毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

上野の桜

2008年03月29日 09時49分54秒 | 観光


 今年、早くないっすか?




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上野お散歩

2008年03月28日 17時26分13秒 | 観光
 バスに乗って上野へ。山手線に乗った方が早いし、安いんだけれど、なんとなく。ところが乗ったバスがなかなか動かない。小石川あたりにさしかかると、TV局の放送車やハイヤー、その他がごった返してる。これが原因だったのか、と思いながらも、なにがあったんだろう、と(あとになってそれが一家心中だったことを知った)。
 桜に誘われ、途中の不忍池で降りて上野散歩。


 平日にもかかわらず、今日の上野はこんなふう。
 お山に来ると、必ず寄るところが2カ所あります。ひとつがぼくの好きな長谷川利行の碑。


 でも、今日は、露天の影に隠れちゃってる。

 もう一つ寄るところがお山の上。

 彰義隊墓所。
 
 上野の山は大変なにぎわいだ。道を歩くにつれ、いろんな言葉が耳に入るのが楽しい。
 観光地なんだなあ、としみじみ思う。
 エッフェル塔とかアンコールワットとかって、やっぱりこれと同じ。ハリー・ライムが逃げ回ってる地下水道のようにいろんな言葉が飛び交ってる(比喩として適切か、それ?)。


 さらに奥に進むと正岡子規記念球場があった。
 正岡子規は野球が好きで、幼名升(のぼる)にちなんで「野球(のぼーる)」という俳号があるし、打者や直球なども正岡子規の命名だ。この「のぼーる」は、もしかしたら、「地球を英語でちぼーる!」ってえラーメンズ片桐仁のギャグの元になったのではあるまいか。
 ここから根岸に下ると、正岡子規が生前暮らしていた家もあって、今では記念館として保存されている(ハンパじゃないラブホテル街のど真ん中)。
 さて、どんづまりに鎮座ましましてるのが、国立博物館。今日は、こちらにちょいとお出かけ。ここはとくに禁止されてるもの以外ならフラッシュや三脚などを使わなければ撮影可能。桜と遺物目当てにカメラ担いでくるのも、おすすめっす。
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ジョルジュ・プルーデルマッハー 「ラヴェル・ピアノ作品集」

2008年03月27日 10時52分47秒 | 音楽
 あああ、いい。
 と、なんだか、官能小説みたいな出だしで失礼。
 でも、口からもれるのはそんな言葉ばかり。
 春の優しい日差しに似たラヴェルだ(どんなだよ)。こないだオルフェウス室内管弦楽団のラヴェルを聴いて(こないだ聴いたって、いつのCDだよ)、その木管の美しさにほれぼれしたのだが、このラヴェルも素晴らしい。
 今の季節にほんとにぴったり。この繊細で優しいラヴェルが今年の春の幕開けになって、なんだか幸せな気分である。
 しかし、「ラ・ヴァルス」を聴いてそんな柔らかな感想は吹き飛んでしまった。すごい。音が色になって降り注いできた。その直前に「高雅にして感傷的なワルツ」を置く曲の配置も巧みです(ここらへんは堀池巧の口調で読んでもらいたい)。
 1曲1曲書いてもしょうがないので割愛するけれど、この素晴らしい演奏すべてランスで行われた「ランス夏のフラヌリ・ミュジカル音楽祭」でのライヴ。「ラ・ヴァルス」のあとには拍手が入り、アンコールの「オンディーヌ」が(これもいい、いい)。
 そして面白いことにもう1枚のCDには、ちゃんと「夜のガスパール」の中の1曲として「オンディーヌ」が入っているのだ。これを比べるのも面白い(そっちのアンコールには「クープランの墓」から「トッカータ」が入ってるので、これも比べられる)。
 春の気配が消える頃までは、この2枚のCDはウォークマンの中に君臨し続けるんじゃないか。いやあ、浸っていたい、今は、とにかく。
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中沢新一・波多野一郎「イカの哲学」(2)

2008年03月26日 12時27分44秒 | 読書
 「イカの哲学」は、波多野一郎によって書かれ、今から40年以上前に私家版出版された思想の書である。この本には、中沢新一の解説とともに「イカの哲学」全文が掲載されている。
 波多野一郎について紹介しよう(ぼくもこの本を読むまで彼のことを知らなかった)。
彼は1922年、京都の綾部生まれ。グンゼの登記上の本社が綾部にあるのだが、波多野一郎はまさにグンゼの敷地内でグンゼ創業者波多野鶴吉の孫として生まれた。
 早稲田大学に進むも、在学中に学徒兵として招集され、自らすすんで航空隊に志願する。武士道精神の「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の立場にたつなら、むしろ危険な航空隊こそがもっとも安全と考えられるからだった(ほかにも、どうせ死ぬことになるのなら、最高の技術で作られた航空機を操縦したい、また山岳部に所属していたのでいつか航空機でヒマラヤを飛んでみたい、などと現実とロマンティシズムが入り交じった理由もあった)。
 満州に駐屯中、沖縄への特攻命令を受けたものの、特攻前日にソ連が満州に侵攻し、出撃は中止、彼はシベリアに抑留される。
 シベリアで共産主義化教育を受けるが、彼はその体制を受け入れるか否かは、正反対の国、アメリカを見てからだと決意、引き上げ後、アメリカに留学することにする(もちろん、軍歴があり、しかもその軍歴が神風特攻隊員、さらにソ連で共産主義教育を受けた人間の留学がほいほいと受け入れられるわけもなく、結構苦労したそうだが)。
 アメリカに留学、プラグマティズム哲学を学ぶとともに、夏の間のアルバイトとしてカリフォルニアの漁港モントレーで水揚げされたイカを冷凍に回す作業に従事する。
 ここで彼のユニークな「イカの哲学」が生まれる。
 「イカの哲学」は大助君を主人公に物語風に書かれたものだが、もちろん著者の実体験によるものである。
 主人公大助君は、アルバイトをしている最中、ひらめくのだ。

「今や、彼は数万のイカとの対面を続けている中に、世界平和のための鍵を見つけ出したのであります。乃ち、相異なった文化を持って、相異なった社会に住む人々がお互いの実存に触れ合うということが世界平和の鍵なのであります。
 ところで、何故に大助君は彼の哲学的探求において、在来のヒューマニズムを世界平和のための鍵として取り上げなかったのでしょうか? その訳は斯うなのであります。乃ち、人間以外の生物の生命に対しても敬意を持つことに関心のない在来の人間尊重主義は理論的に弱く、そして、動物たちと人間を区別しようとする境界線がとかく曖昧になり勝ちであります。それ故、在来の単なるヒューマニズムは、われわれの社会で、しばしば叫ばれるものであるけれども、それ自体には、戦争を喰い止めるだけの力が無い。と、大助は結論したのであります」

 大助君は、イカの実存を通じて、現代戦争の根本的な原因はむしろヒューマニズムに存するのではないか、と思う。

 では、人間中心主義から脱却してどのような考えをもてばいいのか。それにはもっと生命根源、人間根源へ沈静して思想する必要がある。すると、戦争はまた違う様相を見せる(面倒くさいからこの展開はぜひ実際手にとってどうぞ)。つまり、人間の徴として、戦争は宗教や芸術とともに、人間の根源に組み込まれている存在なのだ。ヒューマニズムで戦争を抑止しようとするのは、だから本末転倒であり、人間の根源に戦争が組み込まれていることを前提にせず平和を考えることはできない(ここらへんは中沢新一の解説)。


「茲において、大助君は遂に世界平和のための鍵はお互いに相手の実存をよく認め合う事であると結論したのであります。勿論、之は思想や感情の伝達に依て達成することが出来るのであります。が、しかし、この場合のコンミュニケーションは普通の媒体に依る外に、当事者の体から出て来る直感を必要とするものでありまして、その直観という能力はこのコンミュニケーション全体においては、無くてはならぬ必要条件であり、且つ、われわれが天与のものとして持って生まれた他のすべての能力と協力しながら、その役目を果たすのであります」

 この言葉だけを読むと、なんだそんなことかと思われるかもしれないが、この「相手の実存をよく認め合う事」というのは人間同士のことだけではない。むしろ、この哲学で重要なことは人間中心主義の否定なのだ。
戦後都民が飢えて困っている時、野犬を殺して食べていた時期があった。このことに心を痛めたアメリカの政治顧問官の夫人が警視庁に野犬を殺さぬよう保護するように求めた、という。のんきなアメ公がなに言ってんだ、と思いがちだが、彼はそれを肯定する。彼の実存の認め合いとは人間を越えたもっと大きなものなのだ。
 だから、先ほどの引用前には、徳川綱吉の事例やこのアメリカ人女性の話、さらに南極越冬隊が犬を置き去りにしたことに関して、「もし、犬を連れ帰って来ないで、貴様達だけ帰って来たら、俺が貴様達を殺してやるぞ!」と新聞に投書されたことなどを取り上げて次のように言う。

「そのような人々はヒューマニズムの見地からみれば、気でも狂っているように見えるかもしれません。しかし、大助は彼等の感情は全く自然であるに違いない、と考えました。という訳は、彼等はその飼い犬達と話し合うことが出来、十分に意志や感情を疎通させることが出来、時には他の人間との間よりも、意志や感情の疎通がもっと立派に行われるからであります。彼等はある場合には、他の人間の実存に触れるよりも、よりたやすく動物達の実存に触れ得るのであります」

 こうした種を越えた実存の照応。実は、近代国家が誕生するまでは、それほどおかしな感覚ではなかったのだ。人間中心主義は近代国家ときわめて緊密に結びつき、その分断的思考法が人間と自然を分断し、日本人とアメリカ人を分断し、資本主義と共産主義を分断した。
 この分かつ思考法から、同質性を求める思考法へのシフト。それが平和やまたエコロジーへとつながっていく、と「イカの哲学」から中沢新一が発展させていく。そのキーはエロティシズム。
 最後の超戦争と超平和については、ちょっと論に飛躍がありすぎるんじゃないか、と思ったが、あとはイカの哲学から流れていく中沢節がとても楽しく刺激的だ。

 「」の引用部分はすべて波多野一郎からの引用。
 それにしても、ちょうど偶然、地球上の生物の中で最大の目を持っている動物はイカなんだよ、などとイカを食べながら話した翌日にこの本を読んで、イカの目の精妙さを知った。でかいだけじゃなく、精妙なんだな。
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中沢新一・波多野一郎「イカの哲学」(1)

2008年03月25日 11時11分53秒 | 読書
中沢新一・波多野一郎 「イカの哲学」        集英社新書

 言語を媒体とする知は、差異の体系である。
 そこで、知とは、何かと何かとの間にある差異を明確にすること。たとえば、サイに関する知によって、わたしたちはシロサイとクロサイの種類を区別する(おいおい、差異とサイかよ、というつっこみはやめてくれたまえ。ほんとに、何のきなしに浮かんだ比喩なんだからさ)、つまりシロサイとクロサイの間の差異を明確にするのがサイに関する知だ(変換がものすごく面倒になったので、比喩はちゃんと考えるべきでした)。
 ひも理論と超ひも理論の差異。イギリス経験論と大陸演繹論との差異。母系社会と父系社会との差異。エチルアルコールとメチルアルコールの差異。言語による差異の積み重ねによって、知が形作られている。
 こうした近代的知性に対して、「そればっかが知じゃあるまい」と指摘する本を何の偶然か、ここんとこ続けて読んだ。ひとつは先日ここにも取り上げた内山節の「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」であり、もうひとつがこの本、「イカの哲学」だ。
 どちらも平易に書かれているものだが、内容はなかなかに濃い。
 こうした差異の目録としての知に対して、同質性を見つけていこうとする知。これはだから、言語による知ではない。言語によらない知を言語によって説明する矛盾をはらみながら、二つの本は、人間の古層にある記憶や信仰にその源を見出そうとする。
 そのひとつが天台本覚思想であり(「イカの哲学」では言及されていないものの、同じく同質性を見出そうとする思想を論じた中沢新一の「精霊の王」で取り上げられていた)、縄文の信仰や村の民俗社会などであった。
 この異質と同質。これは、1946年のサルトルが「レ・タン・モデルヌ」創刊の辞で、グリーンピースの粒をたとえに語っていたものとは違う。そこでのサルトルが考えた異質性とは、ひたすら個人に執着する分析精神であり、個人をその現実的な生存条件の外に抽象し、人間をグリーンピースの一粒一粒のようなものとしてとらえる考え方。他方、同質性は、個人を無視して、ひたすら集団のみを考える総合精神のこと。個人を階級、国家などひとつの全体に従属し、その全体を絶対化する考え方。
 しかし、中沢新一や内山節の出発点は、サルトルのとなえる人間中心主義からの脱却なのであった。
 サルトルの言う実存とは、世界のうちに存在する人間の実存であり、ほかの動物などとは区別されるものである。それに対して「イカの哲学」の実存とは、イカを出発点として、人間を含め、ありとあらゆるものの実存の照応なのである。仏教の言葉で言えば、サルトルの人間中心主義は大涅槃経の「一切衆生、悉有仏性」であり、イカの哲学は大涅槃経が日本で変化した天台本覚思想の「山川草木、悉皆成仏」ということになるだろう。
 では、次回はもう少し「イカの哲学」の本、そのものに沿って。
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正丸峠から秩父へ

2008年03月24日 13時42分05秒 | 観光
 起きたのが遅く、おまけにだらだらといろんなことをしていたので、自転車で家を出たのが午前11時。どこまで行けるかな、と思いつつ、いつものように荒川へ。
 40kmほど走ると上江橋。ここで昼食をとろうと思う。
 別にそれほどお腹がすいているわけじゃない。だけれど、ぼくは今の空腹なら我慢できるが、一時間後の空腹を今我慢することができない。そしてこの先、何か食べられるポイントはあと40kmほど皆無だ。
 食事を終えて、考える。さて、どうしよう。もうこの時間だから、秩父は無理として、でも、まあそっち方面に行けるだけ行ってみてだめだったら、そこでやめりゃあいいじゃん、とあやふやなことを考える。ぼくのこののんきな性格は、のちのち、山登りするときも有効だった。
 補給後、しばらく走って入間川サイクリングロードへ。
途中、武藏十里というゼッケンを付けたウォーキング集団と行き会う。徒歩で40kmは大変だな、と思いながらも、サイクリングロードをふさぐように歩いている彼らがとても邪魔。かといってぼくはベルを鳴らすのが好きじゃない。すると横からすっとぼくを追い抜いた自転車があった。おお、TIME(フランスの高級フレーム)だあ、と追い抜かれざま感心したが、あ、この人の後ろにくっついて走ればラクじゃん、と気づく。案の定、彼は人が横並びになっていると、「すみませーん、左通りまーす」などと声をかけて人をよけてくれる。ぼくはその後ろを、おっ、すまないね、みたいな顔をして通る。実にラクである。感謝である。
 入間川を走りきり、国道299号バイパスへ。飯能を過ぎると、ここからは上り基調。脚がつらい。冬の間ずっとさぼっていたツケがきた。体だってたるんでるに違いない。
 ようやく上ったかと思うと、すぐに下り坂がくる。たいていの場合下りは気持ちいいものだが、この先の結末を知っているぼくの気分は暗澹たるものだ。だって、下ってった分、ちゃんと上らされることを知ってるんだもん。
 下るたびに、サラ金から運転資金を借りている気分になる。一時しのぎできても、最終的にはきっちりこのツケを払わされるのだ。頼むから下らないでくれ、道にお願いしたりしてる。
 そんなこんなで正丸駅到着、ここで一休み。この売店兼食堂にはよく来る。今年2度目だ。さあ、なんだかんだ言ってここまで来てしまった。このあと、怖いトンネルがあり、それを抜けると結構な下り坂で秩父へ至るのだけれど、前回通ったトンネルを今回は通るつもりはない。トンネルではなく、旧道の峠を越えようと思う。しかし、正丸までの上りで、すでに脚は売り切れ状態。峠へ登れるかどうか自分でも不安。
 トンネルと旧道の分岐点。トンネルの上に白いガードレールが見えるだろうか。あれを延々上っていくのだ。


 トンネル手前を右折して、旧道に入った途端、体感温度が劇的に下がった。
 ここまで90km以上走った上に、飯能から先の上りで脚がない。バテバテ。もう、むり。だめ。でも、とりあえず、脚が停まってバランスが崩れるまでは脚を動かそうと思う。見上げるとカーブを切ったあとが激しく上り坂。あれはさすがに無理。あんなんだめに決まってんじゃん。でも、とりあえず脚を停めない。こげなくなってから降りればいい。絶対に前もっては降りない。なに、足をつこうと思えばいつでも足がつけるんだ。
 自分の呼吸がはっきり音になって聞こえる。そばに人がいたら振り向かれるほどうるさいと思う。はあはあはあはあはあはあはあはあ。
 木々が切れると風景が開ける。眼下に広がる景色を見ると、自分がどれだけ登ってきたのか実感する。思わず声を上げる。「ここまで上がったんだ!」これがモチベーションを高める。
 カーブの向こうに茶店が見える。峠だ。右手で小さくガッツポーズ。

 正丸峠の茶店から外を眺める。ここまで自転車で登ってきました。家を出てちょうど100km。


 
 峠でウィンドブレイカーを着込んで下り。気持ちがよかった。道のあちこちに砂が浮いていてバイクを倒せないのでスピードは出せなかったが、それでも気持ちいい。途中から道がよくなり、少しスピードを出す。50km以上で走ると、寒い。向こうから登ってくるバイクを見つける。にっこり笑いながら会釈をする。向こうは辛そうに会釈を返す。さっきまでの自分を見ているようだ。
 16時45分。秩父駅着。レッドアローのチケットをおさえて休憩。駅の向こうに武甲山の威容がそびえている。
 秩父を出発したレッドアローは、すれ違いのためだろう、正丸トンネル内で停車した。この停車している間、自分のやったことを味わういい時間になった。ぼくはこの上を登っていったんだ、と。
 でも、その一方で、強くなるためには、こんなことにいちいち騒いではいけないとも思う。正丸峠に物語を持ちこんではいけないのだ。強くなるためには、こんな坂はただのトレーニング用の坂だと割り切ってどしどし登っていかなくてはならない。強くなることと物語とは両立しないのだ。強さと物語が両立するとき、それは十分に強くなったときだ。コンタドールなら物語になる。
 だけれど、初心者にありがちなこの過剰な感動を一概に否定するものでもない。部活で登らされてるわけじゃない、自分でわざわざ登りに来ているんだ。この感動が次へのモチベーションにつながる。じゃなきゃ、ハアハア言いながら来ねえよ、秩父なんざ、セメント屋じゃねえんだから(うそ。秩父好き)。

 
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サンシャイン国際水族館

2008年03月21日 09時29分12秒 | 観光


 サンシャイン水族館。
 入口のイワシ水槽がぼくのお気に入り。
 向かい側のパンダイルカはいなくなっちゃったんだ。
 そんな浦島太郎な一日。
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久しぶりの自転車2

2008年03月18日 09時28分21秒 | 観光
 期待はずれの八丁湖をあとにし、すぐそばにあるポンポン山に向かう。
 ポンポン山は京都が有名らしいが、関東の人間にとってはこちらのポンポン山の方がなじみがある。とくに荒川ローディーの話題にときどき出てくるので、行ったことのないぼくでさえその名前は知っていた。
 そんなこんなで初訪問。神社と一体となっているポンポン山は、なかなか面白いところだ。この高負彦根神社は、古い履歴のある神社で、この集落の中心になっていた関係か、さまざまな習合が見られる。獅子頭を埋めて疫病調伏を祈った獅子塚や素戔嗚尊を祭神の一人に加えているところなどは牛頭天王の習合だろうし、拝殿奥の磐倉のようなところに置かれた青面金剛や三猿碑など庚申信仰も見られる。この神社が集落の歴史とともに歩んできたことがわかる。
 もともと地形的にも、ここは中沢新一がアースダイバーで言う「サ」の場所。荒川の流れがすぐ近くを流れ、この地は水辺を望む崎にあたっていた。


 高負彦根神社拝殿。
 この拝殿の裏側が踏むとポンポンと音がするらしい。たしかに、ポンポンではないが、一部だけ違う踏み感と音を感じる。
 あらま、こりゃ、楽しい。
 ドシドシ踏んでみる。
 このすぐそばに吉見百穴、黒岩横穴郡があるのだが、ここにも何らかしら穴が掘られているのもかもしれない。空洞の上を踏んでる感じがある。


 磐倉と三猿像。ここからの見晴らしがすばらしい。どうせ誰もいないだろう、とたかをくくって登っていったら、ぼくの親よりもう少し年齢を重ねたカップルがそこにいた。見晴らしのいい場所で、女性が男性の頭に顔を乗せ、楽しそうにしゃべっていた。いいじゃん。すごく。ぼくもあのくらいの年になったとき、誰かがぼくの肩に頭を乗せてくれるだろうか。


 ポンポン山遠景。
 ここから一般道を走ると、どの駅にも着けなそうな方向感覚もんなので荒川に戻ることにする。


 道標があちこちにあり、迷いがちな救いなき衆生であるぼくも無事に荒川にたどり着けた(道標感謝)。荒川土手に出ると、そこに菜の花と庚申塔がお出迎え。いい場所だな、となんとなく思う。いや、そういう客観的なことじゃない。好きな場所と言った方がいい。ぼくはこういう場所が大好きで、そして自転車に乗っていると往々にしてこうした景色に出会える。


 荒川に戻り、大芦橋を左岸に渡る。荒川パノラマ公園近く、パラモーターが飛び交っていた。なにかヨーロッパ的な田園風景。
 このまま熊谷まで行って、湘南新宿ラインに乗って帰る。まあ、出だしはともかく、ポンポン山は面白かったし、春の花にはいろいろ出会えたし、まっいっかの一日だった。


 ポンポン山に咲いていた梅。
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久しぶりの自転車1

2008年03月17日 10時41分25秒 | 観光
 土曜日はFマリノスがまさかの逆転勝利。情報をシャットアウトして何も知らない状態でJリーグタイムにのぞんだので、嬉しさが爆発。いやあ、去年はこういう試合は絶対に勝てなかった。すごいじゃん、Fマリノス、ってわけで飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎを繰り広げ、まぶたの重い日曜日の朝。
 天気もいいし、久しぶりに自転車に乗ろうかな、と出かけたのがすでに11時前。ま、ブランクもあるし、あまり無理せず、そうだなあ、熊谷か森林公園あたりまでプラプラ走ろうかな。
 田端駅を北上し、荒川土手へ。
 入れません。
 そうだ、今日は荒川交流フェア2008&荒川マラソン。先日国土交通省荒川下流河川事務所から速達が来ていたのを思い出した。月刊ARA購読者に送られてきたもので、要するに国土交通省の無駄遣いがいろいろ指摘されてる現状をかんがみて、金のかかりそうなイヴェントは中止しますってことなのだった。
 まあ、道路特定財源の問題とかあるから自粛するってことなんだな、と考えもせずに読み捨てたが、そうだ、荒川に自転車で乗り入れられないんだった。
 警備員さんに「岩淵くらいまで入れませんよね?」と尋ねる。
 「ええ、岩淵までだめです。先頭のランナーがもうじき通るところですよ」愛想よく答える警備員さん。
 ならば、岩淵の先、荒川大橋から入ろうと北本通りを迂回。
 うそつき。
 岩淵どころじゃない。まだ荒川大橋んとこランナー走ってるじゃんか。
 「あと4kmだぞ! がんばれ!!」などと声援も聞こえる。
 まだここから4kmもあんじゃん。左岸に渡ってみると通行止め。どうすりゃいいんだよ。
 そのうちに道に迷う。日曜日の誰もいない道路をあてどなく彷徨う。
 武満徹の歌が頭に流れる。

 悲しいときには歌うだけ 歌うと歌うと歌うと
 悲しみはふくれる 風船のように それが私の喜び

 ずいぶんマゾヒスティックな歌だ。現実を心地よく受け入れるためにMホルモンが脳内に放出されたんじゃないか、と自分の適応機制にグッジョブと親指を立てる。


 結局、戸田橋の先まで自転車は入れなかったのである。
 田端から来ないで、うちから板橋方面へ北上すれば10km、30分で荒川に入れたのに、うろうろしたので結局25km、1時間以上もかかって、ようやく荒川in。が、すでに体が飢餓状態。このまま走ると死ぬので、せっかく荒川に入れたのに、すぐに出て町へ向かう。食事をして、荒川に戻ったのが午後1時。
 さあ、いよいよ走れるぞ。20km地点の朝霞水門を35km走って通過、秋ヶ瀬大橋を渡り迂回路に入り、ホンダエアポートを過ぎ、脇目もふらず北上していく。


 圏央道。高尾山っていうとたいした山じゃないように思われるけれど、あれはあれでなかなか自然の宝庫なのである。そこにトンネルこさえて圏央道通しちゃえっていうんだから、国土交通省はお茶目なやつである。

 吉見の桜堤を通ると、なんだか空気がほんのり色づいている気がする。もうつぼみもずいぶんふくらんでいる。花の咲いていない桜の木からピンクの色がたちこめている感じがする。もう春だな、と思う。なぜって、先月まで皆無だったのに、今日は顔にぶつかる虫がけっこういる。割と痛いのだ、あれ。
 そのまま熊谷まで突っ走ってもつまらないので、吉見で寄り道。


 八丁湖。写真だとまあまあに見えるが、実際行ってみると、水たまりにちょっと毛の生えたようなもん。まあ、出足からなんだか今日は失敗だったかな、と八丁湖にたたずんでみたりする。


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クラシックでわかる世界史

2008年03月14日 09時52分40秒 | 読書
西原稔「クラシックでわかる世界史」             アルテスパブリッシング

 芸術は、社会から離れた孤高の存在ではない。
 中学、高校の教科書レヴェルでもいいから、その文化史を追ってみればいい。日本史にしても世界史にしても、文化が花咲き、芸術の傑作が生まれるのは、たいてい人と物と金が集まるところだ。
 芸術は山の奥地で隠棲して行われる孤独な作業ではなく、経済や政治と切り離して語ることのできない人間活動の一つなのだ(お好きな人は上部構造と下部構造という語を用いてもよろしくてよ)。だいたい山の奥地で隠棲などしてたら、それは芸術活動以上にアウトドア活動が必要で、芸術新潮なんか読んでないでBE-PAL読まなきゃならなくなるだろうが。
 したがって、たとえば西洋のクラシカル音楽を語ることは西洋史を語ることと不可分であるはずなのである。しかし、そのバランスは難しく、多くは、どちらかに偏るか、どちらも中途半端でつまらなかったりする。
 もちろん、芸術が社会と切り離せないものだからと言って、社会背景を語らなければ芸術作品を語れないということではない。芸術を生みだす母胎はたしかに社会の中に存在するのだが、生みだされた芸術作品は、社会を超える可能性を持っているからだ。
 サント=ヴーヴとプルーストの論争はこのあたりに起因する。
 まあ、つまりシュッツの音楽を考えるにあたって30年戦争に思いを馳せないことは不可能だが、「ダビデ詩篇曲」を語るにあたっては必ずしも不可能ではない、ということだ。
 で、この本は見事に西洋史と西洋音楽史とをくんずほぐれつに語っている。
 政治家(王室)によって運がむいたり、そっぽむいたりされながら、音楽家たちはその歴史の波の中で生きていかざるを得ない。特に19世紀の市民社会形成までは、音楽家はスポンサーである彼らに依存して生きていかなければならなかったのだ。
 血で血を洗う宗教紛争、新国王が即位するたびに、カトリックと国教会が入れ替わるような時代、宮廷音楽家マシュー・ロックはチャールズ1世処刑前に王子とともにイングランドを脱出せざるを得なかったし、また、チャールズ2世とともにイングランドに返り咲いたが、次のパーセルは見事4代の国王に仕え、そのどちらの陣営についても音楽を書いた。
 こういうのって、たしかにパーセルの「ディドーとエネアス」そのものを語ることには必要ないかもしれないが、だがパーセルという人間を語るには必要なのだと思う。そして、音楽家たちが、本来偶然であるべき人生を、歴史という大きな流れの中で必然のようにしていかざるを得ないことを知るのである。
 それは、実は、音楽家だけのことではない。われわれ自身がそうなのだ。しかし、われわれには、歴史的認識で現在を見ることはできない。自己言及の問題点である。その矛盾の中でいかに認識していくか、ここで語られる音楽家の姿にもそのヒントの一つがあるのではないだろうか。
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飛鳥山博物館

2008年03月12日 07時36分13秒 | 観光


 かつて回転展望台(あるいはそれが付属したレストラン)が流行った時期があった。いろんなところでそれを目にした覚えがある。今でも有楽町の交通会館では回り続けているが、多くのところはその流行が去った後、撤去されたり、回らないまま放置されたり、寂しい限りだ。
 写真は飛鳥山にあった回転展望台。たしかね、20分で1周したと思う。小さい頃、都電に乗って飛鳥山によく行った。今みたいに荒川線1本しか走っていないわけじゃなく、いろんな路線がいろんなところを走っていた。うちから銀座まで都電が走り、山手線の初乗りが10円だった(子供料金だけどね。大人は30円)時代。飛鳥山の回転展望台もすでに撤去されてしまった。
 都電王子駅で降りて飛鳥山公園に向かう。
 大人の感覚と子どもの記憶とが食い違う。記憶よりずっと小さい。よく凧揚げしに来たんだけれど、こんな狭さでよく凧揚げしたもんだと感心する。
 飛鳥山公園内にある北区立飛鳥山博物館へ。
 受付に撮影禁止のマークがあるので、「カメラはだめなんですね」と尋ねる。すると、名前を記帳し、インターネットなどに載せなければOKです、と。
 「これをつけて下さい」
 で、渡されたのが、これ。


 載せちゃいけないから写真は載せないが、すごく面白い展示。とくに出土した地層の剥ぎ取り標本は実に興味深かった。酸素同位体による地形の変遷、縄文時代の土偶、弥生時代の鉄釧、それから秩父平氏と豊島氏の関係、変遷など、他にも面白い展示が多い。
 ぼくのあとから大学生くらいの女性がやはり腕章を巻いて撮影していた。その地味な服装や都電沿いの場所ってことで、思わず「ゾッケン?」と声をかけたくなった。もちろん、そんなことはしませんが。


 博物館を出る。
 すでに桜は開花の準備をしていた。
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内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」

2008年03月11日 16時38分53秒 | 読書
内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」     講談社現代新書

 埼玉北部や群馬南部を歩いていると(いや、ぼくがそこらへんしか知らないだけで、たぶん山ん中のいたるところに)、たとえば大木の根元や大岩の上などに小さな祠が飾られていたり、御幣が巻かれていたりするのを目にする。
 そういう風景ってあなたにとって不思議なものですか?
 考えてみるとちょっと不思議な気もする。岩や木を聖別しているのは、そこに神が降臨したからではない。岩や木そのものの存在感が尋常じゃないから聖別しているのだ。岩や木だけじゃない。拝殿だけで、御神体は山そのものです、なんていう神社もあるし、中には水を御神水として聖別する場合もある。
 われわれがこれが日本の神話である、という、たとえば「古事記」であるとか「日本書紀」であるとかいった書物における神々は、人の形をし、動き、活躍する神たちであった。岩に由来があるのは、ある神がそこに降臨したからであり、岩そのもの、山そのものを神とすることはなかった。
 となると、山や木、水や岩を崇めるわれわれ日本人には、そうした記紀神話の体系とは別に、自然の中で生きながら、自然を科学とは別の仕方で眺めていた伝統があるように思えるのだ。
 そうした伝統的な生き方が全国的な規模で壊れていった挙げ句、日本人はキツネにだまされなくなった。それがいつか。年代は実は特定できるのだった。

「ところが1965年を境にして、日本の社会からキツネにだまされたという話が発生しなくなってしまうのである」

 おお。そうかあ。この1965年という数字はなんとなくわかるような気がする。
 そしてその原因が仮説としていくつも紹介されるがその中の一つが正解というわけではなく、それらすべてが複合的に絡まりあってこの年を境にキツネにだまされる事例がなくなっていったように思える。
 たとえば、高度経済成長期に見られた変化、「科学の時代」における変化、それまでフェイス・トゥ・フェイスによって作られていた口語によるコミュニケーションにテレビや雑誌が進出してきたこと、進学率の向上、死生観の変化、自然観の変化。こうした変化(こう箇条書きにしただけじゃ意味わかんないね)をとりあげ、その背景を説明し、ふむふむ納得と思う。
 思うのだが、この本の眼目は、実はそこにない。
 キツネを窓口に社会の変化に伴う、日本人の歴史観の変化を物語っているのだ。あるいは歴史哲学というか。
 たとえば歴史はいくつもの側面を持っている。知性によってとらえられる歴史もあれば、身体性によって担われる歴史、生命の受け渡しによって担われる歴史も存在する、と著者は主張する。そのうち、われわれは知性による歴史のみを真実の歴史として考えるようになり、だから先細りしているのだ。
 われわれ日本人は、岩や木、山や水に神を見出したように、他の宗教とは違う(神道とさえも違う)神を感じて(信じて、ではなく)生きてきた。その神は形のないものだから、何かに仮託して「かたち」を見出す。それが岩や木、山や水、あるいは祭りなのだ。姿かたちもなければ教義もない。その神の本質とは自然(じねん=おのずから)であった。
 その日本独特の表現が仏教を受容して消化した際現れた、天台本覚思想だ。仏教本来の「一切衆生、悉有仏性」を「山川草木、悉皆成仏」と変化させたわれわれの自然観は特筆に値する。
 そうした知性からはみだす生命性の歴史。

 「生命性の歴史は、何かに仮託されることによってつかみとられていたのである。
 そして、この生命性の歴史が感じとられ、納得され、諒解されていた時代に、人々はキツネにだまされていたのではないかと私は考えている。だからそれはキツネにだまされたという物語である。しかしそれは創作された話ではない。自然と人間の生命の歴史のなかでみいだされていたものが語られた。
 それは生命性の歴史を衰弱させた私たちには、もはやみえなくなった歴史である」

 漢字も少なく、たいへん平易に書かれているにもかかわらず、「キツネ」を突破口に物語られた対象は広く、深い。
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脱力………

2008年03月07日 16時50分21秒 | らくがき


 忙しくて身動きとれないくらいなのに、風邪をひいてしまいました。
 おまけに免疫に問題があるらしく、左目にものもらい。
 泣きっ面に虻蜂取らず。
 この力尽きた状態をみなさまに味わって頂きたく。
  
 鼻も目もどろんどろん。
 週末は寝てるべきなんだろうが、明日は日産スタジアム。
 みなさまもよい週末を。
 
 
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近藤史恵「サクリファイス」

2008年03月06日 08時29分24秒 | 読書
近藤史恵「サクリファイス」              新潮社

 2007年のツール・ド・フランス。あるステージに前回までのツール総合ディレクター、ジャン=マリ・ルブランが現れた。するとレース中の選手たちは四賞ジャージの選手たちを先頭に整列し、彼に敬意を表した(四賞ジャージってのは、その時点での新人賞、ポイント賞、山岳賞、総合の4つの部門でトップの選手が着るジャージ。ツール・ド・フランスでは新人賞は白、ポイント賞は緑、山岳は赤玉、総合は黄色)。
 インプレイ中にこのようなことを行う競技はまず他にはあり得ないと思う。
 ことさら自転車ロードレースにはルール以外の不文律が多い。他の競技がよくも悪くも勝つための効率を求め、グローバル化しているのに対し、ロードレースは、はなはだヨーロッパ・ローカルのスポーツなのだ。南米やアメリカ、オーストラリアからどんなにいい選手が出ようと、彼らはヨーロッパのローカル・ルールの中で活動しなくてはならない。グラン・ツールの最終日、どんなに僅差でも周回コースまでは競わない、など、どんなに非合理的に思えても、それがサイクル・ロードレースのヨーロッパスタンダードなのである。それに従わなければならない。
 サイクル・ロードレースがサッカーや野球、ラグビーに比べて、ヨーロッパ以外ではかなりマイナーな競技である、というのも理由だろう。また、プロチームがチームのバックボーンとして期待できる入場料収入というものがサイクル・ロードレースにはない。スポンサーだけが頼りだ。したがって、たとえそれがルールブックにないからと言って、スポンサーのイメージが悪くなるような行いは厳に慎まなくてはならない。
 さらにサイクル・ロードレースを見慣れていない人間にちょっとよくわからないのが、レースは完全にチーム戦略に基づくものだということ。各チームにはエースがいて、他の人間はみな彼のためのアシストになる。エースをのぞくほとんどの選手は、何かのアクシデントがない限り一生表彰台には縁がない(映画「茄子アンダルシアの夏」でペペがステージ優勝できたのは、エースが落車、リタイアしてしまったから)。
 エースとアシスト、その関係は絶対だ。1934年のツール・ド・フランス。フランスチームのエース、アントナン・マーニュがパンク、アシストのルネ・ヴィエットは自分も総合3位と優勝圏内にいたにもかかわらず即座に自分の自転車の車輪をエースに差し出し、自らはサポートカーがやってくるまで路傍に座って泣いていたってことがあるくらい。
 去年のツールでもヴィノクロフが落車すると、他のアシストたちがいっせいに彼のところへやってきて集団まで引っ張っていった。アシストたちにとって自分の順位は関係ない。エースの順位だけが問題であり、自分たちはタイムアウトにならないようにゴールすればいい。
 アシストはエースのための犠牲(サクリファイス)なのか。ぼくは違うと思う。チームのために役割があるだけだ。犠牲は大げさだと思うんだけれどな。
 で、ロードレースを描いた近藤史恵「サクリファイス」。ロードレースが舞台という珍しい小説で、なかなか評判がいい。で、読んでみたのだけれど、これはロードレースというものを知らない人の方が楽しめるかもしれない、というのが正直な感想。先ほどまで延々と述べた他では考えられないようなロードレースの常識が新鮮だろうし、厳しい世界に生きる選手たちの姿が斬新にうつるだろう。
 だけれど、それを抜いて考えると、ちょっと薄っぺらな気がする。レースに触れている部分はいいのだけれど、そこを離れると、なんというか、動機と行動のバランスが悪い、というか、そんなことのためにそんなことしねえよ、というか。
 一応ミステリ仕立てなのだが、それにしては主人公=探偵=成長すべき若者といういいとこどりなはずの白石という人物がいっこうに魅力的じゃないし、人物像が浮き立たない。
 でも、売れている。
 ただロードレースにあまりなじみがない人にとっては、ゴール手前で他のチームに勝利を譲っても八百長として非難されずに賞賛されるような変なスポーツもあるもんだと、興味深い部分もあるかもしれない。
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藤森栄一「縄文の世界」

2008年03月05日 08時48分57秒 | 読書

藤森栄一「縄文の世界 古代の人と山河」          講談社

 考古学は他と比べて素人が参加しやすい学問だと思う。どんなに研究を重ねても、現地で遊んでる小学生の方が現場を知っていることもある。「ああ、その土器ならこっちから取れるんだよ」などと。
 諏訪の小学生はちょっと掘れば埋蔵物がどんどん出てくる環境の中、他の地域の子供たちよりも考古学に関心があったようだ。そうした子供たちを従えて発掘する在地の人々。
 「土器掘りは、小学生の間でも一つの遊びとなって流行した。子どもたちは腰へビクをつけて桑棒かついで登っていった。尖石の北側の用水堰の切り通しの土手をじっと見てまわると、きっと土器が底や腹を出している。地蜂の巣をみつけるよりゃおもしれえ、と子どもたちはたいてい二つや三つの土器を持ちかえってきた(略)」
そして発見の報に触れ、やってくる東京の大学の先生たち。考古学はこんな風に、子供たちの知的好奇心も巻き込みながら、素人玄人一緒くたになって発展してきた。
 そこには知ることの楽しさとどうしても知りたいという強い思い、そして考古学という学問に対する愛情が感じられて、読んでるこちらまでその熱に巻き込まれる思いがする。
 著者の藤森栄一は諏訪を代表する考古学者であったが、生涯在野の人でもあった。少年時代、彼に強く影響を受けた戸沢充則はやがて明治大学に進み、のちに学長になった考古学者であり、この本には「茶臼山遺跡の調査主任。後、明大講師」として紹介されている。
この戸沢先生をはじめ、キリン先生、橋本青年、松沢少年。みなが目を輝かせて掘っている姿が浮かぶ。読んでいてそのいきいきとした描写がうれしい。
「趣味者というか、悪くいえば物好きの変物、そういう名のもとに、むなしく消えてしまったたくさんな好学者たちの、生命をかけての努力が折り重なって埋もれ、その上に郷土科学が芽生える下地ができつつあったのである」
そしてもうひとついきいきとしているのは、諏訪の自然である。著者が注ぐ諏訪の自然への愛情がその描写にときに美しく、ときに悲しく彩りを添えている。
遺跡と自然。諏訪を語るのに欠かせない2つである(これを2つとも破壊しようとした県と藤森栄一たちの戦いを描いたのが新田次郎「霧の子孫たち」であった)。
 もちろん考古学は、楽しく夢にあふれているばかりではない。ここに描かれた宮坂英弌の尖石発掘には凄まじいものがある。考古学の宮と呼ばれた伏見宮の姿を見て感激した小学校教員宮坂英弌は自分も尖石を掘ってみようと思う。最初はやってきた応援も戦争が深まるにつれ、訪れるものもいなくなり、村人が白眼視する中、小学校教員の給料と蔵書をつぎ込んで、家族だけで尖石の集落を発掘した。雨漏りのする屋根、腐った畳、家の中にはキノコが生えていた。敗戦2年後、妻を失い、その2年後長男を失う。そんな中、彼は掘り続けた。彼は不幸だったのか、幸せだったのか。どちらともぼくには言えないが、その執念の凄まじさに感じ入る。
 発掘に、考古学にいのちをかけるのは、宮坂も藤森も同じ気持ちだったに違いない。その思念は出土品を出発点にし、世界中を駆け回る。インドネシアでの胎盤処理と諏訪での胎盤処理を比較したり、ユーコン川の温泉に思いを馳せる。
 その大きな視野をもって、藤森は日本の縄文世界を描いている。それは、とても魅力的で、しかし、きびしく、極端に短命な世界であった。
 縄文時代の知識そのもの、そして考古学という学問の方法やそれにかかわる人々の情熱など、この本に描かれているものは豊かで興味深い。
 ちなみに宮崎駿は「風の谷のナウシカ」を作る際、この本からインスピレーションを得たと言われている。
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