南千住をあとにして、日光街道を南下する。
その街道沿いにあるのが、円通寺。
坂上田村麻呂が開刹、源義家が再建したとされる。
ふたりとも東北に関係のある武将。
境内には東北の将48人の首を埋めた塚がある。
この塚がもとで、この界隈が小塚原と呼ばれたと言われる。
幕末、上野のお山にたてこもり戦死した彰義隊。その死体は「賊軍」のものだからと埋葬さえ許されず、放置されたままだった。それを見かねた円通寺の和尚さんが斬首覚悟で供養。やがて円通寺に埋葬供養が許された。
彰義隊隊士の墓。火葬場であった上野の墓とともに、どちらも彰義隊に深いゆかりの場所である。儲けになるどころか身の危険さえあったのに、あえて供養に赴いた円通寺の和尚さんは偉い。
彰義隊と西軍の激戦地にあった上野黒門。現在は円通寺に移築されている。
門には多くの弾痕があり、戦闘の激しさを物語っている。
そのまま、南に進み、ジョイフル三ノ輪へ。
都電の起点なのでらくらく座れるが、もちろん座ろうなどとは微塵も思わない。なにしろこの電車、平均年齢が異様に高いのである。座席全部を70代以上の老人に座らせてもなお立っている老人たちもいるのだ。この状況で座ろうなどとはよほど豪快な人間じゃなきゃ無理である。
その街道沿いにあるのが、円通寺。
坂上田村麻呂が開刹、源義家が再建したとされる。
ふたりとも東北に関係のある武将。
境内には東北の将48人の首を埋めた塚がある。
この塚がもとで、この界隈が小塚原と呼ばれたと言われる。
幕末、上野のお山にたてこもり戦死した彰義隊。その死体は「賊軍」のものだからと埋葬さえ許されず、放置されたままだった。それを見かねた円通寺の和尚さんが斬首覚悟で供養。やがて円通寺に埋葬供養が許された。
彰義隊隊士の墓。火葬場であった上野の墓とともに、どちらも彰義隊に深いゆかりの場所である。儲けになるどころか身の危険さえあったのに、あえて供養に赴いた円通寺の和尚さんは偉い。
彰義隊と西軍の激戦地にあった上野黒門。現在は円通寺に移築されている。
門には多くの弾痕があり、戦闘の激しさを物語っている。
そのまま、南に進み、ジョイフル三ノ輪へ。
都電の起点なのでらくらく座れるが、もちろん座ろうなどとは微塵も思わない。なにしろこの電車、平均年齢が異様に高いのである。座席全部を70代以上の老人に座らせてもなお立っている老人たちもいるのだ。この状況で座ろうなどとはよほど豪快な人間じゃなきゃ無理である。