不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

今週のCD&DVD

2009年01月30日 09時01分49秒 | 音楽

 土岐麻子「Weekend Shuffle」
 懐かしい! ギガナツカシス。
 だって1曲目が「君に胸キュン」。
 3曲目の「Downtown」、5曲目の「土曜日の恋人」は誰が歌ったかどうかよりも、たぶんぼくの年代の人にすると「俺たちひょうきん族」のテーマ曲だったという思い出があふれるのではないか。どっちも山下達郎関連で、「Downtown」はシュガーベイブの歌をEPOがカバーしたやつが使われてた。おいおい、シュガーベイブなんて言葉をキーボードで入力したのは初めてかもしれないぞ、懐かしすぎるぞ。
 声は特徴のあるかわいい声で、この声だとこういう古い歌を歌っても古びず、今の音楽のように聞こえる。
 アレンジも面白い。1曲目なんかすごくストレートなビートを刻んでるかと思えば、中間部はジャズのようにソロを回して、そこが結構凝った音楽になってたり、で、それ以降はどの楽器も大活躍してる。最初は抑え気味にして、中間部から凝ったことやるなんてニクイじゃないっすか。バックの音楽聴いてるだけでも面白いCD。



 「亀は意外と速く泳ぐ」
 今更っす。
 もちろん、小ネタもオールスター個性派俳優勢揃いって感じの出演陣もいい。だが、上野樹里の女優生命を賭けたんじゃないかって感じのパーマはすごい。見応えあり。
 何をやってもそこそこ、普通、平凡な人生を歩んできた専業主婦(上野樹里)。ある時ふとしたきっかけで見つけたスパイ募集のちらし(切手大!)に応募する。
 スパイとなった彼女は、怪しいと思われないように今度は意識してそこそこ、普通、平凡な人生を送るよう勤めなければならなくなる。布団はどう干せば平凡なんだろう。
 スパイものでありながら、舞台はその辺の商店街というアメリカ映画とは真逆を行くスケールの小ささ。ゆる~い感じの笑いの中話は進んでゆく。いつまでも続くかと思われたゆる~い感じのスパイ生活(という名の日常生活)だったが、やがて商店街の広告放送が暗号(グランドキャバレーファイヤーダンス)で非常呼集を告げる。場所は近所の公園だ。子どもの待ち合わせかよ。
 平凡な彼女は果たしてどうなるのか。
 いやあ、いいなあ、このノリ。つーわけで来週は「ダメジン」かな。



 KKP#5『TAKEOFF ~ライト三兄弟~』
 「good day house」「Sweet7」「Paper Runner」「Lens」に続く、KKP第5弾。ぼくはどれも大好き。今回は3人だけの芝居。
 旅行代理店を首になった飛行機マニア、自転車で旅をしている若者、離婚して子どもと離れて暮らしている大工。飛行機の見えるビルの屋上で3人は出会い、やがて協力してライト兄弟の残した図面から飛行機作りに携わる。
 笑いは相変わらずで、たいそう笑えるのだけれど、そこに少し味わいを加えようという意図を感じる。登場人物をワケアリにしたのもそう。語りを入れたのはキャラメルBOXっぽくてなんだか懐かしい芝居の手触りを感じた。
 観客を巻き込んでいく手法も見事。最後、音楽に合わせて手拍子の演出はライヴ感があるし、なんだか演劇として「うまく」なっていく様子がうかがえた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小石川植物園 梅とメタセコイヤ

2009年01月29日 17時46分09秒 | 写真
 結局コンパクトカメラしかないのは不便だと、ヤフオクでα100を手に入れてしまった。
 

 満開の木もあったし、これからの木もあったけれど、今でも十分楽しめます。



 メタセコイヤ。
 小石川植物園って、小学生の頃遠足、そう文字通り歩いて行った。6年生が1年生と手をつなぎ、5年が2年、4年が3年と。全校で毎年、遠足。ぼくの行ってた小学校は1学年2クラス、しかもようやく2クラスできた少人数制(うそ。ただ単に住人が少ないだけ)。小さな学校だから全校そろって歩いて遠足なんてできたんだよなあ。今その小学校は1学年5人とかで、過疎はますます進んでいるらしい。



 しばらくはこのカメラと付き合っていきますか。
 上1枚は18-200mm、下2枚は50mmマクロで撮りました。


 大空は梅のにほひにかすみつつ曇りも果てぬ春の夜の月   定家
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津 白虎隊

2009年01月29日 14時11分21秒 | 観光

 白虎隊で自刃した19人の墓。
 その武士精神に感激してドイツ、イタリアから贈られた碑がある。第二次世界大戦後、アメリカ軍によって壊されたり、碑の文面など削られたりしたが、現在は修復されてここに立っている。
 一人生き残った飯沼貞吉はここから少し離れたところに眠っている。


 15,6歳の少年たちで作られた白虎隊を率いるのは大人の藩士だったが、その藩士が食糧を探しに出たまま朝になっても戻らない。少年たちは煙を出している鶴ヶ城を見て落城したものと勘違いして自刃した。なんという悲劇。
 鶴ヶ城はそのあと1ヶ月以上も持ちこたえたのに。
 

 この写真じゃわからないけれど、左奥にあるひときわ高いビルの右側に鶴ヶ城がある。 目がよかったんだなあ。肉眼でもほとんど見えなかった。
 会津戦争は悲惨だった。家老である夫を送り出し、後顧の憂いを断つために子どもを殺して自殺した西郷頼母の妻。武器をとって戦い、そして死んでいった子どもや女性たち。
 朝敵とされたせいか、白虎隊資料館には皇室との結びつきを宣伝するものが多く見られた。紀子さんの曾祖父が会津藩士だということでこの間生まれた子の写真飾ったり大喜び。
 会津のやったことは正しいことだったと思う。ただ、正しいことと勝ち残ることとは違うんだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津 さざえ堂

2009年01月28日 15時16分32秒 | 観光
 会津のさざえ堂があまりにも遠いため、青春18きっぷで行くのをあきらめたことがあった。当時ぼくにとって鉄道はまだ移動の手段にすぎなかったのだ。その代わり、去年の6月自転車で児玉にあるさざえ堂を見に行った。残念なことに見学期間が合わず、さざえ堂を見ることはできなかったのだ。こちらにその顛末

 しかし、今のぼくは少しテツ分が増えてきたらしく、鉄道に長時間乗ることがストレスどころか楽しみにすら思えてきた。そんなわけで朝7時半に池袋を出発して、午後1時半に会津に辿り着くという、昔だったら考えられないことを行ったわけだ。
 電車を降りると雪国に来たんだという感慨ひとしお。家を出るとき、スニーカーをはこうとしてふと、防水の登山靴を選んだ自分にグッジョブと親指を立てる。いや、スニーカーだったら偉い目にあったはずだ。東京でこれくらい積雪があったら必ず死者、骨折などの負傷者が出るのだけれど、雪国の人たちは慣れたもんである。ぼくもすいすい歩く。
 駅から飯盛山まで歩いて30分ほど。中腹あたりにあるのがさざえ堂だ。


 登る回廊と下る回廊が出会わない一方通行のお堂。建物に水平部分が少ないので、見ているとなんだかこっちの目がおかしいのか錯覚してしまう。
 このさざえ堂の切符売り場のおばさんがナイス。不思議な雰囲気を醸し出している。高く張った声でずっと歌うようにお堂の説明を続けている。神田の藪蕎麦のおばちゃんが注文し続けているのに似ていると言えば、おわかりになる方もいるかもしれないな。


 中は階段ではなく延々スロープが続いている。昔は観音さまが祀られていたらしいが、明治になって皇朝二十四孝に変えられた。会津だから気を遣ったんだろうか。
 この構造は特異で、登りと下りが二重らせんによって作られている。すごい。


 さざえ堂の頂点から見た会津若松。この上から見る会津若松という図は白虎隊ぽいな、と感じてしまう。鶴ヶ城を探すが見つからず、このあと白虎隊んとこまで登って探そう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先週の読書

2009年01月26日 15時05分28秒 | 読書

 中沢新一「神の発明」     講談社選書
 スピリットから一神教が生まれる、その現場に立ち会える良書。
 国家を作る、王を作る要素をそろえながら国家を作らなかった人たち。一神教の要素をすべて持ちながら一神教に進まなかった人たち。この2つがパラレルな関係にあることをこの本は示している。
 一神教というとわれわれのイメージはユダヤ教、キリスト教、それにイスラム教であろう。この中でキリスト教だけ異色の存在である(ここで言うキリスト教はアタナシウス派のこと。アリウス派は別)。キリスト教は唯一神信仰でありながら、そこに3つの位格を見出すという、一見ちょっとわけのわからない形態だ。
 そこに意味があるのだとこの本は指摘する。キリスト教はスピリットの持つ増殖性をベースに近代資本主義社会を用意したのだと(これは5巻の内容か)。
 それとともにぼくが興味を持ったのは、御嶽に関する記述。
「「御嶽の神」をお祀りするのが、女性だけの集団であるというのも、ひょっとするとこの神のもつトーラス構造と関係があるのかもしれません。このトーラスの中心をなす空洞は、ことばによって表現不能な「超越性」をあらわしていますが、これは女性という存在がことばの象徴秩序にはおさまりきらない不確定な霊性を抱えた、とてもデリケートな生き物であることと関係があるかもしれません。
つまり、中心に空虚を抱えた「高神」と、知性によるのではないやり方で交信をおこなう資格のある生き物は、その神と同じように、心の真ん中にぽっかりと開いた空虚を抱えた女性でなければならないのではないかということなのです」
 性と聖と芸能が未分化だった頃、遊女は差別されるものではなく、長者と呼ばれる女性がそのとりまとめを行っていた。「もののけ姫」におけるエボシの役割とも言える。やがて彼女は男にとって代わられることになるだろう。人間と自然との対立なんていう単純な図式からはあの映画のエッセンスがぼろぼろこぼれてしまう。



 吉田修一「悪人」     朝日新聞社
 やられた。
 読了後、ほろっときちまったじゃんか。絶望的な逃避行の美しさ。どうしようもない淋しさ。愛する娘を二度失った父親の悲しさ。いやはや、どうにもこうにも。
 そうかあ、悪人かあ。なんて優しいんだよ、おい。


日高 恒太郎「オウムの黙示録―新興宗教はなぜ流行るか」
 画像なし、スマソ。
 新興宗教ってちょっと好き。入ろうとは絶対に思わないけれど、そのインチキなところに興味津々。「心のエンターテイメント」なんだからお金を出すのは当然だという理屈で宗教という巨大な集金システムが出来上がってるとしたら、そんなものに救いなどないはずだ。その本質を、儀式やわけのわかんないオカルトティックな教義など巧妙な目くらましで隠し、優遇された税制を最大限に利用し、巨大な施設を建設する。
 だいたい町を歩いていて、今時、こんなばかげた建物誰が建てたんだろうと不思議に思うと、それはたいてい宗教か行政。どちらも人の金だからどうでもいいやって感じがプンプンする。
 そうした宗教団体の内幕を描いた本書は、その後オウムの事件を経てオウムの部分を追加して再販されたもの。宗教と悪徳商法の発想って実に広告代理店っぽいんだな、としみじみ思った。欲望をあおってるんだよね、どっちも。そして広告代理店とは欲望をあおるプロ、発想が似ているのも当たり前だ。
 ぼくは思うんだけれど、新興宗教と資本主義とはその原動力を一にしているんじゃないだろうか。今の自分に不満がある。それを変えるために宗教的なもの(自己啓発セミナーも含みます)にすがる。今持っているものに不満がある。それを変えるためにモノを買う。みんなが今の自分に満足し、今持っている物に満足して生活するようになると、宗教も資本主義も立ちゆかなくなるだろう。現状の自分と自分を取り巻く物に満足することは、実にエコ。
 「我々のもっとも誇りたいものは、我々の持っていないものだけである」(芥川龍之介「河童」)
 ま、ぼくのような欲しがりくんが言っても説得力ないんだけどさ。



 爆笑問題「爆笑問題の戦争論」       幻冬舎
 これは「戦争論」というものではない。日清戦争から第二次世界大戦までの歴史を田中が淡々と語り、そこに歴史とは無関係に太田がぼける。中学生のための日本近代史的なもの。したがってこの中に太田の主張などはほとんど見ることはできない。

田中:当時日本では尋常小学校の修身書などで、銃弾に倒れながらも進軍ラッパを吹き続けたという、木口小平二等兵の「死んでもラッパを離しませんでした」という話が美談として載った。
太田:葬式の時もプープー鳴ってたらしいな。
田中:怖いだろそんなの!

 こういう具合である。
 南京大虐殺については「被虐殺者の数については、中国政府の発表が43万人。日本国内では十数万から20万人前後とする説、4~5万人とする説、1万人前後とする説、事件そのものの虚構説など、諸説ある」といろんなところに気配った説明。「戦争論」のタイトルはちょっとな。
 ただそこに載っていた資料に日清戦争での戦死者数に驚いた。日本の戦死者は11587人なのだが、戦闘死者数はたったの1401人。あとは病死。つまり戦死者の9割近い人が病気で亡くなっているのだ。ずいぶんっちゃずいぶんな話だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週のCD

2009年01月23日 11時03分56秒 | 音楽

  チャーリー・パーカー「ワン・ナイト・イン・バードランド」
 これに似たものを2つ持っている(持っていた)。一つはカルロス・クライバーが指揮した「オテロ」のLP。残念ながらこれは手放してしまったので、持っていた、になる。もう一つはカルロス・クライバーが指揮した「ラ・ボエーム」のDVD。こちらは今でもてもとにある。
 おいおい。カルロス・クライバーとチャーリー・パーカー、どこが似てるんだよ、ふざけんなよ、そりゃどっちもすごいけど、全然違うじゃないかよ、何言ってんだ、お前、豚のえさにするぞ、こら、とお怒りの方も数多くいらっしゃることでしょう。しかし、お願いです、ぼくを豚のえさにするのだけは止めて下さい。いや、話はそういうことではなく。
 この3つに共通すること、それは音源がとても怪しいということ。「オテロ」は売りっぱなし、再プレスなし、逃げきっちゃうよ、こちとらみたいな販売だったし(おまけにステレオじゃなくてモノ)、「ラ・ボエーム」なんか、あきらかに客席からのホームヴィデオで撮影された映像。
 このチャーリー・パーカーの「ワン・ナイト・イン・バードランド」もラジオ放送を個人が録音したのが音源だという。
 なぜそんなものが発売されるのか。買う人がいるから。なぜそんなものを買う人がいるのか。それはこうした人たちの演奏は、手に入る限りどんな状態であろうと欲しいと思う人たちが多いからなのだ。
 それだけ特別な人たちなのだ。クライバーがまた逃げちゃったという報道を目にするとき、どれだけぼくらは心を痛めたことか。もう絶対ベルリン・フィルは振れないだろうな、惜しいなあ、と極東の高校生たちはいらぬ心配までしていたのだ。
 このCD、だから音質はよくない。しかし、このメンバーで、このコンディション。なんの文句があろうことか。



 鈴木慶一「ヘイト船長とラヴ航海士」
 知ってる、知ってる?
 面舵ってさ、ほんとは「卯の舵」だったって。取り舵は酉舵。どっちも十二支で、卯は「東」、酉は「西」を表す。卯の舵一杯左舷停止右舷全速後進、宜候。
 なんてね。
 で、その「宜候」でこのCDは始まるのであった。
 それにしてもこの厚い音のうねりはすごい。このうねりに身を任せつつ、ぼくは航海に出る。1度聴いたときより、2度目に聴いたときの方が楽しめた。そして2度聴いたときよりも3度目の方が楽しめた。
 どことなく、プロコルハルムの「A Salty Dog」の匂いを漂わせつつ、ヘイト船長の船は海原を漂っていくのであった。ぼくはその船に乗ってる。浸ってる。変な話だけれど、歌詞がどうのこうのというのは、もっと聴いてからでもいいとさえ思える音の連なり。ちゃんと歌詞カード見ながら聴けば、また違った感興も湧いてくるんじゃないだろうか。でも今はこの音の中に埋もれていたい。
こちらで試聴できます。



 ブラームス「ピアノ小品集」 エヴァ・ポブウォッカ
 なんだかお酒好きそうな名前だが、ポーランド出身のピアニストである。
 一昨年かな、アファナシェフの弾くブラームスの後期ピアノ作品にしみじみしてしまったのだけれど、この演奏もそう。グールドの弾いたブラームスは、へえ!と思ったのだけれど、その一方でアーティキュレーションの面白さに耳を奪われしみじみとはしなかった。
 ポブウォッカにはおしつけがましい表情はなく、すごくブラームスを大事に弾いている。
 若い頃ブラームスの良さがちょっとよくわからなかった。音楽史とフランス音楽好きで、メインストリームっぽい独墺音楽にはピンと来なかったのだ。年を経るにつれ、だんだんシューベルト、シューマン、ブラームスもいいなあ、などと思えてきたし、マーラーも好きな作曲家になった(ブルックナーの分厚い金管の響きは今でもちょっとアレだけど)。
 こういうブラームスもいいなあ、と思えるのが年を重ねたおかげだとするなら、年をとることも悪くない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

会津へ!

2009年01月22日 13時35分43秒 | 観光
 列車が北上するにつれ、空から色が失われてきた。雲が見えるから晴れているんだろう。それなのに空は鈍色に湿っている。
 なんとうるわしい北方の憂鬱だろう。キルケゴールの胸をふさぎ、スタンダールをイタリアに追いやった北方の憂鬱、ぼくはこれが大好きなのだ。
 北国をすぐに演歌と結びつけてしまうのは思想の貧困だ。 
 「会津士魂」を読んでいて無性に会津に行きたくなった。青春18きっぷが残り1回分あるのでそれを使って行こう。池袋から宇都宮、宇都宮から黒磯。黒磯から郡山。そして郡山から磐越西線で会津若松へ。片道6時間。往復で12時間、1日の半分を電車で過ごすことになる。磐越西線に乗るあたりから周囲は雪景色に変わる。美しい。東北には毎年出かけている。何か心ひかれるものがそこにある。
 ところで磐越西線は無人駅が多いんだけれど、たとえば初乗りを買って無人駅で降りちゃえばそこまで130円で行けちゃうんじゃないか? もっとも、じゃ、東長原で降りて何すんの? と言われたら困ってしまうのだけれど。いや、雪景色だけで十分じゃないか。ま、十分じゃない人が多いから無人駅でも平気なのだろう。ふと思ったんだけれど、将来の希望を書く欄なんかに「無人駅の駅長さん」と書くのはアリだろうか。
 そんなくだらないことを考えつつ、午後1時過ぎ無事会津若松到着。

 会津若松駅。白虎隊士像がお出迎え。白虎隊というのは若干名残してほとんど自刃しているイメージがあるかもしれないけれど、これは誤り。300名以上いる白虎隊の中でも士中二番隊のうち20名が自刃(1名は蘇生)した(もちろん他にも戦死者も出ている)。

 あらかじめネットで会津若松のレンタサイクルを調べていたのだが、利用期間は4月から11月まで。なんだよ、冬でも乗るぞ。とパソコンの前でブツブツ言ってた身の浅はかさ。



 町に出て納得。ここは走れません。
 寒いときには寒いところへ行く。こないだ日光で得た教訓。ま、じゃあ、暑いときには暑いとこへ行くかって言えば、暑いから行かないんだけどね。逆は真ならず。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大谷・日光

2009年01月20日 23時35分33秒 | 観光
青春18きっぷの旅、今回の目的地は大谷と日光。寒いときは寒いところの景色が美しい。写真撮影はできないが、ここの観音様は美しい。すばらしい雰囲気なのだ。
 ほんと大谷ってのは石の町だ。崩れかけた木造の家ですら、礎石は大谷石が使われている。


 石の間に挟まったかのような廃墟。ここは以前は温泉場だったらしい。
 


 ロープウエイの展望台から見た男体山。美しい。

 バスで中善寺温泉に出て、華厳の滝を見る。


 滝の本流は流れているが、周囲は氷結してつららになっている。
 冬の日光は美しい景色にあふれている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先週の読書

2009年01月19日 09時09分08秒 | 読書

 細野晴臣/鈴木惣一朗「分福茶釜」     平凡社
 ああ、これはまさに「ぼくのおじさん」なんだと思った。
 おじさんというのは、たとえばこんな人のことを言う。
「人類学や民俗学は、「おじさん」を特殊な存在であると見なしている。ここで言う「おじさん」とは、両親の兄弟の中で、結婚もせず、定職にもつかず、遊びほうけている連中のことを言う。
そういう「おじさん」は、共同体にとって、不要な存在であった。父親や母親は胡散臭がるが、甥や姪からは絶大な人気があった。なぜかと言うと、共同体の外にまで遊びに出かけるおじさんは、外の世界のことをよく知っていて、両親たちが絶対教えてくれないようなことを、なによりも「自由」を、教えてくれるからである。
 かつては、そんな「おじさん」たちがたくさんいた」(高橋源一郎「おじさんは白馬にまたがって」)
 その具体的なものとして、ジャック・タチの名作「ぼくのおじさん」があり、かつて伊丹十三が編集長を勤めた「モノンクル」という雑誌があった。この本を読む者は、細野晴臣にそんな「おじさん」的姿を見ることができるだろう(先ほど引用した高橋源一郎本人もそういう意味では「おじさん」的である。もっとも彼の場合、結婚してないどころか、5回もしてるけど。いや、その過剰性こそが「おじさん」的なんだ)。
 飄々として、自由で、他の大人の感性とは違う視点からものを言う。
「今の世の中は泣かせるビジネスが溢れてて、そういうのが気持ちが悪い」と最近の風潮を嫌がってみたりしたのちに、「泣けないような悲しみっていうのがこの世にはあるんだ。人間の一番深くにある孤独感っていうのはそういうものであって、泣いたり笑ったりするのは、お酒を飲んでるのと大して変わらないものだよ」
 ノンシャランとしていながら、なかなかに深い言葉だと思う。
 こないだ「神楽感覚」を読んだり、ここんとこなんだか細野晴臣と縁がある。あ、そういえば、この本を読んで知ったのだが、武満徹はコシミハルを天才と呼んで高く評価してた、と。



 別冊歴史読本「歴史の中のサンカ・被差別民」   新人物往来社
 差別について考えている。縄文がぼくのキーワードだったのだけれど、いろいろ調べていくうちに差別に行き当たった。こういう雑誌の特集の面白いところは、1冊の中に相反する意見があったり、同じ意見を何人かがくり返していたりするところだ。
 たとえば東北に被差別が少ない、また差別そのものがあまりないという点について(実は縄文的世界観の残っているところには差別が少ない)、宮台真司と網野善彦の発言は正反対だったりする。
「東北は、江戸時代後期に至るまで非常に貧しく、それゆえに社会的分業もさして進んでいなかったので「職業に貴賤なく」、それゆえに「貴賤」への「聖穢」の重ね焼きもなかった。皆が貧しくてカツカツの状況では、実は、人に「聖穢」を貼り付ける差別は起こらないのです。人に「聖穢」を貼り付ける差別は、豊かになり、階層化が進み、分業秩序を維持したり頂点を正当化する必要が出てきて、初めて登場するのです。その結果として、聖でも穢でもない―――階層の頂点で末端でもない―――膨大な人々が、方向感覚や美意識や勇気を与えられるわけです」(宮台)
 しかし、網野善彦(そしてその発言はこの本にはないが赤坂憲雄なども)はそれを古く一方的な見方でしかないと退けている。
 またその一方で宮台のこの発言は正鵠を得ていると思う。長くなるけど引用しちゃう。
 「これまたどんな社会にもあることですが、同型的な部族社会が社会の各所に散在するような環節的=セグメンタルな段階から、これらが中心的部族によって集権的に掌握される段階になると、中心的部族の巫王だけが偉くて、後は偉くないんだという話になります。日本で言えば、飛鳥時代の朝廷成立に関わることですが、階層的な社会構成に変わっていくわけです。そのときに、どの社会でも同じなんですが、聖なるものは、ピラミッド型をした階層の頂点に存在する人に配当されます。そのときに問題になるのが、各部族で聖なるシャーマンとして機能してきた人たちがどうなるのかということです。
 日本でもそれが問題になって、彼は典型的には陰陽寮に隔離的に配置され、ミカドの聖性に抵触しない範囲内で、人々の土俗的な習俗に見合った統治の装置としての機能を、過渡的には果たすわけです。やがて中央集権化が深まってくると、これも多くの社会で起こったことですが、頂点に存在する聖性にとって、下々の土俗的聖性を支えてきたシャーマン、すなわち陰陽寮に属する者たちが、邪魔になってくるんです。
 つまり、権力的支配が貫徹可能な段階になると、従来の部族的段階の聖性を担ってきた者たちは、集権的支配を補完する道具として利用できる範囲で存在を許されていたものが、用済みになって、階層性の最も下に叩き落とされるわけです。かくしてピラミッド型階層の頂点に聖なるミカドが存在し、底辺に穢なる被差別民が存在し、他の階層は全てケ(俗なるもの)として両者にサンドイッチされる形になります。すなわち、非階層的な環節的社会における「聖穢」観念が、階層的社会における「貴賤」の身分観念と重ねられ、単なる時間・空間観念というよりも、人に貼り付けられるものとなります。どこでも同じことが起こっています」
 そこに問題がある。古くからのとして有名なのが京都の清水坂と奈良坂だが、そのどちらも皇室が起源であるという出自をもつ。差別の問題は王権と強く絡み合っているのだ。であるならば、宮台本人の言う「経済的要因」だけでなく、西の方に差別が強くあるのは、東北に比べて王権が確立していた側面もその要因になっているのではないだろうか。
 ところで、「野中(野中広務のこと)のような出身者を日本の総理にはできないわなあ」などと言い放った麻生太郎こそ日本の総理にふさわしくないと思うのだが。



 藤野千夜「おしゃべり怪談」     講談社
 女流作家かと思った。4編の短編小説集なんだけれど主人公はみな女性。すごいなあ。ぼくにとって女性は謎なのに。長島有なんかもそうだよなあ、すごいよなあ。もっとも謎は謎なりに、生のまま提出してる部分が味なのかもしれない。たとえば病気の金魚に対するぐずぐずした態度とか。
 いずれにしても、ああ、そういう女性っているかもね、という日常の面白さと不思議なずれが満載。表題作はその点、ほかの3作と違って背景が非日常的で異色。店長が刺された雀荘で、包丁で脅され延々麻雀をさせられる4人の女性たち。この作品はそうした背景だけじゃなく怖かった。



 早乙女貢「会津士魂」第4巻   新人物往来社
 ちょっと辛くなってきた、第4巻。慶喜の大阪脱出。もうこれから会津にとっていいことなんかありゃしねえ(C忌野清志郎)。歴史ものの困るところはここなんだよなあ。おお、会津ここから奇跡のJ1残留かよ、みたいなドラマは訪れない。会津やアイヌといったぼくがシンパシーを感じる人々の歴史のなんとツライことか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週のCD

2009年01月17日 22時34分47秒 | 音楽

 アンネ=ゾフィー・ムター「バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ」
 なんだかちょっと不思議なCD。バッハの2曲のヴァイオリン協奏曲にグバイドゥーリナの「今この時の中で」のカップリング。グバイドゥーリナの曲はムターに献呈されている。一見何の関係もないバッハとグバイドゥーリナだけれど、音楽の源泉にキリスト教信仰が強くあること、そしてこの作品の中にバッハの最後のコラールが引用されていることなど(ベルクみたいだ)、CD全体の統一感は損なわれていない。バッハを今日モダン楽器で演奏することの意味はこういうところにあるのよ! っていう感じで非常に細かで多彩な表現を聴かせてくれる。特に緩徐楽章になるとその多彩さに目を見張ることになるのだけれど、でも、実はそれほどいいなあ、とも思わなかったのだ。
 その点グバイドゥーリナは面白かった。前衛表現の中にもムターのヴィルトゥオジティを発揮させる部分があって、やっぱりこうじゃなくちゃヴァイオリニストは引き立ちません。



 シェーンベルク/シベリウス「ヴァイオリン協奏曲」
    ヒラリー・ハーン/サロネン指揮/スウェーデン放送交響楽団
 ムターの次はヒラリー・ハーン。今週は偶然にもヴァイオリン協奏曲を続けて聴いた。
 グバイドゥーリナも面白かったが、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲も面白い。実は初めましてのシェーンベルク・ヴァイオリン協奏曲なのである。同じ新ヴィーン楽派でもベルクのは何種類か持っているし、大好きなんだけれどなぜか縁遠かった私たち。でも、もう今は違う。なわけで初めてなので、ああだこうだとあまり言えないのだけれど、シャープな表現で造形されたこの曲は縁遠い曲ではなかった。そして実に美しいシベリウス。ああ、まるで相容れない2曲って印象なのに、そうか、どっちも20世紀の曲なんだよなあ。浪漫嫋々たる演奏ではなく、透明で美しく、そして気高いんだな。美しいものを聴いた。
 シベリウスにハッピーバースデイを歌ってるヒラリー
 シベリウスも喜んでんじゃないかな。


 イエローマジックオーケストラ「UCYMO」
 懐かしくて聴いてみた、YMOの究極(らしいっすよ)ベスト盤。昔は好きでコンサートにも行ったのに、実は初期のファンでしかなかったことを思い知らされた。だって、1981年以降の曲ほとんど知らないんだもん。そんなわけで、新たに目が開いた部分もあった究極ベスト盤。もともと坂本龍一の「千のナイフ」が好きでそれでYMOを聴くようになったので、やはり1980年まで(「増殖」まで)がぼくの嗜好の範囲のようだ。ここらへんとこ、「ヘビーウェザー」が好きで「830」聴いてよかったけど、それ以降はなあ、でもコンサートには行った、というぼくのウェザーリポートに対する好みとよく似ている。
 YMOのコンサート、前座がシーナ&ザ・ロケッツだった。こないだ「ジャージの二人」見たけど、鮎川誠がいい感じに年をとっていて、見習いたいもんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐原・潮来

2009年01月16日 11時34分13秒 | 観光
 銚子滞在およそ3時間。潮来目ざして13時15分発のJR成田線に飛び乗る。途中、香取か佐原でJR鹿島線に乗り換えがあるのだけれど、何もない香取よりは佐原の方がいいでしょ、と。佐原で45分間の待ち合わせ。


 佐原は晴れていた。
 プリオシン海岸を走ったジョバンニのように、なんだか45分間の間に江戸時代まで200年をタイムスリップしたような感じ。

 潮来は曇っていた。銚子は雨まで降って「喜びの島」どころじゃなかったので、意地でも「美しい夕暮れ」を聴いてやる。そうしたらね、潮来も雨降ってきた。おかしい。徹底的な晴れ男だったのに。雨宿りにスーパーに入る。よし。雨がやんだら土手に腰掛けてウォークマン聴いてやろうじゃないか。ここまで来てすごすご帰るなんて。
 スーパーでビールとつぶ貝のお寿司を買う。外に出たら雨がやんでいた。
 スーパーのビニール袋をしいて、川沿いのコンクリに坐ってビールを飲む。っ寒い。
 尻が凍る。手がかじかむ。唇が震える。なんだ? これはなんかの罰か? おれはキリスト教鞭身派か?


 我が身をむち打つような苦行を天が嘉したのか、晴れた。
 どうしても晴れて欲しいときにはぼくを叩きたまえ、と人間てるてる坊主全国行脚の旅に出ようかとも一瞬考えた。


 またいいタイミングで夕方なのに船が出た。
 さ、ここだ、ここでドビュッシーだ。
  Lorsque au soleil couchant les rivieres sont roses
 おいおい、まさにぴったりじゃん。
 夕日は出たものの生命を危うくする寒さはいっこうに改善しない。お尻が凍った。今のぼくならケツパンチで熊と戦えそうだ。熊よ、来い。北利根川で勝負だ。

 結局ぶるぶる震えながら、この場をあとに。鹿島線で香取、香取から成田線で成田、成田から久里浜行きの電車に乗って東京へ戻りました。結局285kmの鉄道旅。ま、こんなもんかな。次回開催時快晴希望。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銚子

2009年01月15日 12時18分31秒 | 観光
 千葉を出た電車は佐倉を過ぎたあたりから、その雰囲気をゆるませ始めてきた。車内はみなウトウトしている。車室内の空気が緩くていい感じだ。
 ドビュッシーの歌曲を聴きながらぼくもまどろむ。
 そうだ、銚子で青い海を眺めながら、ドビュッシーの「喜びの島」を聴こう。
 またまた、そうだ、夕方に潮来に行くつもりだから、潮来で「美しい夕暮れ」を聴こう。
 これから始まる一日の中に期待がぎっしり詰まっていく。
 ふと目を覚まして外を眺める。
 コンクリートで固められた切り通しの単線をうねうねと電車が進んで行く。海は確かにこの線路の向こうにあるんだけれど、内陸を走っているので海の気配はない。あるのは草、枯れ田、木、それから広い空。
 猿田近くになって動いていない風車を見つける。海はもうすぐそこにある。
 10時17分、銚子着。
 なぜか天気が悪くなってくる。出足でつまづいた気分。快晴だった前日に来るべきであったのだ。寝坊は残酷だ。
 駅から1分ほど歩いたところにある自転車店でレンタサイクルを借りる。735円也。去年は自転車で銚子まで来たけれど、今回は青春18きっぷの旅。


 銚子漁港には大きな漁船がたくさん並んでいた。よく見かける小さな漁船は個人の漁船で、企業としての漁業というものも存在しているんだなあと感心。


 なんという植物なのかわからないけれど、見た目に鮮やかだったので。
 青空がないので、海の写真がイマイチ。どよ~んとした雰囲気が悲しい。


 これくらい薄日がのぞくこともあるのだけれど、基調は曇り。そしてポツポツと雨も降ってきた。さんざんである。それでも犬吠埼からの海の眺めは素晴らしい。地球がまるいことがよくわかる。


 そして今回の旅の目的の一つ。それはこの家を探すこと。「時効警察」というドラマをご存じでしょうか? その2ndシーズンの「帰ってきた時効警察」第2話「No.1ホステスは殺した後カクテルを飲む!?」の主人公吉良綺羅が子どもの頃住んでいた家。この話は銚子周辺が舞台になっているのだ(母親が船を下りてくるとこは外川漁港)。ドラマを見る習慣のないぼくは、「転々」という映画を見てこのドラマを知ってDVDで楽しんだものだ。
 あちこち回ったとはいえ、たかが20kmほど走っただけ。それなのにこの疲労感。ママチャリは厳しいのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野・谷中

2009年01月14日 12時24分36秒 | 観光
 人混みの中たばこを吸っている輩がうろうろいる。昼から酒を飲んで喧嘩しているホームレス風の男たちがいる。ああ、実に上野だ。
 おかしい。ぼくは今日銚子で自転車を借りて爽やかに走り回っているはずだったのに。
 今朝目覚ましが鳴ったのが6時半。なんだまだ、6時半か。電車の時間は7時半だから、まだ早いな。
 朝一番からさっそくの勘違い。東京駅を7時半に出る電車に乗るんだから、早いわけがない。二度寝の報い。次に目を覚ましたのは8時半だった。
 あーあ。
 気を取り直して国立科学博物館へ行く。

 なんと入場制限中。「もやしもん」流行ってるのだ。入ろうかどうしようか迷っている間にも、田畑に群がるイナゴの群れのように人がどんどん湧いてくる。人酔いしそうなので、急遽予定を変更、上野も久しぶりだから、いろんなとこお参りしつつ谷中あたりまでぶらぶら歩こう。

 まずは彰義隊墓所。
 犬を連れた薩摩人の銅像がこの墓所に尻を向けて立っている。
 上野の山を下りしな、花園稲荷神社、五条天神社の2つにもお参り。

 本殿は多くの人が訪れるんだけれど、こっちはあまり来ない。
 もとはここに稲荷神社があったらしい。

 弁天さんもにぎわってる。
 桜も咲いていないのに休日の上野は人出が多い。

 弁天さんの横にある利行碑。利行の絵が好きになってから何度訪れたことだろうか。
 上野お参りルーチンを済まして、谷中へ。
 こっちも大にぎわい。いろんなTVで紹介されているのか、多くの店ではVTRを写真におこして飾っている。天ぷらとかメンチカツとか食べ歩くのも楽しそう。

 小間物屋さんで見かけたネコ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先週の読書

2009年01月13日 12時10分00秒 | 読書
 いや、まさか早稲田が勝つとは思わなかった、大学ラグビー。今年の帝京は強く、また激しく、ちょっと早稲田は厳しいかな、と思っていたのだが、やはり決勝となると伝統校の強みが出た気がする。ずいぶん前だけれど、大阪体育大学との準決勝を思い出した。帝京も大阪体育大学も、もう一度やったら勝ったんじゃないかと思う。


早乙女貢「会津士魂」第1~3巻   新人物往来社

 暮れに亡くなった早乙女貢氏の代表作。全13巻のうち、今週は3巻まで。
 もともと明治維新などというものが嫌いなぼくにとっては自分の主張にかなり近い本なのだけれど、それでもやはり片方を下げすぎ、片方を上げすぎというきらいもなきにしもあらず。事実がどう、というより著述のやり方として。
 明治維新が嫌い、だと言うと、じゃあ、お前はいまだにちょんまげ、刀ぶらさげてる時代劇みたいな世の中がいいと言うのかと質問されそうだけれど、そんなことはない(というか、それはそれで楽しそうな気もするけれど)。薩長と公家の一部が自分たちの野心むき出しに成り上がったことを美称したのが明治維新にすぎない。事実、あいつらは開国を容認する幕府に攘夷しろと迫っていたんだから、時代錯誤もはなはだしい。
 幕府の作ったドライドックが今でもアメリカ軍横須賀基地で現役で使われていることから考えても、薩長などがしゃしゃり出ずとも、十分幕府主導で近代化はできたはずである。
 しかも大政奉還して望み通りになったにも関わらず、薩長は自分たちだけがトップになるために戊辰戦争をしかけてきた。
 戊辰戦争に勝つと、会津藩全体を下北半島に流し、昭和になるまで、会津は朝敵であると教科書に載せ続けた。
 以前読んだ、半藤一利と保坂正康の「『昭和』を点検する」に面白い一節があった。

半藤 こういうこと(日本は戦争でアメリカに勝てる)を言った人、すなわち日本を破滅の淵に引きずりこんだのはみな薩摩と長州の出身であった。いつもこの話になると、ついよけいな話をしたくなるんですが、あの戦争を終わらせなくてはならないといって、命懸けで頑張った人は、みんな明治維新のときの賊軍側なんですね。米内光政は盛岡藩、井上成美は仙台藩、それから鈴木貫太郎は関宿藩、みな御一新の際に賊軍側だった人たちばかりなんです。明治国家をつくったのは薩長かもしれないがダメにしたのも薩長であった。そしてそれを救ったのは賊軍である。

 長州は藩を二つに割って、藩の中で殺し合い、めぼしい者はどんどん死んでいった。維新の元勲などといっても山県有朋や伊藤博文などは、その殺し合いの中で標的にさえならなかった小物ばかりだ。

「天下を奪おうという野望は、金銭をも、湯水のように費消する。公金を女と酒につぎこんで、英雄とされるのが、祇園という色街である。長州の桂小五郎(木戸孝允)と幾松の関係なども、その間の消息を物語っている。こうした風潮が、山県狂介(有朋)や伊藤俊輔(博文)などの後年の破廉恥きわまる行動になってあらわれている。そして、それはたんに好色の問題だけではなく、色街と政治との結びつきという悪習を一世紀後の現代にまで持ちこしてしまうのである。
政治汚職は、色街と政治の結びつきから起こっている。明治維新というものの性格も背面から見ると、いかに私利私欲に裏打ちされたものか理解される」(「会津士魂第3巻」)



中沢新一「対称性人類学」    講談社選書
 中沢新一のカイエ・ソバージュを後ろから読んでいこうとする企画。そんなわけで最終巻「対称性人類学」を読む。
 区別するよりも同質性を重視する対称性人類学は、したがって人間と動物との間に隔絶された境界線を引くことを拒絶する。しかしそれでは人間は生きることができない。同質性を強調していけば、人間は仲間を殺して食うことになってしまう。そこで対称性の論理に対する非対称性の論理と、このバイロジックな論理によって社会は運営されていく。
 しかし、その2つのうち非対称性の論理だけが前面に出てきてしまっているのが現代社会であり、今の社会に多く存在する問題や困難は対称性の論理を喪失してしまったことによる、とこの本は説く。
 その一方で対称性の論理は決して滅びていないとも指摘する。それはわれわれの無意識そのものなのだ、と。
 そこから始まる、無意識、仏教、性を巡る中沢新一の大冒険はわくわくスリリング。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週聴いたCD

2009年01月09日 13時15分44秒 | 音楽
 月曜日に先週聴いたCDのレビューを載せてたんだけれど、今週から金曜日にします。それにしても寒い日が続いていいですね。ぼくは寒い日が大好き。布団に潜り込むときのあのヒヤっとした感じがたまりませぬ。眠るまで本を読むんですが、ベッドの端に寄って読んでます。そうすると真ん中は冷たいままで、またあのヒヤっを楽しむことができるから。ああ、早く寝たい。ヒヤっとしたい。


ストラヴィンスキー「兵士の物語」斎藤ネコ指揮
 10年前ほどの録音。
 「兵士の物語」って言やあ最初に聴いたマルケヴィッチ盤がものすごくよくて、他のを聴いてもいまいちピンとこなかった。語りにジャン・コクトー(おお)、悪魔役にピーター・ユスチノフ。彼はポワロ役で有名かもしれないけれど、ぼくは「トプカピ」って映画が好きで、あと「クオ・ヴァディス」の皇帝ネロもよかった。
 とにかくしゃれてて、上品に遊び心があって、今でも名盤中の名盤じゃないか、と思ってる。
 それはそれ。このCDも大変楽しい。兵士にヒカシューの巻上公一(ヒカシューそのものを知らないか)、語りが戸川純、そして悪魔がデーモン小暮(悪魔本人である)。随所で遊んでいるが、そのユーモアのセンスもいい。演奏はもともと第一次世界大戦後の疲弊した中で演奏するため楽譜そのものが風通しのよさそうなものだから、この方向性で十分OKにして楽し。
アマゾンで試聴できます。



リチャード・ストルツマン「ゴールドベルグ・ヴァリエーション」
 原典主義ってわけでもないんだけれど、どちらかというと作曲者が楽器を指定している場合、その楽器で聴く方が好き。その点こないだ聴いた寺神戸の無伴奏チェロ組曲は興味深かった。
 そんなわけであまり聴かないはずのバッハ企画ものCDなんだけれど、これが大いに楽しめた。いやあ、こんなに楽しいゴルトベルク変奏曲は想像もしていなかった。リチャード・ストルツマンって言うと、タッシのイメージがあって、しかもぼくにとってその一番強烈だったのが、メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」だったりするので、こんなに楽しそうに演奏するのか、と。ベースのエディ・ゴメス、うますぎ。四半世紀以上昔、ディジー・ガレスピーと競演しているのをTVで見たとき鳥肌が立ったのを思い出した。
アマゾンで試聴できます。

 あ、言い忘れてましたが、別にアマゾンにリンク貼ってるからって、アフィリエイトとか一切やってませんので、念のため。安心してクリックして下さい(あ、アフィリエイトしてても別にクリックしたらお金とられるってわけじゃないのか)。



 モーツァルト「交響曲第40&41番」ミンコフスキ指揮ルーヴル宮音楽隊

 今更ながらではございますが、ようやくミンコフスキのモーツァルトを聴きました。CDを手に入れたのはずいぶん前だったんだけれど、なんかモーツァルト聴く気分が訪れないので。
 これよくやる。きっとこのCDはいいものに違いない、と買う。でも別に聴きたい気分じゃないから聴かない。そのうち忘れる。
 このCDも忘れてた。あ、あったんだ、これ。
 いいじゃないっすか。鬼気迫るモーツァルト。古楽器だからって典雅な響きを期待してはいけない。疾駆する、天翔るモーツァルト。40番の第2楽章だけはおとなしめで、この楽章のウリである優雅さを表現していたけれど、あとは違う。とくに41番などティンパニ大活躍。すごい迫力。40番と41番の間にある「イドメネオ」からの「バレエ」は箸休めにちょうどいい感じ。
 それにしてもこれ買ったのって、モーツァルト年のとき。え? 2006年? なったばかりとはいえ、現在2009年。3年越しの放置プレイ。どんな我慢強い人でもさすがに3年放置されればむくれてしまうだろうに、CDはえらい。ちゃんと音が出る。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする