毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

三ノ輪 円通寺

2008年04月30日 10時09分08秒 | 観光
 南千住をあとにして、日光街道を南下する。

 その街道沿いにあるのが、円通寺。

 坂上田村麻呂が開刹、源義家が再建したとされる。
 ふたりとも東北に関係のある武将。
 境内には東北の将48人の首を埋めた塚がある。

 この塚がもとで、この界隈が小塚原と呼ばれたと言われる。

 幕末、上野のお山にたてこもり戦死した彰義隊。その死体は「賊軍」のものだからと埋葬さえ許されず、放置されたままだった。それを見かねた円通寺の和尚さんが斬首覚悟で供養。やがて円通寺に埋葬供養が許された。

 彰義隊隊士の墓。火葬場であった上野の墓とともに、どちらも彰義隊に深いゆかりの場所である。儲けになるどころか身の危険さえあったのに、あえて供養に赴いた円通寺の和尚さんは偉い。

 彰義隊と西軍の激戦地にあった上野黒門。現在は円通寺に移築されている。
 門には多くの弾痕があり、戦闘の激しさを物語っている。


 そのまま、南に進み、ジョイフル三ノ輪へ。
 都電の起点なのでらくらく座れるが、もちろん座ろうなどとは微塵も思わない。なにしろこの電車、平均年齢が異様に高いのである。座席全部を70代以上の老人に座らせてもなお立っている老人たちもいるのだ。この状況で座ろうなどとはよほど豪快な人間じゃなきゃ無理である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

街でいちばんの首つりの木

2008年04月29日 22時48分54秒 | 写真


 20代の頃、電車に乗って北フランスを旅していたとき、車窓から、木に人がぶら下がっているのを見つけたことがある。それは大層絵的に決まっていて、ぼくは寒々とした景色の中の首つりに大変感心した覚えがある(いや、感心じゃなく、通報だろ、その場合、というツッコミも今にして思えば)。
 それからしばらくたって、30代になったとき、ロンドンからパリまで電車で行く途中、もう一度、その首つりに出会った。
 作り物なのか、それは。それとも旅の疲れで見た錯覚なのか。
 今となってはわからない。でも、まるでビヤンブニュと言わんばかりに、首つりの死体はナイスなパフォーマンスを見せてくれたのだった(いや、まあ、動かないでいるだけだったのだが)。
 あれ以来、ぼくは木を見るとついつい首つりを思い起こしてしまう。
 もちろん、いつもじゃない。木を見るたびに首つりを思っていたら、街を歩いていても10メートルごとに首つりを妄想しなくてはならない。まあ、たいてい、心が折れ曲がっているときなんだけれど。
 でも、うーん、全体的に悪くないんだけど、首をくくるにゃ枝振りがイマイチだとか。そんなことを思ったりする。木からすれば余計なお世話である。
 おまけに自殺願望などというものがまるでないぼくは、自分が首をつる姿を想像するんじゃなく、あくまでその木にぶらさがってる首つりを観察する傍観者の立場。おいおい、である。心の折れ方が足りないだろうとも思う。
 そんな中、久しぶりに木を見て首つりを思った。
 ちょっとプライヴェートでいろいろあって、心が北方の病って感じがしたこの頃。春なのに。いや、もうすぐそこに初夏が顔をのぞかせているのに。
 季節と心と時差があるみたいだけれど、いつかそのうち心にも春の風が吹くだろう。
 と日記には書いておこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田島ヶ原サクラソウ自生地

2008年04月28日 16時02分46秒 | 観光


 JR浦和駅西口から志木東口行きのバスに乗って「さくら草公園前」で下車。
 ここはさくら草公園にある「田島ヶ原サクラソウ自生地」。
 先週20日にはサクラソウ祭なども開かれたようで、今が見頃らしいと聞いたわたくし、さっそく行って参りました(ぼくの場合は自転車で)。
 写真をご覧になって、ハテ、どこにサクラソウか? と思われたみなさん。わたくしもみなさん同様、あれ? サクラソウって? と思いました。
 実は周囲にアシなどがはえ、背の低いサクラソウはそれにかくれがち。なんとも地味な存在でありました。


 こんな感じに隠れて咲いている。
 したがって、同じ時期に見頃を迎える芝桜なんかを想像して出かけると裏切られたような気分さえする、そんな殺伐とした田島ヶ原なのである。
 しかし。
 しかし、だ。なにもかも人の手によって整備して見栄えがよければそれでいいわけではない。ここのポイントは自生しているという点。大都市近郊にこうして自生しているのは世界的にも珍しいとのこと。国の特別天然記念物に指定されている。
 それにこのアシがおいしげることによって、夏の照りつける太陽や乾燥から守ってもらえるのである。自生とは、だから、このアシなんかとワンセットなのだ。


 自生している区域は立ち入り禁止。こうして柵の張られた間を散歩する。そして、ときおりサクラソウの群生を見つける、そんな案配でサクラソウは鑑賞すべきなのであった。


 しかし、よく見れば、これはなかなか可憐で美しいのである。


 確かにひまわりのような強さはないが、すべての花がひまわりのように強くなければならないわけではない。このような可憐で美しい花も、なんだかとてもいいものだ。
 そして、ほかの植物と共生していく中で1年のサイクルを遂げる生命に触れるというのも、感慨深いものがある。


 ここらへんに自生している子どもたち(なんだ、そりゃ)。
 遠足に来たらしく、わいわいと楽しそうであった。


 水門もサクラソウ。
 公園には無料駐車場もあるので、車で来てもOK。
 花自体は咲いているけれど、アシがどんどん大きくなって見えにくくなるので、見頃は今がラストチャンスかもしれない。
 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南千住

2008年04月25日 10時48分51秒 | 観光
 生まれて初めて乗った常磐線。座席は向かい合わせの4人がけ。旅っぽいのだけれど、普通の通勤、通学電車でもある。初めての電車にはしゃいで、「おお、トイレもついてる!」って、用もないのにトイレにも行ってみたりする(ばか)。
 天気がいま一つよくないせいか、窓からの景色がくすんで見える。いや、天気のせいだけじゃないかもしれない。確かに山手線からの景色とは違う。日暮里からちょっと乗っただけなのに、なんだか別世界だ。
 ある国じゃこんなことを言うらしい。
「山と山とは出会わないが、人と人とは出会う」
 でも、出会うのは人だけじゃない。街と街とは出会わないが、人と街とは出会う。
 そして、ぼくは南千住という東京にありながらどことなく地方都市を思わせる街と出会ったのだ。


 なぜ地方都市っぽいのか。それはこの街が新しいからだと思う。巨大なショッピングモールやファーストフード、チェーンのレストランなどができて、駅前がやたら明るく新しい。ここもそう。公衆便所の前はドナウ広場だって。


 全てが人工的で新しくて小ぎれい。たとえそこに現れるのがダボダボのジャージを着たヤンキーみたいな姉ちゃんや兄ちゃんだったとしても、だ。
 新しいからどこもきれいで、新しいからどこも薄っぺらな街。

 でも、駅の反対側に行ってみたら、まるで違う景色がそこにあった。


 小塚原刑場跡近くの路地。
 自転車で遠くへ旅して、こんな旅館に泊まってみたいものだ(もっとも、この旅館はたぶん旅する人のためのものじゃないだろう、地理的にも)。できたら、海辺にこんな旅館があったらいい。部屋はきれいじゃないんだけれど、夕飯には土地のものじゃなきゃ食べられないような魚が出たりしたらいいなと、妄想をそそる旅館、だ。


 仲通り商店街は活気があったものの、それよりずいぶん広いコツ通り商店街は元気がない。南千住は刑場があったので、そこの花街はコツと呼ばれていた。落語の「今戸の狐」にもコツのかみさんって出てくる。歴史を感じさせる通りなのだが、残念だ。しかし、一歩入った仲通商店街は元気いっぱい。用もなく、店の前で立ち話している人たちがいるって景色がいい。



 コツ通りを日光街道へ出るとその交差点にあるのが、素戔雄神社。素戔嗚尊を祀っている、要するに天王さんだ。明治になるまでわれわれ日本人にとって「てんのう」とは「天王」であり、「天皇」ではなかった。
 この神社は、なんだか居心地のいい神社で、参拝していると気持ちがいい。


 神社の縁起になった瑞光石。横に浅間神社があるところを見ると、後ろの小山は富士山に擬されたものだろう。富士講ばかりでなく、横には青面金剛などもあるので、庚申講も行われていたことがわかる。つまり、あたり一面の人々の信仰を古くから集めていたわけだ。それもなんだか理解できる気がする。
 小塚原の刑場には風鈴が風に揺られていた。どこかもの悲しい響きに人々の歩んできた歴史やその歴史に伴う悲劇、人間のはかなさなんかが感じられ、それがそのまま南千住という街の奥深さにつながっているような気がした。
 駅の反対側にはなじめないけれど、こちら側の南千住はいい街だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小栗忠順展 明治大学博物館

2008年04月24日 09時25分28秒 | 観光
 群馬というと、かかあ天下に空っ風、そして義侠心が有名らしい。
 江戸末期、役職を解かれ、知行地である群馬に向かった一家があった。そこは別に彼の故郷であるわけではない。彼は江戸生まれの江戸育ち。群馬の権田村(現倉渕村)の人々はその一家を大切に扱った。
 彼と息子、家来がその後罪もなく、取り調べすらなく斬首されると、会津へ脱出する未亡人などを護るために、村人たちが護衛隊を作ってずっと付き添った。途中、金策のために数人が戻ったり、薩長と戦って死亡者が出たりなどしながら、会津から江戸、江戸から徳川家が移封された静岡まで苦労を重ねて送り届け、乞食同然の姿で村に戻ったのだ。無償の行為であった。
 倉渕村の人々は、今でもその小栗忠順を大切にしている。彼らは小栗忠順や息子、家人のために毎年小栗祭を行い、また、彼の業績をたたえた展示物を作り、人々に伝えている。かかあ天下に空っ風は知らないが、その義侠心には頭が下がる。
 今回、東京で初めての「小栗忠順展」は、その展示物を用いての開催である。


 撮影禁止なので、内部の写真はないが、よくまとめられた展示であり、彼の業績がよくわかるようになっている。ただ全部を展示できないので、会期を2回に分けて、前期が生涯、後期が渡米使節となっている。
 ぼくも小栗忠順を敬愛し、こないだ横須賀に行ったのも、もちろん小栗忠順散歩のためだった。

 小栗忠順については東善寺のこのページが詳しい。今年は倉渕村の小栗祭にも参加したいものである。

 さて、明治大学博物館はこれはなかなか面白いところなのであった。常設展だけでも行く価値はある。


 明治大学と言えば、考古学が有名だ。岩宿遺跡も発見者の相沢さんとともに発掘にあたったり、諏訪方面の発掘でもリーダーシップをとっている。
 明治大学黒曜石研究センターなんてマニア好みの施設もある。
 去年諏訪に行った時、神長官家でミシャグチ神の本拠みたいな社殿を見た。本拠なんだけれど、ものすごく小さい。そこに何気なく黒曜石が置かれているのを見て、ああ、縄文だと感心したものだ。こないだ行った奥多摩の博物館にも和田峠の黒曜石があった。
 


 明治大学というともう一つ。刑法博物館が有名だった。それを受け継いでの展示。これは鉄の処女。中に人を入れ、ガチャンと閉めるわけですね。他にもギロチンや貞操帯、本物の磔写真、獄門写真など、おー、と思うものがたくさん。
 貞操帯というと、女性が浮気しないようにつけるものというイメージがあるが、あれは嘘らしい。本当は女性に対する虐待、拷問用に使われたものだとのこと。
 他にも明治初期の絞首刑方法など、ほほう、と思うようなものが多く、面白い。
 縄文、刑罰だけじゃなく、さまざまな展示があって、なかなか楽しめるところ。場所も丸ノ内線・総武線のお茶の水からすぐそばなので、お近くの方はぜひどうぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥多摩リベンジ3 松姫峠の罠

2008年04月23日 09時42分41秒 | 観光
 小菅村の集落を後にし、まあ、とりあえず行ってみるかと先へ進んだものの、それが大きな間違いであることに気付いたときには後の祭りだった。まあ、よくある話である。
 先に進むには松姫峠という峠を越えなければならない。これが思ったよりも急で、かつ長い。見通しが甘かったのである。
 次に、補給の失敗。水分だけは新しく買ったが、先ほどお昼にコーンラーメンを食べただけでその後の補給場所がまったくなかった。
 しかし、それ以上に最悪の事態を招いたのは、山の天気は変わりやすい、ということだった。

 小菅村を通っているとき、何度かポツポツと小雨が降ったのだが、峠にさしかかると今度はちゃんとした雨になってしまった。雨宿りできるようなところはどこにもない。雨に打たれながら坂を登る。サイクルジャージの上に薄いアップを着る(今回はそれと下のジャージしか持参していないのだ。気象庁が晴れだって言ったし、暖かいと言ったから)。全然なんのたしにもならない。
 この坂を登るという作業はとてつもなく疲れる作業で、あっという間に備蓄されてた炭水化物が枯渇してしまった。
 登坂によるカロリー消費と雨による寒さで、次第に頭がぼうっとしてくる。あとどれだけ登ったら峠に着くのかさえわからない。寒くて寒くてたまらない。なんというか、生命の危機的な寒さなのである。
 ついに足をついてしまう。
 なんだか眠くなってきた。
 はあはあと荒い息をしながら、ふと気付く。
 携帯が圏外のところで、寒くて、ひもじくて、ふらふらになって、眠いんだよな。
 それって、言ってみりゃ、遭難だろ?
 うちを出て127km。山ん中でもう、どうにもならなくなってしまった。
 しばらく休む。
 週末のプチ家出って聞いたことあるが、週末のプチ遭難。
 うーん、それにしても、マイルドではあるが、遭難感を味わえることってなかなかないよなあ、となぜかうきうきと前向きな気分になってくる。なんだか「遭難」という言葉が出たことによって全身の細胞が活性化してきた感じがする。雨で濡れた髪の毛からくしゃくしゃと水を飛ばし、また上り始めた。寒さとひもじさはどうにもならないけれど、脚はまだどうにでもなる(と思いたいのだ、ここんとこは)。


 急坂に置かれた馬頭観音。
 前に読んだ本を思い出した。山道に置かれた馬頭観音についてそこにはこんな風に書いてあった。

「村の中、特に山の中には時空の裂け目のようなものがある。それをこの世とあの世を継ぐ裂け目といってもよいし、霊界と結ぶ裂け目、神の世界をのぞく裂け目といってもよい。異次元と結ぶ裂け目である。この裂け目は人間にはみえないが、動物にはわかる。そしてこの裂け目は誰かが命を投げ出さないと埋まらない。埋まらないかぎり永遠に口を開けていて、その裂け目に陥ちた者は命を落とす。
旅の途中で馬はこの裂け目をみつける。ここで誰かが死ぬだろう。それは自分とともに生きてきた飼い主であるのかもしれない。そう思ってみると、先を行く飼い主は、いまにも陥ちそうである。自分が犠牲になって飼い主を助けよう。そう思った馬は自らその裂け目にとび込む。
馬が山で死ぬ場所はそういうところだ、とこの村人は言う」(内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」)

 旅をするってことには、そうした裂け目を遍歴することも含まれるのだろう。この「裂け目」が聖なる場所として名所になっているところも多いだろうし。だいたい、坂だの、橋だのってやつは、あちらとこちらを結ぶ裂け目なのだ、もとから。夢幻能も橋懸かりからこの世のものでないものが出現する。

 午後4時半。松姫峠着。

 武田家滅亡の際、八王子に逃れる松姫が通ったとされる峠。今回は雨と薄着と補給に失敗したけれど、次回はもうちょっとスイスイ登れる気がする。
 この峠が小菅村と大月市との境になっているので、ここで小菅村とお別れ。短い間だったけれど、小菅村は好印象。


 峠に着いた瞬間、雨があがり、日が差し込んできた。ぼくが霊的な人間だったら、なんかその偶然を深読みしちゃうんだろうが、あいにくぼくは疎いのだ。ただこの景色が美しかったので、なんだか得しちゃった気がしただけだ。


 今度は向こうに見える道の先の先までずっと下り。いつもならワクワクなのだが、今日に限っては辛い。下りが寒くてたまらない。松姫峠、標高1250m。ただでさえ寒いのだ。いや、ほんと寒い。濡れている体に風がしみる。


 大月駅着。平地になったら、寒さは吹き飛んでしまった。やはり高いところは寒いのだ。山を甘く考えてはいけなかった。走行距離160kmはそれほどの距離ではないが、寒さの中での山越しがきつかった。右下にちょこんと置かれているのが、輪行袋に入った自転車。
 こうして「山梨チャレンジ2008いい日旅立ち」は、午後6時38分発の八王子行きの電車に乗って終了した(いや、家に着くまでが~、という意見もあろうが)。来週は少し甘やかな自転車旅をしようと思う。
 ちなみに翌日は筋肉に違和感。1年間いろんなところを走ったけれど、翌日まで違和感が残ったのは初めてでありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥多摩リベンジ2 初めまして、山梨県

2008年04月22日 07時41分57秒 | 観光
 奥多摩駅を横目で眺め、そのまま奥多摩湖へ向かう。
 奥多摩湖、なめてかかったら、ずっと上り基調で結構辛い。おまけにトンネルが多い。狭いトンネルはここんとこの雨のせいか全部水浸し。ここを車と同じ車線で走らなければならない。おまけにトンネルの中まで上りなのだ。とても気の滅入る作業である。左ぎりぎりによけると、ところどころ砂が積もっていてバランスを崩しそうになる。ここでバランスを崩すと車にひかれて、たとえば手が普段決して見かけない方向を向いたりするのでブルー。


 奥多摩湖着。
 「水と緑のふれあい館」に入ってみる。ちょうどマリンバとソプラノのコンサートをやっていた。あたりはハイキング姿の人たちでいっぱい。このときのぼくの姿は、半袖のサイクルジャージ(ランプレの派手なやつ)、アームウォーマー、膝上のレーパン。脚なんか出している人はいない。ぼく一人だけ異様に露出度が高いのである。見ただけじゃわからないが、おまけにぼくはノーパン。ひとりやんわりとした変態が混ざっている情景になってしまっている(ノーパンはね、別にぼくの趣味じゃない。自転車用のレーパンはノーパンではくもんなんですよ。そうしないと、パンツの縫い目がお尻にこすれて痛くなってしまうから)。
 なわけで人でごった返しているロビーコンサートは遠慮して、展示を見る。最初の縄文の展示が面白かった。ここからも糸魚川の翡翠、長野の和田峠や神津島の黒曜石が出土している。縄文の交易範囲も広いのである。
 奥多摩湖周遊道路を通り、奥多摩湖に別れを告げ、国道139号線へ。
 しばらく走るとそこは山梨県。


 山梨のみなさん、初めまして。やって参りました。小菅村。
 この小菅村、実に来訪者に対してウェルカムな村で、至る所に大きな道案内、観光案内があって、地図も持たない(そもそもそれダメだろ)旅行者は大変助かったのである。できたらここで一泊したいものだ。


 山梨は今が桜満開。今年はおかげで東京、奥多摩、山梨と長い間桜を楽しむことができた。
 問題はこれからの身の振り方。奥多摩まで戻るのが一番賢明なのはわかる。安全だし、来た道なので先もわかっているし。しかし、先の分かっている道はつまらないのである。おまけにあのトンネル群は憂鬱。
 戻らずにこの先へ行ってしまおうか。一瞬そんなことを思う。いや、目的は一応達したし、奥多摩まで戻っても120kmほどのサイクリングになるんだから充分だろう。だいたいこの先どうなっているか詳しいことはわからないけれど、厳しい上りであることだけは確かなのだから。
 うーん。
 よし。まだ早いし、行けるところまで行ってみよう。
 これが間違いだったのだ。自転車を買って1年。この選択によって、今までで最大、最悪のピンチを迎えることになった。


 小菅村の桜と鯉のぼり。見事な風景でありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥多摩リベンジ1

2008年04月21日 11時57分13秒 | 観光
 先々週の日曜日、奥多摩に行った。荒川サイクリングロード、入間川サイクリングロードを使って遠回りしたので奥多摩駅まで100km走ることになった。でも、正直企画としてぬるいという自覚もあった。途中観光したものの、奥多摩湖すら行かずに日和るとは。
 そんなわけで奥多摩リベンジ。
 今回のミッションのターゲットは「山梨」である。
 東京から自転車でいろんなところに行った。隣接する埼玉、千葉、神奈川はもちろん、直接隣接しない群馬や栃木、茨城も自転車で行っている。しかし、東京にはもう一つ隣接する県がある。
 それが山梨。しかし、他の県が平地でつながっているのに対し、山梨は(なんかもうダジャレみたいでこちらも辛いのだが)、山でつながっている。山梨は、そちらの住人には大変申し訳ないので、ここに伏してお詫び申し上げておくが、ぼくにとって関東に残された山向こうの唯一の秘境なのである。
 そこで今回は、とにかく山梨まで行ってみよう、走ってみよう、が目標となる。
 したがって、近道をする。わざわざ荒川や入間川を使ったりはしない。
 朝7時20分出発。朝ご飯はプロテインとフルーツヨーグルト。どうせ道々食べながらの道中である。
 飯田橋、市ヶ谷を経て、新宿着。眠らない街新宿も日曜日の朝7時45分には高いびきをかいている。西新宿の街が死んでる。人通りが少ない。しかし、時折目の焦点の合ってないヤツがふらふら歩いているのが新宿らしいって言やあ新宿らしい。
 20号線を多摩川に向けてひた走る。そう、今日は多摩川サイクリングロードを羽村まで北上、そこから青梅、奥多摩を目指すコースをとろうと思う。ときどき物凄い逆風に涙があふれる。涙が出ると一瞬視界が悪くなるので、車と併走する国道はおっかないのだ。20号線を走っていると甲府の看板を見かけた。そう、何も奥多摩から山越えしなくても、ベタに走ってりゃいいんじゃないか、と。でも、それもつまんなそうだしなあ。結局、仕事じゃないんだから、結果を残すのが目的じゃなく、過程が面白いことが第一、とやはり奥多摩を目指すことにする。
 固い決意を胸にしばらく走って、よし、このあたりを曲がれば多摩川だろう、と曲がったところが間違っていた。20号線から早く逃げたくて曲がったもんだから少し早かったのだ。しばらくすると目印の調布駅ではなく、国領駅に出てしまった。今んなりゃ、それが早かったことがわかるのだが、走っているときにはそれが早かったのか、遅かったのかすらわからなかったのだ。
 そう、ぼくは私鉄を知らない。だいたい山手線の内側に生まれ育って今でもそこに住んでいる人間にとって、色恋でもなければ私鉄沿線など用事はあまりないのだ。だから、京王線の国領駅から走り回って、今度は小田急線の狛江駅に出たときには、いったい自分がどこにいるのか、そして多摩川はどこらへんを流れているのかまったく見当がつかなくなってしまっていた。
 それでもあちこち走り回っているうちに多摩川に出てしまうんだから、ぼくの方向感覚もなかなかのもんである(本当になかなかなら、最初から迷わない)。新宿から約1時間で多摩川着。

 多摩ナイアガラの滝(たったいま命名)。それぞれの川にはそれぞれの趣があっていいね。
 90分ほど走ってお腹が空いたので、いったん多摩川を離れ、街に出る。ここは福生。どこか食事のできるところがないか探すのだが、コンビニとドラッグストアしかない。コンビニと薬。ここらへんの住人の食生活が心配になってしまう。この日はとにかく風が強いので、外でお弁当というのもあまり楽しくなさそうだ。
 しばらく走ってようやくみつけたのが、あ~あ、山田うどん。いや、別に山田うどんに文句あるわけじゃないんだけれどね。荒川んときと変わらないから、これじゃ。
 それでも山田うどん、食べて、また多摩川を北上。羽村でしばらく道に迷ったあと、滝山街道に出て青梅へ。

 自転車、歩行者が通る旧道のトンネル。なかなか風情があるのだが、ぼくは基本的にトンネルが怖い。
 ここで雨がポツポツ降ってくる。
 御岳着。まださっき食べてから2時間たってないのだけれど、雨が寒くて東峯園ってとこでコーンラーメンを食べる。

 御岳の橋から多摩川を見下ろす。カヌーが楽しそうだ。奥多摩はもうすぐ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ/目玉の話」

2008年04月18日 13時55分41秒 | 読書
ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ/目玉の話」中条省平訳  光文社古典新訳文庫


 素晴らしい翻訳。
 しかし、この読みやすい日本語でバタイユと初めて接する人は要注意だ。日本語は読みやすいが、バタイユは読みやすくない。この読みやすい日本語の罠にはまって「マダム・エドワルダ」を小説、それもポルノ小説だと思って読むと、期待はずれな結果に終わるだろう。アロイジウス・ベルトランの「夜のガスパール」を読むときと同じ姿勢で、つまり、これは散文ではあるが、小説ではなく、詩なのだと思って読むと、本も読者もお互い幸せな関係を持てるかもしれない。
 散文詩なのだからストーリーは別にどうでもいい。あえて言えば、売春宿で出会った娼婦と夜の街をさまよって、タクシーに乗って、タクシー運転手も交えてどうのこうの、というストーリーになる。ストーリーになるが、ならなくてもいいのである。

「私の不安がついに絶対の至高者となった。死んだ私の至高性は街をさまよう。
 とらえがたい―――至高性は、墓の沈黙に包まれ―――恐るべきものを待ちつつ身をひそめ―――しかし、その悲しみはすべてをせせら笑う」

 この本に接する際、この文章をどういうものか考えるか、単にすけべの言い訳に小難しいことならべやがって、と考えるか、読者の態度によってこの本が表す姿は一様ではない。
 この本を読んでいて、強く思ったのはモーリス・ブランショとマルグリット・デュラスのことだった。この二人の小説。不在という中心。彼らの小説に共通する小説的レアリテは、不在という中心に照らされたレアリテであり、われわれの考える現実を真裏にひっくり返したものなのである。中心が不在であり、存在はその不在によって露わになるという概念が「マダム・エドワルダ」にも貫かれている。

「彼女は黒く、なんの飾り気もなく、穴のように不安をかきたてた。笑ってはいなかったし、それどころか、彼女を覆う衣の下に、もはや彼女が存在しないことさえ私ははっきりと悟ったのだ。そのとき―――私のなかの酔いは完全に醒めはてて―――「彼女」が嘘をついていなかったこと、「彼女」が神であることを知った。彼女の存在は石のように理解できない単純さをもっていた。街の真っ只中にいながら、私は自分が山のなかで夜と化し、生命のない孤独に包まれている気がした」(「マダム・エドワルダ」)

「そして、女が立ちどまったとき、どんな笑いともかけ離れた彼方で、彼女がいわば不在のなかで宙吊りになると分かっていたのだ。もう彼女のすがたは見えなかった。死の暗闇が円天井から落ちている。まったく思ってもみなかったことなのに、断末魔の時が始まっていることを私は「知っていた」。私は苦しみを受けいれ、苦しみたいと思い、もっと先まで行きたい、うち殺されてもいいから、「空虚」のなかにまで行きたいと願った。私は知っていた、知りたかった、彼女の秘密を知りたいとじりじりしながら、彼女のなかで死が猛威をふるっていることを一瞬たりとも疑わなかった」(「マダム・エドワルダ」)


 愛の対象に彼が感じるものは、不在や死、空虚や穴なのだ。
 エドワルダという愛の対象に接すれば接するほど、彼女の中にある死や空虚に近づいていく。存在が不在によって露わになるように、彼の逆説は、つまり、生は死によってしか意味を持ち得ないことにある。ここに彼のエロティシズム論があるのだ。
 この小説を読む上で、エドワルダに対する代名詞の使い分けに注意するとより面白く読めるはずだ。「エドワルダ」なのか、「女」なのか、「彼女」なのか。

 「マダム・エドワルダ」がほとんど散文詩なのに対して、同じ文庫本に所収の「目玉の話」の方がより小説らしいといやあ小説らしい。
 この話の中で主人公たちを興奮させるエロティックなことは、決して「ベッドのなかで、家庭の主婦みたいにやるなんて」ことじゃない。

「私は「肉の快楽」と呼ばれるものが好きではないのです。だって、味もそっけもないのですから。私が好むのは、人びとが「汚らわしい」と思うものです」(「目玉の話」)
「私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです………」(「目玉の話」)


 宇宙を汚すだなんて、アモラルな話だと憤慨してはいけない。汚らわしいものや放蕩によって宇宙を汚したいということは、逆に、それらによって宇宙と触れ合うことができるということなのだ。コスモスから切り離された人間という存在が、放蕩の果てに再びコスモスにまみえることができる(D.H.ロレンスの言うコスモスを思い起こしていただければ幸いです)。
 主人公たちが魅了される放蕩や快楽とは、向こう側に宇宙を感じることができる放蕩であったり、快楽であったりするわけで、決して性欲がどうのこうのという話ではないのである。
 彼らの放蕩や快楽のキーは「汚れ」(「汚らわしい」という用法からして、訳者はこれを「けがれ」と読ませたいのだろう)だ。「汚れ」は、二つの世界にまたがる両義性や、日常を脅かす力を持っている。
 バタイユの言うエロティシズムや「汚れ」は、生と死、分断された宇宙の連続性の復活に密接に関わっているのだ。

 P.S.「目玉の話」というタイトルも訳者あとがきにいろいろあったが、有効だと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の旅 最終篇  鎌倉サイクリング

2008年04月15日 09時08分43秒 | 観光
 大谷に行った次の日、今度は同じ路線を南に。
 大船で乗り換えて、桜の鎌倉へ。
 ここでもママチャリを借りて出発。宇都宮と比べ、かなり割高なレンタサイクル(宇都宮が安すぎるのかも)。
 今回、鎌倉を走ってみてわかったのだけれど、鶴岡八幡宮から海に伸びている若宮大路の西はとても観光地(それ日本語としてOK?)なのだけれど、東は雰囲気のいい住宅地&寺。海辺の道は若宮大路から西は観光用かちゃんと整備されているのだが、東はだめ。その代わり東は観光客が皆無で走りやすい。一長一短である。
 まずはその若宮大路を通って海へ。ここから整備された歩道を西に行く。
 海を左に自転車をこぐ。青春してるなあ、湘南だし、若大将だなあ。


 稲村ヶ崎から、江ノ島を眺める。いいじゃん、いいじゃん。
 性根の座ったサーファーならともかく、関東近県の一般人にとって、人生において湘南度が最大になるのは学生時代だと思う。とりあえず交際相手ができたら湘南、できなきゃ見つけに湘南。学生時代、湘南には、そんな盛りのついたオス・メスの集う、まるでオットセイの盛り場みたいなイメージがどうしてもつきまとっていた。当時、学生のくせに学生が嫌いだった、まるでおっとせいのきらひなおっとせいのようだったぼくは、湘南には来ず、海と言えば九十九里か大洗だったのだ。
 にきびが消えた今となっては、湘南もいいじゃないですか、と思うのだ。若い内にいろんな無茶やっとけ、若人よ、と(でも、コーラで洗ってもどうにもなんないこともあるんだよ)。


 海から離れ、極楽寺、御霊神社へ。途中江ノ電と遭遇。


 御霊神社。花がきれいな神社でありました。


 今度は若宮大路を渡り、その東側の住宅街へ。
 観光客はほとんどおらず、地域の人々の憩いの場になっていた。
 ここ光明寺は、桜なども美しいが、中にある石庭もなかなか。拝観料などは一切なしのフレンドリーなお寺。境内では近所の人たちなのか、子連れでお花見をしているお母さんたちでにぎわっていた。


 若宮大路の狛犬くん。
 青空をバックに、こんな風にほほえまれるとたいていのことはオッケーになってしまう。
 湘南新宿ラインの北と南。ママチャリでのんびり走るのもたまにはいいもんである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諏訪への旅3

2008年04月11日 09時28分25秒 | 観光


 銅鐸は古い。
 そんなことは当たり前だ。
 だが、古いのは出土した銅鐸だけではない。「銅鐸」という言葉そのものもほかの考古学用語に比べて格段に古いのだ。たとえば貝塚、あるいは縄文、弥生。これらの言葉はすべて明治になってつけられた名前だ。それに対して、銅鐸は違う。
 「銅鐸」という言葉が最初に現れるのは、天智天皇7年「扶桑略記」、ここに「銅鐸」が発見された、とある。問題は、しかし、その扱いだ。
 白い雉が出たから白雉と改元、秩父で銅が発見されたから和銅と改元する瑞祥好みの当時、銅鐸の発見は明らかに大きな出来事だったはずだ。にも関わらず、記紀の「天智天皇」の項にその記述はない。
 銅鐸がほかの遺物と違うのは名前だけではない。
 かつて考古学者によって掘りだされた銅鐸は一つもなかった。銅鐸は、遺跡とは別の山の斜面に隠すかのように埋められていたのだ。だから銅鐸を発見しようとフィールドに立つ考古学者いない、と藤森栄一は言った。

 そして翡翠がある時代を境に忽然と姿を消したのと同じように、銅鐸もまたある時期を境に作られなくなり、使われなくなったのだ。
 さらに時を経ると、たまたま出てきた銅鐸に対して記紀は固く口を閉ざし無視することさえした。少なくとも天智朝期に銅鐸は瑞祥ではなかった。
 天の岩戸に関して記紀には出てこない記述が「古語拾遺」にはある。天目一箇神が作って、天鈿女命が持った鉾についた鐸が活躍するくだりだ。天目一箇神は忌部氏、天鈿女命は猿女氏、どちらも中臣氏とともに朝廷の祭祀をつかさどる氏族であった。
 鐸は猿女氏や忌部氏の持つ古い信仰の形態を示しているのではないだろうか。そして猿女氏、忌部氏の凋落とともに、鐸は、遺跡としてではなく、地下に隠匿され、古い信仰は消えた。伝世品が一つもないことも銅鐸の特徴だ。そして、世は中臣氏のものとなり、昭和・平成にいたっても宰相を生み出す家系となった。
 ただ一カ所の例外をのぞいて。
 それが諏訪だ。
 諏訪には中世にいたるまで古代からの信仰がほぼ形そのままに生き残っていた。諏訪の鐸は特別な信仰の形を今に伝えている。


 写真は、諏訪の神長官資料館に伝わるさなぎの鈴(鉄鐸)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の旅3

2008年04月10日 09時57分16秒 | 観光
 そんなわけで池袋から湘南新宿ラインに乗ってぼくは宇都宮に行ったのだ。目的は大谷。
 「茄子 スーツケースの渡り鳥」を見て、あの千手観音に一目惚れしてしまったのだ。アニメではなく、実物を見たい。一目あなたに会いたくて北行きの電車に乗ってしまうなんて、スピリチュアル、というより演歌か。
 宇都宮駅でレンタサイクルを借りる。市がやってるレンタサイクルで1日100円、という格安なもの。久しぶりに乗るママチャリ。おお。商店のウィンドウに映る自分の姿を見て驚く。なんという後ろ重心の緊張感のなさ。ちょっとそこのパチンコ屋まで自転車こいでくおっさんである。サドルをいっぱいいっぱいまで上げてなんとか形をつくる。考えてみればいつもはハンドルよりもサドルの方が高い自転車に乗っているんだから、違和感があるのは当たり前である。
 概して街を行くママチャリはみなサドルが異様に低い。サドルが低いからこぎ脚は自然がに股になってしまう。
 まずは宇都宮二荒神社へ。


 ぼくが行った頃はまだ桜は咲いておらず、梅が美しかった。
 この裏に百目鬼通りがある。行ってみたが、普通の飲み屋さん通りで、かつてここで藤原秀郷が百目鬼という鬼を退治した面影はもちろんない。将門公びいきのぼくは、どことなく百目鬼に同情してしまう部分もなきにしもあらず。鬼だの土蜘蛛だのといった調伏させられる存在は往々にしてまつろわぬ民であったりすることだし。
 さ、宇都宮駅から大谷まで10kmたらず。微々たる距離なのだが、往復20kmはママチャリにとっては多少辛いところ。おまけにGパンをはいてきてしまったという取り返しのつかないミスを犯して、これがお尻に暴力的圧迫を加える。

 大谷に入ると風景が変わる。建物の多くが石造りになり、いたるところから奇岩が顔をのぞかせるようになる。大谷、石の町、と心でつぶやく。
 大谷公園着。

 写真名「広場の孤独」。ヴィヴァ堀田善衛。
 道路から公園に入ろうとすると天狗の投げ石など、奇岩が続く。この公園の壁面に平和観音が彫られている。


 太平洋戦争で亡くなった人々の慰霊のために彫られたもの。階段があり、肩のあたりまで登ることができる。


 平和観音に登ってみると廃墟が見えた。このあたりの廃墟はただの廃墟じゃない。岩と建物が一体となって、迫力のある廃墟を形作っている。すごい。足尾をちょいと思い出すが、あそこには岩がなかった(その代わり、ここにはない、縦横に張り巡らされたおびただしいパイプがまた格別の趣を廃墟に添えていたことを言っておかなくてはならないだろう)。


 いよいよ大谷観音である。カンボジアの遺跡に生えたバオバブの木のように建物を岩が浸食しているみたいだが、事実は逆だ。千手観音や三尊像などを彫った岩を建物が覆っているのである。つまり、この岩肌に直接彫られているのだ。
 一歩足を踏み入れ、対面した途端、ほおお、と声がもれてしまった。センサーで探知しているのか、機械から女性の声で「弘法大師がお彫りになられたとの~」などなど説明が延々と続く。
 うるさい。
 静かに仏さんと対面していたいのに、うるさいのだ。
 機械の説明が終わり、静かにたたずむ。撮影禁止なのでここに載せることができなくて残念なのだが、これは是非一度見て頂きたいものだ。
 千手観音も見事だけれど、横に3つ並んでいる三尊像もまたいい。だがここも説明が流れる。説明自体は興味深い内容なので、紙に書いて渡してくれるとすごく嬉しい。


 ついでに大谷石資料館にも立ち寄る。
 なぜか思わず「Dies irae, dies illa」などと口ずさむ。モーツァルトやヴェルディじゃなく、トマス・ド・チェラーノのセクエンツィア。さっき千手観音見て、今度はセクエンツィアか、と我が心の無宗教さに拍手喝采だ。いや、でも、ほんとロマネスク様式の教会っぽくありませんこと?
 先日の「心の旅1」でフェルメールっぽい写真として掲げたのは、実はここで撮った写真。地下の採掘場に外の光が差し込んでいる場所があって、それがとても美しかったのだ。
 

 ところどころオブジェなども置かれたりして、雰囲気を盛り上げている。

 宇都宮まで戻ってそこから宇都宮線。終点の上野まで行くと、ちょうどお花見の時期。夜桜見物までして、心の旅が終わった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酒見賢一「泣き虫弱虫諸葛孔明」

2008年04月09日 08時07分34秒 | 読書
酒見賢一「泣き虫弱虫諸葛孔明」               文藝春秋


 一人称じゃない小説において大切なポイントのひとつに作者の位置がある。
 作者は外から登場人物を眺めていることしかできない存在なのか、全知全能の存在としてあらゆる登場人物の心の中まで瞬時に、かつ同時に分かってしまうものなのか、一人称小説と同様一人の人間なら外も中も分かるけれど、同時に他の人間はわからない限定的な存在なのか、はたまた生の作者として話の中に登場して意見を述べたりするものなのか。
 小説を読みながら、そんなことを意識するのも楽しいかも知れない。
 最初の登場人物を外から眺めるような小説って、一時流行ったヌーヴォー・ロマンなんかに多い。そこで読者は、いったいこいつは何がやりたいんだ、結局事件は起こったのか、起こらなかったのか、ジリジリしながら、何の説明もない、ちょっと居心地の悪い空間に放り込まれる。これはこれで読書以外ではなかなか体験できない居心地の悪さで、読後感のなんとも落ち着かない感じとともに積極的に楽しんで欲しい境地であったりする。ロブ=グリエとか。
 次の全知全能の存在。これは、トルストイに代表される近代西洋小説にまま見られる。人物の上に君臨し、登場人物の性格や心の中までお見通しした挙げ句、人物の配置やエピソードの挿入など、手で小説をこねくり回す感じ。スタンダールもお見通しなんだが、トルストイが人物の上に君臨しているとするなら、彼は登場人物の中に紛れ込んでしまっている。
 一人の視点、ということで言えば、それへの意識の徹底を眼目のひとつにしたのが、たとえばサルトルの「自由への道」だろう。小説として成功しているかどうかは別にして(いや、ぼくはわりかし面白かったんだよ。でもさ、なんだかブツ切れな感じも否めないんだよなあ)。
 最後の生作者。これはなんと言っても司馬遼太郎だろう。小説なのか、エッセイなのか迷っちゃうほど、作品によっては頻々と顔を出して意見を述べる。
 そういう作者目線に対して、酒見賢一はかなり意識していたに違いない。そしてそのポジションについて考えた上で、この小説のスタンスを決定したのだろう。
 「弱虫泣き虫諸葛孔明」は、三国志のメタ小説と言ってもいい。もちろん舞台は三国志だが、その世界を物語るというより、作者が三国志に触れた段階で突き当たってしまった疑問の数々を解決しながらの三国志旅行記と言ったほうがいいかもしれない。
 疑問とは、普通に言えば疑問だが、くだいて言えば「ツッコミ」である。おいおい、なんで実績も経験もない若造がいきなり「臥竜」呼ばわりされるんだYO! みたいな。
 そう、ここで作者のポジションとは三国志、ならびに三国志の世界観、さらに三国志を彩る登場人物たちへのツッコミ役なのである。司馬遼太郎の「意見」とはちょっとカラーの違う作者の存在感だ。
 たとえば、こんなふう。


「しかし、こいつら、なんでこんなに戦争ばっかりしてるんだ?」
 と感想せざるを得ず、大陸人同士が、やめりゃあいいのに人口が半減するほどの殺し合いを飽きもせずに続けるという異様な話なのである(だが中国史とはこのような強烈な話の連続なのであって、三国時代がとりたてて異常なわけではない)。


英雄連中もしょっちゅう二十、三十万の大軍を起こしては火で燃やされたり、河江に沈められたり、得体の知れない罠にはまったりして、虫けらのように殺されてゆく。それを、
「乾坤一擲の大智謀、秘計が当たったわい!」
 と喜んだり、褒めたり、けなしたりし合っているのである。人間の知性は「三国志」では、人殺しに用いられるばかりである。紛争解決にもっとよい知恵を出すのが知性というものだろうと思いたい。敢えて人類とは度し難い生き物だということを示したいのか。
「………こいつら、結局、根本的に頭が悪いんじゃないのか?」
 と首をかしげさせられることもしばしばである。


 などなど。
 登場人物に対しても、そのツッコミは多々あるが、しかし、それでこの三国志世界を馬鹿にしているのではないと感じられるところが、この作者の人柄であろう。どいつもこいつも作者に一言二言つっこまれながらも、実に輝いているのが読んでいて楽しい。
 どうしようもなく、なんとなく、流された結果が三顧の礼とは、また愉快であるし、その持ってきかたも見事。
 そんなわけで三顧の礼をもって、この小説は終わっているのだが、第二部も楽しみである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の旅2

2008年04月08日 12時24分56秒 | 観光


 何かを好きだと言うことと何かを嫌いだと言うこととでは、圧倒的に後者の発言の方が敵を作りやすい。争いを好まない人間であるぼくは、あまり「~が嫌い」という発言はしないよう心がけているのだが、テレヴィに出てくるスピリチュアルだとかなんだかわけのわかんないこと言ったりするやつや、上からものを言う占い師みたいなやつは嫌いだ、とこの際はっきり言ってしまう。
 いかがわしいとさえ思う。
 たとえば、先祖を大事に思うことは大切な気持ちだと思うのだが、供養はこうしなさい、ああしなさい、このお札を納めなさい、この仏壇を買いなさい、供養のために10万払ってセミナーに入りなさい、などと指図するヤツは嫌いだ。
 スピリチュアルなものを否定するわけではないが、それを食い物にするヤツが嫌いなのだ。
 スピリチュアルなものを求める旅は、その一方でスピリチュアルなものって何だ、という問いかけの旅に等しい。
 スピリチュアルなものって、なに?
 目に見えないもの。
 目に見えないんなら空気だって見えないじゃん。
 物質じゃないもの。
 光だって物質じゃない(物質の側面もあるが)。
 たとえば、幽霊っていると思う? と聞かれれば、ぼくはいると答える。じゃあ、心霊写真を見てどう思う? と聞かれれば、ぼくはインチキっぽいと答える。
 幽霊も神も妖怪も、すべて人間の誕生とともに誕生したと思うのだ(これは松井教授の言う人間中心主義とは少し違う)。
 人間の定義そのものに幽霊や神がすでに含まれているのだと思っている。妖怪も幽霊も人のいないところにはいない。その意味で口裂け女が都市における妖怪であることが興味深い。都市化はずっと進んでいたが、われわれが小学校生活を送った昭和30・40年代に、妖怪は地方から都市へと住まいを変えたのだ。その頃、人はキツネに騙されなくなり、かつて生活の基盤だった民俗社会は終焉を迎え、都市文明が日本のすみずみまで押し寄せようとしていた。口裂け女の登場は、都市が民俗と化したことの証だ。
 人間が人間として存在するその基底部分に神や幽霊や妖怪や、そのほか要するにスピリチュアルなものが存在する。人間を人間たらしめているもの、それがぼくのスピリチュアルなものへの定義だ(これはまたフェティシズムと同じ側面を持っているが、それはまた後日)。
 石を削ったものを見て感動したり、いや、それどころかただの岩を見て感動したりできるのが人間なのである。
 話の持って行き方が強引なのだが、そんなわけでぼくは特急でも急行でもない電車に乗って石を見に行ったのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥多摩の春 

2008年04月07日 11時45分58秒 | 観光
 土曜日はFマリノスが名古屋に負けてしまった。やけ酒である。それにしても、勝てば宴会、負ければやけ酒。大騒ぎなのだ。
「私はこういう激しい感情にはとらえられない。私は生まれつき血のめぐりが鈍い。そしてそれを毎日理性によって硬くし、厚くしている」(モンテーニュ「エセー」)
 モンテーニュを敬愛しているのに、このざまはなんざんしょ。
 そんなわけで日曜日は朝寝坊してしまっている。この日も起きたのが朝8時。6時頃から自転車で出かけようなどという計画は初手からつまずいた。そんなわけで出かけたのが9時。少しスピードを意識して走ろうと思う。のろのろのペースだといつになっても上達しないような気がするのだ。そんなわけでなるべく30km/hをキープして進もうと決意(そんなわけで、多すぎ)。追い風ですぜ、旦那と気象庁が請け合ったにも関わらず、向かい風が耳をゴーゴー鳴らしてる中、それでもなんとかその速度を維持する。
 花の季節の荒川。

 これはうちから40km過ぎ、上江橋を過ぎたあたり。以前増水したとき、この道1本を残して全部水没していたところ。ローディーの姿も多い。空気が花の香りに満ちてる。
 入間大橋で入間川サイクリングロードへ。そうしたら、こっちもきれいなんすよ。

 こちらは桜が満開。サイクリングロード沿いに桜並木があって、花吹雪を浴びながら自転車こぐなんざなかなかの気分。さすがは、ぼくの荒川水系(そんな褒め言葉はない)。
 入間川サイクリングロードを走りきると、そこは入間市駅近く。先日は、ここを右折して秩父に向かった。それはそれでよかったんだけれど、また同じとこに行くのもなんだし、今日は左折して青梅の方へ行ってみる。
 自転車の楽しみは目的地へ行くことだけじゃない。その道程の楽しさも大きい。青梅へ向かう小木曽街道は道そのものが楽しいところだった。ちょっとひなびていて、いい雰囲気なのだ。

 車もそんなに多くないし、快適に走る。ああ、いいなあ。旅してるなあ、と。こういうとこに定食屋さんでもあると最高なのにな。そんで店の看板娘が旅人に恋しちゃうわけですよ。旅人=マレビトみたいな発想だ、折口だなあ、とぶつぶつ呟きながら小木曽街道を走り抜けると、そこはすでに青梅。今度は青梅街道を西進。


 自転車を停め、多摩川の遊歩道に降り立つ。ぼくは釣りができないのだけれど、できたら楽しいだろうと思う。荒川も多摩川も上流は本当にきれいだ。
 さらに多摩川を遡っていくと白丸湖があり、「魚道見学できます」みたいな看板が掲げてある。またまた自転車を停め、そそくさと魚道見学に。道草が楽しいのだ。この湖は発電用ダムにせき止められて生まれた人工湖。川はずっと下の方にあるのでそこまで降りて行かなくてはならない。
 で、降りる手段がこれ。

 ぼくのように高いところが異様に怖い人間にとっては恐怖です。こわいっす。マジで無理っす。でも降りる。見なきゃいいもんを、時折螺旋の中心を見ちゃ、ヒーヒー言って怖がる。誰もいないからいいけれど、時と場合によっちゃ、大変うざったい人間である。


 川がせき止められると魚の行き来ができなくなる。そこでこうした魚道を作り、魚の移動を担保するのだ。上から見ていたら、魚が一匹見えた。ほかにも窓があり、川の中を見ることができる。
 川って、ぼくにとっては結構神秘的なものなので、その一部をこうして見せると川の神秘を暴いてしまっている気がする。見ちゃいけないものを見ちゃいそうなので、ガラス窓はあまりのぞかないようにして外に出る。


 ダムの保守用のなにかなんだろう。なんだか上の方から「インディー!」などと叫びながら女の人がトロッコに乗って走ってきそうだ。エメラルド・グリーンの湖面が美しい。
 ほとんど人がいない。車やバイクはひっきりなしに通るのだが、訪れる人は少ない。こういうもんも見ないなんてもったいない。
 ダムをあとに、さらに青梅街道を西に。ここまで来たらあまりあせらない。せっかくだ。あちこちで脚を停めて景色を眺めたり、写真を撮りたい(性能のいいカメラじゃないけれど)。


 写真を撮っているぼくの横を何台もの車やオートバイが音を立てて通り過ぎていく。彼らにとって奥多摩はいくつかの目的地と車窓の記憶だろう。でも、と、写真を撮りながら、ぼくは思う。ぼくの奥多摩の記憶は全部線でつながっている。花の匂いや道の雰囲気、人が訪れようともしない場所。自転車っていい乗り物だと思う。そりゃ歩いた方がずっとずっといろんなものと出会えるかもしれないが、歩いて奥多摩に来ようとは思わない。車じゃ速すぎる。その間の絶妙なスピードだ。


 結局3時半頃、およそ100km走って奥多摩駅に到着。前半に飛ばしたせいか脚がもうなくなっていたので、今日はここまで。この先はまた今度。なにしろ今回は入間川サイクリングロードを使ったので、無駄に遠回りした気がする。奥多摩に行くのに、川越を通る必要はまるでないのだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする