命を大洗磯前神社より勧請したのだった。
 将門公が本殿に復帰したのは1984年。割と最近のことなのだ。


 随身門外側に施された朱雀。


 こちらは玄武。
 あと2名は省略。
 お参りして気分新たに昼休みのお散歩。
 昨日に比べて今日は暖かな日差しが楽しめました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

椋庵

2008年02月12日 13時48分26秒 | 食べ物
 お昼ご飯でも食べようと前から噂を聞いて気になっていたお蕎麦屋さんまで自転車で出かけたのでありました、片道40kmこいで。
 荒川の都市農業公園から芝川に入り、見沼ヘルシー東縁を北上、県道2号線を西進して到着。


 椋庵。
 お店は明るく、とてもきれい。大きな窓から差し込む光が優しく店内を包んでる。
 最近のお蕎麦屋さんはインテリアにもいろんな工夫をしていて気持ちよく食事ができるところが多くなった。
 この日は前日降った雪が道に残っていたりして自転車をこぐコンディションとしてはあまりいいものではなかった。自転車に泥よけがないので、しぶきが背中にかかり、ちょっとみっともない。
 四角く大きめのお盆にそば茶を盛ってきてくれる。まあ、とりあえず、ごま豆腐と厚焼き卵を注文。自転車でもお酒は飲酒運転になるので自粛。おいしい。ごま豆腐の薬味にとんぶりとわさび、わさびの葉、それにふきが乗ってる。かわいい。かわいいのだが、写真を撮る前にがっついたので、写真はなし(あ、しまった! やっちゃったよ、と思いましたよ)。前日に鴨料理を食べていたので、やめておいたが、隣のテーブルに運ばれた鴨の柳川はすてきにおいしそうだった。今度は柳川と天ぷらで一杯やりたいもの。
 女将さんのもてなしと雰囲気がとてもよく、ほんとに気持ちのいいお店。


 2点食べ終わり、かけそばを注文。
 薬味のネギは別皿に持ってきてくれる。
 残雪を見ながらのかけそばはいいねえ。
 そばの食感はもちっとした感じで、かけそばにはちょうどいい。


 最後の〆にせいろ大盛り。
 そうそう、この色。自転車用のちっちゃなデジカメで色の再現がよくないんだけれど、ほんのーり緑っぽい。神田の藪のような緑じゃない。ほんとにかすか。初めて蕎麦を打ったとき幌加内産のかなりいいそば粉を使ったのだけれど、あれがこんな色だった。こちらでは福井産のものを使ってらっしゃるとのこと。
 もう見るからにおいしそうなので、まずはつゆなしで数本すする。エッジが立った、すてきな食感。うまい。味も香りもいい。こりゃうまいや。
 前に蕎庭のところでも書いたんだけれど、薬味の美しいところに蕎麦のまずかったためしはない。ここの薬味がまた美しい。わさびは丁寧にすり下ろされているのがわかる味。ねぎも美しい。なぜ、その美しいと絶賛する薬味の写真がないかと言えば、ピンボケだったんですねえ。ああ、だめですねえ。
 いいあんばいの頃にそば湯が出され、静かな休日の憩いを存分に楽しんで店をあとにした。いやあ、いいお店だったなあ。
 また自転車で行ってもいいな。
 自転車で行かない場合は大宮駅か東武野田線の大和田駅が近いと思う。


椋庵
さいたま市見沼区大和田町一丁目221-4
tel/fax048-687-0596
昼11:30~14:30
夜17:00~19:30LO
定休日 月曜日(祭日の場合は翌日)
url:http://www2.odn.ne.jp/~cfo38190/




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

R.シュトラウス「サロメ」 新国立劇場

2008年02月10日 23時17分35秒 | 音楽
 新国立劇場。ちょっと久しぶり。
 まあまあ、ちょっと見ないうちに大きくなっちゃって。おばさんに抱っこさせて、ね。などと親類のうざったいおばさん状態のぼくと新国立劇場。もちろん係の人に叱られるので、だっこはしません。この年であまり人に叱られたりはしたくないもんです。
 さ、今日の演目はR.シュトラウスの「サロメ」。
 ああ、大好きなオペラ。
 このオペラはある意味で、純愛指向の人たちとそうでない人たちとの人生模様。純愛指向の人びとのラインナップは、ナラボート、ヨカナーン、サロメ。そしてそうじゃない人たちはヘロデ、ヘロディアス。
 ね。なんかわかったでしょ。
 サロメは「愛の神秘は死の神秘より深遠だ」と歌うが、愛の神秘にとらわれた人たちはすべて死へ旅立ってしまう。自殺するナラボート、首を切られるヨカナーン、首を切らせたけれど、結局殺されてしまうサロメ。
 それに対して、現世的な欲にまみれたヘロデ&ヘロディアスはその現世にとどまり続ける。
 この2つの生き方の葛藤も一つのテーマなのだ。
 現在のわれわれからすれば、ナラボートもヨカナーンもサロメも、ある意味でサイコ野郎なのだ。好きな女性がほかの男に粉かけるのを見て自殺しちゃうナラボート。周りにいないでしょ? 神への愛一筋、半裸でイナゴ食べて荒野で暮らしてるヨカナーン。これもなかなか周りにいない。で、惚れちゃった男にキスしたいけど断られちゃったから、そいつの首切って持ってきて、死んだ首にキスしたいから、と頼むサロメ。いないなあ。
 そんなサイコ野郎たちが最高に輝いているオペラ(シャレじゃないよ、そんなセンスのだじゃれなんて言わないよ)、それが「サロメ」なのだ。
 だからその3人は輝いて、ヘロデ&ヘロディアスはヒステリックであったり、俗っぽい人間であったりするところが歌手の腕の見せ所。
 演奏の感想。まず、「七つのヴェールの踊り」はもう、なんとかした方がいいんじゃないか、お互いに。踊りの訓練を積んでない(子どもの頃にバレーやってました、なんてのは踊りの訓練じゃない)人が何千人かの観客の前で踊ること自体、見る方やる方、お互いのためにならないと思う。何千人かの人の前でやるってことはね、歌右衛門とかボリショイのプリマとか(すまん。ここでちゃんと名前が出ればいいんだけれど、ぼくはバレエをまったく知らないのだ)、そのクラスの踊りなのだ。だから、もうやめないか、こんなこと。
 しかも見せる身体を作っているわけでもないオペラ歌手に半裸を要求することも、お互いのプラスにはならない気がするのだ。
 彼女が一生懸命やっているからこそ、ぼくはなんだか悲しくなってしまうのだ。
 これはもうなんとか、みんなで考えた方がいいです、などと学級会の発言みたいな言葉が浮かんでしまったのだ。
 やる方も辛いかもしれないが、見る方だって、いろんな気持ちが縦横に入り交じって、結構辛いのだ。オペラ見に行って、昔、小学生の頃、いじめられてた女の子のことを思い出して、なんだかとてもネガティヴな気持ちになるのはぼくだって不本意だ。
 しかも今回は歌がちょっと不調で声が出ていないサロメだったから、必要以上に同情してしまう。ああ、そんな、下半身は脱がなくてもいいよ、最後の歌をがんばってくれれば、グッジョブ!と声をかけるからさあ、などと考えてしまうのだ。
 辛い。
 七つのヴェールの踊りは、こういう意図で書かれたわけではないと思う。しかし、音楽的にはあまりにもつまらない。必然的に舞台で踊る歌手に神経が集中する。
 R.シュトラウスはなんと意地悪なのだろう。
 ほかの歌手のみなさんもオーケストラも好演だったと思う。
 不調のサロメだったけれど、最後はやはり聞かせてくれた。よかった。
 アリアのあとのサロメの死は奴隷の剣による。ナラボートはんの弔い合戦や、と隙をうかがっていた小心の奴隷が最後、たま取ったるでえとサロメに剣を突き刺す。兵士の盾で殺されるベームやドホナーニ指揮のときの演出と違って、面白いと思う。そこに小さなドラマが一つ付け加えられたのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪の日のお出かけ3 奥秩父 氷柱

2008年02月08日 15時53分10秒 | 観光
 秩父から140号線を西進。旧大滝村(合併して現在は秩父市になってしまった)の荒川沿いで氷柱が見られる。
 ウッドルーフ奥秩父キャンプ場の真下がそこ。無料駐車場からはけっこう歩くので、500円払ってここに停める。
 で、氷柱。













 代わり映えのない写真で申し訳ない。
 いやあ、荒川はほんとにいいね。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪の日のお出かけ2  秩父と諏訪

2008年02月07日 10時44分19秒 | 観光



 秩父もまた諏訪にまつわる事例の多いところだ。
 有名な秩父夜祭りでは諏訪神社の前にさしかかるとその祭神に敬意を払うためお囃子をやめ、静かに通る「お諏訪渡り」の神事があった。ほかにも諏訪神社も点在し、またかつては諏訪城もここにあった。
 秩父には諏訪からの治水技術をもった諏訪からの移民があったと言われている。

 「実は秩父も同じ葛城系なんですね。そして、秩父には諏訪神社が、狭い地域にしては非常に多い。実際、諏訪の一族だと言っている人もいるんですよね。
 そして、治水工事に関して、確かに、諏訪から来たという、秩父という所の治水の工事ですね。秩父といっても小鹿野の方になりますね、椋神社のある。吉田、小鹿野、そっちの方になるんだと思うんですね。ですから、そういう点で、諏訪族はいたということ、これ私、調査で確証しました。上野村を通じて入ってくるルートにお雛粥という行事がありまして、上流から来るお姫様を歓待して、お粥を出したと。これとひな祭りが習合したもので小鹿野町にもあるんですね。
 それから上野村や小鹿野町に残っている文化財とか古い屋敷を検証すると諏訪と共通するものが出てきます。
 祭祀の形態から見ましても、水信仰と治水ですね、それが関わったなという気がするんですね」(西沢形一「お諏訪様」)

 そして秩父平氏の流れを汲むのが豊島氏であり、その居城が「石神井」であった(そして「石神井」という地名自体が諏訪の古層、いや日本の古層の信仰を表している。が、これに関してはまた後日)。諏訪―秩父―石神井と諏訪の流れは東京まで及んできている。もちろんこれは一例に過ぎず、日本各地、とくに東日本で同じような傾向が見られる。

 ところで、これは単なる偶然なのかもしれないが、秩父の諏訪神社を西に辿ると、もう1社諏訪神社があり、さらに西に辿ると諏訪山が存在し、そのまま西に至ると諏訪湖にぶつかる。偶然にしても興味深い事実だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪の日のお出かけ1  宝登山 蝋梅園

2008年02月06日 14時26分07秒 | 観光
 宝登山に着いたけれど、ロープウエイまでの道は凍結で通行止め。やれやれ。
 さんさんと雪の降る中、結構急な坂を歩いて登ってく。
 ロープウエイは動いていた。30分に1度の運行なのでしばらく待って乗る。
 箱根のロープウエイに比べれば全然怖くない。
 蠟梅園着。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スチームハンマー   横須賀ヴェルニー公園

2008年02月02日 11時46分08秒 | 観光
 横須賀には「諏訪」の地名が多い。
市内だけで4つの諏訪神社があり、あたりには諏訪小学校や諏訪公園など諏訪にまつわるものも多い。
 横須賀市立自然人文博物館で縄文時代の遺跡分布図(そこには「諏訪の上遺跡」もあった)を見てみる。ここもそうだ。
 前に東大和市立郷土博物館で同じような分布図を見た時に気づいたことだが、「諏訪」の分布と縄文遺跡の分布はなぜか重なるのだ。
 ぼくはいま安易に「諏訪」という言葉を使ってしまったが、諏訪信仰と言った方が正確だろう。それもぼくたちが知っている諏訪信仰ではなく、その下を流れるかなり古い信仰形態である。
 だが、今日は諏訪ではなく、横須賀。ぼくがここに来た一番の理由はスチームハンマー見物であった。
 ぼくが敬愛する人物の一人に幕末の勘定奉行小栗忠順がいる。
 彼の功績についてここに記すのは大変なので省くけれど、たとえば日本海軍がバルチック艦隊に勝てたのは彼のおかげであると思う。
 幕末期に外国から船を買う発想は誰にでもあった。だがドックを作って自分たちで船を造ったり、直したりする、その発想は小栗独特のものだ(勝海舟などは日本が造船所を作って経営するにはあと500年かかると放言していた)。しかも、小栗にとってドック建設は単に船だけの問題ではないのだ。ドックを作ってそこで日本人が働くことによって、人材が育ち、それまで日本になかった重工業が育つ。工業化の種子としてのドック建設のために奔走し、スチームハンマーを買い付けた。
 小栗の夢は今でも横須賀にあるのだ。


 小栗とフランス人技師ヴェルニーが中心になって作った旧横須賀造船所ドライドック。幕末に作られた施設だが、今でもほとんど当時のままドックとして使用されている。
 写真がなぜこんな隠し撮り風なのかと言うと、旧横須賀造船所は現在アメリカ海軍の施設なのであった。アメリカ海軍が迎え入れて写真を撮らせてくれるわけないので、隣接するシャッパーズプラザの屋上駐車場から金網越し。
 ドックに向かい合う形でフランス人技師ヴェルニーの名を取ったヴェルニー公園がある。


 アメリカ海軍や海上自衛隊の艦船を眺め、潮風を感じながらの、ボードウォークが楽しめる。実はぼくは軍艦好き。


 ヴェルニー公園の中にあるヴェルニー記念館。小栗の買い付けた3トンスチームハンマーと0.5トンスチームハンマーが展示してある(国の重要文化財)。この0.5トンは1971年まで、3トンの方はなんと1996年まで現役で使用されていたのだ。


 ヴェルニー公園には、ヴェルニーと小栗の胸像が飾られている。その胸像の後の記念石。この石は群馬県倉渕村から贈られたもので、なんの罪もない小栗が斬首された烏川水沼河原の石。
 たくさんのボランティアとおぼしき人々が公園の花壇で作業をしていた。
 春になると、きっとたくさんの花が咲く美しい公園になるんだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横須賀

2008年02月01日 00時58分14秒 | 観光
 「あんなアバズレのために死ぬなんて」としかめ面のまま郷田一尉が言った。「いや、死んだんじゃない、殺されたんだ、NSAのやつらに」
 「NSAが四文字じゃねえのが不思議だ」ベントン軍曹はそう言うと目一杯ドライにしたマティーニをあおる。
 「世界で一番勇気のある行動はどうしようもないアバズレのために死ぬことだ」昔読んだルーマニア人の本を思い出してぼくは言った。「誰もほめないような死に方をするには勇気が必要だ」

 アメリカ海軍と海上自衛隊とスカジャンを着た目つきの悪い情報屋が、犬の遠ぼえがかすかに聞こえる夜中に、1階がアイリッシュバーになってるホテルの一室で死んだ友だちのために一杯やっているのだ。
 横須賀とは、きっとそういう街なのだ。
 と、ものすごい思い込みで訪れた横須賀。
 ホテルの密室でどのようなことが行われているか、それはもとよりわからないけれど、見た目ではそんな感じの街ではなかった。
 海と急坂。
 海から離れれば、そこには大倉山シャンツェのような急坂が待ちかまえている。毎日の通勤・通学は、ほぼ罰ゲームに等しいのではないかと坂を登りながら考える。
 いや、違う。
 多摩川と江戸川に挟まれた区間にいる人間は坂に関してヤワなのだ。坂の甘ちゃんなのだ。
 せいぜい100メートル程度の急坂を胸突坂などと呼称してしまう。
 ここに来い。集え。胸突坂近辺の住人よ。
 胸突坂程度の坂など、ここでは名前さえつけてもらえない、ただのそんじょそこらの無名の坂だ。
 横須賀において坂とは、崖を上り下りするための手段なのだ。坂を選ぶかロッククライミングを選ぶか、横須賀市民は常にギリギリの選択を迫られた挙げ句、坂を選んでいるのである。
 しかも、横須賀の坂はまだ成長を続けている。今でも毎年数mm隆起しているのだ。
 横須賀市民の子孫はますます厳しくなっていく坂を糧に大きく羽ばたいていく。
 目の前にそびえる崖を見ながら、ぼくは、でも、横須賀には住めないなあ、と思ってしまったよ。

 写真は横須賀三笠公園に保存されている戦艦三笠。バルチック艦隊と戦った連合艦隊の旗艦であった。
 どの国に寄港していようと、軍艦は治外法権下に置かれる。手こぎボートでも、旭日旗を掲げるなど要件を満たせば軍艦として認められる(もちろん自衛隊所属の手こぎボートじゃなきゃだめだけど)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする