毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

飯嶋和一「出星前夜」

2008年10月30日 22時29分35秒 | 読書
飯嶋和一「出星前夜」                 小学館


 島原の乱。
 苛政とそれに連なる貧困、飢餓が25年の時を隔て人々をキリスト教に帰らせることになった。したがって、そこで戦われたのは、信教の自由というよりも、貧困や飢餓、疫病から逃れ、人が人として生きる権利だったのではないか。
 丁寧に人々の困窮する生活を描くことによって、この本はそういう新たな視点をぼくたちに獲得させてくれる。
 キリシタンに立ち返ること、それは単にキリスト教を再び信仰する宣言なのではなく、悪政に立ち向かうことを意味したのだ。したがって、ここでのキリスト教は最後の審判を信じ、それまで耐える宗教ではなく、戦う宗教となった。
 人々は熱狂し、進んで戦闘に参加した。しかし、著者はその様子を「焼け死ぬことを知らず灯火に吸い込まれていく羽虫の群れの寒々とした光景」と描写する。われわれも知っている、これがどんな結末になったのか。
 大変興味深いのは島原で生きるために勃発した蜂起と天草での蜂起とが微妙にそのスタンスを違えている点だ。島原では主謀者は処刑されるにしてもこの蜂起によって藩のめちゃくちゃな政治は公になり、改易など幕府の介入によって残された民衆の生活は上向きになるだろうとの考えで蜂起は起きた。
 それに対して天草ではキリスト教の神の国の実現を目指して、そのためには殉教もいとわない覚悟で蜂起した、とこの小説は語る。
 島原も天草のジェロニモ四郎に忠誠を誓った以上、全体が天草の殉教へ向かっていってしまう。
 生活苦から始まった蜂起がいつの間にか神の国建設の蜂起へと変化するにつれ、、生きるための蜂起が死ぬための蜂起へと変わってきてしまうのだ。
 その2つの立場を寿安と四郎という2人によって実感できる形で描写されている。
 そして著者は主人公を寿安とすることによって彼の主張を吐露しているのだろう。

 同じく島原の乱を描いた堀田善衛の「海鳴りの底から」もすばらしい本なので、できれば2冊あわせてどうぞ。
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品川~羽田4 いよいよ空港へ

2008年10月30日 18時01分21秒 | 観光

 平和島あたりをふらふらしていたら見つけた施設。
 大森と言えば、貝塚(しかし、大森ではなく大井だったが)。
 その次に海苔。今でも大森には海苔問屋が密集しているらしい。
 ちなみに海苔で有名な大森屋はこの大森とは全然関係のない大阪の会社。
 海苔についてほおと思うところもあったのだけれど、これだけのハコが必要なのかどうかは不明。今年の4月にできた新品の施設であった。

 環八に入り、そのまま南下。道の右側にあるのが穴守稲荷。

 有名なお稲荷さんで一度来ようとは思っていたものの、リムジンや車だとそのまま首都高に入ってしまうのでなんだか縁がなかった。


 なかなか雰囲気のある神社で面白かった。
 この神社で耕作したお米をご神米として売っているので一つ買う。これで開運間違いなしである。また奥の宮の砂を持ち帰って家に蒔くと霊験あらたか。


 そのまま環八を行く。入れるときに歩道に入ることがポイントである。YS-11が3機駐機してある。どうやら展示する計画があったのだが、いろんなことから計画が頓挫しているらしい。


 着陸態勢の飛行機。すぐそばにやってくるのでなかなかの迫力である。飛行機見に来るだけでも価値があるかも。


 このトンネルを抜けると羽田空港内に入れるのだが、トンネルのどちらの歩道を走るかによって運命は大きく変わる。


 ぼくは右側を走ったのだが、たぶん遠回りに違いない。延々走って国際線ターミナルを経て、ようやく第二ターミナルへたどり着いた。左だと第一ターミナルへすぐに行けるんじゃないかな。
 さて、そんなわけで、25km離れた羽田空港まで40km以上走った東京東南部ポタリングの旅。帰りは面倒くさくなってしまったので、自転車をばらしてリムジンバスで帰ることにした。時間があったら多摩川サイクリングロードをさかのぼるのも楽しいかも。
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品川~羽田3 大森貝塚

2008年10月29日 17時12分17秒 | 観光
 大森貝塚は日本の考古学のスタート地点である。生物学者モースが横浜から汽車で帰るとき、偶然発見したという。しかし彼が考古学者ではなく、生物学者であったことがのちの混乱を呼んでしまうことになる。
 考古学者なら必ずやる測量をしなかったため、発掘地点がわからなくなってしまったのだ。
 品川区側に貝塚碑を建てた翌年、モースと一緒に発掘していた人間が先導し、大田区側にも碑を建ててしまった。
 そう、こっちこそがモースが発掘した貝塚だと二カ所で争われていたのだ。


 大田区大森にある「大森貝墟」碑。
 走る電車に向かって建ててある。モースのレリーフがあるものの、周囲には何もない。


 品川区大井にある大森貝塚遺跡公園。こちらは公園として整備されている。敷地も広いし、貝塚をじかに見ることもできる。
 こちらは発掘調査したら貝塚層が確認できたのに対して、大田区の「大森貝墟」碑があるところからは貝塚は発見されていない。
 また、発掘に伴う地権者への補償の書類が発見され、そこには大森ではなく、大井村と記されていたことからも、大田区大森ではなく、品川区大井こそが「大森」貝塚発掘現場であると認められている。
 にしても、発掘131周年って、ハンパじゃないかね?


 大森貝塚遺跡公園で見られる貝塚層。
 大森貝塚という名前自体は小学生のときから知っていたのに、初めて来た。
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品川~羽田2 鈴ヶ森刑場跡

2008年10月29日 08時09分02秒 | 観光


 江戸の北の千住、南の品川には共通するものがいくつもある。
 たとえば刑場、被差別民、天王社、遊女。さらにその少し内側に徳川政権の菩提寺(北の寛永寺、南の増上寺)があることも共通している。それはまるで江戸の北と南にきれいなシンメトリーを描いているようにも見える。
 たぶん、描こうという意図はあったのではないだろうか。
 千住は仮想敵国蝦夷を控え、品川はやはりいわば仮想敵国である天皇へ通じる道。
 その道の境界上に浄化装置としてこのようなものが置かれたのではないか。
 刑場は悪を排除し、体制内を浄化する。
 被差別民は刑の執行や死体の処理にあたるとともに、コトホギやヤクバライなどのキヨメも行った。
 遊女たちはいわば江戸の穢れを一身に背負うことによって、来た者の穢れを払う。
 天王社も御輿が水を浴びることによって浄化する祭を行う。

「こうして徳川王権は、江戸の南北に延びる二大街道の境界付近に、まず徳川聖地の祈願寺・菩提寺を置き、その外側の他界空間には二大刑場、二大被差別民、二大遊里という“浄化装置”を配したわけです。さらに奥州街道と東海道のふたつのルートは、北に征夷大将軍の仮想敵国・蝦夷地をひかえ、南は天皇の住む京都に通ずる道でもあったのです。
このような、日本列島の全構図にまで拡がるヴィジョンをもった徳川将軍家は、たんなる天皇を補完する武家政権の枠を大きく逸脱し、やはり「王権」としての力を十二分にもった武力的・呪術的権力だったと結論づけられると思います」(内藤正敏「魔都江戸の都市計画」)

 さてさて、そんなこんなで旧東海道が国道15号と再び交わるところにあるのが、鈴ヶ森刑場跡である。
 ぼくは霊感などこれっぽっちもないのだけれど、頭が重くなってちょっと頭痛がした。


 歌舞伎などでおなじみのひげ題目。


 丸橋忠弥などを処刑する際、磔をこの穴に固定して行ったとの伝承。まさに処刑の行われたリアルな礎石。


 こちらは同じように火あぶり用の鉄柱を建てる穴とのこちらも伝承。真偽はわかりません。
 江戸時代、これらの刑場で年間1000人が処刑されたと言われている。公開で毎日2,3人が処刑された計算で、ちょっと想像がつかない数だ。
 千住もここも大きなマンションが建ち並ぶ街となり、徳川王権のヴィジョンは跡形もなく消え去ってしまった。
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品川~羽田空港1 旧東海道

2008年10月28日 09時38分41秒 | 観光
 車、リムジンバス、モノレール、京急と羽田空港へのアクセスはいろいろある。そんな中、最近知ったのだけれど、徒歩や自転車でも空港へ入れることができるらしい。となれば、行ってみましょう、入りましょう、とさっそく自転車に乗り込む。
 ただ、地図で見ると空港まではおよそ25kmほど。これっぱっかをそのまま行くんじゃつまらない。山手線の北部に住んでいる人間にはあまりなじみのない、東京東南部をポタリングしながら空港まで行こうではないか、と(決して道に迷った負け惜しみなどではない。まあ、そりゃ、迷った部分もあったけどさ)。
 うちから後楽園、神保町、皇居を経て、東京駅へ。東京駅まで6km、20分足らず。ドア・トゥ・ドアで考えると自転車が最速。丸の内の日比谷通りをそのまま直進、三田で国道15号線(第一京浜国道、いわゆる一国だ)にぶつかる。一国を走りつつ、おっと気づく。結局、どこも見てないじゃないか、全然ポタリングじゃないじゃないか、だいたい時速30km以上で突き進んでいるし。
 そんな反省をこめて、品川からはポタリングモード全開。間違って御殿山を駆け上がってしまうが、京急の踏切を通れば、山の上り下りしなくていいことにあとで気づいた。
 ここから国道を離れ、旧東海道へ。


 JRや京急品川駅の南に京急の北品川駅がある。
 ちょっと考えると不思議なのだけれど、実は品川に鉄道を引く際、品川宿の人々が反対して、駅を作ることができなかったのだ。そこで仕方なく、品川ではなく、そこよりずっと北の高輪に品川駅を作ったのであった。もともとの品川は品川駅より京急で2駅南の新馬場あたりにあった。
 この旧東海道はよほど栄えたのだろう。とにかく路地ごとに神社仏閣が立ち並んでいる。お寺の隣が3軒お寺なんてところもある。


 目黒川にかかる橋。向こうの森が荏原神社。ここに恵比寿さんの像があるのだが、釣り竿にはちゃんと釣り糸が張ってある芸の細かさ。目黒川を眺めると、葉っぱが浮いていて、流れていない。いや、よく見ると、流れが逆流しているようにも見える。これはたぶん潮汐の影響を受けているんだろう。
 この荏原神社と国道をはさんで並ぶ品川神社。どちらも祭神は牛頭天王。夏の祭では御輿を担いで海に入る。ぼくたち東京の人間からすると祇園祭っていうと山鉾巡行のイメージなのだが、祭祀としては、3つの御輿が水を浴びることの方が重要なのではないだろうか。このことについては、京都旅行11八坂神社2に以前書いたことがあった。この荏原神社も八坂神社から牛頭天王を勧請している。

 ゆっくり見てみると、品川はなかなかおもしろい。次回は品川の刑場跡へ。
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奥多摩湖

2008年10月27日 10時34分56秒 | 写真


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コニー・ウィリス「ドゥームズデイ・ブック」

2008年10月24日 10時25分31秒 | 読書

  コニー・ウィリス「ドゥームズデイブック」     ハヤカワ文庫

 高麗神社からの帰り、自転車をばらして電車に乗った。
 自転車を持って電車に乗ると注目を浴びることが多い。そのときも一人の外国人が本を読みながら、ぼくをちらちら見ていた。
 見られていることよりも、ぼくは彼が読んでいる本の方が気になった。彼が読んでいたのは、コニー・ウィリスのペイパーバック「Passage」だった。
 実は、ちょっと前それを読んで、感心したのだ、その手管、テクニック、読者のツボを察知する能力。
 まあ、一言で言えば、やられちゃったのよ、その本に。
 終末まで一気に読み終わりたいくせに、読み終わったあとの寂寞感にさいなまれてしまい、ぼくは、だから、彼女の他の本も読むはめになってしまった。
 それがこの「ドゥームズデイ・ブック」。
 生を豊かにするために本を読むのではなく、その本を読むためだけに生きているときがある。
 シェンケヴィッチの「クォ・ヴァディス」、デュマの「三銃士」、ワクワクする気持ちでその本を読みたくて、食事だろうが学校だろうが、そんなものは二の次で、大事なのは目が文字を追うことと指がページをめくることだけ。
 もちろん社会人になってしまった今日、それが完全な形で再現できるとは思わないが、ずいぶんスケールダウンした形として、ぼくは言える。ぼくはコニー・ウィリスの「ドゥームズデイ・ブック」を読むために、ここ数日生きていた。
 それくらい面白かった。いや、面白いというのはどうだろう、ふさわしくないかもしれない。なにしろ悲惨な場面や生理的に受け付けないような場面が続出するのだから。
 でも、読み続けたくなる読書を引っ張る力があるのだ。
 この人の宗教との関わり方の絶妙さがいい。ときとして狂信家は狭い場所に他人を押し込めようとしたり(しかもそれを善意で! この善意が一番うさんくさいんだ、実は)、他人に自らの狂信を押しつけようとする。それに対する警鐘の鳴らし方がいい。
 過去への時間旅行が可能になった未来。女子大生キヴリンは衛生状態が悪く、危険なため誰も訪れたことのない14世紀(トレチェントだ!)に旅立つ。旅行時、すでにウィルスに感染していた彼女は、行った先で倒れてしまう。さらに悪いことに時間旅行の操作者もそのウィルスに感染して朦朧とした意識の中、彼女を誤って目標よりももっと後の時代、ペストの時代に送り込んでしまう。
 果たして彼女を待ち受ける運命は………。
 ほんと、おもしろかった。文庫本、上下で1200ページほどなのに、あっという間に読み終わった。
 ただ、書かれた年代のせいか、時間旅行が可能な時代に携帯電話がないのかよ、とか、この時代はもうトイレットペイパーは使わないんじゃないの、などの感想もあり。
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江戸川サイクリングロード

2008年10月23日 08時07分01秒 | 観光
 いっぺんに目に入らないという配慮からだろう。
 「意注上頭車転自?」最初なんだろうと思ったが…………。


 この日は荒川がマラソン大会で通りにくかったので、途中から国道6号線へ抜け、江戸川サイクリングロードへ。


 寅さんで有名な葛飾柴又。
 そこに残る矢切の渡し。


 水元公園の江戸前金魚展示場でみた金魚。頂天眼という。
 いやあ、初めて見る金魚ばっか。
 中には銀色の銀魚というものもあり、それはすでに金魚じゃねえんじゃないか、と。
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謎の自販機

2008年10月22日 12時32分26秒 | らくがき

 この30円にどんな意味があるのだろうか。
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コスモス

2008年10月22日 10時54分05秒 | 観光
 ちょうどコスモスが満開の季節。
 荒川を北上してコスモス見物へ。


 荒川パノラマ公園そば。通称コスモス街道で。
 ここもいいのだけれど、吉岡コスモス園というのがすばらしいらしい。
 なわけでさらに北上。
 市で言うと熊谷市になるらしい。


 広大。
 写真に収まりきらないコスモス畑。これが何面もある。圧巻。
 いや、これはすごいっす。


 セイタカアワダチソウと。



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ユベール・マンガレリ「四人の兵士」

2008年10月21日 08時34分48秒 | 読書

 ユベール・マンガレリ「四人の兵士」            白水社



 これがフランスで売れているとしたら、フランスの文学的成熟度はかなり高いと思う。
 静かに淡々と語られる兵士の休息。文学的な語り口調などなく、表現は平素、アクロバティックなたとえや小粋な会話もない。戦争文学にありがちな思索的なもの、あるいはヒロイックな行動、手に汗を握るスリリングな展開、そんなものもない。
 1919年、ルーマニア戦線から退却中のロシア兵四人は互いに気遣い、一緒に楽しみ、つかの間の時を安らぐ。
 シンプルで素直な筆致で描かれる彼らの生活は、読んでいくにつれ、彼らにとってどれだけ貴重なものであったか悟らされる。
 やがて、宿営地を引き払うよう命令が下る。追っ手が追いついてきたのだ。そのときの彼らの静かな絶望、不安、とまどい。声高に叫ばない悲しみが痛いように伝わってくる。

「ぼくの横にはシフラがいた。せめて、持って行くのが清潔な毛布でよかったよ、と話しかけると、コートも洗っておけばよかったね、とこたえた。うん、洗えなくて残念だ。そう返事をしたとたん、ぼくは思った。そんな日があと一日でもあったら、沼にコートをざぶんと浸けたり、ごしごしやったりして愉快に過ごせたら。そして、洗ったコートを陽なたに干してやる日が、さらにもう一日あったら」

 その一日を希求するのが人間であり、そして悲しいことにほとんどの場合、その一日が再び訪れることはない。
 彼らの思い出は記録されることなく消え去ってしまうのだろうか。
 しみじみといい本に出会えた。
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鉄道博物館

2008年10月20日 11時11分15秒 | 観光

 秋葉原にあった交通博物館。子どもの頃からよく行ったものだった。そんな頃からあったのだから建物は老朽化、一昨年交通博物館の機能は停止され、大宮に新たな博物館が建設された。
 それが去年開館した鉄道博物館。なんと「鉄道博物館駅」まで存在する。JR東日本の力こぶを感じる。
 オープン当初はものすごい混雑が報道されていたけれど、そろそろほとぼりも冷めた頃だし、平日の昼間だし、などとたかをくくっていたら、あにはからんや、博物館の駐車場にはたくさんの車、観光バスがひしめいている。ツアー客も多いし、外国からのお客さんも多い。
 ジオラマを見るためには30分以上も並ばなければならない。どこに行っても長蛇の列。
 見渡す限り、テツにテツ子、テツ爺、テツ婆、テツ坊、テツ嬢、すごい人出だ。
 貴重なSLなどの展示もあるが、ぼくにはピンと来ない。世代的にSLと物語を共有していないからだ。なにしろ今までSLに乗ったのは(乗った、と言えるかどうか)、京都の梅小路公園での1度きり(往復1km)。


 その代わり、大きく反応したのがこれ。
 だって、この形の電車、乗ったもん。こういう前がとがった特急が徐々に姿を消していく時代がぼくの小学校時代だった。テツの友達と一緒に上野に見に行ったりしたものだ。
 懐かしい。上の世代がSLを見て思う感覚がこれなのかな、とも思う。


 今では電光掲示板に取って代わられたけれど、上野に行くと、こういうのがずらーっとぶら下がってたんだ。懐かしいぞ、猛烈に。



 ここで駅弁を売っている。
 後ろには鉄道車両が。そう、あの車両の中で駅弁を食べて旅気分を味わえる。エア旅(飛行機での旅みたいだな、それじゃ)満喫。
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葛西臨海公園3景

2008年10月17日 00時51分57秒 | 写真






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小石川散歩2  澤蔵司稲荷

2008年10月16日 15時49分37秒 | 観光
 澤蔵司(たくぞうす)稲荷。
 その境内にあった案内板を引用。手抜きでスマソ。

 伝通院の学寮栴壇林(せんだんりん)に、澤蔵司(たくぞうす)という修行僧がいた。
 僅か三年で浄土宗の奥義を極めた。元和六年(一六二〇)五月七日の夜、学寮長の極山和尚(ごくざんおしょう)の夢枕に立った。
 「そもそも 余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。
 今より元の神にかえるが、永く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう。」
 と告げて、暁の雲にかくれたという。(『江戸名所図会』『江戸志』)
 そこで、伝通院の住職廓山上人(かくざんしょうにん)は、澤蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院(じげんいん)を別当寺とした。
 江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。
 『東京名所図会』には、「東裏の崖下に狐棲(こせい…狐のすむ)の洞穴あり」とある。
 今も霊窟(おあな)と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祭られている。
 伝通院の門前のそば屋に、澤蔵司はよくそばを食べに行った。
 澤蔵司が来たときには、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。
 主人は、澤蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。
 また、すぐ前の善光寺坂に椋(むく)の老樹があるが、これには澤蔵司がやどっているといわれる。
 道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。
 澤蔵司 てんぷらそばが お気に入り (古川柳)


 この近所にぼくの親父の同級生が住んでいた(もう亡くなってしまったのだが)。
 「この辺に幸田文が住んでません?」ずいぶん昔ぼくは彼に尋ねたことがあった。
 「ああ、あや婆さんか。ゴミ出しんときなんかに挨拶するよ」
 そうかあ、幸田文もゴミ出しするのか、自分で。この澤蔵司稲荷のすぐ隣に彼女は住んでいた。


 写真だと明るく映っているんだけれど、実は昼なお暗い。とても都心だとは思えない雰囲気。いや、ほんと、一人で来ると、ちょっと怖い。



 小石川は晴れていたのだが、フラッシュをたかないと写真なぞ撮れない明るさ。
 お稲荷さんは身近な神さまであると同時に複雑な出自をもつ神さまだ。
 それについては、いつかまた。



 上の説明文にもあった椋の木。
 ここらへんは急坂で、下ると東京ドームへつながる礫川(れきせん)通りに出る。礫=小石。つまりこの通りが昔の小石川という川だったのである。今は通りの下、暗渠として流れている。
 谷になっている通りの下に川が流れているので、ぼくの若い頃はよく氾濫した。マンホールが飛んだこともあった。
 大雨が降ると、学校の帰りにわざわざ見に行く馬鹿な小学生でありました。
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小石川散歩1

2008年10月14日 15時16分26秒 | 観光
 ぼくの住んでいる文京区という区は戦後、本郷区と小石川区が合併してできた区だ。と言うものの、合併しても大きさは23区内で下から4番目。千代田区よりも小さな区だ。
 そんな小石川をちょいとお散歩。


 なんて専門的な動物病院なんだ、と。
 眼科。
 すると、あれか、「うちのこの子、目が充血しちゃってるんです~」などとペットのウサギを連れてきたりするのか(しないよ、そんなギャグ、今時)。


 伝通院んそばには日本指圧専門学校がある。

 指圧の心は母心の浪越さんの銅像。

 そんな縁もあって、伝通院に入るとあるのが

 「指塚」


 於大の方のお墓。徳川家康の生母。
 徳川300年はこの人に始まるのかと感慨深い。
 徳川時代、政治を司ったのは武士である。武士とは本来、政治家や官僚ではなく、戦士であったはずだ。ところが世は泰平。

「江戸時代270年をかけて私たちの国は武士階級がもっていた戦いのエネルギーをかなり儀式化し、抑制することに成功したと思うんです。知性の勝利ですよ。その反面として軍事的リアリズムを喪失した。終戦についての腹案もそういう意識をもって読んでみると、いかにもそうした文化のなかで儀式として、作文としてつくる文章だなという感じがする。けっきょくのところ、戊辰戦争、西南戦争という内乱をくぐり、日清、日露以降の対外戦争を経験しながらも日本人は戦争に慣れていなかった。戦争の現実を知らなかったんじゃないかと思います」(保坂正康/半藤一利「昭和を点検する」)

 ここには、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、幕末を口八丁で生きた(そして暗殺された)清川八郎、「田園の憂鬱」の佐藤春夫など著名な人の墓も多い。
 伝通院の隣にはこれも興味深いところがある。次回はそこ、澤蔵司稲荷へ。
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