実はここんとこずっと諏訪のことを考え続けてる。
人によっては、そういう時ってなんからしら啓示のようなものを受けちゃったりすることもあるらしいが、ぼくに関してはまるでない。
啓示っていうのは非情に精神的なものである。だから、啓示は要するに精神的な人間にしか訪れない。パウロやアウグスティヌスとかの回心は、単に偶然の問題ではなく、その偶然を自らの必然として認識できる精神性によるものであろう。したがって、ぼくに啓示のようなものが一切訪れないのは、ぼくの精神性が、いかにずぼらで、怠け者で、鈍感で、程度の低いものかを表しているような気がする。
ぼくはとても肉体的な人間なのだ。マッチョであるとか、ナイスバディであるとかではなく。
肉体的な人間と精神的な人間との違いは、反復の有無にある。
パウロもアウグスティヌスもたった一度の回心が生涯を決定した。二度目、三度目は必要ない。ヴァレリーの言う「精神の特権的瞬間」、吉田秀和が経験した「石」は一生持続するのだ。
それに対して肉体は反復を求める。どんなに美味しいものを食べても、ああ、オレはこれから一生この思いだけでいい、もう食べない、というわけにはいかない。美味しいものを食べたら、もっと美味しいものを食べたくなるし、別の種類の美味しいものを食べたくもなる。セックスだって、それが今までにないほどよい体験をしたら反復を求める(まあ、いわゆる「はまっちゃって」というやつ)だろう。ぼくにとってヴァーグナーがときに肉体的な感じがするのは、高校時代「はまっちゃった」からだったりする。
何年か前、国内線に乗ったとき、機内誌で鷺沢萠のエッセイを読んだことがあった。その少し前彼女が自殺したニュースを知ったので、なんだかとても感慨深かったものだ。
そこで彼女は沖縄での素敵な滞在について書いていた。自転車で気持ちよく坂を下ると、そこには美味しい料理屋さんがある。自転車での爽快な気分、そこで食べる料理のおいしさ。そうしたもののすばらしさを描いていたのだ。
それはとても素晴らしい体験のように思えたのだが、でも、彼女は自殺した。沖縄での素敵な気分とその後の自殺の選択という対比を考えるとなんだか悲しくなったものだ。
肉体は常に反復を求める。その上、死に対して無力だ。
「生ける身は悲し」。
写真は参考です(だから、なんのだよって)。
人によっては、そういう時ってなんからしら啓示のようなものを受けちゃったりすることもあるらしいが、ぼくに関してはまるでない。
啓示っていうのは非情に精神的なものである。だから、啓示は要するに精神的な人間にしか訪れない。パウロやアウグスティヌスとかの回心は、単に偶然の問題ではなく、その偶然を自らの必然として認識できる精神性によるものであろう。したがって、ぼくに啓示のようなものが一切訪れないのは、ぼくの精神性が、いかにずぼらで、怠け者で、鈍感で、程度の低いものかを表しているような気がする。
ぼくはとても肉体的な人間なのだ。マッチョであるとか、ナイスバディであるとかではなく。
肉体的な人間と精神的な人間との違いは、反復の有無にある。
パウロもアウグスティヌスもたった一度の回心が生涯を決定した。二度目、三度目は必要ない。ヴァレリーの言う「精神の特権的瞬間」、吉田秀和が経験した「石」は一生持続するのだ。
それに対して肉体は反復を求める。どんなに美味しいものを食べても、ああ、オレはこれから一生この思いだけでいい、もう食べない、というわけにはいかない。美味しいものを食べたら、もっと美味しいものを食べたくなるし、別の種類の美味しいものを食べたくもなる。セックスだって、それが今までにないほどよい体験をしたら反復を求める(まあ、いわゆる「はまっちゃって」というやつ)だろう。ぼくにとってヴァーグナーがときに肉体的な感じがするのは、高校時代「はまっちゃった」からだったりする。
何年か前、国内線に乗ったとき、機内誌で鷺沢萠のエッセイを読んだことがあった。その少し前彼女が自殺したニュースを知ったので、なんだかとても感慨深かったものだ。
そこで彼女は沖縄での素敵な滞在について書いていた。自転車で気持ちよく坂を下ると、そこには美味しい料理屋さんがある。自転車での爽快な気分、そこで食べる料理のおいしさ。そうしたもののすばらしさを描いていたのだ。
それはとても素晴らしい体験のように思えたのだが、でも、彼女は自殺した。沖縄での素敵な気分とその後の自殺の選択という対比を考えるとなんだか悲しくなったものだ。
肉体は常に反復を求める。その上、死に対して無力だ。
「生ける身は悲し」。
写真は参考です(だから、なんのだよって)。