毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

青山通り

2005年10月31日 22時48分01秒 | 観光


 青山通りで。
 街灯に飾られた作品の中には手縫いのものも。
 昔パリを歩いていて、期間限定ながら、ボテロの彫刻が飾られているのに喜びました。
 芸術ってえと美術館にしまい込んで撮影禁止など、重々しい日本ですが、もっともっと身近にあってもよいのでは、と思うわけです(去年恵比寿にボテロ飾られてたけれど)。
 こういうのって、街と生活を楽しくしてくれるすてきな企画だと思いました。
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早稲田対筑波

2005年10月30日 21時46分25秒 | 


 大差で終わったものの、早稲田にとって課題の多く残る試合だった。
 攻めているときにできるギャップをどう克服するのか、途中めだった雑なプレイをどうリファインしていくのか、個人技で相手を崩すほかに全体のプレイでどう崩していけるのか、でも、この時期に課題が見えて克服するのが大学ラグビー。
 一つ一つの試合の積み重ねで強くなっていく若いチャレンジャーたち(どのチームにしても)の冬が楽しみ。
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響きの森クラシックシリーズ

2005年10月30日 00時04分30秒 | 音楽

 文京シビックホール「響きの森クラシック・シリーズVol.13」をに聴きに行きました。昔文京公会堂と呼ばれ、ドリフがよく使ってたんですが、ほかにもルドルフ・ゼルキンとかヴィルヘルム・ケンプとか、そうそうたる人々のコンサートにも使われていたホール。区役所が馬鹿みたいな予算と規模で建て直ししたのをきっかけにホールも新しくなりました(確か、当時、東京都庁舎、大阪府庁舎に続く自治体No.3の規模だったと。都道府県と競うなよ、特別区の一つが…)。
 今回のコンサートのプログラムはムソルグスキー/歌劇「ソロチンスクの市」より“ゴパック”、チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィッチ/交響曲第5番「革命」、と、すべてロシア/ソ連製。
 指揮はチョン・ミョンフン、演奏は東京フィル、ヴァイオリンのソリストが庄司沙也香さん。
 ムソルグスキーの曲は初めて聴いた曲。アメリカ人の作曲家が作ったんじゃないか、という感じの曲なんだけれど、最後は「たまごの殻をつけたひなどりのバレエ」っぽい。まあ、出だしの腕ならしにふさわしいオーケストラ・ショウピース。
 チャイコのヴァイオリン協奏曲は、なんと言っても庄司さんの高音の澄み切った美しさ、低音でのやにっこいほどの婀娜っぽさが魅力的。美しさと迫力と両方がぴんと立った演奏。 休憩をはさんで、ショスタコーヴィチの5番「革命」。音楽を語るのに、政治的なコンテクストに配慮しなくてはならないのは、20世紀の悲劇なのだと思う。革命に対する歓喜なのか、強制された歓喜なのか、この曲はそういう政治的なコンテクストだけで語られるものではないと思うんですよ。20世紀に生まれたぼくたちはあまりにも、政治的な語彙で物事を考えすぎる。この曲の第一楽章から現れる不安に満ちた音は、まさに人間の条件そのものをあらわしているのではないか、と(アンドレ・マルローの言う「人間の条件」という意味で)。
 このコンサートでこの響きを聴いて、ぼくはドイツ表現主義やロシア・アバンギャルドの空気を感じてしまうんです。ショスタコーヴィチはその息吹を受けて作曲をし、そして4番がプラウダで酷評される。粛清の危機に、作られたのが5番だからどうしても政治的な側面で語られるが、この第3楽章を聴いて欲しい。この音は政治では語れない。
 そんな風なことまで考えさせてくれるような、そんな演奏でした。大きなスケール、美しい細部、メリハリのきいた指揮に、オケもよく応えていたと思いました。
 しかしそれにしても、不安の美、というものを初めて見させて頂きました。
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物欲の秋3

2005年10月28日 00時07分57秒 | らくがき

 酔った勢いでHMVのサイトで買ってしまった、「カルロス・クライバーの伝説」(DVD全5枚)。
 ちょこちょこつまみ食いしてたんですが、アムステルダム・コンセルトヘボウとのベートーヴェン7番での燃焼はすさまじいものがあります。
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祈りの形

2005年10月27日 14時45分56秒 | らくがき


 近くの公園にある地蔵菩薩像。江戸時代のもの。
 もう顔もすり減ってしまっているが、下に三猿がいるので、庚申塔にあった地蔵だろう。
 今でも花が手向けられている。明治政府がどんな風にねじ曲げようとしても、祈りの形は庶民の中に続いているのだ。
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上野動物園3 アシカ

2005年10月26日 16時48分41秒 | 観光


 金子光晴の「おつとせい」という詩に自分を重ねていた時期がある。
 彼の「絶望の精神史」を読むとそのおつとせいの像がより鮮明に見えてくる。と同時に、彼が絶望したその状況と今がほとんど変わっていないことに愕然となるのだ。
 おつとせいたちを侮蔑した態度でそっぽを向いてる「おいら」。「おいら」はおつとせいのきらいなおつとせい。それに自嘲が加わる。

 だが、やつぱりおつとせいはおつとせいで
 ただ
 「むかうむきになつてる
  おつとせい」


 でも、写真アシカじゃん。
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北斎展

2005年10月26日 09時06分30秒 | 読書

 肉筆100枚を含む、驚異の出展数500枚。
 その気になったら、人も殺せる図録の分厚さ。
 まさに圧倒的な規模で開催された北斎展だ。
 小布施で北斎に触れて以来、ぼくは北斎の大ファン。当然初日に出かける。
 ところがものすごい混雑。人の頭越しに見るか、さもなければ延々と続く列におとなしく並び、順番を待つしかない(ただやはりものすごい量なので、集中力がとぎれてしまうらしく、後半部分は比較的すいてる)。
 彼の生涯に沿って展示された作品を追っていくにつれ、ぼくの頭の中にもう一人の西洋の画家が浮かんで離れなかった。ゴヤである。「絵を描く」というのは一種の業だ。決して倦むことなく、一生それを追い続け、考え続けた北斎とゴヤが重なってならない。年齢を加えても一切停滞しないのだ。
「わたしは老画家とか老翁とかしばしば書いて来たものであったが、しかし考えてみれば、芸術家が………もし彼が真に芸術家であるならば………円熟などということを自ら志して、過去の業績の繰り返し、つまりは自己模倣をはじめたとするならば、それはもはや一種の芸術的金利生活者であって、真の芸術家とは呼びがたいであろう。同時代人であるゲーテは80歳になってからペルシア語を勉強しはじめたものであったし、ベートーヴェンもまたあらゆる新しい可能性をさぐり求めて管弦楽に合唱までもくわえたものであった。」(堀田善衛「ゴヤ 運命・黒い絵」)
 ゴヤ、ゲーテ、ベートーヴェンと同様の境地に北斎もいる。まさに自分で名乗った通り、画狂老人である。この「狂」をぼくは業と呼ぶ。この業に突き動かされている限り、平安はないだろう。魂の渇きを抑えられず、彼は常に新しい何かを追い求めてしまうのだ。


 国立博物館で12月4日まで
 集中力を持続させたまま一度で廻りきれないし、期間中の展示替えも結構あるので、2回券がお勧めです。
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築地

2005年10月25日 21時02分04秒 | 観光
 今日の観光は、築地。
 マーケット君によると「巨大都市東京の台所として、市場は24時間フルに活動しているんだよ」とのこと。マーケット君って誰よ? って方はクリックして下さい。
 日比谷線「築地」で降りるとまず目にはいるのは築地本願寺。

 日本は多神教だと言う。八百万の神々と仏教とが複雑に絡み合い、混じり合った信仰をもっていた、と。だから一神教のように宗教が先鋭化することがなかった。イスラムによる聖戦やキリスト教による十字軍のようなことはなかった、と。
 でも、日本で唯一そのように先鋭化した宗教を持つ時代があった、と思う。それが浄土真宗、他宗の人間から言うと一向宗である。イスラムの武闘派がキリスト教の残虐非道な十字軍によって先鋭化するのと同時に、浄土真宗も織田信長というきわめてまれな暴力装置によって先鋭化した(イスラムがいまだに武力について「熱い」国であるのは、キリスト教側から受けた苦しみの記憶によるものも多いと思っている)。
 まだ十代の頃、ずいぶん親鸞聖人に惹かれたものである。
 さてさて、築地本願寺を左に見て、晴海通りを渡るとそこは築地場外市場。
 交差点を左右に曲がれば、銀座の広い通りなのだが、信号一つ直進しただけであたりはこんな感じに。

 「お母さん、お母さん、暮れの買い物、二ヶ月間違ってるよ」と声をかけたくなるくらいの混雑。これで平日の十時半。プラッターやスクーターが縦横無尽に走り回る。ああ、ここは日本じゃない。ホーチミンだ。ぼくは間違ってビンタン市場に迷い込んでしまったんだ、と、しらふで幻覚を見られるナイスな場所。
 これが場外ではなく、卸売市場に足を運ぶともう、自分の居場所がない。いたたまれない状況。どっからスクーターが飛び出てくるか、わからない。人混みでにぎわう狭い路地をプラッターが疾走してくる。

 この路地を突っ走ってくるんですよ。この狭い路地のセンターを縫って走ってくるんですよ。どうすればいいんですか? 教えておじいさんですよ。
 慣れてくればどうってことないのかもしれないが、あちこちで鳴るクラクションもイヤが応にもヴィエトナム感をかき立ててくれて、私の中の何かがここにいることを拒否し始める。

 そしてようやくたどり着いたお店、築地「高はし」。
 100円寿司などいろいろある中、このような店構えなのに決して安くはないお店。でも、2000円くらいで料亭と同じ料理が食べられるんだから、お得と言ったらかなりお得。この時期はあんこうの煮付けがおいしい。もちろん他に刺身もいろんなものの焼き物もあるし、評判も高い。
 300円でご飯とおみそ汁と一鉢つけてもらう。
 さてさて、やってきた。ご飯大盛りじゃん(女のお客さんだと、「少なくもっておきましたので、お代わりして下さいね」などと言ってくれる)。
 ああ、おいしい。しあわせ。
 2300円でこの満足なら十分である。横で一人食べていた人が「ごちそうさん!」と言う。常連さんらしい。「いつもありがとうございます。1万300円です」
 え?
 一人で酒も飲まずに、ランチで………。
 ほんと、ここに来て、ここでおいしい物を食べて喜んでるんだなあ。そんなお店でした。

 さ、高はしでおなかも一杯、ちょっと築地を散歩してみましょう。

 つまくらい自分んとこでやれよ、と思わず突っ込み。玉子焼きも自分んとこで作んない寿司屋さんもあるってえし。玉子焼きも、寿司屋さんとソバ屋さんとでは微妙に異なっていて面白い(ソバ屋さんの中でも違うし。もともとの江戸風は固めで、甘みの強いもの。固くないとシャリに乗らないし。で、シャリに乗せる必要のないソバ屋さんが、東京風だけじゃなく様々なヴァリエーションを採用しはじめたのだと思う)。
 しかしそれにしても、大根のツマ1キロって、どれくらいのかさなんだろう? のれんのところの「美人妻」もナイス。

 吉野屋創業店。牛丼あります(ただし和牛なので、値段は違うみたい)。
 朝5時から午後1時まで、と築地っぽい営業時間。
 吉野屋に限らず、なぜか築地は牛丼激戦区らしい。なんとさきほどの「高はし」でも牛丼が一応メニューにあるらしい(でも、高はしで魚食べなきゃどこで食べるんだ、ですよ)。

 ビルから太いダクトが出ていて、操作すると氷がものすごい勢いで出てきます。築地ならではだ、と感心。
 昨日のニューオータニといい、日本にいるのに、外国に旅行に出かけたような、そんなお得な東京小さな旅でありました。
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上野動物園2 フラミンゴ

2005年10月25日 19時58分41秒 | 観光
望遠レンズで眺めてはじめて、フラミンゴの目がすわってることに気づきました。
こわ。
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ブラームス「ドイツ・レクイエム」

2005年10月25日 02時36分00秒 | 音楽
 ブログを始めて早半年弱。
 街を歩いても、「あ、これブログのネタに」などと思ってしまうつい昨今。いけない、いけない(まあ、それ自体はいけないこともないのだけれど)。
 問題は、言葉を紡いでブログに書こうとすると、見たり聞いたりすることに対して、いつも分析的になってしまうこと。だって、何かについて語ろうとしたら、どうしてもメタな立場から物を見ないとできないもんね。
 その最も悲しい例が、ぼくの場合音楽。子どもの頃から音楽が大好きで、ぼくと音楽は何も言わなくてもわかり合えた二人みたいな関係だった。そこに言葉が入り込んできてしまった。ある意味三角関係ですよ、これ。
 ロッシーニの舞台を見ながら、「これ冒頭はキャラメルBOXっぽい出だしと書こうかな」などと思ってしまうんです。昔ならロッシーニのクレッシェンドに乗っかって空だって飛べたのに、今は「ノリがいまいちだよね」などとパソコンに向かって言葉を発してる。
 いけないよ、これ。
 そんなわけで急にひたれる音楽が聴きたくなって紀尾井ホールにブラームスの「ドイツ・レクイエム」を聴きに行ってきました(その前に黒澤で蕎麦食べたりしてたわけです)。この曲、ぼくのイメージするやさしい曲ベストワン。
 レクイエムだから死者のためのミサ曲という意味合いの強い曲なんだけれど、他のレクイエムが死者を手向ける音楽なのに対して、ブラームスのこの曲は愛する人を失った人への慰めに溢れているような気がするんです。悲しみの中に、希望への道を示すほのかなあかりみたいな感じ。他のレクイエムが典礼文の「主よ、永遠なる安息を彼らに与え給え」と死者への言葉で始まるのに対して、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」と「マタイ」の一文から始まります。
 冒頭からこの優しさに包まれて、浸って、そして癒される。
 演奏は村谷達也指揮2005ブラームスメモリアル合唱団。オーケストラの代わりに四手のピアノが演奏します。
 ある時は力強く、あるときは優しいアンサンブルを聴かせて下さった合唱団のみなさん、ブラームスに強い愛情と情熱を捧げられている村谷達也さん、お二人のピアニストに、お二人のソリストの方々、素晴らしい時間をありがとうございました。
 なんだか明日もやっていけそうです。
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黒澤

2005年10月25日 01時14分25秒 | 食べ物
 なんだか格好いい溜池山王駅。

 南北線を溜池山王で降り、小泉くんち(官邸だから「ち」じゃないか)を横目で眺めなら 訪れた場所はここ。

 山王パークタワー、ではなく、上の写真の左側に映っているお店。

  そう、「黒澤」である。

  映画監督・黒澤明の名を冠し、映画の感動を食で再現。
「世界の黒澤」が客人をもてなした料理の数々。

 webによるとそういうことらしく、他に同じようなコンセプトで鉄板焼き、うどん、蕎麦ダイニングの店を六本木や西麻布に展開している。
 この建物の内外装は黒澤明のスタッフによるもので、店内に飾られた黒澤映画の古びたポスターともどもなんだかレトロで不思議な雰囲気だ(首相官邸並びとはあまり思えない面構えである)。
 しかし蕎麦そのものは、なんと「翁」(現達磨)の高橋邦弘氏直伝らしいので期待十分である(あ、いや、達磨グループでも、Nにわ翁とか感心しなかったもんなあ。飛行機で日帰りしたのに)。
 店に入ると予約してあるか、ないか、尋ねられます。そう、予約で満員。
 店は蕎麦席と座敷席(コースのみ)と分かれていて、どちらも夜は予約して行った方が無難です。「蕎麦席で7時半くらいまででしたら…」とのことで通してもらえました(7時からコンサートだったし)。
 会員制クラブの鉄板料理のように客席にものを炙る場があって、注文すると目の前で炙って持ってきてくれます(海苔1枚300円以上するけど)。
 生ビール、それから鳥わさを頼みます。赤ん坊の握り拳ほどの鶏肉が運ばれてきました。
 でも、一口食べてみたら、わさびだけでもうまい。こんなに香りよく甘いわさびは久しぶり。わさびなのに甘い? 不思議かもしれないけれど、わさびは丁寧におろしたものをおろしたてで食べると甘いのだ。もちろんわさびのあの刺激や刺激臭はそのままで、そこに得も言われぬ甘みが加わるのである。
 さあ、蕎麦だ。1枚では足りないと思い、あらかじめ2枚注文。目の前の「用心棒」のポスターを眺め、桑畑三十郎だ、もうじき四十郎だがな、などと軽くつぶやいてみたりしながら食べます。
 おお、新蕎麦万歳。蕎麦の味がおいしい。うまい蕎麦はつゆなしで食べてもおいしい、と言うけれど、うまい蕎麦をうまいつゆで食べるのはまた格別。きりりとした辛つゆがたまりません。コシも喉ごしもどれも気持ちよい。2枚注文した蕎麦だって、2枚重ねて持ってきたりはしません。頃合いを見計らって、ゆでたてを持ってきてくれます。
 よし次は油田でも掘り当てて、座敷席、それも特別席で特別コースだ。さ、まずはシャベル買ってこようっと。

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ニューオータニ

2005年10月25日 00時02分48秒 | 観光


 ニューオータニ ガーデンコート
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上野動物園1 ミーアキャット

2005年10月24日 09時10分25秒 | 観光


 天気がよかったので、自転車に乗って上野動物園に。
 他の人も同じことを考えるわけで、どこもかしこも人で一杯でした。
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夜のジェットコースター

2005年10月21日 23時39分18秒 | 観光


 人にはなにかしら苦手なものがある。
 ぼくの最大の苦手は「高いところ」だ。包まれていればいい。どんなに高いビルでもフロアの中なら平気だし、飛行機も平気。
 でも歩いて渡る吊り橋とか、遊園地によくある、なんだかすごく高いところへ運ばれていくようなヤツはぼくの天敵である。
 スピードが怖いわけではないのだが、信じられないような高さにいる自分がこわくてたまらないのでジェットコースターは、ちょびっとだけ苦手かもしれない(強がりです、すいません。本当はかなり怖い)。
 しかし、今までの人生の中、そんな苦手なジェットコースターに乗らなきゃならない局面というものも何回か迎えてきたわけである。
 どんな戦場でもカメラをのぞいていれば不思議と怖くない、というカメラマンの話を聞いた。
 そしてそれをらくーあで実践してきたのが、コレ。
 そのカメラマン、うそつき。でもおかげで面白いのが撮れたから、まあ、いいか。
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セビリャの理髪師

2005年10月21日 02時35分56秒 | 音楽

 フィガロってこんなに生彩に欠けた存在なのか、と。声量がなさ過ぎなのか、タイトルが「セビリャの理髪師」なのに、実態は「ロジーナと愉快な仲間たち」になってる。あるいは「バルトロ家にまつろう不思議な生き物たち」か。ロジーナのコロラトゥーラが光ってた(でも、声が細い感じ。聴いていて辛そうな気が伝わっちゃう)。
 演出は実に面白い。サイケっぽい色彩に、適度に汚れいれて、ガラクタ並べて、安っぽい売春宿をうまく演出している。出てくる女性もそれっぽい衣装。ここのロジーナは、そういう環境で育ったしたたかな女性として描かれているところもいい。
 ただフィガロにいまいち乗れなかったのと、演奏がロッシーニのオペラではなく、なんだかものすごくストライクを置きにいってる感じの、盛り上がりに欠けるものだったことが残念。
 
 それにしても、苦労の末結ばれ、「この日を一生忘れない」と誓い、「愛が永遠に二人を守るように」などと人々に祝福されながら、続編(モーツァルト作曲「フィガロの結婚」)じゃ、この伯爵、フィガロの結婚相手に手を出そうとするんだよなあ。
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