立ったまま作業するパソコン台を買いました。案外便利に使えてますが、それ以上にPC台導入のために部屋を整理したことでいろんな面白いものを発見できたことが最大のプラスであります。で、なんと10代の頃に書いたレポートのコピーとかも出てきて、今となってはこんなふうな書き方しないなあ、などと思いつつも、なんだか当時のひたむきさを思い出したりして、もうちょっと一生懸命生きようかとも思ったり。そんな文章ですが、せっかくなのでここに載せておきます。ご笑覧くださいな。
「ヨブ記における神観」
苦悩や苦難を巡る問題は、その起源をはるかに遡ることができるだろう。それはおよそ文明の起源、人間が獣と分離した段階と時を同じくして発生する。ある民族が他の民族から迫害を受けるような、民族全体に関わる苦難にはじまり、病気や怪我、あるいは身内の不幸など個人に関する事柄にまで及ぶ。人間は死すべきものであり、死は当然のことである。しかし人間にとって死は辛いことだ。また逆に、当然であるはずの死が辛いために、人間は時代を超え、国境を超え、常に苦悩や苦難に直面する。
「ヨブ記」が書かれた頃のユダヤ民族は、まさしくこの苦難のまっただ中で生活していた。矢内原忠雄の「聖書講義第8巻」によれば、「ヨブ記」はその舞台を族長時代においてはいるものの、しかし実際に書かれたのはそれからずっと後、およそバビロン捕囚ころか、それ以降であるという。
この時代はユダヤ民族にとって苦難に満ち、嘆きに溢れていた。
繁栄を誇ったダヴィデ・ソロモンの王国がソロモン王の死後、ユダ王国とイスラエル王国南北に分裂してしまう。その後両王国は抗争や同盟を経るが、北のイスラエルはアッシリアによって滅亡する。南のユダは、バビロン王ネブカドネザルによって捕囚される。いわゆるバビロン捕囚である。
「ユダヤ人捕囚民が植民させられた他の場所の地名は、破壊と廃墟を示す。テルアビブ“洪水で破壊されたような場所”、テル・メラハ“塩の丘”、すなわち、何も生え育たないように塩が象徴的に撒かれたような廃墟、テル・ハラサ“陶器片で覆われた廃墟”等である」(A.マラマット/H.タドモール「ユダヤ民族史」第1巻)
「主は敵のようになって、イスラエルを滅ぼし
そのすべての宮殿を滅ぼし、そのとりでをこわし、
ユダの娘の上に憂いと悲しみとを増し加えられた」(「哀歌」第2章第5節)
神に選ばれたる民、ユダヤ民族は、なぜ、このような苦悩を民族全体で蒙らなければならないのか。
「あなたがたがわたしの言葉に聞き従わないゆえ、見よ、わたしは北の方のすべての種族と、わたしのしもべであるバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この地とその民と、そのまわりの国々を攻め滅ぼさせ、これを忌み嫌われるものとし、人の笑いものとし、永遠のはずかしめとすると、主は言われる」 (「エレミヤ書」第25章第8~9節)
ここでバビロン捕囚は、人の罪に対する罰としてとらえられている。ユダヤ民族の苦悩は、主に「聞き従わず、あなたがたの手で作ったものをもって」、主を「怒らせて自ら害を招いた」ものであるとされる(「エレミヤ書」第25章第7節)。
人の罪に対して主はお怒りになる。
「見よ、主の暴風がくる。
憤りと、つむじ風が出て、
悪人のこうべをうつ。
主の激しい怒りは、
み心に思い定められたことを行なって、
これを遂げるまで、退くことはない」
(「エレミヤ書」第30章第23~24節)
「これこれの罪を犯した」、それゆえに「これこれの罰を受ける」、このように因果応報の説明は実に納得がいく。実際の人間社会においても、それは刑事罰という形で実行されている。
だが実際はそのようになっているだろうか。悪をなすものがその悪によってもたらされた栄華の内に生活しているようなことはないだろうか。また逆に、正しい人がその正しさゆえに人に嫌われたり、失敗したりすることはないだろうか。
「悪人の道がさかえ、
不信実な者がみな繁栄するのはなにゆえですか」(「エレミヤ書」第12章第1節)
「あなたは目が清く、悪を見られない者、
また不義を見られない者であるのに、
何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。
悪しき者が自分より正しい者を、飲み食らうのに、
何ゆえ黙っていられるのですか」(「ハバクク書」第1章第13節)
しかし、単に因果応報的な説明では苦難にある人は納得しないであろう。
「ヨブ記」はこういう納得を受け付けない書である。以下「ヨブ記」の内容を見ていくことにする。
ヨブは義人であった。「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(「ヨブ記」第1章第1節、以下特にことわりのない場合は、すべて「ヨブ記」からの引用である)。この義人に突然苦悩が襲いかかってくる。すべての家畜、財産、子どもなどを失ってしまうのである。
「わたしは裸で母の肚を出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」(第1章第21節)
次に彼自身の体も損なわれる。「サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました」(第2章第7節)
それでもヨブは神を呪うようなことを口にしなかった。なぜ義人たるヨブがこのような苦悩を背負わねばならないのか。
それに答えたのが見舞いに来た友人3人であった。
「考えてもみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか、どこに正しい者で、断ち滅ぼされた者があるか」(第4章第7節)
つまり、正しき者ならば何の罪もうけることなく神の恩寵のもとで暮らせるのである。しかしヨブには苦悩が下った。ゆえにヨブには罪があるのだ。
「それであなたは知るがよい、神はあなたの罪よりも軽くあなたを罰せられることを」(第11章第6節)
しかしヨブには納得がいかない。自分自身の罪のなさを確信しているからである。
「正しいはかりをもってわたしを量れ。そうすれば神はわたしの潔白を知られるであろう」(第31章第6節)
ヨブは自身の潔白を確信し、因果応報の「罪と罰」には納得がいかないのである。彼には、神の裁きが誤りであると感じられる。
「ああ、わたしの敵の書いた
告訴状があればよいのだが、
わたしは必ずこれを肩に置い、
冠のようにこれをわが身に結び、
わが歩みの数を彼に述べ、
君たる者のようにして、彼に近づくであろう」(第31章第36~38節)
ここで因果応報的な苦難の解釈は座礁する。友人の解釈では、神は正しいものを慈しみ、悪しき者には苦難を与える。ヨブは罰せられている。したがって、ヨブは罪人である。
それと同様、ヨブの解釈も出発点は箴言の次のような精神である。
「心のねじけた者は主に憎まれ、
まっすぐに道を歩む者は彼に喜ばれる。
確かに、罪人は罰を免れない、
しかし正しい人は救を得る」(「箴言」第11章第20~21節)
しかし、自分は義である。自分自身には罪がない、よって神はなにか誤解しているか、または間違った裁きをしているのではないか。先ほど引用した第31章第36~38節のヨブの言葉がそれを物語っている。
友人3人の解釈はヨブがその身の罪を悟らない限りヨブには無力であり、またヨブ自身の答えも神の裁きに疑いをはさむ点を3人が承認しない限り、友人たちには受け入れらないものだろう。
「このようにヨブが自分の正しいことを主張したので、これら3人の者はヨブに答えるのをやめた」(第32章第1節)
単なる因果応報的な苦悩の解釈を、別の視点にずらしたのが、そのとき口をはさんだエリフであった。
エリフは神の下した苦難を単に罰として受け止めるのではなく、教育としての意義をも考える。つまり苦難によって、「彼らの行いと、とがと、その高ぶったふるまいを彼らの示し、彼らの耳を開いて、教を聞かせ、悪を離れて帰ることを命じる」(第36章第9~10節)のである。
しかしこの見解もやはりヨブの罪を前提にしている以上、ヨブの満足するものではない。
エリフが口を閉ざすのと同時に、「主はつむじ風の中からヨブに答えられた」。その答えは一見奇妙である。あれほど苦難の中でもがき、その苦難の原因を求めたヨブに対し、主が語られたのは、天地の創造や様々な動物、天文や気象についてであった。
それによってヨブの目は苦難に喘ぐ自分自身から離れ、自分自身の卑小さへと移った。
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか」(第40章第4節)
人が神に対する態度は、つまり理解ではなく、信仰なのである。盲人が像に触る、という喩えが示すように、神の為すことを卑小な人間が完全に理解できるものではない。神をベッドの大きさに合わせて、その足を切るようなものである。主は理解を求めたのではない。だからヨブにその苦難の原因を語りはしなかった。主はヨブに人間の卑小さを思い知らしめた。ヨブにできることは、おのれの卑小さを知り、神の絶対性を感じることであった。
「わたしは知ります。
あなたはすべての事をすることができ、
またいかなるおぼしめしでも、
あなたにできないことはないということを」(第42章第2節)
無知である人間が全能の神の為すことを理解しようとするとき、それはどうしてもその人間の卑小さに合わせた理解になってしまう。その卑小な理解をもって神を語ることは、神を卑小な存在に貶めてしまいかねない。
だから主は、エリパズに向かって言う。
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃えている」(第42章第7節)
苦難も全て神の意志であり、神の意志である以上、それは義なのである。それを人間の理解の範囲に押し込もうとするから、単純な因果応報の考えに行き着いてしまうのである。
「無知の言葉をもって
神の計りごとを暗くするこの者はだれか」(第38章第2節)
つまり、この「ヨブ記」は、神への信仰を、理解を基盤に置いたものではなく、ただ単なる絶対的な神への服従に置いたものなのである。ここで強調されるのは、神の全能、絶対的な義であり、それと対比しての人間の卑小さである。この絶対性の持つ強さは、他の多神教宗教にはないものであろう。そしてその強い力は、苦難のときを過ごす民族や個人にどれだけの支えとなるだろう。因果応報的な考え方ではついぞ成し得なかったことである。
最後にこの「ヨブ記」の精神を表現していると思われる宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節を引用する。
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一足ずつですから」
燈台守がなぐさめていいました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」