去年、瑞牆山に登った帰り、バスの中でランダムにiPhoneが選曲したのが三宅純の「veins」という曲で、点在する街の光が車窓を後方に滑りながら明滅している中、その音楽はなんだか幻想的である一方、ある種の感興を催させた。バスは繋がった夜の中をどこまでも音楽と光を携えて走っていく。静かな夜の暗さに包まれて、このままバスがずっと走り続けていたらどれだけ素敵だろう。
東京の夜とは違う、点在する光。その時ぼくは都会の夜ではなく、光がほとんどない、ないしはまばらな光が点在しているだけの寂しい夜がまとっている生々しい匂いに強くひかれる自分を発見した。都会とは違う。それでいて完全な闇とも違う。ぼくの乗るバスはそのちょうど真ん中くらいの光と闇の中を進んでいく。それはぼくをすごく興奮させたし、多幸感さえもたらした。
アピチャッポン・ウィーラセタクンの描く夜を見ていて、ぼくはそんな瑞牆山の帰りを思い出した。知らない街に灯るまばらな光。そこには人工と自然の境界があった。未知の街と未知の人々と未知の地理があった。そこにはだからぼくの知らない異界と境界があった。「ナブア森のティーン」はまるで東松照明の写真のようにぼくの心を打った。異界からのぞくその存在は折口信夫の言うマレビトであり、まさに境界上に存在していた。
その境界の不気味であると同時に魅惑的な佇まいはぼくたちの根源的な感情と結びついているような気がする。
かつて映画「ブンミおじさんの森」でぼくたちを熱狂させたアピチャッポン・ウィーラセタクンの作品とまた出会えて、言葉にする以前にその世界に浸ってる。
東京の夜とは違う、点在する光。その時ぼくは都会の夜ではなく、光がほとんどない、ないしはまばらな光が点在しているだけの寂しい夜がまとっている生々しい匂いに強くひかれる自分を発見した。都会とは違う。それでいて完全な闇とも違う。ぼくの乗るバスはそのちょうど真ん中くらいの光と闇の中を進んでいく。それはぼくをすごく興奮させたし、多幸感さえもたらした。
アピチャッポン・ウィーラセタクンの描く夜を見ていて、ぼくはそんな瑞牆山の帰りを思い出した。知らない街に灯るまばらな光。そこには人工と自然の境界があった。未知の街と未知の人々と未知の地理があった。そこにはだからぼくの知らない異界と境界があった。「ナブア森のティーン」はまるで東松照明の写真のようにぼくの心を打った。異界からのぞくその存在は折口信夫の言うマレビトであり、まさに境界上に存在していた。
その境界の不気味であると同時に魅惑的な佇まいはぼくたちの根源的な感情と結びついているような気がする。
かつて映画「ブンミおじさんの森」でぼくたちを熱狂させたアピチャッポン・ウィーラセタクンの作品とまた出会えて、言葉にする以前にその世界に浸ってる。