毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

鴻池朋子「皮と針と糸と」

2017年02月12日 22時34分42秒 | 出会ったものたち


 去年横浜で開催された鴻池朋子「根源的暴力」。非常に大きなインパクトを与えてもらいました。そして今回、新潟県立万代島美術館で開かれている「皮と針と糸と」に滑り込みで入場できました。相変わらず私たちの根源的な部分に掴みかかるような作品たち。
 デカルトの命題にもはや立脚できない私たちは私たちの主体を担保するものを模索する。たとえば皮膚によって内と外を隔てられたかに見える肉体にその役割を担わせようとする試みはどこまで有用だろうか。私の身体は果たして私という存在の基盤になりうるのだろうか。むしろ、肉体は「私」が最初に出会う自然的存在であり、最初に出会う他者であると言ってもいいのではないか。一時期ぼくは必要以上に山を縦走したり、自転車で山を登ったりしていたことがあった。そんな時にぼくの身体がぼくのまったく予想しない振る舞いを見せるその様が面白くてならなかったからだ。自分の身体だと思っていたものが、実は自分のまったく思うとおりにならない肉体だということが不思議でそして興味深く面白かった。
 あるいはまた、この身体の中には本当にぼくだけが存在しているのだろうか。身体の中に身体化された他者や歴史、自分のものではない記憶や他者の欲望が内包されているのではないだろうか。
 であるならば、屹立した自己同一性など実は存在せず、曖昧な主体と曖昧な肉体が存在しているだけなのではないか。そして、実はその曖昧さこそ、人間の多種多様な文化を生み出す多種多様な想像力の源泉なのではないだろうか。曖昧な「私」は常に他者の存在によって変わり続ける。小さな死を経て、新しい自分が誕生する。他者の肉体との接触によって私たちは小さな死を経験する。もちろん、その他者が人間であるとは限らない。民話的世界において動物と人間は常に入れ替わることの可能な対称的な存在であった。その世界において私たちはある時には動物を食べ、ある時には人間に変身した動物と交わった。他者の肉体を食べること、交わることによって、曖昧な主体である私たちは小さな死を経験する。
 さまざまな存在が入り混じり、そして変容していく様は圧巻の一言。
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アピチャッポン・ウィーラセタクン「亡霊たち」 東京都写真美術館

2017年01月12日 23時21分10秒 | 出会ったものたち
 去年、瑞牆山に登った帰り、バスの中でランダムにiPhoneが選曲したのが三宅純の「veins」という曲で、点在する街の光が車窓を後方に滑りながら明滅している中、その音楽はなんだか幻想的である一方、ある種の感興を催させた。バスは繋がった夜の中をどこまでも音楽と光を携えて走っていく。静かな夜の暗さに包まれて、このままバスがずっと走り続けていたらどれだけ素敵だろう。
 東京の夜とは違う、点在する光。その時ぼくは都会の夜ではなく、光がほとんどない、ないしはまばらな光が点在しているだけの寂しい夜がまとっている生々しい匂いに強くひかれる自分を発見した。都会とは違う。それでいて完全な闇とも違う。ぼくの乗るバスはそのちょうど真ん中くらいの光と闇の中を進んでいく。それはぼくをすごく興奮させたし、多幸感さえもたらした。
 アピチャッポン・ウィーラセタクンの描く夜を見ていて、ぼくはそんな瑞牆山の帰りを思い出した。知らない街に灯るまばらな光。そこには人工と自然の境界があった。未知の街と未知の人々と未知の地理があった。そこにはだからぼくの知らない異界と境界があった。「ナブア森のティーン」はまるで東松照明の写真のようにぼくの心を打った。異界からのぞくその存在は折口信夫の言うマレビトであり、まさに境界上に存在していた。
 その境界の不気味であると同時に魅惑的な佇まいはぼくたちの根源的な感情と結びついているような気がする。
 かつて映画「ブンミおじさんの森」でぼくたちを熱狂させたアピチャッポン・ウィーラセタクンの作品とまた出会えて、言葉にする以前にその世界に浸ってる。
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ラッパ屋第41回公演「ポンコツ大学探検部」

2015年07月02日 19時11分25秒 | 出会ったものたち


 久しぶりにラッパ屋の公演を見に紀伊國屋ホールへ行って参りました。
 舞台は通称ポンコツ大学(正式名称日本駒込通商大学、ついたあだ名がポンコツ大学)。今日は創設90周年記念セレモニーの日。どこでもそうだろうけれど、少子化などの影響で経営が厳しいこの大学では、寄付金を募ろうと、セレモニーに大々的にOBOGを集めたという背景で芝居は始まります。
 ポンコツ大学探検部にもOBOGがやってきます。30代この大学の非常勤講師や助教、それになぜかまだ現役の学生、40代の人生迷ってる男女3人、いろいろさまざまな十人十色の悩みを抱えた50代の感情移入できそうな面々。そしてこれらのOBOGと向き合わざるをえない学部生である現役部員。
 もう設定からして面倒くさいことになりそうな予感ぷんぷん。
 案の定いろいろ面倒くさいことになって怒ったり泣いたり、過去が暴かれたり、逃げていた過去につかまったり、そして紋切型でない上下の世代間格差に納得したり。ここで何より大切なのは、薄っぺらい紋切型ではなく、お互いの世代が相互主観的に自分を見つめなおす視点を持つこと。ここに作者の頭のよさを感じる。
 とはいえ、そんなにしゃちほこばった芝居ではない。笑って泣いて、そしてなんだかもうちょっとやっていけるんじゃないかって芝居小屋のドアをくぐる時にそんな風に思える。年を取るにつれ、自分の肉体を含めた、いろんなことの有限性を意識する我々の世代にぜひ見て欲しいお芝居でありました。
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写美開館15周年記念 カフェ・プロジェクション「映像人類学特集」

2010年07月23日 17時26分54秒 | 出会ったものたち
 昨日は恵比寿の東京都写真美術館で映像人類学の上映会。素晴らしかった。
 全3本なんですが、1本目はエチオピアの門付け夫婦。2本目はバリの影絵師。3本目はカメルーンのバカ(ピグミー)族の通過儀礼。
 こうした民俗的社会では富は共同体の外部からもたらされると考えられます。人間=共同体に対して自然=外部。全く離れた外部は人間には関係がありません。人間に関係のある外部は人間=共同体と自然=外部との境界に現れる外部で、そういう境界上に存在するものは、敬されながら、また疎んじられる存在になります。アルタミラやラスコーの洞窟で絵を書いた人たちは、まさに共同体と外部とを媒介する洞窟という中間地点で祈っていたわけです。そして、われわれの思考や脳の構造はその頃の人たちと基本的には変わりません。
 神は外部から訪れる来訪神として現れます。神は外部から訪れて、富をもたらすありがたい存在であると同時に、人を殺す怖い存在でもあります。
 日本でも富は外部から訪れるものでした。笠地蔵、花咲か爺さん、こぶとり爺さんなど、富をもたらすものは外部から訪れたもの、あるいは外部と接触したものでした。
 門付けは、だから、外部から富をもたらすために訪れる人びとです。共同体内の人間には、外部から訪れる人はありがたい存在である一方、怖い存在、そういうアンビヴァレントな存在でありました。エチオピアの門付け夫婦も、バスに乗って旅をしながら門付けをしている、共同体の外にいる存在なんですね。で、共同体はキリスト教の枠内、イスラム教の枠内で生活をしているのに対し、この夫婦はその垣根に頓着しない。それぞれの家で祝詞(?)を変えて門付けをするのです。ここに創唱宗教の世界の中での自然信仰の強さを感じました。ドキュメンタリーとしてたいへん貴重な作品でした。
 2本目のバリの影絵師はちょっとイマイチ面白くなかったんだけれど、白眉はバカ族の通過儀礼。これについては、ここに書ききれないほどの豊かな信仰世界を感じたので、いつか項を改めて。もうちょっと調べたいこともあるし。あれ見ながらマユンガナシだ、蓑笠だと、大興奮でした。アフリカ、カメルーンでの儀礼と沖縄に残存する儀礼、あるいは日本各地にある蓑笠への執着、こうした類似のものが全人類的に存在することの不思議さに圧倒されました。あと、殺して食らい、そして生む大地母神としての来訪神なども。
 刺激を受けたわけじゃないだろうけれど、8月に早稲田大学で幡屋神職神楽の上映会をやろうではないか、と今日話が盛り上がってきました。
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命の認識

2010年02月07日 18時09分37秒 | 出会ったものたち


 東京大学総合研究博物館で「命の認識」を見る。
 土偶やおびただしい土器片に始まり、これまたおびただしい人骨が展示される。その種類の豊富さが新たな発掘物の同定につながるわけだ。人類学的要素は最後の部屋で一転、そこには名前も説明もない、動物のるいるいたる死体と骨が。
 ホルマリン漬けされた、死産で産まれた象。象が意外と毛深い動物であることを知った。
 皮膚がはがされ、脳や眼球がとりのぞかれたキリン。
 そして美しいとさえ思ってしまった、おびただしい骨。
 この二つの対比がとても面白い。抽象性の高い無機質の骨の美しさと肉という有機物のもつ、思わず目をそらしてしまいたくなるむせ返るような存在感。しかし、命はその二つから成り立ち、そしてわたしたちの命はその肉によって養われる。
 安易な生命礼賛や動物愛護などは入り込めない、特殊な空間がそこにある。設置された冷凍庫には、たっぷり動物の死体が入っており、自由に開けて見ることができる(結露するので、なるべく早く閉めてね)。ふと目に入った死体の一部についているタグには「クロサイのペニス」とあった。
 いや、考えるというより感じ入るところの多い展示でありました。


 同時上映の「南太平洋80s」も大変面白い。展示物の解説資料が閲覧できるので、それを片手に見ると大変興味深い。

P.S.圧巻だった部屋は撮影OKだったので、楽しく写真を撮ってきましたが、ネットなどでの公開は禁止。だもんで、写真はなし。行くべし、行って自らの目で楽しむべし。
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桂枝雀

2007年05月31日 11時06分47秒 | 出会ったものたち
 最近「すびばせんね」と謝る桂枝雀の物まねが絶品だと評判のわたくしです。自転車で荒川沿いを走って熊谷だの森林公園だの行く機会が多く、その間ウォークマンで落語を聞いている(あくまで自転車道のみ。一般道ではウォークマンを外します)。
 今よく聞いているのが2代目桂枝雀。この人の訃報に接したとき、なぜ? と思ったけれど、聞き込むにつれ、なんだかわからんこともないなあ、と思うようになってきた(と、関西弁が移ったか)。
 彼の古典は、一見、変な声や顔で笑わせているように思われるかもしれないが、実は突き放したような遠くから生を眺めて語っていることに気づいた。
 その感を強くしたのが、自作のショートコント。実に、死と不条理と夢が多くテーマとなっている。
 「代書屋」だって、彼は遠くから代書屋の客を眺めている。そしてそれをきわめて意識的に演じている。だからこそ、あの抱腹絶倒が生まれるのだ。
 そんな中、ぼくが今んとこ一番好きなのは「貧乏神」。実に絶品である。貧乏神にまで同情されるどうしようもない男。女房にも逃げられ、仕方なく貧乏神が彼の世話を焼くようになる。長屋の洗濯物を引き受けて小銭を稼いで彼を助けるのだ。貧乏神が空を見上げ、「えぇ夕焼けやなぁ、明日もお天気えぇやろなぁ、洗濯もんがよぉ乾くわ」と一言つぶやいたとき、なんとも言えない風情に気持ちが満たされてしまった。
 荒川を走りながらふと見上げると、土手の上の空が青くまぶしかった。
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ミスター味っ子

2007年01月18日 07時30分52秒 | 出会ったものたち

 というテレヴィ・アニメをご存じでしょうか?
 もう20年前に放映されたものなので、知っている方はそれなりに年齢を重ねられた方か、あるいはマニアか。
 下町の日の出食堂を切り盛りする天才少年料理人味吉陽一。彼を巡る料理の大冒険番組で、料理のうんちくもさりながら、ぼくなどはただ料理を食べたあとのオーヴァーアクションが楽しみで毎週のように見ていた気がする(ステーキを重曹水につけるとか実用的なものも、もちろんあったけれど)。
 一口食べると巨大化して大阪城を壊したり、宇宙を飛んだり、とにかく派手。あるときなどは海の上を走ったあげく、最後は「地球の七割は海です」などと訳の分からないテロップが流れる始末。
 最近DVDを借りて当時を懐かしがっているのだけれど、一緒に見ている子どもたちにも大受け。今の彼らの感性をもってしても面白い何かがあるのだろう。
 そんな風にやはり好きな人はいまだにいる。
 その好個な例がこのYouTube。エヴァンゲリオンも見ていたよ、という人には是非お勧めです。いやあ、職人技だわ。
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のだめカンタービレ

2006年11月01日 09時37分45秒 | 出会ったものたち


 自転車に乗るようになって1ヶ月。西新井のテニススクールも自転車で行くようになった。車とカーステレオの生活から自転車とウォークマンの生活にシフト。
 東京という大きな街が小さな路地の積み重ねでできていることを肌で知った。
 西新井への橋を渡る。あちらにセイダカアワダチソウ。こちら側にはビル。間を悠々と流れる荒川。ウォークマンからはマーツァル指揮チェコフィルのマーラーの3番が流れる。音楽が見ている風景を詩的に変えてしまう。違う音楽を聴きながら渡ったときには、違う風景に出会うことだろう。
 のびやかで自然なこの演奏が大のお気に入りだ。
 このマーツァルをドラマに出演させ、おまけに演技までさせてしまうのだから、日本のテレヴィ局は凄い。「のだめカンタービレ」。ヴィエラ先生役にマーツァルが出てきたときにはびっくりした。
 だいたいあのドラマはかなり音楽好きな人間が作っているのではないか、と感じられるところが嬉しい。クラシカル音楽を題材にしているくせに最初と最後の歌はJ-POP(この言葉に少しためらいを感じるのはぼくだけだろうか? J-POP? 国電をE電にしたのは広まらなかったが、歌謡曲をJ-POPと呼び変えたのは大成功だったみたいだが。うーん、でも、なんかヤ)みたいなノリでないところが偉い。BGMの使い方も面白い。使われる曲はどこかで聴いた曲って感じの選曲だが(熊蜂の飛行とかラプソディ・イン・ブルーとか)、その中でもプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」は半分サブテーマのよう形で何度も使われる。そしてあの曲が流れるときには、たいてい黒い笑いがあったりするのも面白い。
 この間の回で峰と千秋がベートーヴェンの「春」を演奏している場面があった。ちゃんと演奏するって凄いことなんだ、と演奏していくにつれのめり込んでいく峰。すると奏でられるBGMがガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」。
 これ、大受け。ヴァイオリン・ソナタの演奏シーンに他の曲がBGMでかかる、とは!
 凄い発想だな。
 あとは漫画的リアリズムを実写でのリアリズムにどう変換させていくか、だな。とくにSオケが変わっていくこれからが見物である。
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風神・雷神図屏風展

2006年09月22日 10時49分54秒 | 出会ったものたち


風神・雷神図屏風展 出光美術館(~10/1)
 キュレーターの解説、アイデアが秀逸な展覧会。
 あまりにも有名な俵屋宗達の「風神・雷神図屏風」(教科書にも載っていたけれど、改源の「風邪ひいてまんねん」も有名か)。
 それを模写した尾形光琳、酒井抱一、合計3つを展示。これを面白くしていたのが、キュレーターによる風神・雷神各パーツの比較。形や味、絵の具のノリなどを拡大、比較したもので、3つ見比べたあと、これを見てからもう1度見ると面白い。
 あとになるにつれ、神のもつ猛々しい獣性が薄れ、より人間らしく、そして剽軽な風情を見せていく。それはまるで、神が次第に人間に堕落していく様を見るようで感慨深いものがある(もっとも酒井抱一は光琳をオリジナルと思っていて、俵屋宗達を見ていない、とのこと)。
 しかし、それは単なる低級なものへ移行する俗化だと言い切れるだろうか。ぼくはそこに何か新しい時代を開こうとする酒井抱一の意志のあらわれを感じるのだ。同時に展示されていた抱一の有名な「夏秋草図屏風」はもともと尾形光琳の「風神・雷神図屏風」の裏に描かれていたのだ。「夏秋草図屏風」の色のノリや使い方とセットで「風神・雷神図屏風」は考えるべきであると思う。すると新しい絵画様式である江戸琳派の誕生をそこに見ることができるのではないか。まあ、そうは言うものの、確かにおなじ抱一のものでも「秋草図屏風」の方が遙かによいものだとも思うのだけれど。
 それにしても、人が多かった! あとで調べてみたら、NHKの日曜美術館で取り上げられたとのこと。
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