「癒し」という言葉が好きじゃない。せっかくの屈折を安易に癒されてたまるか、と頑なに拒んでいる部分がぼくの中にはある。そんなのなんだか飼い慣らされているような気がする。養殖されているような気がする。
養殖なんてイヤだ、ぼくは野生のおじさんになりたいんだ。手から餌もらったりしない。ぼくを餌付けしようたって無駄だ。ぐるる。みたいな。
そんな野生のおじさんたちが集うコロニーを作りたい。たまに餌付けされて里に連れてかれるおじさんを、ぼくたちは木々の隙間から見つめてる。あいつの魂はけがされた、と。体中、最高に警戒感をみなぎらせながら。
コロニーは、しかし、人口が減る一方だ。
われわれおじさんたちが集ったところで、どう工夫しようが、新たな人口創出は望めない。われわれのコロニーは、いつか滅びる。
ある晩、最後の一頭となったおじさんは、あまりにも気温が低いので結晶の形のまま降る雪に包まれつつ、静かな夜、息を引き取る。自分の死は、本来自分個人の死であるのに、それが種族全体の死の同義であることを実感しつつ。そしてそれは、はるか昔、最後の恐竜が死に絶えた時と同じ感覚であることを理解しつつ、おじさんはまぶたを閉じる。閉じたまぶたの重なる冷たさが、おじさんの最後の感覚だった。
おじさんという存在は、たぶん、それくらい美しい死に値する。
養殖なんてイヤだ、ぼくは野生のおじさんになりたいんだ。手から餌もらったりしない。ぼくを餌付けしようたって無駄だ。ぐるる。みたいな。
そんな野生のおじさんたちが集うコロニーを作りたい。たまに餌付けされて里に連れてかれるおじさんを、ぼくたちは木々の隙間から見つめてる。あいつの魂はけがされた、と。体中、最高に警戒感をみなぎらせながら。
コロニーは、しかし、人口が減る一方だ。
われわれおじさんたちが集ったところで、どう工夫しようが、新たな人口創出は望めない。われわれのコロニーは、いつか滅びる。
ある晩、最後の一頭となったおじさんは、あまりにも気温が低いので結晶の形のまま降る雪に包まれつつ、静かな夜、息を引き取る。自分の死は、本来自分個人の死であるのに、それが種族全体の死の同義であることを実感しつつ。そしてそれは、はるか昔、最後の恐竜が死に絶えた時と同じ感覚であることを理解しつつ、おじさんはまぶたを閉じる。閉じたまぶたの重なる冷たさが、おじさんの最後の感覚だった。
おじさんという存在は、たぶん、それくらい美しい死に値する。
「美しいおじさん」を読んだらとても下品な想像をしてしまった、、
私はたぶん「汚いおばさん」(笑)
それにしても、ほんと「癒し」という言葉、異様に耳にするような気がします、最近。
『例えば美しい自然を目にした時に感動する、しかしそれは自然が人を癒やすからではなく、人が自然の荘厳な美に打たれるからである。感動という言葉の代わりに癒やしという言葉を使うと、治療台の上で施しをうける病人のような気分になる。「癒やし」という言葉からは、甘ったれた、うさん臭い匂いばかりが立ちのぼる。日本人の多くが神も仏もない大海を漂流するようになり、この安直でイヤシイ言葉を使いだした。』
私も「癒やし」という言葉は好きではありませんが、7年ほども前のこの文章をわざわざ切り抜いて保存しているのは、これ以上安直にならぬよう自らを戒めるためです(笑)。
最近よく思うんですが、マイナスの感情や心持ちって、「癒し」などで即座に解消すべきものじゃないと思うんです。そこから生まれるもの、そこからしか生まれないものってあるんじゃないか、と。
いつか「癒し、スピリチュアル、ロハス」のここが嫌いみたいな、心横向いてる人間らしいエントリーをアップしようかと思ってます。