毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

ブログの通信簿

2008年07月25日 10時03分01秒 | らくがき
 ブログの通信簿というのがはやっているらしい。別にgooのブログじゃなくてもOKみたいなので、是非お試しを。
 さっそくやってみた結果がこれ。実に普遍性とは別種の「普通性」バリバリ全開ですな。凡庸というか、平凡というか。
 詩人を目指せって言われてもなあ、凡庸な詩人ってなんだかもっとも不必要な存在のような気がするし。
 「信じられません。ほんと、目立たない普通の子でしたよ。」などとインタビューで語られるタイプだな。
 ただ年齢が35と出たのは、若いじゃないですか。なにをもって35歳と思ったのやら。
 直近10件のエントリを解析して結果を出しているので、次回から、「まさか、ツ→儿・├〃・フラ冫スをス勺→├から生放送するとは思ぃもょらなかった★」という文体を駆使して年齢の変化を見てみたい。
 やんないけど。
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先週の読書

2008年07月23日 00時56分47秒 | 読書
 久しぶりに体重が60kgを切った。
 いろんなダイエット法が巷でもてはやされてるけれど、自転車に乗れば簡単に痩せられる。自転車いいね。でも、たった60km走っただけで頭くらくらっすよ、この季節。脳のタンパク質が変質している感じがするんっすよ、走りながら。ああ、また海馬の細胞が壊れていく。台所の引き出しを開けて、あれ? 何とろうとしたんだっけ? などと固まることが多くなるのか。
 それはそうと、どうなってしまったんだ、Fマリノス。
 負のスパイラルというかサッカーの暗黒面というか、何かおどろおどろしたものがピッチに渦巻いていて、マリノスの選手達がみんな引きずり込まれているかのようなそんな6連敗。5月になってから一度も勝ってない。木村和司がJリーグタイムでものすごく不機嫌だったのがおかしかったが。それにしても、たった半年でここまでチームを悪くさせたあの監督の手腕はすごい。オーストラリアに送り込みたいね。


藤田宜永「転々」       新潮文庫
 先日、映画「転々」を見てよかったので。
多くの場合、原作より映画の方がイマイチ感漂ったりすることが多い。一つには詰め込める題材の量。エピソードにしろ、描写にしろその中身は圧倒的に小説の方が濃くできる。誰も全18時間の映画など見たかないからね。それから演出的あざとさ。これも映画の方があざとい。小説にもあざといものがある。しかし、そのあざとい小説を読解し、演出する過程で二重のあざとさが生まれてしまう。
 ところが、この「転々」について、それが当てはまらない。むしろ原作の方があざといのだ。とくに麻紀子。これはあざといだろう。やりすぎだろう。
あの映画は、設定だけ小説から借りて、ほぼ独自のストーリーを展開していたのか。それであれか。すごいな。あの監督は作家としてもすごいんじゃないか。
 映画と違ったよい点、それは小説の舞台がぼくの地元。なんか嬉しくなっちゃうね、そういうのって。
「気がつくと、六義園の横を歩いていた。周りは高級住宅街で、田園調布のお屋敷街に迷い込んだような錯覚に陥った」
 これはこないだ書いた「美意識過剰?」で書いた鳩山邦夫んちのあるところのこと。


梅原猛「神と仏」対論集第2巻         角川学芸出版
 そうか、ニーチェやハイデッガーはフランスの方が研究が進んでいるのか。なるほどね、ナチとの関連でね。それにしても中沢新一は刺激的だ。
 ところが肝心の梅原猛がぱっとしない。中沢新一は関心範囲が重なるからまだいいものの、松井孝典、日高敏隆との対談になると、なんだか上滑りしている感じがする。
 松井孝典の外惑星についての話にはなおざりな返事で流しつつ、柿本人麻呂の話になると、「戦争中も何度も『万葉集』を原典で読んでいた」と発言。おいおい、原典以外の何語で読むんだよ、「万葉集」を。英訳か? 欧米か?
 日高敏隆とドーキンスの話になると、論理性は破綻し、日高の利己的な遺伝子に関する説明に「それもわかるんです、よくわかるんですが、ドーキンスが「これでもかこれでもか」といろいろな事例を挙げますね、利他的に見えているものが、実は利己的なものだ、と。これが僕には耐えられんのです」って、単にあんたの好き嫌いだろうが。
 日高敏隆との対話に至っちゃ

 梅原 植物は何らかの方法でこの世界を感じて、やはり抽象化している。知能があるんです。
日高 植物に知能があるかどうかはわかりませんが。

 なんだか武者小路実篤の「ますます賢く」を思い出す。いや、あそこまでひどくはないが。


高橋源一郎「ジョン・レノン対火星人」   講談社文芸文庫
 ああ、悲しい、悲しい話だ。
 ポルノ小説家の主人公。
 主人公の恋人「パパゲーノ」。
 東京拘置所から釈放されたものの、様々な死体が頭を離れない、精神を病んだ「すばらしい日本の戦争」。
 片方の足の運動機能の損なわれ具合がリリックな「ヘーゲルの大論理学」。
 かつて英雄的闘志であり、現在「横浜福富町トルコ『ハリウッド』のNO.1ホステス」の「テータム・オニール」。そして同僚の「石野真子」。
 これらの人々が「すばらしい日本の戦争」の病を巡って献身的に働く本筋に、なんとも楽しくもの悲しいエピソードがからんでいく。
 勃起しない資本論おじいちゃんをものの見事に勃たせ、性交に導いた石野真子。
「ああ……おまえは資本論・第1巻だね? そうだね?」
「ええ、そうよ、わたしはフランス語版資本論・第1巻よ、おじいちゃん」
 爆笑。わざわざフランス語版ってとこがおかしい。マルクスの改訂が入ってるから、特別なんだね。
 ここに描かれているのは、暴力、エロス、死と他者、そして義。奥泉光の「バナールな現象」につながる感じがする。
 あと、内田樹による解説が白眉。今読んでいる高橋源一郎の「ニッポンの小説」に見事重なるテーマ。内田樹の「死者と他者」が高橋源一郎に与えた衝撃は大きかっただろう。2chでの「お前は俺か」的な。
 死と他者は、たとえばカミュの「異邦人」を読みほどくのにも有効な視点であると思う。今月の原稿は「異邦人」にしようっと。
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2008 夏

2008年07月22日 09時42分45秒 | 写真







 夏の三連休。海や山へ出かける行楽客も多いことでしょう。
 という時候の挨拶っぽく、夏の写真。


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ロードムーヴィー2本立て

2008年07月15日 12時40分55秒 | 映画

 ロードムーヴィーを2本見た。
 旅を経て人や人間関係が変化する。フランク・キャプラの「或る夜の出来事」以来のお約束であり、そこにロードムーヴィーの醍醐味がある。人格の変貌とは、一度古い人格が死んで新たな人格が誕生することから、旅は死から再生へ至るイニシエーション儀式と言うこともできる。
 事実、巡礼はそのためにこそ行われるのであるわけで、したがって、1本目の「サンジャックへの道」はその意味で、まさにロードムーヴィーの王道を貫いている映画と言っていいだろう。3人兄弟の母親が死ぬ際、遺産が欲しくばサンジャック(フランス語ではそう。日本ではスペイン語のサンチャゴ・デ・コンポステラの方がポピュラーかな)への巡礼を兄弟揃って行え、さもなくば福祉団体にすべて寄付してやる、と遺言を残したため、旅立つ3人。実業家だがストレスで薬に頼り、しかも自殺願望の強い妻に悩む長男、頑固で寛容さに欠ける教師の妹、アル中で人に頼り切り無職の末っ子の仲の悪い3人が巡礼ツアーに参加するのだが。
 サンチャゴは中世から有名な巡礼場所。そのため聖女フォアを奉るコンクなど教会関係の見所も多い。しかし、この監督はそれらを描こうとはしない。だいたい9名からなるこのツアー参加者だって教会からすれば、おいおい、と思うようなのばかり。病気の女性はともかく、あとは、この3兄弟に、山歩きと勘違いした女子高生2人、イスラム教徒のアラブ人2人(おいおい)。サンジャックの証であるホタテ貝をつけている人間もいない。
 そう、この監督はキリスト教や教会を描こうとはせず、旅の途上の風景とその中にある人間を描いているのだ。つまり、人間関係が変わったり、人格が変わったりするのは、信仰心や宗教のおかげではなく、彼らの徒歩による1500kmにおよぶ旅によってなのだ。
 美しく峻厳な自然の中、文盲のアラブ人、アル中の弟、いろんな人が係わり、変わっていく。奇蹟は起きないが、旅は人を変えるのであった。王道っす。



 もう1本のロードムーヴィーはそんなに長い旅をするわけではない「転々」。こちらも徒歩による旅、ただし都内。
 ぼくの好きなオダギリジョー(この人とメルヴィル・プポーが男優では二大お気に入りなのだ、あ、でも「ぼくを葬る」限定)は大学の法学部8年生。80万円の借金があり、取り立て屋の三浦友和からきびしく催促されている。そんなある日、三浦友和が100万やるから俺の東京散歩に付き合え、と。
 二人を取り巻くいろんな小ネタが面白い(とくに岸辺一徳のいじり方のおかしさ)。小ネタを振りまきながら二人の散歩が続いていく。ネタバレになるから、何のための散歩なのかは言わないけれど、小泉今日子の家に転がり込むことで散歩はクライマックスを迎える。
 それにしても小泉今日子がオダギリジョーのお母さんとしておかしくないことにかなりの衝撃を受けた。そこで鉢合わせしたふふみ役の吉高由里子が収穫。すばらしい。赤の他人が4人(小泉今日子と吉高由里子は叔母姪役だが)集まって、どこにもない雰囲気の家族が出来上がる。花屋敷のシーンにジーンと。
 今の東京、バブルの爪痕の残る東京なのに、不思議となにか懐かしい風景と相まって、なくなってしまったものの温もりを感じさせる映画だった。
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先週の読書

2008年07月14日 08時58分00秒 | 読書
 妻が半月ぶりに帰って来てしまった。中学生の息子が最近友だちと出かける(昨日も横浜までマリノスの負け試合を見に行ってきたし)ので、娘と二人、なんだかちょっぴり甘やかな時間を過ごしていたのだが、それも昨日まで。昨日は二人で近所にある「太陽のトマト麺」を食べに行った。いろんなものを半分コ。こないだは葛西臨海公園に二人で行ったし、娘がデート相手。いいんだか、悪いんだか。それも寂しい話だ。


明川哲也「メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか」    文春文庫
 傑作!
 勤めているレストランで火事を出し(彼が犯人ではないのだが)、多額の賠償金を請求されそうな中年男。アパートメントの天井をはう水道管にひもをぶらさげ、縊死しようとするのだが。
 そこから始まるメキシコを巡る冒険。不幸な始まりだが、物語は決して不幸ではない。なんらかのアクションに対して大いなる自然がリアクションを起こしてくれるのだから、決して不幸ではない。不幸は、自分の行動が孤絶しているときに訪れる。だから、確かにハッピーな話ではないが、不幸な話ではない。
 美しい描写も素敵だ。ドリアン助川という名前で叫ぶ詩人の会というバンドをやっていたらしい(そのあたりは知らないのだが)が、言葉に対する感性が素晴らしい。


京極夏彦「対談集妖怪大談義」     角川書店
 「近代以前は迷信がまかり通っていて、呪術的なものが公に信じられていたんだという錯覚があるわけですが、僕はまったく逆なんじゃないかと思うんです。昔はお約束が社会的に機能していただけで、信じてるというならむしろ今なんじゃないかと」
 これに大いにうなずく。
 よくスピリチュアルなどとぬかす小太りの親父のことを話題にするが、あんなのをテレヴィで放送すること自体、変な時代だと思う。
 他に、もともと子供の霊なんて仏教では存在しないというのに、水子供養という形を作ったのは、供養ではなく、子供を失った親への癒しのためだった、という論も面白い。親として後ろめたかったり、辛かったりする感情の芽生えに対して仏教がとった癒しの対策だったのだ。


中原昌也「エーガ界に捧ぐ」     扶桑社
 はははは。こいつは、ったく。
 自分で書いてる媒体に対して「まぁ、いいさ。どうせこのページを読むような輩は『何かバカ笑いできるようなこと書いてないかぁ』なんて考えている、本当にしょうもない奴ばっかりだろう。そんな堕落した人間に、素晴らしい作品を紹介しても無駄さ………」って、おい。
「ま、どうせ僕の原稿の読者なんて本当のところ『バトル・ロワイヤル』みたいにハレンチで低能な唾棄すべき映画を喜んで見ている救い難いイモしかいないんだろうが」歯に衣着せぬとはこのことだ。
 お勧めの映画を見てみないことには、あれだけど、それにしても、見てない映画が多い。


中沢新一「古代から来た未来人」     ちくまプリマー新書
 たぶん高校生くらいを対象に書かれた本(中学生も可かな)。内容は「精霊の王」に近いが、もちろん読みやすい。
 「明治以来、政府内のイデオローグたちはたいした見識もなしに、神道をキリスト教に向かいあえるほどの宗教に仕立て上げることができるなどと信じて、日本人の霊性の伝統に致命的な打撃を与えるような、めちゃくちゃな施策をたびたび断行してきた。
 その過程を通じて、神道は国家の「正義」をささえる、国民の倫理性の源泉としての位置づけを与えられるようになった。つまり、神道は合理化されて、近代主義の逆立ちした表現形態に、たどりついてしまうことになったのである。
 土地土地に根づいた古い形をもった神道が、日本人の生活を導く倫理の源泉となってきた歴史的事実が、近代国家としての日本の「国民」を薫育し、教化していくための道徳原理ともなる、という合理的な形にすりかえられてしまった。その結果として、神道はその内的な生命を萎縮させ、頽廃させることになったのである」
 南方熊楠が反対した神社合祀など、明治政府がどれだけ日本国民の伝統や霊性を破壊したか。爪痕は各地にあるし、破壊された霊性は二度と戻らないのだ。
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四万六千日

2008年07月11日 09時23分05秒 | らくがき
 快楽は永遠にして回帰を求める。永劫の回帰から脱するためには、だから、快楽を貪る気を滅却しなくてはならない。これが般若(智慧)である。
 というわけで、昨日は四万六千日。
 おお、葛西臨海公園から強引にもっていく前フリだこと、我ながら。
 精神の特権的瞬間が繰り返しを求めなくても持続するのに対して、肉体的悦びは繰り返しを求める。その二つに引き裂かれる自分。マラルメの言う「生ける身は悲し」は、ぼくの変わらぬテーマである。世間一般では肉体的なことよりも精神的なことの方が上だとか気高いとか思われがちだろうが、大間違いだ。ある意味たかだか大脳新皮質の妄想に過ぎない精神が、最初の生命が誕生して以来脈々と受け継いできた野生である肉体より上のわけがないのだ。
 本能が壊れてしまった肉体が、それを補完する精神を必要とした、あるいは精神が本能を壊した、か。いずれにしてもどちらが上という問題ではない。だから、「結局からだ目当てだったのか」(あえて男言葉)という言説はおかしい。言われたことないけど。
 あああ、話がどんどん四万六千日から遠ざかる。
 夏の暑い中、この日にお参りすると四万六千日お参りしたのと同じ功徳があるとされた日。落語の「船徳」は四万六千日が舞台で、うまい演者が語るとうだるような暑さの中、蝉の鳴き声が聞こえてきそうだが、でも、暑くない。去年は暑かった覚えがあるが、今年は暑くない。少なくとも2年前は暑かった。もっとも旧暦の7月9、10日は今の8月だから、暑い中ご苦労さん感は昔に比べれば乏しいのは致し方あるまい。
 護国寺の本堂に入って太鼓を聴いている内に、酩酊感が沸き上がってくる。水木しげるが台湾で神のようなものを見ることができたのも、太鼓の雨の中だった。笛はこの世ならぬものを呼び、太鼓は我が身をこの世ならぬところへ連れて行く。太鼓のあとは声明。ああ、これはグレゴリオ聖歌じゃないか、と思う、逆転した考え。どう考えても、カトリックの修道院より寺の方が身近なのに、音楽に関しては逆。小学校の音楽教育が西洋音楽に偏りすぎているのも問題であることも確かだけれど、われわれが江戸以前の音楽とは完全に断絶したところから音楽を始めてしまったことが一番の問題なのかもしれない。乱拍子はもう能楽堂だけの作法である。
 いずれにしても、グレゴリオ聖歌にしても声明にしても、その中に浸っていると大変心地よいのである。α波がたれまくりなのである。肉体的な気持ちよさで満たされる。激しいセックスや美食のあとに感じる倦怠とは無縁の気持ちよさ。あああ、これが癒しってヤツなのか。俺は癒されてしまったのか。「癒し」なんて言葉嫌いだったのに。
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荒川河口橋

2008年07月08日 14時29分33秒 | 観光
 バカの一つ覚え、という言葉はぼくのためにあるんじゃないか、と葛西臨海公園でたたずみながら思った。でも、荒川サイクリングロードが一番走りやすいし、帰り追い風になるためには南下するしかないし、で、その終点がここなんだから、致し方ないのであった。
 でも、まあ、たまには気分を変えて、サイクリングロードではなく一般道でアプローチ。
 江戸川橋~飯田橋~神保町~錦糸町、ここから東に南にグダグダ走って国道357号線、いわゆる湾岸道路に到着。荒川河口に出る。都内は革命かテロでも起きたのではないか、と思うほど、警官で覆われていた。


 この橋を渡ればもう葛西臨海公園はすぐそこ。ところがこの橋が難物だったのである。
 なにしろぼくは高いところが苦手。写真だとそんなに高くないように見えるかもしれないけれど、映っているトラックの先もずっと上り坂である。葛西の大観覧車の半分くらいはありそうだ。


 ところが身を守ってくれる柵の高さはこんなもん。サドルと比べてもらえればおわかりだろうけれど、上半身のほとんどは柵の上。ものすごい横風が吹きすさぶ中、ぐらっと揺れて柵に当たったら堕ちる。あ、変換が格好いい。堕ちるのだ。堕天使と化してしまうのだ。ルシフェルになってしまうのだ、ってしつこい。
 まあ、ドキドキしながら公園に着いてみると走行距離が20km。サイクリングロードを使うより圧倒的に近い。そりゃ、そうだ。葛西へ南下するのに、まず北上してサイクリングロードに入るんだから、近いのも当然。
 と土曜日にいい感じで葛西臨海公園に行ってニコニコのわたしを、翌日、予想もしなかった出来事が襲うことになるとは、まだ知るよしもなかったのであった。
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先週の読書

2008年07月07日 13時14分50秒 | 読書
 もういい加減まずいんじゃないか、このままじゃ。出生率の低下と自殺率の高さと、そしてFマリノス。出生率の低下と自殺率の高さは、この国が住みにくい国だということの証であるから、政治家たちはもっと問題にしてもいいと思うのだが、やつらの考えてることはよくわからないな。Fマリノスに至っては、何も改善しようとしないところがすごい。14位。J2がすぐそこに見えている。

岡野宏文/豊崎由美「百年の誤読」    ぴあ
 最高。
 大笑いして、ワクワクしながらページをめくった。明治以来100年間のベストセラーを論評する二人。豊崎由美は「文学賞メッタ斬り!」でも歯に衣着せぬ毒舌が楽しかったが、名作に臆せず、権威に媚びず、テンションそのまま全開で日本文学史(ベストセラー史、か)を駆け抜ける様は快感。
たとえば高村光太郎の「智恵子抄」。
 岡野「この高村光太郎の『智恵子抄』ってのどうなの? 世評は高いんだろうけども、詩の技巧としてどうなの? 繰り返しが多すぎやしないか」
 豊崎「リフレインが叫んでる(C松任谷由実)」
 岡野「とにかく同じことを何度も何度も何度も……くどいっ!」(略)
 豊崎「この『人類の泉』には光太郎の傲慢さが端的に現れてますよね。〈あなたは私の為に生まれたのだ〉だって! バカこいてんじゃねーっつーの」(略)
 岡野「有名な『あどけない話』だって、よく読むと非道な詩なんだ。〈智恵子は東京に空がないといふ。〉ってあるけど、普通の亭主だったら自分の奥さんがそんなあやしげなこと口走ったら、かなり精神的に追いつめられてるんじゃないかって心配するだろ。なのに、光太郎ときたら〈あどけない空の話である。〉なんて能天気に締めくくってる」

 ちなみにトリを勤めるベストセラーは「世界の中心で、愛をさけぶ」。その下品なタイトルを聞いただけで(いや、タイトルが下品なんじゃなくて、そのパクリ方が下品きわまりない、と。「世界の中心で愛を叫んだけもの」をパクったのか、「世界の中心でアイを叫んだけもの」をパクったのか、どっちなのかは知らないが。いずれにしても下品)、たぶん、一生読まないと思ったけれど、二人の評を見て、書評って大変だな、とほとほと感じた。
 あと、競艇の親玉曽野綾子って、今まで読んだことなかったけれど、生理的に受け付けないことがわかったことも収穫。
 とにかくこの本は多くの人に是非読んでもらいたい。


火坂雅志「天地人」(上下)     NHK出版
 兜の前立てに「愛」と書いた上杉家家老直江兼続の物語。
 うーん、普通の歴史小説。とりたててどうの、というものではなかった。
 あと、変なページ稼ぎはいらない。
 「春日山城は、
  為景
  謙信
  景勝
  とつづいてきた」
 って、これ、1行で済む話だろ、どう見ても。こういうの多すぎ。


辛酸なめ子 訳・絵「『新』訳 星の王子さま」       コアマガジン
 訳ったって、誰かが日本語訳したものを、彼女が味付けしてるってことで、訳でもなんでもないだろ、それって。
 と、のっけからいちゃもんつけたが、まあ、でも、一応目を通す。味付けで個性を出さなければならないため、なんだかその独自部分が浮いてしまっている。
「偏差値至上主義の大人たちによって、私の夢、そして才能は潰され、6才にして絵筆を折り、絵描きの道はあきらめざるを得ませんでした」
 1940年代のフランス人の話に偏差値至上主義者たちはとってつけたような気がする(こんなんばっか)。
 百歩譲ってそれもよしとしよう。
 しかし、どうしても「よし」とできないのは、3本のバオバブ(サンテックスもちゃんと3本のバオバブの絵を描いている)を、よしゃあいいのに、わざわざ、「3,4本のバオバブ」と変えて、4本のバオバブの挿絵をつけたことだ。このバオバブは3本でなくてはならないのだ。4本じゃ何の隠喩にもならないだろう。日独伊三国同盟というものを知らないのか、こいつは。
 自分の個性を出したいのなら、サンテックスの話ではなく、自分の話で個性を発揮すればいいのである。これを読んだ人が「星の王子さま」はこういう話だと思いこまなければいいのだけれど。
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海へ

2008年07月04日 23時58分59秒 | 観光
 なわけで自転車で海へ。


 ぼくも今年初めての海水浴。近くにいた少年たちのシルエットがよかったので1枚。
 明日も海へ行こう。
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