毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

本よみの虫干し

2006年09月27日 14時48分44秒 | 読書

「本よみの虫干し」 関川夏央(岩波新書)

 1冊1冊の小説・詩を3ページほどで語る。しかしただ内容をなぞるだけでなく、その小説を通じて、明治から昭和初期にかけての歴史を語っている。
 たとえば立原道造について著者はこんな風に語る。

「村と村人は点景にすぎず、農業のにおいはしない。「浮世離れ」とはそういう意味である。つまりは「高原という植民都市」のお話なのである。実際、それが大連であっても成立しただろう。
 とがめているのではない。大正中期以降のとめどない大衆化の波に、「知識人」や「文学者」は、日本ではなく、欧州をおもわせはするが結局どこでもない場所、つまり大衆のいない場所を想定して逃避し、自己防衛しようとした、昭和初年とはそんな時代であったといいたいのである」

 さらに著者の考察は昭和初年にとどまらず、そのまま現代にまでつながる。

「その気分は戦後にも受け継がれ、おもに流行歌のなかに息づいた。私は「ニューミュージック」こそその嫡子だったと思う」

 立原道造ばかりでない。詩や小説について語ると同時に、著者は時代の空気、変遷、そして現代を語る。

「清水一家の面々は、語りものと小説の堆積のうちに、粗忽者、乱暴者、ジゴロ、恐妻家、それぞれ世に生きる人々の典型的人間像となって流通した。「石松タイプ」「小政のような男」といえば、誰もが即座に了解した。
 しかし日本人の共通知識がテレビという底値で安定するようになると、「巨人の桑田みたいな人」「SMAPでいえば香取君」と移り、同時に講談・浪曲も、とりとめない「トーク」の濁流のうちに姿を没し去った」

 まさにその通り。
 おなじ著者による「坊っちゃんの時代」が面白くて手に取ったのだが、予想たがわぬ面白さだった。
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風神・雷神図屏風展

2006年09月22日 10時49分54秒 | 出会ったものたち


風神・雷神図屏風展 出光美術館(~10/1)
 キュレーターの解説、アイデアが秀逸な展覧会。
 あまりにも有名な俵屋宗達の「風神・雷神図屏風」(教科書にも載っていたけれど、改源の「風邪ひいてまんねん」も有名か)。
 それを模写した尾形光琳、酒井抱一、合計3つを展示。これを面白くしていたのが、キュレーターによる風神・雷神各パーツの比較。形や味、絵の具のノリなどを拡大、比較したもので、3つ見比べたあと、これを見てからもう1度見ると面白い。
 あとになるにつれ、神のもつ猛々しい獣性が薄れ、より人間らしく、そして剽軽な風情を見せていく。それはまるで、神が次第に人間に堕落していく様を見るようで感慨深いものがある(もっとも酒井抱一は光琳をオリジナルと思っていて、俵屋宗達を見ていない、とのこと)。
 しかし、それは単なる低級なものへ移行する俗化だと言い切れるだろうか。ぼくはそこに何か新しい時代を開こうとする酒井抱一の意志のあらわれを感じるのだ。同時に展示されていた抱一の有名な「夏秋草図屏風」はもともと尾形光琳の「風神・雷神図屏風」の裏に描かれていたのだ。「夏秋草図屏風」の色のノリや使い方とセットで「風神・雷神図屏風」は考えるべきであると思う。すると新しい絵画様式である江戸琳派の誕生をそこに見ることができるのではないか。まあ、そうは言うものの、確かにおなじ抱一のものでも「秋草図屏風」の方が遙かによいものだとも思うのだけれど。
 それにしても、人が多かった! あとで調べてみたら、NHKの日曜美術館で取り上げられたとのこと。
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蕎庭

2006年09月19日 10時03分11秒 | 食べ物

 最近この感じの蕎麦屋さんが多いと思う。
 半民芸っぽい出前もやってる街蕎麦とは一線を画しているこだわりのお店、そんな感じがこのたたずまいから感じられる。そしてたまに、その「感じ」にまんまとダマされることもあるのだ。実は、この店に来る2週間前一軒のそういうお店に入った。表参道と渋谷のちょうど中間くらいにあるその店は、いかにも、という内外装。BGMはジャズ。
 まんまとダマされた。
 加水が悪いのか、そば粉が悪いのか、ねっちゃりしていて、その蕎麦にコシを出すためゆで時間を短くした感じ。コシはそうやって出すもんじゃない。これではただ固いだけ。
 あまりまずい店を紹介しても仕方がないので書かなかったが、そんな風に書かれない部分で涙している場合も多いのである、ぼくの場合。
 さて、気を取り直して「蕎庭」。場所は地下鉄三田線の千石駅そばの不忍通り沿い。実は会社から歩いていける距離にあるのだが、なぜか初めての訪問。
 あさりの酒蒸しをつまみに昼からビール。うまい。料金もお手頃。あさりが半分くらいなくなったところでせいろを注文。


 変な話だが、おいしいと思ったお蕎麦屋さんは、まず薬味が美しいのだ。仕事が丁寧だからかもしれない。ネギは白い部分だけをものすごく細く刻んである。さびは本わさびなんだけれど、わさびの皮をちゃんと剥いてある。いい感じ。
 いただきます。
 細切りの蕎麦は十分にコシがあるが、固くない。コシと固さは同じ概念ではないのだ。 つゆも薬味もいらないくらいおいしいお蕎麦屋さんに限って、つゆも薬味もうまいのだ。そばだけで食べておいしい。丁寧に刻まれた繊細なネギと一緒に食べてもおいしい。皮を剥いてすり下ろされたわさびの峻烈な味も蕎麦に合う。
 つゆはぼくの好みの辛汁で、だしの風味がたっぷりきいている。
 すっかり堪能したところで蕎麦湯が登場。
 猪口に注ぐと、とろんとろんの蕎麦ポタージュ。もうひと味堪能させて頂きました。
 家から歩けるところに岩舟があり、会社から歩けるところに蕎庭があるということの幸せをしみじみかみしめて生きていこうと思いました(大げさな………)。
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神代植物公園2

2006年09月12日 00時23分48秒 | 観光
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神代植物公園

2006年09月10日 16時08分58秒 | 観光
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ヴェルディ「ドン・カルロ」 新国立劇場

2006年09月09日 12時34分06秒 | 音楽
 ヴェルディの最高傑作と言われながら、「椿姫」や「アイーダ」のようなポピュラリティはいまいちの曲。内容が重い上に、時代背景、舞台も多くの日本人にはあまり馴染みのない昔のスペイン。それをオペラとして見るわけでなおさらストーリーがわかりにくいのも欠点かもしれない(5幕版なら別なのかもしれないけれど)。
 だいたい最初に出てくる字幕のカルロス5世でつまづく人も多いだろう。カルロス5世って誰よ? ナポレオンの頃のカルロス4世より後の人? え? じゃあ、最近の話? フランドルって、え? オランダって17世紀には独立してたじゃん?
 カルロス5世は日本語訳としては不適当。訳すならスペイン王としてカルロス1世だろう。でなければ神聖ローマ帝国皇帝としてカール5世。イタリア語じゃどちらもカルロスかもしれないけれど、これじゃ直訳しただけだ(仏文のぼくなどはカール5世と聞くとマドレーヌを紅茶に浸してフランソワ1世との確執を思い浮かべたりする)。このオペラに出てくるフェリーぺ2世の頃、スペインは日の沈まぬ国として栄えていたわけである。
 史実としてはドン・カルロは狂人であった。燃える男シラーの原作、イタリア独立運動のシンボル ヴェルディの作曲によって、ドン・カルロの狂いは「恋と自由」への狂いへと変貌する。ヨーロッパ近代は狂うことへの積極的な意味を見出した時代でもあった。狂うことの一部に個の主張が存在する。個を主張するあまり、他とかけ離れ、他の持たない欲望を持ち、他の持つ欲望を持たない。教会や王といった権力とうまくやっていけないドン・カルロこそ近代的狂気の表れであり、権力と対立してまで自己を主張する近代的人間の一つのモデルなのだ。
 中世における狂気に近代的な意味づけを与えた興味深いオペラと言えるだろう。

 さて、実際の演奏は、まず出だしのホルンがシーズン最初の失態をやらかす。この管の不安定さは最初だけでなく全体的についてまわった上に、抑えがあまりきいておらず、歌と重なる部分など少々うるさいとも思った。これは指揮の問題か、オケの問題か………。
 演出はこれでもか、これでもかと十字架で迫り来る。それも十字架をぶら下げたりするわけではない。大きな立方形(本当は立方形ではないのだけれど、説明しやすいので、それを思い浮かべて下さい)を4つ右上、左上、右下、左下に配置。その隙間が十字架になるのだ。これが前面だけでなく、左右、後ろも同じように形づくられるので、いたるところに十字架の象徴を見ることができる。そして、床にはその隙間から漏れる光の十字架。まさにこのオペラがスペインというカトリック国を舞台にその中で「自由」を叫ぶ人間と圧迫する教会との相克を柱の一つにしていることをうかがわせる演出だ。もっとも全四幕これなので、次第に重苦しく飽きてくる。悪い演出ではないのだけれど………。
 歌手は全般的に好調。多くのブラヴァーを浴びていた大村さんだが、ぼくにはちょっと。張りのある高音はアピールするのに十分だったが、中声部が乏しく、メリハリがきくというよりも、高音だけじゃんと少し空虚な気もしたのだ。あとは久しぶりにかなり充実した歌手揃いだったと思う。どの人もよかった。
 ラグビーに続いて、オペラも開幕。これから忙しくなりそう。
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高橋克彦「炎立つ」

2006年09月01日 09時26分05秒 | 読書
 高橋克彦の小説には、対照的ないい男たちと悪い男たちが出てくることが多い。そしてそのいい男たちの描き方がくさくてついて行けないこもと多々ある。「時宗」などはその典型で、さすがに途中で読むのをやめてしまったくらいだ。
 この「炎立つ」にもその傾向はあり、ちょっとひくところもあったのだが、一応全5巻読了。
 舞台は東北。そこに住む人々を朝廷は蝦夷と呼び、蔑視していた時代。前9年の役に始まり、奥州藤原氏の滅亡までを描く。時代は武士階級が勃興しつつある転換期。
 田村麻呂の東征から約200年後。
 朝貢の義務を負うものの独立国のような体をなした奥州(奥六郡)だが、公家政治の行き詰まりと武家の勃興という新しい勢力争いに無縁でいることはできなかった。
 阿倍氏の奥州は鎌倉幕府に先立つ武家政権と言ってもいいだろう。奥州に武家政権が誕生したのは、この小説に何度も出てくる言葉「蝦夷」がキーポイントだ。
 朝廷から見れば、「蝦夷」は人ではない。だから武家政治だろうがなんだろうがかまわないのだ。人でない「蝦夷」をまとめあげて朝廷にきちんと年貢を支払わせればそれ以上の興味は朝廷にない、とこの小説はとく。朝廷からすれば、猿山のボスに猿山を管理させるような感じだろう。自らが猿山でサルたちを支配しようとは思わないし、ボス猿がどのような支配をしようとも別に関係ないのだ。
 後三年の役についても、この小説には語られていないが、朝廷は私闘として恩賞を拒否している。つまり、「蝦夷」同士の内輪もめとして捉えているのだ。
 この地方は東北である。しかし、この地方に住む人々は自分たちが方角としての東北に住んでいるとは思わない。東北とは、朝廷から見た位置のこと。朝廷という人から見た蝦夷の住んでいる方角、それが東北である。
 その場所を東北と呼んだ瞬間、朝廷を基準として認めることになる。
 その朝廷に対してどのような態度をとるのか。
 この小説はティピカルな3つの例を呈示する。
 武家として力を持ったものの、公家政治に取り込まれて骨抜きにされた平氏。朝廷から離れた場所に幕府を開いて、極力朝廷の影響力を排しようとした源氏。
 そして、自らの蝦夷としてのアイデンティティに殉じた藤原泰衡。この小説では蝦夷の矜持が至る所で語られている。朝廷側の歴史ではなく、そこに住む者の歴史として語られるべきもの。
 「ぼくは蝦夷だ」
 ぼくの中にはいつもその思いがある。
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