毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

先週の読書

2008年06月30日 08時41分12秒 | 読書
奥泉光「バナールな現象」     集英社
 もしかしたら賛否両論あるかもしれないけれど、ぼくはこれ傑作だと思う。強制された暴力が覆う世界で生きること、そこで子供を作ること、ありふれた行為の奥にグロテスクな仮面が隠されていること、そうしたテーマが重層し、言葉がつもり、イメージが舞う。神話的暴力が人間化され(つまり歴史化され)たあとの暴力をどう考えるのか、わたしたちにとって、非常に意味のあるテーマであると思う。


中沢新一「森のバロック」     講談社学術文庫
 読むのにものすごく時間がかかった。400pほどの本なのに(もちろん、これだけを読んでいるわけではないけれど)、10日間ほどかかった。ゆっくり読む上、頭に入れるために少し休息をとる。トーテミズムや民俗学に関する部分は非常に興味深いのだが、南方マンダラについては、言葉が頭を素通りして行ってしまう。ああ、だめだ、だめだ、と何度引き返したことだろう。
 エコロジーの問題などにおいても、南方熊楠の思想はアクチュアルなヒントに満ちている。


ゴーゴリ「鼻・外套・査察官」    光文社古典新訳文庫
 読んでいて、思わず、本にツッコミ入れてしまった。
「鼻」。
あるとき床屋が朝パンを食べていたら、そこから鼻が出てきたって場面から始まる。で、なぜかその鼻はコワリョフ八等官のもんだとわかる。当のコワリョフは鼻が急になくなって困ってしまい、外を彷徨う内に、鼻と出会う。鼻は五等官の格好をして、つまり持ち主本人より階級が上の格好をして、馬車に乗ってる。

「この奇妙な出来事をどう理解すればいいのか、てんでわかりゃあしません。だってそうでしょう、きのうまで自分の顔にくっ付いていて、馬車を乗り回したり歩いたりできようはずもない鼻ですよ、それがあろうことか、制服を着てのし歩いているんですから!」

 てんでわかりゃあしません、って、こっちの台詞だよ、と。
 追っかけて行くと、鼻は教会に入っていく。

「鼻野郎は高い襟にすっぽり顔をかくして、信心深い顔つきでお祈りをあげております」

 顔つきって? 鼻に顔があるのか?
 これ、すごい小説だよね。アニメでも実写でも表現するのに困惑することを、言葉でしゃあしゃあと書いてる。制服着た鼻。しかも顔つきだって、鼻の。なんだよ、それ。顔つきって、お前が、顔の一部だろう、と。
 で、すったもんだあった挙げ句、終いにはこう。

「いやあ、どう考えたってわからない、もうチンプンカンプンです。それにしても、一等不思議で、わけがわからないのは、世の物書きが、よりもよってどうしてこんな話をこしらえるのかってことです」

お前が言うなあっ!



ジャン・エシュノーズ「ぼくは行くよ」     集英社
 女なくてはいられない美術商フェレールのおかしな半年間。難破船から骨董美術品を発掘しに砕氷船に乗って北極へ。心臓の持病を抱えながらも、なんだかんだ言いながらも、不思議なヒロイックさを発揮して、細かな冒険をこなしていく。
 なんということのない話のようでいて、ときおり見せるディテールの妙がいい。
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菖蒲城趾あやめ園

2008年06月26日 13時37分32秒 | 観光


「熊楠は、顕花植物よりも、隠花植物のほうを深く愛した。それは隠花植物においては、生命の真実が裸の状態で、みずからを表現していたからだ。とりわけ粘菌である。そこには、生命についての真実の最高の「密教的表現」が実現されているように、彼には思われた。ポリフォニーのほがらかな存在の歌を去って、彼は深い生命の森の内奥に、踏み込んでいった。そのとき、彼の導きの原理となったのが、マンダラの思想なのである」(中沢新一「森のバロック」)

 ポリフォニーを西欧のアイデンティティとしてとらえ、それに対する南方熊楠の考えかたをマンダラ的と説明する中沢新一の論は、ここにははしょってしまった前提をよく読んでみると実にわかりやすい。
 ぼくも熊楠の思想は、これからますますアクチュアリティを持つ、と思っているのだが、今回は、だけど、顕花植物見物である。
 こないだ堀切菖蒲園に菖蒲を見に行って思い出したのだけれど、埼玉県にその名も「菖蒲町」という町がある。この町に菖蒲がなくて、世界のどこに菖蒲があろうか、と調べてみると案の定菖蒲園。しかも菖蒲とラベンダーの町だと言う。これは行かねばなるまい、と自転車にまたがり、いつもの荒川サイクリングロードへ。ここをちょこっとだけ走って、芝川サイクリングロードに移り、さらに見沼代用水東縁ヘルシーロード。ヘルシーロードっていうネーミングがいいね。なんだか、ナウなヤングにバカ受けみたいな語感がたまらない。そこいくと旧江戸川なんて、古風だ。「健康の道」だもん、カタカナなんか使わないもん。で、芝川、見沼ともに、一般道と何度も何度も交差するので、大変走りにくいのであった。


 町役場のすぐそばに見事なラベンダー堤がある。「第14回あやめ・ラベンダーのブルーフェスティバル」の真っ最中。結構な人出が花や出店に群がっている。7月上旬まで見られるらしいので、まだチャンスあり。フェスティバルの詳細はこのページへ


 ラベンダー堤を通って、菖蒲城趾あやめ園へ歩けるらしいのだが、自転車で来ているので、そこは自転車で移動。だって、靴はクリートが着いてるし、また500m歩いて戻るの面倒だし。


 30000株の菖蒲が咲き誇っている。堀切菖蒲園より規模も大きい。


 薔薇や蘭など、こういう園芸ものには、種類種類で名前がついてる。薔薇なんかだとブリリアント・ピンク・アイスバーグなんてカタカナ名が圧倒的に多いのだが(だって、明らかに日本人だろ、それって名前もわざわざカタカナだもん。プリンセス・チチブだのプリンセス・サヤコだの)、やはり菖蒲。ジャパンである。端午の節句である。端午の節句はもともと女の子のお祭りだったんだよなどと述べさせていただき、今回の顕花植物見物を終わりにさせていただきたい。

 P.S.帰り、桶川から電車に乗ったのだけれど、そこでは紅花祭が繰り広げられていた。
 寄って来ればよかった、と後悔。
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先週の読書

2008年06月23日 16時30分45秒 | 読書
 EURO2008が面白すぎる。下着泥棒でもないのに、毎朝3時半起床っすよ。
 トルコはどこまで奇蹟を起こせば気が済むんだ!? ロシアのアルシャビンとパブリュチェンコは今すぐプレミアやリーガでも十分通用しそうだし、スペイン対イタリアを見ていてオランダはどうしてこのイタリアから3点も取れたんだろう、と不思議になったり、もうすごいです、いろいろと。
 それに引き換え、日本対バーレーン見て、なんだかな、と。1,2位の違いが存在しないから、消化試合そのもの。つまんないな、と。バーレーンと日本が戦ってもワクワクしないのだ。アウェイでフバイルに1点取られるより、ビジャに4点取られるような試合の方がワクワクする。フィジカルは強いかもしれないが、中東のサッカーは見ていてつまらない。いっそ、ロシアの隣ってことで、UEFAに入れてもらえないだろうか(二度とワールドカップには出られないかもしれないが)。
 そんなわけで、先週読んだ本はこの4冊。カート・ヴォネガットは本庄からの帰りの電車の中で読んだ。自転車旅は不調だったけれど、車窓を流れる景色を横目に、適度な疲労の中の読書は快適だった。


カート・ヴォネガット「国のない男」     NHK出版
 自国の歴史をおとしめて考えることを自虐史観というらしい。しかし、およそ知性なるものを多少は持ち合わせている人間なら、自国の歴史に点在する汚点に気づかないはずがない。気づかない人間は、気づかないふりをしているのか、それとも本当にバカなのか、そのどちらかだ。
 考えてみればいい。たとえばフランス。あの国を地上の楽園と考えるだろうか? アメリカ合衆国。あれを人類の理想郷と考えるだろうか?
 日本だって同じことだ。悪いことだってさんざやったさ、そりゃ。
 そういう知性の働きを自虐というのなら、さしずめカート・ヴォネガットは自虐のアメリカチャンピオンだろう。

「ところで、マルクスがそう書いたとき(「宗教はアヘンだ」)、われわれアメリカ人はまだ奴隷を解放していなかった。当時、慈悲深い神の目には、いったいどちらが喜ばしいものに映っただろう。カール・マルクスか? アメリカ合衆国か?」

 彼が大切にした思いやりとユーモアは21世紀においてますます重要性を増していると思うのだが、そのどちらもがジョージ・ブッシュに著しく欠如していることを隣国人として非常に残念に思う(ま、それが日本の政治家にあるかどうかはおいといて)。


鈴木忠「クマムシ?!」     岩波書店
 緩歩動物門には真クマムシ綱、異クマムシ綱、中クマムシ綱の3つの綱があるのだが、このうち中クマムシ綱は謎のクマムシだ。1937年雲仙の温泉でドイツ人のラームが発見したものが唯一の中クマムシで、その標本も今は残っていない。
 という知識が人生においてどんな役に立つかは知らない。しかし、クマムシという生き物は実に興味深いではないか。
 著者のクマムシに対する愛情もまた楽しい。
 とにかくクマムシというものを知らない方は、ネットで検索してみて下さい。きっと、「おお、こんな生き物が!」と思うはず。


奥泉光「ノヴァーリスの引用」     新潮社
 推理すればするほど錯綜する石塚の死。ミステリーのような、ファンタジーのような、そしてホラーの体を成しつつ、現代におけるイエスの甦りのシミュレーション。石塚=聖痕を持つ魚=イエス(ローマでのキリスト教禁教時、イエスは魚として描かれていた)。
 すごい面白い。響きが幾重にも重なり、オルガンを強奏したときのようなゴシック感に溢れた小説。
 考えてみれば、聖人と呼ばれる人たちは、現代の表現で言えばKYの極致。共同体にとって危険であり、さぞ受け入れがたい存在であったことだろう。


藤巻一保 「真言立川流」                    学研
 とある多摩地方の山中で暮らす三毒和尚のところに、狐について話を聞かせてくださいと訪れた戯作者水骨さん。頼み込んでようやく7夜にわたって、話を聞かせてもらうことになったのだが………。
 という枠組みで語られる7つの狐の変奏曲。初夜「髑髏本尊」に始まり、二夜「ダキニ天」(本では漢字だが、変換できず)、三夜「如意宝珠」、四夜「仏舎利」、五夜「真言立川流」、六夜「金輪聖王」、そして七夜「北斗七星」と狐を巡る話はこんなにも豊かな変奏を奏でるのである。
 狐は単なる動物ではない。古くから死霊や祖霊の化身と見なされたり、その予知能力を期待されたり、また、食の神として祀られたり、荼枳尼天と習合したり、と非常に幅の広い性質を持っていた。
 そうした幅の広さが、中世神道の文脈の中で、さまざまなものと習合し、大いなる現世利益の神として君臨するにいたったのだ。たとえば、両部神道が胎蔵界、金剛界曼荼羅を用いることによって、伊勢神宮の内宮・外宮が車輪の両輪のようなものであることを主張したことは、以前ご紹介した山本ひろ子の「中世神話」に描かれていたが、それによって、狐とつながるウケモチ神であった外宮の豊宇気大神が大日如来を仲立ちに天照大神の別の表れとして存在することになる。つまり、狐=天照大神というストーリーが誕生するのだ。そうした狐=XXXという等号はいたるところに見られ(そうした無茶が中世神話の面白さでもあるのだが)、狐=荼枳尼天はほとんどあまねく存在と化していく様が読むに連れあきらかになっていく。
 さらにこの本の優れているところは、立川流の根本を比喩として捉えている点である。どうしてもおどろおどろしいセックス教団としてのイメージがつきものの立川流であるが、そんなことはない、かなり意義深い教義であることがわかる。
 まあ、聞き手役(水骨さん)が読者のための啓蒙係になってしまうのは、仕方がないところだろうが、それまでちゃんと受け答えしといて、真言宗の基本である「理趣経」知りませんなんてこたあないだろう、とツッコミどこもそこはかとなく。
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葛西臨海公園

2008年06月21日 07時54分45秒 | 観光



 本を読むには場所が必要だ。別に、図書館や書斎といった読書のために特化した場所のことだけを言ってるわけじゃない。どこでもいい。どこでもいいけれど、本を読むためにはなんらかの場所が必要だ。トイレ、電車の中、お風呂、海辺、土手、恋人のかたわら。
 読書はその場所に左右されないだろうか。
 本という物質的存在は、単に紙にインクがついたものに過ぎない。それはそういう形で存在するが、読まれない限り「本」ではなく、「紙にインクがついたもの」である。読まれて初めて本になるのなら、本は読んだ人間との関係性の中にしか存在し得ない。そうであるならば、読まれる場所というものも大事なのではないだろうか。
 ぼくは自転車に乗るとき、ハンドルについたバッグに1冊の本を入れている。早朝、葛西臨海公園へ行くときも、こないだ児玉へ行ってキャサリンにブーたれたときも。
 人影がまばらな早朝、浜に腰を下ろして、海と向き合いながら本を読むのはとても気持ちが良い。
 読書と大事な時間がぴたりと一致した瞬間。
 ああ、この時間は生きられた時間だと実感する。
 音楽が時間に融け込むときも、時間は疎外されたものではなく、生きられた時間になる。
 1分を30秒ずつ2つに分けるように、生きられた時間を量によって分節することはできない。
 生きられた時間を分節する、構造化するのは物語の役割である。人は、どういう形であれ、またそこに虚構がまじる、まじらないは別にして、物語によって自分の時間を把握する。
 神話の時代から人はそうやって、時間とそれを取り巻く空間、そしてそれに自分たちを把握してきた。
 朝誰もいない海に佇んでいると、なんだか自分が神話の時代に降り立った気分がする。
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堀切菖蒲園

2008年06月20日 12時50分29秒 | 観光
 ほとんど毎日のようにそのそばを通っていたのに、訪れたことがなかった「堀切菖蒲園」。花菖蒲の見頃だっていうので行ってみました。
 結構なにぎわい。


 バカみたいに広大な施設じゃなく、こじんまりしていたけれど、なんというか間尺に合う、というか、必要十分というか、花菖蒲を愛でるにはちょうどよろしい。








 菖蒲だけじゃなく、あじさいもきれい。


 フェイジョアというらしい。
 なんだか海の生き物のような花が咲いてる。
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140km児玉への旅(2)

2008年06月19日 17時55分41秒 | 観光
 観音さんとのご縁もでき、電車で帰ろうと駅に向かう。一番近いのは八高線の児玉駅、次が新幹線の本庄早稲田。八高線は八王子へ出て乗り換えなくてはならないし、新幹線はもちろん使うつもりもない。ここは少し遠回りだけれど、高崎線の本庄駅を目指す。あわよくば高崎線に乗り入れている新宿湘南ラインに乗って、池袋までノンストップ在来線の旅を楽しもうとの魂胆。
 そんなとき、現れたのがこれ。


 「実はさ、さざえ堂じゃなくて、最初から間瀬湖に来たかったんだよね、ハニー」
 たとえ3秒前まで間瀬湖という名前も存在も知らなかったにせよ、ぼくの心はすでに間瀬湖へ走っていたのだ。
 そうキャサリンに言うと、ぼくはもと来た道を引き返し間瀬湖に向かった(だから誰だよ、キャサリンって)。途中舗装されていない砂利道があったのだが、ロードバイクと違い、楽勝。荒い石の塊を調子よくホイホイよけながら走るのも楽しい。さすが、ロードとMTBのクロス。


 こういう案内にありがちなんだけれど、途中から案内がなくなってる。なぜ、最後まで案内しない。しないんならしないで、最初から何もなければこっちへ来ないのに。さんざん、迷って、「間瀬湖入口」バス停を発見。
 バス停にはたしかに「間瀬湖入口」と書いてあるのに、なぜか湖感がまったくしない。そういえば前に千葉県を北上したときも、あれだけ大きいのに印旛沼を見つけることができなかった(最終的にはコンビニで聞いてなんとか見つけたのだが、かなり恥ずかしかった。だって、沼どこですかって)。
 なんだか、あっちの気分がしたのであっちへ行ってみる。これが結構な登り。登り切ると、おお、なんと「間瀬湖」の表示が。


 表示に沿って進むと道はだんだん危なくなってきた。ここまで来たら、道がなくなっていて墓地になってる。間瀬湖、すげえ。墓地から蝶がふらふらとやって来てぼくの足にまとわりつく。プシュケーか。ああ、もう、なんだか、この蝶に導かれて違う現実の扉を開けてしまいそうなので慌てて逃げ去る。
 戻るのはイヤなので、今来た登りを下らず、反対側の下りを下っていく。

 「いや、縁って、そういうことじゃないんだけどな」
 たしかに縁に結ばれたのかもしれない。反対側に下ったら、最初の観音堂のところにやってきてしまった。なんだよ、それ。


 かなり無駄に走った上、企てのほぼすべてが無駄だった状態で本庄駅着。池袋まで輪行。無駄に遠くに来たので、運賃だけで無駄に1280円。ついでの無駄遣いでグリーン車に乗る。
 小学生の頃映画を見ていて、最初に好きになった女優がキャサリン・ロスだった。もうキャサリン・ロスは連れてきてやんない(いや、連れてきてないし)。
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140km児玉への旅(1)

2008年06月18日 08時51分01秒 | 観光
 五月晴れ、だ。
 暦が旧暦の頃は梅雨が5月にあたった。五月晴れとは、本来こうした梅雨の合間の貴重な晴れ間を指す。同じように、五月雨は梅雨の雨。だから最上川の流れも速くなるのだ。
 ま、この貴重な晴れ間、出かけないわけにはいかない。埼玉県の児玉ってとこにさざえ堂があるという。是非見てみたい。
 さざえ堂とは、お堂の形式のひとつ。板東33カ所、四国33カ所、秩父34カ所霊場の観音レプリカ像100体を納め、このお堂に参ることでそれら3カ所お遍路したのと同じ功徳を積める、という、まあ、富士山レプリカ登山にも似たもの。通路に沿って100体並んでいるのだが、回廊が一方通行。参拝者がすれ違うことなくぐるぐるとお堂の中を巡って歩くような仕組みになっている(会津のものが有名で、青春18切符で行こうとして、あまりの遠さにめげて宇都宮・大谷観光になったのだが、つまり、あの大谷観音はだからそういうことだったのだ)。
 会津の敵をここに討ち取るつもりなり。なり。
 そんなわけで朝食を済ませて自転車で出発。訳あって、いつもの自転車はお休み。同じGIANTのESCAPE R3というクロスバイクで出かける。ロードバイクと違って、前傾姿勢が取りにくいのでちょっとお尻に負担がかかるのと、意識しないと腕を伸ばして走りがちで、肘を痛めやすいところが要注意であった、と気づいたのは、家を出て60kmほど走ったところ。


 なわけで、60km過ぎの大芦橋。熊谷に行くにはこの橋を右に渡る。でも、見るからに直進しようよ、というように見えませんこと? 先日「初心者のための荒川サイクリングロード」にも書いたように、初めて来たとき見事に直進してしまい、ただまっすぐ走っているのだけなのに、横を流れている川が荒川ではなく、いつの間にか和田吉野川になっていて目を見張ったことがあった。
 しかし、児玉はここから西。このまま直進して西向きに進路を取ればいいのだ。いやあ、この辺の地理に詳しくなったなあ、と我ながら感心して進む。
 やがて国道254号線に出る(これ、うちの上を通っている国道だ。あの道をまっすぐ来りゃ近道なんだろうな。あ、うちの上たって、別に屋上に国道が通ってるわけじゃないよ)。
 この先食事をするところがあるか不安だったので、ファミレスで食事をする。
 ぼくは日本の街の景観の貧困さの一因にファミレスを挙げる。貧困とは量の多寡によるものではなく、質の多様性のなさによる。もちろんその要因はファミレスだけじゃない。ぼくらの街、そこには同じようなファミレス、コンビニ、チェーンの居酒屋、ときにはサラ金。同質の金太郎飴のような街の景色。どうやったらこの街を愛することができるだろう。みんな同じしゃべり方をして、同じ化粧をしている女子高生のような存在をひとり別して愛することなんてできるわけがない。
 でも、こうしてファミレスでシーフードカレー、スープ、デザート、ドリンクバーのついた890円のランチメニューを食べている自分が現実として存在しているわけで、思想と空腹との間には、ミケランジェロの描いた「天地創造」における神とアダムの触れ得ない指の隙間(あの隙間に永遠があるのだ)が存在する。
 ランチを食べて254号線を北上する。結構食事をするところがあって、中には手打ち蕎麦だのうどんだのあって、大変後悔しながら走る。俺の大切な空腹を返せ、と涙ながらに訴えつつ走る。同じ国道でも秩父や奥多摩とはえらい違いであった。



 108.93km走ってさざえ堂到着。正式には平等山成身院百体観音堂。こう書くと、さらっとここにたどり着いたような印象を与えるかもしれないが、大丈夫、ちゃんと迷ってから着いたのだ。108.93kmのうち、10km近くは無駄足だったかもしれない。走っていて、おかしいなあ、と思って鞄から磁石を取り出して見たら、南北逆に走っていたこともあった。人間に生まれてよかった。渡り鳥に生まれていたら、間違いなく、この能力の欠如は命取りになっていただろう。シベリアから北極へ越冬しに行ったりしたに違いない。あれえ、元いたとこよりちょっと寒くね? などと呟きながら死んでいたことだろう。人間バンザイだ。ああ、口が曲がる。
 さっそくさざえ堂見学である。だが、なんだかあたりは閑散としている。板東・四国・秩父、一度に百カ所巡ってしまえる、こんなありがたいとこなのに、この無人っぽい雰囲気はなに? さざえ堂見学の方は寺務所に300円納めて下さい、との張り紙に忠実に従い、横にある寺務所へ。すべての戸が閉まり、ぼくの300円を受け取ってもらえそうにない。と、そこに別の張り紙を見つけた。「百体観音堂の見学期間が変更になりました。」ふむふむ。「3月15日から5月15日までといたします」ふーん。
 さて、どうやってこの事実を頭の中にソフトランディングさせるか。もっと悲惨なことを考える。ロシアで沈没した潜水艦のこと、とか。あの乗組員たちはさぞ辛かったことだろう。あれから逃れるためなら、児玉まで無駄足を運ぶことぐらい厭わないどころか、嬉々としてペダルをこぎ続けるだろう。
 いや、それじゃだめだ。
 この出来事をもっと前向きに捉えなければ。そうだ、とそのときぼくは思ったのだ。これは縁(えにし)の始まりなのだ、と。縁の曼荼羅なのだ、南方熊楠。この観音さんたちとこれから何度か縁が重なっていくに違いない。
「今回はそのきっかけなのさ、ハニー」
 傍らにいる見えないエア・キャサリンに話しかける。
 誰だよ、キャサリンって。

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先週の読書

2008年06月16日 12時51分27秒 | 読書
中沢新一「ミクロコスモス2」    四季社
 ヤナーチェクのオペラから能、庭園や正岡子規まで縦横無尽に語られる、その語り口の優しく、柔らかく、それでいて刺激的なこと。「能の胎生学」は、ぼくの大好きな「精霊の王」につながる序説のようなもので、こっちを読んでからの方が理解が楽だったかもしれない、と思った。


中沢新一「三位一体モデル」     東京糸井重里事務所
 グローバリズムの根元にあるのは、アメリカの拡張主義ではなく、もっと根の深い、紀元前2000年くらいからメソポタミアに存在していた「三位一体」の考えかたではないか。そして、これがメソポタミアからエジプト、それからギリシア、ローマ、ついでヨーロッパに渡って生まれたヨーロッパ原理、これがグローバリズムの根元なのではないか、と。
 逆に三位一体モデルを用いると、今まで見えてこなかったものが見えてきたり、考えやすくなる、というビジネスにも応用がきくんじゃないか、という講義(ここら辺は中沢新一よりも糸井重里っぽい発想だな)。中沢新一自身は、こうしたヨーロッパ原理から脱却して、新たな道を模索しようと努力している人だから。
あと、前方後円墳が天皇即位の儀式に使われていた、という歴史学の説は斬新。つまり、天皇霊を引き継ぐ真床男衾を墓の中でやるわけで、非常に説得力がある。


奥泉光「石の来歴」      文芸春秋
 芥川賞受賞作「石の来歴」と候補になった「三つ目の鯰」所収。
 どちらも、みっちりねっちりした読後感で、寝不足や疲労の際の読書にはむいていない(EURO2008開催中は要注意!)。
「河原の石ひとつにも宇宙の全過程が刻印されている」という魅力的な言葉から始まる「石の来歴」は、石を通じた長男との幸せなやりとり以外のほとんどすべてが暗い洞窟のアナロジーのような展開となる。「緑色チャート」に刻印されている全過程とは。
 舞台がぼくの好きな秩父で、おまけにパレオパラドキシアの化石や上長瀞の博物館まで出てくるところに親近感。ほんと、ここは石好きにはたまらない場所だ。
 「三つ目の鯰」は、近年にあって敬遠されがちな村社会の血縁に新たな、そして優しい光をあてている。それをもって復古主義だのなんだのという評価はもちろんあたらない。血縁の甘美さとキリスト教信仰という、まるで母性社会と父性社会の厳しい対立まで屹立しうる両者を、夏の景色とともに、あるときはユーモラスに、あるときは苦悩しつつ描いていて好感。


バルガス=リョサ「楽園への道」    河出書房新社
 すごく面白い。「スカートをはいた煽動者」と呼ばれたフローラ・トリスタンとその孫ポール・ゴーギャン。ゴーギャンが生まれたのはその祖母の亡くなった後なので、二人の出会いは存在しないが、楽園を求める気持は強くこの二人に流れていた。フローラは社会運動を経て、地上にユートピアを建設することを望み、ゴーギャンは「偉大なる芸術が花開くためには打ってつけと思われた未開性や原始性を求めて」タヒチに旅立つ。さまざまな失意や失敗の中、彼らは楽園を求め続けた。いいえ、楽園は次の角ですよ。
 二人の壮絶な最期の悲しさ。500pほどの本だけれども一気に読んでしまった。


東浩紀「動物化するポストモダン」   講談社現代新書
 サブカルチャー? 何に対してのサブなのか。
 カウンターカルチャー? これも同様、何に対するカウンターなのか。
要するに、もう、サブカルチャーもカウンターカルチャーも公には存在し得ないのだ。
 それが存在できる場所は、もう犯罪の中にしかない。
 しかし、当たり前のことだけれど、犯罪はカルチャーとして成立し得ない。せいぜい、犯罪の周縁、合法ドラッグや医師法に抵触するかしないか微妙なタトゥーあたり。しかし、それらにしたところで、とてもカルチャーと言えるものではない。
オタクやコギャルという存在は、実は、サブカルチャー消滅の頃に誕生した。本来、サブカルとして地下に潜っているべき存在(犯罪性はないにしても)が、堂々と秋葉原や渋谷の街を歩いている。
 コジェーブが歴史の終わりに提示した「動物化する社会」と「スノビスム社会」、後者はあきらかに日本を誤解した褒めすぎだろうが、前者は有効で、その視点から眺めれば、欲望の動物化という点でオタクとコギャルは対を成す存在なのだ。

「ポストモダンの時代には人々は動物化する。そして実際に、この10年間のオタクたちは急速に動物化している。その根拠としては、彼らの文化消費が、大きな物語による意味づけではなく、データベースから抽出された要素の組み合わせを中心として動いていることが挙げられる。彼らはもはや、他者の欲望を欲望する、というような厄介な人間関係に煩わされず、自分の好む萌え要素を、自分の好む物語で演出してくれる作品を単純に求めているのだ」(動物化するポストモダン)

 また、冒頭の、オタク文化成立への敗戦とアメリカの影響についての指摘は実に面白かった。
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祝 副都心線開業

2008年06月14日 20時40分46秒 | 観光

 向こうから来るのは、別にローマ法王でもハリウッド女優でもない。
 ただの電車が来るだけなのに、この人だかり。
 そう、今日は副都心線開業日。さっそく池袋から渋谷まで乗ってきました。
 以前、丸ノ内線池袋駅ホームにはマツモトキヨシがあったのですが、いつの間にかなくなっていました。そして今日見てみると、実はそこが丸ノ内線と副都心線とを結ぶ通路だったんです。つまり、通路を造ったものの、開業までしばらく使わないのでマツキヨに貸していたのですな。


 なんだか地下要塞的な渋谷駅。
 この部分はのちに東横線が通るんでしょう。天井もコンクリの打ちっ放し。
 マリノスファンのぼくとしては、池袋から菊名まで乗り換えなしで行けるので、早く東横線と相互乗り入れして欲しいところなんですが、なんと4年後。


 遅延の遅れが「混雑」。
 いや、ほんと、すごい人出でありました。べ、べつに、ぼくは初日の副都心線に乗りたかったわけじゃないんだからね。たまたま渋谷に行くから乗っただけなんだからね、とちょっとツンデレしてみる。
 実は、6年前に亡くなったナンシー関の「大ハンコ展」が渋谷パルコで日曜まで開催中なので、それに行くために仕方なく副都心線に乗ったわけなので、ほんと、何も初日だから乗りたかったわけじゃないんだ。
 相変わらず殺意すら抱かせる人だかりの渋谷の街をえっちらおっちら歩いてパルコに行く。6Fで開催されてるっていうから、素直に6Fに行くと、そこも人だかり。おいおい、いい加減にしてくれよ。村祭りのはしごしてんじゃないんだから、どこもかしこも人だかりたあどうなってんだよ、とブーたれる。何の集まりだって思ったら、なんと「ナンシー関大ハンコ展」の来場者。
 へー、ナンシー関ってこんなに人気あったんだ、と感心。彼女の書いたTVコラムは傑作でぼくは楽しく読んでいたのだけれど、こんなに多くの人に支持されていたのか、と。じゃ、なんでもっとTVは面白くならないのかが不思議だ。
 にしても、すごい行列だ。最後尾を探そうと歩いていたら、階段まで並んでる。あ、階段の下まで続いてる。
 結局入場待ちの列は6階の会場から3階まで伸びていたのでありました。
 ナンシー関すごいじゃん。彼女のTVコラムは、たぶん小田嶋隆がその系統を引き継いでいるのだろうけれど、残念なことに、TVの質がどんどん低下しているので、彼が存分に腕をふるうに足る番組がなくなってしまってる気がする。
 下品で派手な占い師とかスピリチュアルとか言ってる小太りの親父(ああ、そういう言い方は自らも傷つけるのであった。だって、こいつとぼく、同い年だもんな)とかを見て、ナンシー関がなんと思うか、彼女の早逝が悔やまれてならない。
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渡辺直己「不敬文学論序説」

2008年06月11日 06時40分01秒 | 読書
渡辺直己「不敬文学論序説」     ちくま学芸文庫


 そうか、こういう視点があったのか。
 小説で天皇を描くこと。不敬罪が存在しない現在でもそれはほとんどの作家が等閑視している。
 その態度はレトリックで言う黙説法、接近しながら回避するというまるで皇居の「二重橋」的ディスクールに現れている。この黙説法の象徴的な作家が村上春樹であり、不可視のまま差別論的構造が存続し続けている日本の文学の現状なのだ。
 日本の皇室はヨーロッパの王室のように開かれていない、と主張する人がいる。皇室の民主化が必要だと。これはそもそも間違っているとぼくは思う。日本の皇室とヨーロッパの王室とはまったく別種の装置なのだから。一緒にすること自体がおかしい。皇室の民主化など、そもそも字義矛盾である(民主化でなく、民営化なら面白いかもしれないが。快楽亭ブラックの落語のように)。

 「皇居や伊勢神宮が神々しくおもわれるとしたら、それは一点、肝心のものが見えぬこと(さらには、それが隠すに値しないことじたいを隠すこと)にかかわるのだ」(「不敬文学論序説」)

 この国は天皇を隠すことで権威づけてきたのだ。だから、天皇を爆殺しようとした大逆事件の首謀者たちの目的は、「天子モ吾々ト同ジク血ノ出ル人間デアルトイフコトヲ知ラシメ」ることであった。

 その彼らの願望は、皮肉なことに体制側によって成されるのだ。明治天皇が死ぬ間際の新聞は、体制が発表した「御尿」の量から「御大便」の様子や回数までも克明に報道している(文学の要の一つにアイロニーがあるが、締め付けが厳しければ厳しいほどアイロニカルな状況が生まれるのは、日本に限らず、旧ソ連、北朝鮮などを見るとよくわかる)。
 しかし、大逆事件の時代ではなく、戦後に至っても、実は状況があまり変わっていないことをこの本はあきらかにした。
 引用されている小山いと子ら皇室御用達作家の「一読噴飯ものの恋闕通俗小説」のすごさ。わたしゃ、爆笑したよ、久しぶりに、本読んで。
 小山いと子によって、天皇は隠すべきものであり、描写すればするほど、不敬になるという逆説が、ものの見事に裏切られ、語り尽くされる。「良さまはこのころ五尺一寸九分、十二貫あまりの見事に成熟した理想的な肉体を持っておられたが、きもちは童女のようにあどけない稚いものがあった。女としてのしるしも妹の信さまの方が早くて」だの、天皇夫婦が童貞と処女で初夜を迎える場面など、大逆事件当時のマスコミのアイロニカルな逆説が戦後の皇室御用達作家によっても行われていることを知る。

 天皇と小説は「風流無譚」のように眼に見える形での問題だけをはらんでいるのではない。
 この本は、そうした今まで未明だった問題に光を当て、それがもっている危うい構造を明らかにした。「おお」と驚き、納得することしきり。
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秩父までサイクリング 今あなたは歴史の目撃者になる(うそ)

2008年06月10日 10時58分28秒 | 観光
 久しぶりの晴れた土曜日。
 歯を磨きながら、ふと、思った、そうだ、秩父に行こう。
 秩父、という場所がとてもお気に入りなのだ。自転車では今までに2度行ったことがある。両方とも荒川サイクリングロード、入間川サイクリングロードを使って、最初は正丸トンネルを抜け、次は正丸峠を越えて。
 今度は全然別のルート、荒川つかず離れず、きっとこの距離感が今の二人にはちょうどいいのよコース。要するに入間川へ回らず、荒川を熊谷から寄居町や長瀞などを経由して秩父に至る、と。
 実は以前一度試してみたことがある。途中鹿島古墳群や深谷の白鳥飛来地(ちょうど白鳥が来た去年の冬)などを経由して秩父へ行こうと企て、まんまと道に迷ったのであった。
 前回の失敗は県道、国道などの主要道路を使わず、ひなびた道をのんびり行こうとしたわたくしの甘さによる。鹿島古墳群と白鳥はなんとかなったものの(この2つは隣接しているのだ)、結局自分の居場所すらわからず、友人に電話をして、パソコンの地図で調べてもらい、男衾で挫折したのだった。スマン。
 そこで、今回は、県道・国道を走り、前回途中寄ろうと思っていた、寄居町の鉢形城記念館や黒谷の和同開珎遺跡などを拾い、自転車に乗った歴史の訪問者となりつつ、秩父路探索へ。歴史ロマンの目撃者、チャリに乗った大変小粒な司馬遼太郎を目指して出発である。


 荒川を40kmほど遡るときれいな麦畑があった。ちょっと前に来たときは青々としていたのに、もう収穫っぽい色をしている。ゴッホ晩年の作品に「烏のいる麦畑」という絵があるが、ここには、そんな不吉なものすごさは、残念ながらない。もっと散文的にほのぼのと景観がひろがっているだけだ。でも、自転車を停めて深呼吸するに値する景色ではあった。



 今回はわかりやすい県道・国道中心に走るばかりでなく、埼玉県の地図まで持ってきたのだ。それなのに、迷う。不思議だ。オレは埼玉県を走り抜ける大きな疑問符なのだ、とランボーを気取ってみても始まらない。えっちらおっちら坂を登っていたら、城っぽい建物があったのだが、中学校だった。で、引き換えして次の交差点を曲がって行ったら、ありました。すごく立派な施設。さっきの中学校もすごい建物だったが、寄居町って金持ち自治体なんだな。石油でも湧いてんのか。
 考えてみれば鉢形城は城としてはすでになく、あるのは、曲輪の跡とこの記念館。わざわざ行くところではないな、きっと。展示は、したがって映像中心なのだが、なくなってしまったものを再現するには、CGを含め、映像は効果的だろう。馬鹿みたいに予算があれば、建てちゃってもいいかもしれないが。撮影禁止なので内部の写真はなし。近くに行ったら行ってみてもいいかな、と。
近所に川の博物館があるが、あっちは、わざわざ行っても面白い施設だった。

 寄居町を出て国道140号線に。この道は大変おっかない。道路が狭く、自転車が走る余地がない上に、大型トラックがひっきりなしに通る。後ろから轟音が迫ってくるとなんともいやな気持になる。いたたまれなくなって、波久礼で荒川左岸の国道から右岸の県道へ避難。ところが、右岸と左岸とで高低がまったく異なるのだ。波久礼を起点に県道はどんどん登る。てっぺんまで登ると、遥か下方に左岸の町並みが見える。どっちがよかったのか悪かったのか。ラーメンを食べたばかりの上り坂はきついのであった。
 長瀞で、ああ、やっぱりおれの荒川は美しい、などと感嘆しつつ、ようやく黒谷へ。秩父鉄道の黒谷駅は今年の4月に和銅黒谷駅に名前を変えた。なんでも和銅奉献からちょうど1300年なんだそうだ。


 ここから自然銅が発見され、朝廷に献上。喜んだ朝廷は元号を和銅に変え、この地に神社を造った、と。これがその聖神社(もとは近くの別の場所にあったらしい)。白い雉が見つかったら白雉だし、銅が見つかれば和銅と変える瑞祥好きの朝廷が、なぜ銅鐸が発見されたときは黙殺したのか、などと考えてみるフリをしたりする。いや、ほら、なにしろ、今日のテーマは歴史ロマンの目撃者っすから。



 露天掘り跡。
 わかんないって。何がなんだか。ちょっと、くぼんでるだけだから。
 それにしても、自転車用のジャージとレーパンをはいてるぼくの姿は浮きまくり。みんな登山やハイキングみたいな、少なくとも長袖、長ズボン。そんなところに、半袖、膝上のレーパン。露出魔みたいだ。
 誰も来ないよ、こんなジミなとこ。って思ったら、家族連れ、友人同士のグループ、いわんやガイドさんに連れられた団体さんたちまでいる。和銅ブームとみたね。来るね、和銅。もう、そこまで来てるね。
 だが、そんな大勢の人が来ると非常に居心地が悪かったりする。



 黒谷から西武秩父まではほんのひとこぎ、10km足らず。秩父の道案内の道標。なかなか可愛い。
 なんだか寄ったとこは、ちょこっとしょぼくてイマイチな感じのサイクリングだったので、次回はもうちょっと企画を練って出かけたいものである。それにしても早く梅雨明けしないかな。
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先週の読書

2008年06月09日 07時21分14秒 | 読書
奥泉光「坊ちゃん忍者幕末見聞録」     中公文庫
 現在奥泉光特集開催中。
 登場人物の寅太郎が「新・地底旅行」の丙三郎にだぶる。こういういい加減な人間の描き方がいい。
 主人公が倒れ、夢を見るあたりから時空が入り乱れ始めるところも面白い。
 暴力に対して、ヒロイックに立ち向かうことなく、逃げることに重きを置いている点もこの本のよさ。
 「おれがタオルで顔を拭いていると、黒船が来てええことがひとつだけあった、それはジャズが聴けることやと最初の男がいい、エリック・ドルフィーはやっぱりすごい、とりわけこのファイブスポットのライブは最高やと、流れていた音楽に耳を傾ける格好になって、坂本龍馬くんもそう思わへんかとおれにきくので、おれは坂本じゃないと答えた」
 それにしても、こないだ高橋源一郎の「官能小説家」で出てきたドルフィーがここにも出てくる。ちょっとした偶然、か。


奥泉光「滝」     集英社
 「その言葉を」「滝」の2編所収。
 「その言葉を」はジャズがテーマだが、そのものがジャズのアドリブのような文体で綴られていく、登場人物飛楽という存在の重さ。結構きました、これは。どーんと。いい小説だなあ。悲しくて、美しくて。
 一方「滝」はまったく趣の異なる、大変象徴性の強い作品で、厚めの文体が語っている内容と相まって独特の世界を形作っている。
 少年にこそストーリーはふさわしい。自らも含めて世界を意味づけしようとする少年はまさに神話的存在と言ってもいいだろう。


中沢新一「ミクロコスモスⅠ」   四季社
 刺激的。今まで考えていたことや感じていたことを形にしてくれるような本。ちょうど今読んでいるバルガス=リョサの「楽園への道」とつながる「文明」と「野蛮」との境界的グノーシスという考え方がとても面白い。
 まばゆい光によって陰影を失う内宮の祭神に対して、外宮にはそうしたグノーシスが存在していたという指摘はなかなかに興味深い。中世の豊饒な神話世界を支えたものの一つに外宮からの両部神道があったことを思い起こす。


奥泉光「蛇を殺す夜」   集英社
 「蛇を殺す夜」、「暴力の舟」2編所収。
 この2編はともに背景に民俗学的、あるいは宗教学的モチーフをはらみ、それが作品のすみずみに行き渡ると同時に作品の世界観ともなっている。いや、面白い。ここんとこ何冊か奥泉光の小説を読んできているが、これが今んとこ一番面白かった。
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ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」

2008年06月04日 08時09分43秒 | 読書
ミハイル・ブルガーコフ「巨匠とマルガリータ」 水野忠夫訳 河出書房新社

 ラテンアメリカ文学とは違った意味でのマジックリアリズム。ロシアン・マジック、か。年代からすると旧ソ連製だが。
 決して難解な本じゃない。細部は面白くどのエピソードひとつとってもわかりにくいとこなんかない。そして、重層的なエピソードが次第に一つの意味に収斂していく。ああ、これこそ読書の快感。
 象徴されるものなんかむしろ無視していいかもしれない。まずはその魔術的な語り口を楽しもう。象徴だの意味だのは、2度目からでいい。読書している間、実に幸せな時間を体験できた。その時間のかけがえなさ。
 舞台はモスクワ。そこでおこなわれるドタバタ劇の末の奇蹟の救済物語。神なき世の救済を悪魔と愛に頼る現代のファウスト劇だ。
 ソヴィエト政府に活動を禁止され、発表するあてもなく、これだけの小説を書き続けることはどれだけの苦しさを乗り越えての作業だろう。この小説の中で巨匠の小説が「原稿は燃えない」とよみがえったように、ブルガーコフのこの小説そのものもよみがえってわれわれの前に登場した。すでに和訳が3種類ある。
 ぼくが読んだのは水野忠夫訳。池澤夏樹個人編集世界文学全集の1冊。このシリーズは顔ぶれその他も面白そうだ。訳は日本語として全然違和感がない(ロシア語なんて一つもわからないから訳の正確さとかそんなものは皆目わからないのだけれど)。すらすら読んでいく先に、巨匠の物語が復活したときに感じた鳥肌。是非みなさんにも味わって頂きたい。
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6月1日 護国寺

2008年06月03日 08時16分20秒 | 観光

 猫、一度一緒に暮らしてみたい存在。



 そして、あじさいが咲いて、梅雨が来る。
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