粟島神社。ここが谷端川の源泉の一つだと言われているんだけれど、実は、全然関係のない話をしようといろいろ文章書いていたんですが、だめ。あまりにも広がりすぎて、一つのエントリーに収まらないし、誤解を恐れるばかりに引用文だけで相当なものになってしまい、その整理や文献の収集に追われ、断念しました。粟島神社とか西宮のえべっさん、あるいは最後うつろ舟で流された秦河勝など、なぜか大阪湾近くの瀬戸内海に集中する流離譚。そこから「人を殺す」=「神を殺す」みたいな話をしたかったんですが、いかんせん話大きすぎ。
「人を殺す」、そのことが実は動物から人間へ後戻りできないトラウマとして私たち人類にはあったのではないか、など、バタイユなど古くからある話からルネ・ジラールとかジュリア・クリステヴァとか、いろいろ考えてみようかと思ったのですが、断念。もうちょっと時間がないと。いや、自分の中にはある程度考えはあるんだけれど、それをどう、説明しようか。考えとか思いつきって実は説明部分に一番苦労するんですよね。もう少し考えます。あと博士論文をもとにした六車由実さんの「神、人を喰う」(新曜社)は素晴らしい。
でも、私たち今生きている人類は、「殺した」側か「殺された」側かで言えば、明らかに「殺した」側なわけで(じゃなきゃ生存していないわけだから)、その「殺した」という禍々しいトラウマが私たちの宗教や倫理観を形作っているのではないか、と最近思うんです。
たまに雄大な自然を見て、「ああ、人が自然の向こうに神をイメージするのってこういうことなんですね」みたいな自然バンザイ番組があるけれど、同じ風景は鹿だって熊だって見てる。じゃあ、なぜ人間だけがその自然に対峙してそういう感情を抱いたのか、そこでしょ、問題は、と。その自然の雄大さを実感するのは、自己の禍々しさ故なのではないか、と。「銀河鉄道の夜」に出てくるさそりのように、自分の卑小さが嫌になるほどわかった故、宇宙の星になったように、人間も自分の禍々しさやいやらしさを自覚したからこそ、自然の雄大さ、尊さ、美しさに気づいたんじゃないかと思うんですよ。
ほとんどすべての神話が落ち度による楽園喪失、あるいは身内殺しを語っているのは、まさにそのトラウマなのではないか、そして人間は現代に至ってもそのトラウマゆえ穢れを定期的に祓わないと落ち着かないんじゃないか。
雛人形は室町時代以降流さなくなったけれど、今でも穢れを背負わされた人形を長く飾っていると婚期が遅れるなどと言う。かつては婚期が遅れることが女性にとっての不幸だった(今の男親の中には、娘の婚期が遅れるなら、来年まで飾り続けてやろうじゃないか、娘は誰にもやらん、かわいい、かわいい、と思う人もいるだろうけれど)。穢れを移された人形を長く置いておくことによる穢れの伝播(穢れの伝播については、節分の豆撒きにもいろいろ面白い話がある、方相氏とか)。
そんなわけで、写真は粟島神社の弁天堂。
おい。
人が千々に思ってるのに、ただ単にあれか、水があるから粟島と弁天かよ。違うだろう、その二つ。