毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

小春日和

2006年12月29日 13時04分55秒 | 写真


 冬に使う言葉じゃないけれど、一昨日の関東地方はまさに小春日和という言葉がぴったり。
 陽気に誘われ、千葉県の鋸山に行ってきました。面白いところだったので、詳細はまた年明けに。
 今年一年、みなさま、お世話になりました。ブログを始めて2度目の正月を迎えることとなりました。読んでくださる方、トラックバックやコメントを送ってくださる方、みなさまのおかげでこんなに飽きっぽい人間がこうして続けることができました。本当にありがとうございます。
 今年の更新は最後になると思いますが、また来年もよろしくお願い致します。
 では、みなさまもよいお年を!
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神戸 魚心と910SH

2006年12月26日 17時13分16秒 | 観光
 910SHが復活したので、神戸へ持っていきました。
 以下3枚は携帯電話の910SHで撮ったものです。

 夕飯は三宮で入った「魚心」というお寿司屋さん。今年東京にも進出したそうですが、町田なので行く機会はなし。ここの特徴はあふれんばかりの具。

 あふれた部分をつまみに飲んで、シャリの部分で食事をするような感じ。

 久しぶりに食べた鯨のベーコン。
 値段の割にネタもよくおいしかったのだが、残念なのはなにかってえと店内に響きわたる「よろこんで」の大合唱。うるさくて食った気も飲んだ気もしない。いい感じなのにな。
 さて、910SHを一通り使ってみたのだけれど、ダイナミックレンジが狭いので明暗差のあるところはちょっときつい。それと手ぶれ防止機能を使うためにはISOをオートにしなくてはならないのだが、これも余計なお世話。せっかく手ぶれ防止してくれるはずなのに、ISOが高く画像が荒くて汚い、ということも多い。
 だが、これは携帯電話なのである。店内でちょろっと料理を撮ったりするのに、α-7Dを取り出すことを考えれば、充分なカメラだと思う。とくに光学3倍ズームは魅力的だ。
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隅田川

2006年12月25日 09時18分24秒 | 観光


 どかんぼこんっていやあ、やっぱり吾妻橋。
 唐茄子屋政談の若旦那も文七元結の文七もここから飛び込もうとした。
 われわれにはピンと来ないかもしれないが、大川(隅田川)には死のイメージがある。橋を渡って川沿いを自転車で走っていると死の濃密な匂いがする。ぼくが何度もそこへ行って走っているのは、たぶんその死の匂いのエロティシズムに惹かれるからだと思う。死を媒介にして、人は異界と接する。三囲神社の縁日で知り合い水神神社の森へ誘った女は烏だった。
 ブリトゥンのオペラにもなった梅若の物語の舞台も隅田川だった。
 バタイユ風に言えば、隅田川には死にいたる生の高揚があるのだ。
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仲蔵狂乱

2006年12月22日 16時25分39秒 | 読書
松井今朝子著「仲蔵狂乱」       講談社文庫

 圓生の語り口が好きだった。志ん生の芸は表現の過剰さにあるが、圓生の芸はその語り口にあると思う。上手めえなあ、とつくづく感心する。とくに感心するのは、やはり音曲ものと芝居噺だろう(「掛け取り漫才」など上手すぎ)。
 その圓生で聴いて感銘を受けたのが「中村仲蔵」と「淀五郎」。
 中村仲蔵は実在の歌舞伎役者。稲荷町(セリフもない端役)から出世して名題に昇進した異例の人物。
 詳しい内容は一風斎さんのこちらの「仲蔵狂乱」をご参照下さい。
 一風斎さんがおっしゃる通り、確かに後ろ25%程が付け足しな感じ。もっと田沼意次の用人との関係を密にして、田沼邸での踊りをラストにしたら、より感銘深かったかもしれない。だが、それを差し引いても大変面白かった。
 なわけで、自転車に乗って仲蔵散歩に。

 上野谷中にある中村仲蔵のお墓。斜め向かいに川上音二郎の墓もある。仲蔵の横にある中村家の墓の墓碑を見ると、昭和37年にどなたかが入ってらっしゃる。仲蔵の子孫はちゃんと中村家として残ってらっしゃるのだと感心した。

 仲蔵が定九郎のこしらえにお知恵をとお百度した柳島の妙見さま。都の防災計画にひっかかり移転を迫られた際、一発大逆転のマンション建設で移転を免れた。そのため、1階が妙見社で、2階から上がマンションというちょっと変わった構えとなっている。このあたりで妙見さんと言えば、ここと本所の妙見さんが有名だけれど、仲蔵が詣ったと言われているのはこちら。
 このあたりの地名は業平。そう、在原業平に由来している。

 名にしおはばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人は在りやなしやと

 都鳥はユリカモメのことではないかと推定されている。この隅田川のあたりにはたしかにユリカモメが多い。散歩のついでにユリカモメを見に桜橋へ。
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駒込富士神社

2006年12月22日 07時55分27秒 | 観光


 護国寺の富士塚と比べても上の社殿の大きさといい、塚そのものの大きさといい、はるかに大規模な富士塚。
 場所は先日の吉祥寺のすぐそば。山開きのときには出店が出るほどの人出になる。
 もともとは今の東大近くにあったが、その土地が加賀前田家の上屋敷となるときに、この地に移転してきた。
 今でも東大近辺の町を元富士町と呼ぶ人もいるし、現に元富士町会も存在している。東京ドームコンサートの警備に対して、マイケル・ジャクソンがお礼に訪れたのも元富士警察署(これはちょっと離れるけれど)だった。
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吉祥寺の寒桜

2006年12月21日 09時58分14秒 | 写真

 駒込の吉祥寺にて。
 よく知られているけれど、武蔵野市の吉祥寺には吉祥寺というお寺はありません。
 明暦の火事のあと、寺は駒込へ、門前町の住人は水道橋から今の吉祥寺に。
 境内にはお七、吉三の比翼塚があったり、なかなか物語性豊かなお寺。
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麻布絶江坂 落語「黄金餅」の舞台

2006年12月20日 10時20分47秒 | 観光


 上野山崎町を出たお弔い。道順は志ん生にお任せしよう。

 下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下に出て、三枚橋から上野広小路に出まして、御成街道から五軒町へ出て、そのころ、堀様と鳥居様というお屋敷の前をまっ直ぐに、筋違御門から大通り出まして、神田須田町へ出て、新石町から鍋町、鍛冶町へ出まして、今川橋から本白銀町へ出まして、石町へ出て、本町、室町から、日本橋を渡りまして、通四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町、新橋を右に切れまして、土橋から久保町へ出まして、新(あたらし)橋の通りをまっすぐに、愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出て、大黒坂から一本松、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来た。みんな疲れたが、私もくたびれた。

 早桶かついで夜中に走るには結構な距離である。
 麻布絶口釜無村はもちろん架空の地名だが、たぶんここだろうという場所が麻布の坂に残っている。絶江坂である。ぼくは自転車で出かけたが、距離としてはうちから15キロというところかな。
 イラン大使館からほど近い場所で、あたりは高級住宅地。
 今でこそ高級住宅地だが、狸穴なんかの地名が物語るように、麻布は、かつてはたいそう辺鄙なところ。しかも釜無村は、貧乏の象徴。朝釜でご飯を炊いたら、それを質に入れ、一日働いた日銭で請け出して夜ご飯を作る、そんな貧しさを表した言葉である。昔、絶江坂の近くに釜無横丁があったという。
 「弔いが山谷と聞いて親父行き」に対して、「弔いが麻布と聞いて人頼み」という川柳がある。麻布みたいな、そんな辺鄙なところはちょっとごめんだな、ということだろう。
 ところで、さっきの志ん生の道案内にも出てきたが「おかめ団子」、これはこれで一つの落語になっている。こちらの舞台は麻布永坂、明治初年まで本当に「おかめ団子」があったという。
 「気が知れぬところ坂まで長いなり」、麻布永坂を詠んだ川柳である。
 三田から桜田通りを登って飯倉へ出るあたりが自転車で辛い場所である。
 さて、麻布が「気が知れぬ」わけには諸説あるのだが、ぼくが子どもの頃聞いた話は、麻布のあたりには赤坂、青山、白金、目黒とあるのに、黄色がない(緑もないじゃん、という意見の方は五不動を思っておくんな)。黄が知れぬところだ、と。
 おかめ団子に出てくる大根売りの太助さん。志ん朝の落語ではたいそう田舎訛りのある青年に描かれていた。その太助さんが大根を収穫している場所は実は中目黒。最初聴いたときにびっくりしたものだ。時代は変わっていく。
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墓泥棒にご注意

2006年12月19日 16時56分05秒 | 観光
 青山墓地で見つけた看板。


 カッパライ、って………。
 さらに、谷中霊園では


 墓地の泥棒注意は、どことなく笑わせてくれる。
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ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第13番

2006年12月15日 10時32分17秒 | 音楽
 ベートーヴェンの12番以降の弦楽四重奏曲は、後期のピアノ・ソナタとともにぼくに限らず多くの人にとっても特別なものであると思う。ぼくはそこに歌われる音楽に、森有正の言う「祈りと慰め」を見出す。
 エンデリオン四重奏団の演奏は、大フーガを終曲と順番を入れ替えているので、自然の流れで大フーガを聴くことができ、まさにフーガとは祈りの形なのだ、と思い知る。
 フーガの最初は少し荒くし、フーガが重なるにつれ複雑なこのフーガの処理に磨きがかかってくるため、聴いている内にその祈りに引き込まれてくる。祈りとは、人間以外のものを想定してその超越者に救いや現世利益を求めることではない。むしろ自分自身への回帰、実存への回帰のことだと思う。ルオーの「郊外のキリスト」に現れる、あの小さな存在。小さな存在であると同時に歴史を作る実存する主体性、こうした実存への立ち帰りと言ってもいい。
 つまりキェルケゴールの「反復」と「祈り」とはぼくにとって同義語である。
 フーガが祈りの形であるということはそういうことだ。一つの主題が繰り返されるたびに立ち帰っているのだ。
 エンデリオン四重奏団の演奏は、この複雑なフーガにしっかりと向かい合って、素晴らしい成果を挙げている。聴き応えのある13番だった。
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福田進一 プレイズ・バッハ

2006年12月14日 15時43分46秒 | 音楽
 昔からJ.S.バッハの曲にしては少し異色だなと思っていた無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番の有名なシャコンヌ。バッハにしては少々ロマンティックな感じがしていたのだ。ここで言うロマンティックというのは、カップルで夜景を見ながらつぶやいたりするものではなく、実存よりも感情に重きを置いているような感じと言うと少しわかりやすいだろうか。
 最初に聴いたのがグリュミオーのヴァイオリンだったということも影響しているのかもしれない。
 それに対し、福田進一の演奏するシャコンヌは実にわかりやすい。わかりやすい以上に気づかなかった声部の関連までもすっきりとした形で示してくれる。
 わかりやすい、というのは簡単ということではない。
 ここで聴かれる音色の変化や音の豊富な引き出しは技巧うんぬん以前に、本当にこの曲と向かい合って生み出されたものだと思う。一音、一音、よく考え抜いて音をつむいでいるのがわかる。
 それはシャコンヌのような大曲だけではない。
 2つのガヴォットなどぼく自身中学生の頃よく弾いた曲がまるで別の響きをもって現れたのに、その響きこそ昔から探していたものだと思わせる演奏だ。説得力とはこうした響きの上に生まれるものなのだ。
 素晴らしいバッハ。
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ららら科学の子

2006年12月13日 12時35分10秒 | 読書
矢作俊彦著「ららら科学の子」     文藝春秋

 「のだめカンタービレ」というマンガにパリプラージュのシーンがあった。夏の間セーヌ河畔に砂を敷き、海辺のバカンスに行けないパリジャンも楽しめるという企画。浜で寝そべっている横を車が通るなんて論外。だから期間中その区間は車は通行禁止。環境問題に関心の強い社会党のドラノエ市長になって実現したものだ。
 でも、すでに今から約40年前に、パリのプラージュ(海岸)は舗石の下にあると叫んだ若者たちがいた。若者たちは他にも「学問を忘れよう!夢を見よう!」とか「ぼくはグルーチョ・マルキシスト」とか「ポエジーは街に」と主張した。サルトルが第三世界はパリ郊外から始まると言った、パリ郊外、ナンテール大学で起こった異議申し立ては各地で大きな渦となって広まった。
 世界中の若者たちが自分たちの親に、親の世代に反抗した。ジョン・レノンは「Don't trust anyone over thirty」と若者たちを煽り、ジャン・リュック・ゴダールは赤い星のついた人民帽をかぶったフランス人女優に世界を戦場に変えろとあじらせた。
 日本では、佐世保のエンタープライズ寄港反対デモや三里塚、ベトナム反戦運動、新宿駅騒擾事件があった。新宿駅はベトナム反戦運動の象徴でもあった。前の年にアメリカ軍のジェット燃料を積んだ貨物列車が運転手のミスで大爆発していた。国民には知らされていなかったが、日本で一番乗客数の多い新宿駅を、発火点40度、わずかな衝撃で大爆発を起こす列車が走っていたのだ。

「日本の国有鉄道が、街のど真ん中で、アメリカ軍の兵站を担っていた」(以下、引用は「ららら科学の子」)

 同じ頃、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れていた。党での発言力や影響力が低下した毛沢東一派が主流派を修正主義と批判。毛沢東の原理主義を信棒する若者たちが紅衛兵としてこの革命をリードした。

「子どもが大人を批判し、訴追し、公開で処刑めいたことまでする。むろん、そこにいるのは子供だけではない。しかし、大人たちは子供の熱狂にまきこまれ、まともに大人として振るまおうとはしなかった。熱狂が引くこともなかった。一度鎮火しても、町のあちこちでまた必ず火がつき、あたりを焼き尽くさずにはおかなかった」

 造反有理、革命無罪。1969年の第9回党大会で林彪が文化大革命を宣言する頃までがその絶頂だっただろう。それにしてもこの記述は中国の文化大革命にも当てはまるし、カンボジアのクメール・ルージュ、古くはサヴォナローラに支配されたフィレンツェの状況にも当てはまるだろう。歴史から何かを学ぶには悲劇が必要なのかもしれない。
 そして、そのどれもが行きすぎと行きすぎに対する反動という2つの悲劇を用意する。
 中国ではこの期間中、chinaの語源にもなった景徳鎮など伝統工芸は破壊され、職人たちはブルジョワ的ということで迫害を受ける。やがて迫害は知識人にも及び、これがその後中国にとって大きな打撃となった。文化大革命中の虐殺者の数は2000万人とも5000万人とも言われている。

 「彼」が中国に密航したのは、まさに文化大革命の嵐の絶頂期だった。逆に言えば、折り返して反動が来る前夜だ。世界中の若者たちを客人として扱っていた政府は次第に態度を硬化させていく。文革は70年代まで続くが、68年の段階で過激な紅衛兵に対する圧迫は始まっていたのだ。

「義父の言う通りなら、彼が日本を発つ二ヶ月も前に、紅衛兵運動は事実上終わっていた」

 彼は他の紅衛兵とともに電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、その後何時間も歩いて行かなくてはたどり着けないような農村へ農村支援の名の下に下放される。
 そして30年。
 蛇頭の船に密航して彼は再び日本の地を踏む。昭和が終わる頃までテレビも村になかったような場所から彼は戻ってきた。

 「足の太さが上から下まで同じの女の子。白いギプスのように膨れた靴下。赤い髪。青い髪。金色の髪。ビルに挟まれたしもた屋。水を商品にして売り買いする世界。金をとって酸素を吸わせるバー。黄色い馬という麻薬。宇宙船の中の麻薬パーティー。世界中の電話がアメリカに盗聴されている世界」

 互いが互いを見ようともせず、地べたにしゃがんで携帯電話をいじっている子どもたち。亡き父の墓参りに行けば、モニターと作り物の蝋燭のある「宇宙船の操縦席」のようなところに連れて行かれ、モニターで指示するとモーター音とともに骨壺が運ばれてくる墓地。
 しかし、それが彼に絶望をもたらすことはない。少なからず文明批評はありつつも、彼はそれを静かに受け入れる。
 国に何も望まない人間は国に絶望することはない。

「子供の時から、国家に何かを望んだことはなかった。毛沢東の国だろうと、それはまったく変わらない。兵士として駆り出され、虜囚として南方に放り捨てられた父と、戦後、進駐軍の洗濯工場で働き、長く一家を支えた母が、唯一残した家訓のようなものだったのかもしれない。「国なんてえのは、銭金に汚いくせにやたら見栄っぱりの家主みたいなもんさ」というのが父の口癖だった。
国家が、一人の国民のために何かをしてくれるだろうか。するとしたら、逆に中国政府に依頼して、自分という存在を抹殺しようとするのが関の山だ。岸信介の弟の政府だったら間違いなくそうするだろう」

 はからずも現在は、岸信介の孫が政権を握っている。
 彼はかつて、一緒に中国に渡ろうと約束したものの最後とどまった友人の援助を受け、東京を旅する。30年の時間を経て、彼は戻ったのではなく、少し見覚えがあるが、圧倒的に見覚えのない新しい街を旅するのだ。
 そこで出会うへんてこな連中。夜の風情。まるでフェリーニの「甘い生活」の夜を見ているようだ。
 彼は一つずつ確認するかのように東京を歩く。ホームレスにトンカツ弁当をおごってもらったり、ビールを飲んでる女子高生と知り合ったり、友人の部下と食事をしたり、蛇頭に見つかって半殺しにあったり。
 この旅での光景を彼は知っていたのだ。だから30年の時を越えて訪れた東京を前にしても絶望も抱かなければ驚愕もない。

「何事にも、心底びっくりしないのはそのためだ。俺は、この景色を知っている。どの景色も、とっくの昔に知っている」

 彼はそれを、未来の東京を「鉄腕アトム」で見ていた。

「電車が地上高くに上りつめ、右手の窓に空き地が広がった。そこはまさに、あの夢の島だった。ブッコワース光線が東京を隅々まで破壊し、ロボットにすり替わった首相が電子冷凍器でこの世界を永遠の冬に閉じこめようとしたごみ捨て場だった」

 そこで彼は静かに自分の30年前と向きあう。その静かな悲しみが伝わってくる。悪漢に捕らえられ、はるか南洋の海底で奴隷労働を強いられている少女を救うために、アトムはロボット法を犯す。彼も、そしてそのとき、科学の子だったのだ、と。
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江戸は燃えているか

2006年12月04日 16時37分56秒 | 読書
前に読んだ「幕末気分」が大変面白かったので、同じ著書の「江戸は燃えているか」を読んだ。これも同じように面白いが、取り上げられている人物が「幕末気分」よりは有名どころを揃えている点が異なる。
それでも、なおこの本においても江戸末期の何か言うに言われぬ匂いは感じられる。

「生活の調子がかわるとき、はじめてルネサンスはくる」(ホイジンガ「中世の秋」)

為政者のやりとりだけが歴史ではない。生活の調子の変化も歴史なのだ。ホイジンガが言うルネサンス同様、江戸も明治も、そんな風にして変わっていったはずだ。だから、まさに「幕末気分」なのだ。この著も基本的には同じ。事柄がよく整理されていて、物語に滞りがなく、またその当時の雰囲気をよく感じさせてくれる。
たとえば清河八郎のこんなくだり。

「過ちさえ天意の恩寵と感じるのだ。手の付けられないナルシシズムである。
この強烈な自己愛から生まれた満々たる自己確信が、周囲の人々に清河八郎を信用させる気迫になった。本人を動かしていたのは驚くほどの主観主義だったが、たとえたんなる大言壮語でも多数がそれを真剣に受け取ったら、実際に《客観情勢》が形成される。一人の妄想は、集団では共同幻想に転化する。清河八郎の舌先三寸で幕末史が動いたのである」

幕末のせっぱ詰まった雰囲気になんと清河八郎という山師が似合うことか。思い詰めることが人として当たり前だった時代もあったのだ。
こんな風に全7編。これがなかなか読み終わらない。読み終わるのがもったいなく感じられるレトリックと思考の妙。
孝明天皇を描いたところ。

「孝明天皇は有名な夷狄嫌いであった。理屈抜きの外国嫌悪(ゼノフォビア)である。条約調印に断固反対の立場を表明したのも、自分の代に開国通商が始まったのでは伊勢神宮はじめ歴代天皇に対して身の置きどころがないという過剰な責務の自覚からであった。天皇の拒絶の意思表示は、純粋に心情的であり、一本気であり、非政治的なものであり、いっさい打算なしだったが故にいっそう強硬で難物であった。相手を甘く見ていた幕府当局者はあわてた。《非合理》の力はまったく計算外であった。
(中略)
なんと、戦争になってもやむを得ないと言い切ったのである。孝明天皇に勝算があったとは思われない。売り言葉に買い言葉であった。交渉はもちろん決裂し、京都朝廷は幕府に対して「ノーといえる」政治勢力として認知された。歴史の新しい頁を切り開く力はいつも《非常識》なのである」

他にも権力の二つの側面を解体し、それぞれがどのようにお互いに依存しているか描いたり、裏側にある明確な思考とそれを表現するにあまりあるレトリックが楽しくて楽しくてたまらない。
秋の夜長の友としてゆっくり味わわせて頂いた。
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